Archive for 3月 6th, 2024

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• 水曜日, 3月 06th, 2024

増田みず子の、最後の『小説』を読み終えた時、しばらくして、最後の「本」と本人が言っている、エッセイ集『理系的』が出版された。早速、購入して、読んでみた。
全六章から成る、エッセイ集である。新聞や雑誌にも載せたものを
第一章 理系と文系のあいだで
第二章 生命の響き合いー立派に生きること
第三章 読むことと書くこと
第四章 ライフについて
第五章 本棚と散歩道
第六章 隅田川のほとりから
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「小説・詩などの作品」と「エッセイ」の言葉
増田は、多くのエッセイが、自分が「小説」を書かなかったら、生まれなかったと言っている。(おそらく、新聞社や雑誌の出版社から依頼されて、書いたものだろう)
「小説は、虚構であって、想像力を使って、自由に書くもの」(物語)①
「エッセイは?見た、聞いた、読んだ、体験した(事実)をそのまま書くもの。」(現実)②
「文学で書かれたこと、文章で書かれた「本」は、すべて「言葉」の世界の(ジジツ)であって、(現実=事実)は、言葉の外の世界にある。(現象)③
(事実)は、体験した人の、立場、位置、視点によって、異なるものであって、それぞれの(事実)がある。たったひとつの、真実の(事実)などない。(相対論)④
増田は、少女時代から、二つの夢を持っていた。(生命)の不思議を探求するために(研究者)になること。(理系)もうひとつは、面白くて仕方がない小説の作者になること。(文系)
東京農工大学に入学。研究者の道へ。実験生活。挫折する。そして、偶然にも(作家)の道がひらける。
理系の作家と文系の作家?
安部公房(東大・医学部)円城塔(東大・理系のドクター)A
増田も、その系列に入ることになる。
川端康成(東大・国文)太宰治(東大・文系)B
日本的な風土、情的世界での人間関係を描く文系の作家たちB
世界的視点(共通)で、物そのものや存在の不思議を描く理系の作家たちA
AとBを比較してみれば、理系と文系の作風のちがいがすぐにわかるだろう。

日本の風土に育った文系の作家たちは、(場)(抒情)(情念)の物語を書く。松本清張、山田洋次、小津安二郎、浅田次郎、重松清の作品は、(情)と(泣き)が中心である。いかにも日本的。
言葉の根は何処にある。増田のエッセイで、面白いのは、「隅田川」のほとりで、生れ、育ち、生活して、その感性と心性が培われて「言葉」と「科学」の二方向へと成長していった様が、如実にわかる点である。
下町の、家族の生活、風俗、風土、習慣が「隅田川」の流れとともにあることだ。芭蕉や芥川龍之介が生きた土地と川である。一葉の写真がある。増田が撮影した「隅田川」の風景写真である。川の西側に柳橋があって、その背後にビル群がある。「隅田川」の川の水が、二つの色に分かれている。濃い色が「隅田川」淡い色は、「隅田川」に流れ込んだ「神田川」である。柳橋の下を「神田川」が流れている。
水の流れる風景は、ニンゲンのココロにとって、さまざまな思いを去来させる栄養素である。朝日、夕陽に輝く水面の光の暈、昇り下りする舟、終日見ていても飽きることがない。四季の川の貌も、花見の尾形船から隅田川の花火まで、見事な変化を覗かせてくれる。
増田みず子の言葉の原点も、「隅田川」の流れととものあるのかもしれない。「方丈記」の昔から「ゆく川の流れは絶えずして・・・」人のココロに、言葉の火を点もし続けている人、(川)である。

「本」の読み方
私は、中也の「春日狂想」に感動すると、中也のすべての作品を読みたくなる。そして、エッセイも、日記も、手紙も、翻訳も、中也について、書かれたすべての「本」も読みたくなる。最後には、「中原中也全集」全六巻を読む。
ドストエフスキーも『罪と罰』に驚愕すると、結局、同じように、全集二十巻を読んでしまう。
秋山駿の「本」は、『内部の人間』から『「生」の日ばかり』まで、ほぼすべて読み尽くした。残念ながら「全集」がない。『神経と夢想』(ドストエフスキー論)を「図書新聞」で、書評させていただいてから、出版する度に新刊を贈ってくれるようになったが。
「理系的」エッセイ集は、増田みず子を知る上で、貴重な「本」であった。充実した読書だった。

ちなみに、私の愛読する「エッセー」は、
①秋山駿の延々と続く「ノート」の言葉シリーズ。「私」とは何者か、「内部の人間」とは何者か、「石ころ」とは何かと、まるで巨大なひとつの作品である。
②(私)と(他者)のココロの水準器の揺れと見事に捉えたエッセイ。上質なユーモアと、精妙な文体によって紡がれるエッセイ。『須賀敦子全集』
③一切を考え尽くす(考える人)、哲学的エッセイの名手、池田晶子のすべての「本」(考えるコトバの宇宙)
④古典、モンテーニュの『エセー』全六巻。(ニンゲンのすべて)がある作品群。
「エッセイ」は、もちろん、ひとつの見事な「文学宇宙」のコトバである。

