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• 水曜日, 2月 07th, 2024

六十有余年、「文学」の最前線で書き続けた大江健三郎が逝った。同時代を生きる文学者でもっとも、私の文学の眼を開かせてくれた作家だった。初期作品から最後の小説まで主力作品を読み返している。「三つの文体」を生きた作家である。つまり、三回、人間が、思想が変わった。生涯、現役で書き続けた。円熟した老作家ではなく、(現実)に生きるニンゲンとして。

大江健三郎は、60年代、70年代の同時代を生きる者たちにとって「新しい文学の旗手」であった。文学青年はもちろん、政治青年も「大江健三郎」を読んだ。作家であり、オピニリオンリーダーでもあった。新作が出るたび、その作品を読んで、大江が何を書いたのか、語り合っていた。立花隆も、中上健次も、立松和平も、もちろん、私も「第二の大江健三郎」をめざしていた!!

「三つの文体の移ろい」
①文体の中にしか(小説)はない。
大江の「飼育」など、初期作品は新しい時代の感性の言葉で描かれていた。まるで、ピエール・ガスカール(フランス)が日本に誕生したような、新しい文体であった。(「種子」「街の草」「けものたち 死者の時」)のガスカールの具象がそのまま抽象になるようなシンボリックな文体)
大江の初期小説の「文体」は、まるで、ピエール・ガスカール風であった。

②「実在的な文体」の出現と想像力による文体の結出
「万延元年のフットボール」は、日本にも、こんな文体が出現したのかと驚愕した作品であった。私が「新しい文学」に目覚めたのは、正に、この本の「文体」に出会ったお陰である。ハンマーで、頭をなぐられたような衝撃であった。(評論家・盟友の江藤淳は、その翻訳のような文体は、小説ではないと断言して、以後、大江健三郎の小説を読まなくなった。大江の小説の良き理解者であったのに)
フランスでは、まったく、新しい「文学」が誕生していた。ル・クレジオの「調書」「大洪水」「物質的恍惚」である。大江は。同時代のライバルとして、ル・クレジオを意識していたにちがいない。
言葉の大洪水が、ル・クレジオだった。大江の「万延元年のフットボール」に匹敵する、想像力の「文体」の出現。従来の「小説」の形を破壊した、ル・クレジオの作品。おそらく、ヌーボー・ロマンの最高傑作である。
それから、大江健三郎は「文化人類学」の(知)などを取り入れて、実験的な小説を量産した。なぜか、私は、その(知)に対して、反撥があって、しばらく、大江の小説から離れた。そして、「父」をテーマにした「水死」で大江健三郎作品に戻っていた。

そして、最後の小説の「文体」多視点的な文体である。自分の作品が、過去が、多視点的に批判的に語られる。同時に、3・11のフクシマの危機、人間の危機も語られる小説。大江自身を、作品を、他人の眼によって晒してしまう小説である。なぜ、大江は、最後の小説を「長篇詩」で締めくくったのか?ビジョンを語るには、(詩)の形が良いから?

大江健三郎の母は、生涯、息子・大江健三郎の「小説」を受け入れることがなかっただろう、と思う。大江の小説に登場する(妹、親族たち)も、ソレは(私)ではないと反発しただろう。
大江の(想像力)とは、いったい、何だったのか?大江の描く(父)は、その母にとって、まったく(現実の父)とは認められないものだった。なぜ?母の知っている(父の事実)と大江の描く(父のジジツ)が、余りにも、歪められていて、二人の共通の(夫・父)に重ならないからだ。
母は、大江の小説が、地元では、受け入れられない(異物)であると感じていた。<事実>(母の)と<ジジツ>(大江の)差異。
大江の書く人物は、自然なニンゲンというよりも、大江風に歪められていてグロテスクである。
妹は「あなたに一面的な書き方で小説に描かれて来たことに不満を抱いている」(「晩年様式集」)と、最後の小説で、大江も告白している。
自然主義作家の、正宗白鳥が書く、弟、妹、父や母たち「リー兄さん」(入江のほとり)と大江の書く親族たちは、まったく別の「小説」である。世界が違う。
ニンゲンを描くことにおいて、白鳥と大江の言葉の、どちらが、深いところに達しているか?(単に「私小説」と「全体小説」の差だとは思えない。)
(現実)の(事実)と、(小説)の(ジジツ)がある。大江は、想像力を駆使して、(小説)の(ジジツ)を描くのだ。しかし、描かれたモデルたちは、(小説)の(ジジツ)として自分に対して、ソレはちがう!!と反発するだろう。(私)は、そんなニンゲンではないと。

大江自身、膨大な小説を生涯書いてきたが、最後の小説「晩年様式集」では、長篇詩を書いて、「本」を閉じた。その中に「自分の想像力の仕事など、なにほどのものだったか、と」述懐する二行がある。
ノーベル文学賞までもらった大江健三郎に、そんな言葉を吐かれても、他の作家や読者は弱ってしまう!!

大江は小説家であるが、詩人としての資質もある。(大江の小説のタイトルを見よ!!)「万延元年のフットボール」「洪水はわが魂に及び」「ピンチランナー調書」「新しい人よ目覚めよ」「鯨の死滅する日」
126行の長篇詩で終る、小説「晩年様式集」である。
①「自分の木」がある。(四国の森の伝承)
人が死ぬと、魂は、その「自分の木」に着地する。
②「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる」
詩には、2つのメッセージが、声高らかに唱われている。(若い人たちへ)六十余年の、大江健三郎の文学的な仕事が、たどり着いたコトバである。