3551. ニンゲンは、あらゆるものを(言葉)の世界に封じ込めようとするが、あらゆるものが放つ(コトバ)は(言葉)の外部世界にある。
3552. だから、不可視の「コトバ」を見るもうひとつの眼がいる。
3553. 千里眼、透視者と呼ばれた人は、確かにいたのだ。
3554. 共時的現象は、何度も何度も、私の身に起こっている。私は、その(コトバ)を視た。信じている。
3555. (事実)と(ジジツ)を見分けることだ。時空を歩いて。
3556. 来る(コトバ)を、アフォリズム化する身体は、楽しい。
3557. アフォリズムは「言葉」から「コトバ」に至る橋だ。
3558. 「言葉」という記号から不可視の「コトバ」という存在そのものに至るアフォリズムである。
3559. 「言葉」の向う側の「コトバ」を、透視してくれないか?
3560. 現象・事象は「言葉」ではなく「コトバ」だ。言葉として表現したものは(事実)ではなく(ジジツ)だ。
3561. アフォリズムの「コトバ」は「瞬間の王」と呼んでもよい。
3562. 光に感応する瞬間がある。青空に感応する。木に感応する。水に感応する。石に感応する。草に感応する。土に感応する。(私)とコトバの交流である。あらゆるものは、コトバである。もちろん(私)自身も。
3563. コトバの交換が、瞬間瞬間に現成して(私)の宇宙が顕現する。そして、コトバの海を漂うニンゲンである。
3564. (私)の中に木が立っている。おそらく、木の中にも(私)が立っている。まだ、木と(私)が一緒で未分化で、はるかな太古の時代の記憶が尾を引いている!!
3565. (声)の交信。コロナ禍の中で、旧友たちから便りが届く。手紙で、メールで。もう、長い間、会っていないような気がする。眩暈の後、昔日の、旧友たちの雄姿が甦ってきて。ホッコリとココロが温かくなる。又、会おう!!
3566. 逝ってしまった朋輩たちの残した、俳句、詩、作品、手紙、メールを読み返してみる。コロナ禍の中だからこそ、彼岸と此岸の通信が復活。
3567. 〇の中心に起って、〇を生きる。△の中心に起って、△を生きる。□の中心に起って、□を生きる。〇と△と□が合体する、その事象を生きるのだ。ひとつの宇宙を生きるとは、そういうことだ。
3568. 確か、「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」という古人の言葉がある。なるほど。絵画は色で、音楽は音で表現される。色と音は、一種のコトバである。あらゆるものは、コトバを放っている。「石」には石のコトバがある。いい耳、いい眼を持った人には、見えないものにも、コトバを発見する。(やはり、あらゆる存在はコトバであるか)
3569. 眼の前に、竹が一本あれば、(私)は、一時間、いや一日でも竹のコトバを楽しめる。他に何もいらない。
3570. 石であれ、木であれ、草であれ、小さなひとつの宇宙であるから、ただ、無(私)になって、眺めるだけで充分だ。放っているコトバに耳を傾ける。
3571. (私)を全存在に対して、開けっぱなしにしておくこと。あれやこれやの日々の関係を断って。コトバの風が(私)を吹き抜ける。
3572. ひとつの石ころをとことん考えることが、そのまま(私)とは何者かと考えることになった。そして、「内部の人間」を発見した。今、秋山駿のコトバが身に沁みる。石ころのコトバを聴くいい耳をもっていた。ひとつの石ころとして生き切った秋山駿。
3573. 宇宙の、あらゆるものが読まれている。なぜ?存在はすべてコトバだから。もちろん(私)も読まれている。何に?誰に?わからない。ただ、不思議だ。
3574. (私)とは何か?と問われて、(私)は「コトバ」で作られた者だと答える。
3575. はじめに、来た問いを、生涯持ち続けられる人は少ない。人はいつのまにか、(生きる)間に、セイカツの中で、その問いを、手離して、忘れたふりをして、握り潰してしまう。実に、もったいない。何も片がついていないのに。もう、終りが来る。
3576. 誰でも「人生の検証」が必要な齢がめぐってくる。内省し、検証し、残り少ない日々を、最後の一滴まで使い切ってしまうまで。
3577. ニンゲンは波である。「生」も「死」も。いい波の時もあれば、わるい波の時もある。どんな波でも(私)自身である。サイクルがある。わるい波の時には、ひたすら耐えて、ただ待つ。
3578. ウツの世界へ、ソウの世界へ(私)という波は、その頂点から底辺まで、バイオリズムとなって反復する。
3579. 足もとの深淵に魂も氷りつき、青空の高みに、恍惚となり、あらゆるものを味わってやれ。宇宙の(生)の一回性にかけて。
3580. ココロの波、海の波、重力の波、素粒子の波、あらゆるものは波という形のもとに、伝わっていく。(私)の原型は波。
3581. 文字という「言葉」を読みながら、いつも、その彼方に、深淵に、見えない(不可視の)「コトバ」を読み込むのが、「読書」の真髄である。
3582. 見えないコトバが文字=文章になる(書かれて)。だから、道をたどって、見える「言葉」から、見えない「コトバ」に至る。
3583. 見るは、読む、触れるの果てにある。もちろん、(考える)の向う側にある。
3584. 透視か?幻視か?見定められなくても、ニンゲンは、もうひとつの眼を信じて、(見る)のだ。
3585. 言葉の彼方のコトバを書ける作家が、いったい、何人いるだろうか?
3586. ヒトは、誰でも、生命宇宙という(私)を生きている。高い、低い、深い、浅いに関係なく、ヒトの生命宇宙は、等しく同じものである。
3587. しかし、実は、(私)という生命宇宙の位相は、意識するところのものは、どれも、ちがった貌をもっている。
3588. 同時代を生きているから、ヒトの意識は、時代の色に染められる。(ソレは表面である)
3589. それでも、生きる意識の位相は一人一人、異っている。(深層では)
3590. 誰かに訊いてみれば、すぐに、わかる。君は、いったい、どんな生命宇宙に棲んでいるのか?と。時空は、決して、ひとつではない!!
3591. (私)にも意識が届かぬところにも(私)がいる。
3592. 脳の力が届かぬところにも(私)がいる。
3593. よって、(私)の脳は、(私)のすべてではない。
3594. 生命システムの中の脳。
3595. もちろん、ココロは、脳を超えて在る。
3596. (私)の記憶も、私の部分にすぎない。記憶の間違い、記憶以外にあるもの。
3597. (私)全体は、細胞の、DNAのシステムをも、超えている。
3598. 誰も(私)に会うことはない。完全に。”絶対”という王が死んで久しい。
3599. ヒトが生きれば、どんな心境・思想に至るのか?文豪・夏目漱石は?「則天去私」神話へ。天才・荒川修作は?「天命反転」の思想へ。重田昇は?「一即無限」の心境である。存在を、世界を、宇宙を、表現してみた。私の思想となった。(旧友I君に、空海みたいだねと言われて)
3600. (現実派)の江藤淳は、社会化された(私)の「言葉」で、歴史・文学・芸術を語った。(誰にでも共通する言葉で)「私はひとつの石ころである」という秋山駿の「石ころ」が何か解らなかった。「内部の人間」である秋山駿は「ノートのコトバ」で生きていた。社会の「言葉」の向う側の「コトバ」は、存在そのものであった。江藤淳は、秋山駿を「極楽トンボ」と呼んだ!!