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• 水曜日, 3月 06th, 2024

敬愛する、評論家(思想家)の秋山駿が死んで、随分と季節が流れた。早いもので、もう11年にもなる。
命日の10月2日を、私は、勝手に「石の日」と呼んでいる。
秋山駿は、「私は一個の石ころ」である。と自覚して、「石ころ」の「生」を生きて、死んだ。こんなにユニークな生身のニンゲンに会えて、そのノートの言葉に耳を傾け、おつきあい頂いたのは、幸せであった。(25歳の出会いから約40年)「内部の人間」の声に触れた。毎年、命日には、処女作『内部の人間』や最高傑作『舗石の思想』や最後の作品『「生」の日ばかり』を読んで、在りし日の面影を偲んでいる。人は死んでも、その作品を読むと生身の声が、耳のそばに起きあがってくる。あの、低い、単調だが深い独特の声が「どうだい?最近は?書けなくてなあ」一年に一度は、電話で、近況を報告して、執筆の様子をお伺いした。
秋山さんが、死んでからは、奥方、法子さんと話をした。「法事、どうですか?」「誰も来る訳ないじゃないの。うちのおじさんが、あんな生き方をしたからね」義妹とたった二人の法事であった。
その法子さんも、難病に、もうひとつの病気が加わって、会話もできなくなってしまった。(法子さんには、私の「本」=「歩いて、笑って、考える」のデザインをしていただいたお礼を)
秋山駿について、書いたものなら、なんでも読みたい。私の知らない秋山駿の姿があるなら。
そんな時「図書新聞」に、作家・中沢けい氏の書いた書評が載っていた。『小説』というタイトルの小説。作家は増田みず子。(20年ぶりの小説出版)どうやら、作品の中に、秋山駿が、本名で登場する作品集らしい。(後で、作家・佐藤洋二郎も「東京新聞」で、『小説』の書評を書いていることを知って読んだ。)
早速、書店で「本」を取り寄せて購入し、一気に、一日で、読んだ。名前は知っていたが、増田みず子の小説を読むのは、初めてだった。いわゆる(私小説)である。(私)を探求する小説。「人生の検証」の小説であった。こんなに、シンプルな文体で、いわゆる(小説)になるのだろうか?エッセイとも小説ともつかぬ、ただひとつのものにむかって、進んでいく小説の文体。どこかで、見た覚えがある。秋山駿の、「私」を探求するだけの「ノート」の文体である。
一切の装飾を排して、必要な言葉だけで成立している呟きの文体の世界。リズムが心地良くて、直接、ココロに触れてくる。文章の自由度が高くて、小説小説していない。
『小説』は13篇の短篇小説から成る。増田は、約30年間で、百篇近い小説を書いている。芥川賞にも6回候補になっている。「本」は約30冊出版。増田を、「文学」の舞台にあげたのは、秋山駿だった。
雑誌の新人賞の候補を、秋山駿が絶賛した。増田にとって、秋山駿は恩人である。「群れずに暮らす夜行性の小動物のようだ」その後も、発表する度に、作品を分析、評価し、そこに、現代人のリアルを発見してくれた。
増田は、約35年間、小説を書いた後、一度筆を置いている。そして、一年に一作品のペースで(約10作)の小説を書いている。出版社の担当の編集者の元で書く小説ではなく、自分の思いの丈を、自由自在に書くスタイルで。「こころ」「雨傘」「線香花火」「言葉」これらの作品を書くために、作家になったような気がすると告白。なるほど、秀作である。
秋山駿が、実名で登場する作品が「言葉」「鏡のある部屋」「履歴」である。

小説は、何を、どう書いてもいい自由な器である。しかし、一番大事な人を、本名で登場させるとなると、最低守らなければならない「礼節」があると思う。
(実名小説の、実例は?ナタリア・ギンズブルグ著『ある家族の会話』ピエール・パシェ著『母の前で』)
「礼節」(恩人に対して)がある。書いてはいけないことがある。
①本人自身が書かなかったこと(言わないこと)
②あいまいな、他人からの伝聞
③「本人」の思想に反すること
④人間として、残酷なこと
エッセイであれ、小説であれ、実名で他人のことを書く場合、最低限の「礼節」というものがある。作家と評論家の関係も、二人三脚で(作品)を作り、時代を創り、(文学)の場を形成する場合がある。初期の大江健三郎と江藤淳、中上健次と柄谷行人。増田みず子にとって、秋山駿の役割りと言葉が、それである。書いた作家本人よりも、もっと深く読み込み、広く(作品)を時代に位置付けてくれる。
増田の作品には、秋山駿の批評の言葉に対する感謝と敬愛と喜びであふれている。発見してもらった作家の恍惚感が読者にも伝わってくる。

