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• 土曜日, 3月 20th, 2021

若くして、その感性で時代の若者たちの「問題」を、ユニークな文体で描き切ったものの、恍惚と不安の作家たち。石川啄木、中原中也、大江健三郎、石原慎太郎、村上龍、綿矢りさ、金原ひとみ、そして宇佐見りん。
(時代)を背負って、その風俗にまで影響を与えた作家たち。
一方で、生きて、生きて、人間も、世間も、社会も吸い尽くして中年で、老年で、突然、登場して、その生きざまで、思想で、文体で、テーマで、世間を驚かせた、作家たち。深沢七郎、石牟礼道子、稲垣足穂、藤沢周平、黒田夏子、夏目漱石、井原西鶴、須賀敦子。
もちろん、どちらが幸運か不幸かは、決定できない。
一人一人の作品と、その生涯をしばし、考えてみると、やはり、若くして作家になった者たちの足取りは、苦しい。辛い。華やいでいるが、その実体は、苦難に充ちている。なぜ?まだ、よく、私を、社会を生きてない者が書く小説は、想像力に頼るあまり、(人間)を丸ごと考える力が不足している。働いたことがない、(現場)を知らないまま、(人間)を書くから、成熟した社会の人の眼に耐えられない内容になる。小説の舞台が、テーマが、狭すぎる。したがって、小説は、ピンチに充ちた苦難の道をたどることになる。
一方で、生きて、生きて、(人間)を知り尽くした上で、作家となった人たちの書く小説は、「人間」が、深く、生き生きしている。テーマは豊富、登場人物もバラエティに豊み、その世界は、読者を魅了して止まない。

今回、三島賞を受賞した『かか』と芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』の二冊を読んでみた。著者は、まだ、21歳の大学生である。書いた小説は、二作。その二作とも、大きな文学賞に輝いた。そして時代の寵児となった。
宇佐見りんは、SNS・インターネットやスマートホンの時代の子である。風俗を背景にして、ストーリィテーラーの文体が見事に、(時代)を切り取っている。この才能は、若き日の、大江健三郎や石原慎太郎の登場を思わせるものであった。

第一創作集『かか』(文藝賞受賞・三島由紀夫賞受賞)
処女作には、その作家のすべて(核)があると言われる。なるほど。
19歳のヒロイン・若者を描いた、20歳の宇佐見りんの作品『かか』にも、それからの彼女の将来を予見させる素材がすべて出揃っている。
インターネット・SNSの時代の単なる風俗小説と思いきや、実は、人間の「生・老・病・死」がすべて入っている小説だ。19歳の多感な女性の日常と非日常を描きながら。
①父の浮気で離婚した母のウツ。
②ババとジジの老い。
③母の病い・子宮筋腫と手術。
④叔母の子・明子の死。
⑤「家」の日常と非日常。
そして、熊野への旅で、対峙する「カミ」
これから、宇佐見が掘り下げていくテーマが、すべて、作品に含まれている。単なる感性の放出ではなく、物語作家としての、確かな「文体」を持っている。
小説を支えるものは「文体」であり、そのディテールの描写にある。モノにぴったりと吸いつくような文体は、三島由紀夫の文体とは正反対。黒田夏子の、練りに練った文体とも対局にある。実に読みやすい。特に、作品を支える、鍵ワードは「かか語」の発見、創造にある。家族・家庭内の「方言」の効果は、小説の柱(核)である。
SNS・インターネットを駆使する若者が、神々の国・熊野へ旅をする。横浜から熊野まで。(日常と非日常)(正気と狂気)の間で揺れるヒロイン。
宇佐見は、作家、中上健次のよき愛読者だという。熊野は、和歌山県(新宮)出身の中上が、好んで書いた、神々の棲む地である。
インターネット・SNSの電子空間を抜けて、自然の、神々の棲む熊野へ、旅するというラストシーンが、実によく描けている。宇佐見りんは、処女作で播いた種を、育て、掘り下げ、長い、長いもうひとつの旅へと出発したところだ。

第二創作集『推し、燃ゆ』(芥川賞受賞)
パソコンもできない。メールもできない。インターネットもできない。スマートホンもできない。もう、時代遅れの、「死んだ人間」である私が、実に面白く読めてしまった作品である。

舞台は、現代の、インターネットのSNSの時代である。「推し」もわからなかった。スターにあこがれる、スターを推しているファンである、という意味。

60年代(昭和)の石原慎太郎の小説の舞台は、湘南。ヨットにのる青年たち。海(自然)と人間。荒れ狂う、青年たちの日々。「太陽族」と呼ばれた。
『推し、燃ゆ』の舞台は、インターネットの、電子空間。ネットが炎上する。アイドルを追いかけて、そこに自らの感情を注入し、一喜一憂するヒロイン。
冒頭は「推しが燃えた。」で始まる。そこに、物語のすべてがある。短く、たたみかける、文章が、いい。
最後は「当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。」で終わる。まるで、カミューの「異邦人」のような簡潔な文体。余分なものは何もない。
ブログの時代。ブログの言葉。いや、宇佐見りんの書く言葉は、ブログの言葉を離れている。言葉をコントロールしている。(時代)は変わる。時は流れる。風俗も言葉も変わる。しかし「文学」の「言葉」は死んでいない。
宇佐見は、はじめて、ブログやインターネットの言葉を「文学」の「言葉」に変換した、はじめての作家であろう。
同時代を生きているが、やはり、宇佐見は、新人類である。詩人の「最果タヒ」の言葉も新しいが、宇佐見の言葉も新しい。二人とも、言葉の自由度が高い。一人の作家・詩人の言葉が「同時代」を代表する時は、意外にも短い。だから困難はある。
宇佐見や最果の作品が、どんな世界を見せてくれるか、楽しみである。最果タヒや宇佐見りんには「言葉の向うのコトバ」を書ける詩人・作家になってほしい。

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