惜しむらくは『小説』の「鏡のある部屋」には、致命的な(疵)がある。(二ヶ所)
②「あいまいな、他人からの伝聞」をそのまま信用して、小説に書き込んでしまったことだ。しかも、それは「秋山駿の思想」を歪めてしまうことになる(③)
「子供」めぐる問題である。
「子供をもたない理由だ。イトコどうしの結婚だったから遺伝のことを心配したみたいだ、と知り合いから教わった」(引用)(秋山駿の愛読者の友より)
「繰り返すけど、秋山夫妻はイトコどうしと教えてくれた人がいる。それで子供を持たないと決意したということだ」(引用)
頭から火が出た!!なんということを書くのだ。恩人に対して。自分で調べもしないで。秋山駿の「本」をすべて読まないで。秋山駿の「内部の人間」の思想が死んで、歪んでしまう。「石ころ」は、子供を産まないんだ。「内部の人間」には、もう一人の別の血を分けた子供などいらないのだ。秋山の血を(私)で終りにしようとするその思いが歪んでしまう!!
増田みず子さん、『小説』、こんなに見事な作品なのに、たったひとつの(疵)が、作品を台なしにしてしまう。どうか、その部分を削って、消して下さい。(再販の時に)

秋山駿には「生」の綱領がある。
私は一個の石ころである①「内部の人間」の発見
私は自分の(家)は持たない②
私は自分の(土地)を持たない③
私は自分の(子供)を持たない④
私は一切の血族の関係を断つ⑤
以下、生活のすべてにおいて(必要)なものだけを最低限持つが、余分なものはいらない。(お金も)まるで、デカルトのような、合理的な方法で、秋山駿は生きた。日本風な、じめじめした、風土、習慣、人間関係を嫌悪した。
もちろん、結婚式などしない。妻を実父や義母にも会わせない。妻の父母への挨拶もなし。兄とも死ぬまで会わない(兄が何をして、生きているのか、兄が死んで、はじめて、教師だと知った)父の葬式にも出ない。とにかく、徹底している。
原因?自分の心性である。自分の存在が他人を苛立たせる。自分の言葉が他人を傷つける。
父との確執。父は貧しくて、小学校卒。国鉄へ就職。人一倍働いて、課長に。出世頭。同期の希望の星。明治の人。武士の家系。
「文学」に目覚めた息子と話が合わない。(デカルト、ランボー、ヴァレリー、ドストエフスキー、中也)
母の死。(中学校)父の再婚(義理の妹生まれる)
耳の手術(片耳が聞こえなくなる)
敗戦時の少年の体験と見聞。
「内部の人間」の発見!!
「私とは何者か?」という永遠のテーマーに憑かれて、私だけの言葉を発見(ノートの言葉)。
そして、ひばりヶ丘団地へ。秋山駿の夫婦二人三脚、同行二人の旅のはじまりである。(秋山駿は「スポーツ報知」へサラリーマン。夜は評論を書く日々。妻は、ブック・デザイナー)
妻の父は、宇都宮の大学教授。妻はその一人娘。
秋山駿の母は、長野県、須坂のお寺の娘。何もいらないから、大学へ行きたいと目白の「日本女子大」へ(卒論は?「法然」であった)
どうして、秋山駿と法子さんが、イトコどうしか、さっぱりわからない。(山梨と長野と東京池袋)
秋山駿は、自著『舗石の思想』で書いている。「私たち夫婦には子供がない。私の咎のために」と。そして、妻にはしたが、女としての母の役割りも、嫁としての役割りも与えることはできなかったと。
原因は、(私の咎)であると明言している。決して(イトコどうし)のためなどとは、書いていない。秋山駿、「内部の人間」「石ころ」その心性。歩行者。無私の人。

秋山駿!!
人と人の結ぼれの、その関係を断った人。(「分裂少女の手記」など精神の病の「本」をよく読んだ。心性が自分に似ていると)
最後には、サラリーマンでもなく、非常勤講師でもなく、文芸評論家でもなく、私だけの(ノート)の言葉の住人であった人。石ころの「生」を生き、石ころの「死」を死んで「内部の人間」を貫いた人。

増田みず子の主な作品を(「シングル・セル」など)初期作品を是非読みたいと思って、書店に行ってみたが、「文庫本」すら、一冊もなかった。
(25歳で、早稲田の「喫茶店」でお会いして、約40年、座談会、対談、お酒、魚釣り、書評といろいろお世話になった秋山駿である。)

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