Archive for ◊ 3月, 2021 ◊

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• 月曜日, 3月 22nd, 2021

3551. ニンゲンは、あらゆるものを(言葉)の世界に封じ込めようとするが、あらゆるものが放つ(コトバ)は(言葉)の外部世界にある。

3552. だから、不可視の「コトバ」を見るもうひとつの眼がいる。

3553. 千里眼、透視者と呼ばれた人は、確かにいたのだ。

3554. 共時的現象は、何度も何度も、私の身に起こっている。私は、その(コトバ)を視た。信じている。

3555. (事実)と(ジジツ)を見分けることだ。時空を歩いて。

3556. 来る(コトバ)を、アフォリズム化する身体は、楽しい。

3557. アフォリズムは「言葉」から「コトバ」に至る橋だ。

3558. 「言葉」という記号から不可視の「コトバ」という存在そのものに至るアフォリズムである。

3559. 「言葉」の向う側の「コトバ」を、透視してくれないか?

3560. 現象・事象は「言葉」ではなく「コトバ」だ。言葉として表現したものは(事実)ではなく(ジジツ)だ。

3561. アフォリズムの「コトバ」は「瞬間の王」と呼んでもよい。

3562. 光に感応する瞬間がある。青空に感応する。木に感応する。水に感応する。石に感応する。草に感応する。土に感応する。(私)とコトバの交流である。あらゆるものは、コトバである。もちろん(私)自身も。

3563. コトバの交換が、瞬間瞬間に現成して(私)の宇宙が顕現する。そして、コトバの海を漂うニンゲンである。

3564. (私)の中に木が立っている。おそらく、木の中にも(私)が立っている。まだ、木と(私)が一緒で未分化で、はるかな太古の時代の記憶が尾を引いている!!

3565. (声)の交信。コロナ禍の中で、旧友たちから便りが届く。手紙で、メールで。もう、長い間、会っていないような気がする。眩暈の後、昔日の、旧友たちの雄姿が甦ってきて。ホッコリとココロが温かくなる。又、会おう!!

3566. 逝ってしまった朋輩たちの残した、俳句、詩、作品、手紙、メールを読み返してみる。コロナ禍の中だからこそ、彼岸と此岸の通信が復活。

3567. 〇の中心に起って、〇を生きる。△の中心に起って、△を生きる。□の中心に起って、□を生きる。〇と△と□が合体する、その事象を生きるのだ。ひとつの宇宙を生きるとは、そういうことだ。

3568. 確か、「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」という古人の言葉がある。なるほど。絵画は色で、音楽は音で表現される。色と音は、一種のコトバである。あらゆるものは、コトバを放っている。「石」には石のコトバがある。いい耳、いい眼を持った人には、見えないものにも、コトバを発見する。(やはり、あらゆる存在はコトバであるか)

3569. 眼の前に、竹が一本あれば、(私)は、一時間、いや一日でも竹のコトバを楽しめる。他に何もいらない。

3570. 石であれ、木であれ、草であれ、小さなひとつの宇宙であるから、ただ、無(私)になって、眺めるだけで充分だ。放っているコトバに耳を傾ける。

3571. (私)を全存在に対して、開けっぱなしにしておくこと。あれやこれやの日々の関係を断って。コトバの風が(私)を吹き抜ける。

3572. ひとつの石ころをとことん考えることが、そのまま(私)とは何者かと考えることになった。そして、「内部の人間」を発見した。今、秋山駿のコトバが身に沁みる。石ころのコトバを聴くいい耳をもっていた。ひとつの石ころとして生き切った秋山駿。

3573. 宇宙の、あらゆるものが読まれている。なぜ?存在はすべてコトバだから。もちろん(私)も読まれている。何に?誰に?わからない。ただ、不思議だ。

3574. (私)とは何か?と問われて、(私)は「コトバ」で作られた者だと答える。

3575. はじめに、来た問いを、生涯持ち続けられる人は少ない。人はいつのまにか、(生きる)間に、セイカツの中で、その問いを、手離して、忘れたふりをして、握り潰してしまう。実に、もったいない。何も片がついていないのに。もう、終りが来る。

3576. 誰でも「人生の検証」が必要な齢がめぐってくる。内省し、検証し、残り少ない日々を、最後の一滴まで使い切ってしまうまで。

3577. ニンゲンは波である。「生」も「死」も。いい波の時もあれば、わるい波の時もある。どんな波でも(私)自身である。サイクルがある。わるい波の時には、ひたすら耐えて、ただ待つ。

3578. ウツの世界へ、ソウの世界へ(私)という波は、その頂点から底辺まで、バイオリズムとなって反復する。

3579. 足もとの深淵に魂も氷りつき、青空の高みに、恍惚となり、あらゆるものを味わってやれ。宇宙の(生)の一回性にかけて。

3580. ココロの波、海の波、重力の波、素粒子の波、あらゆるものは波という形のもとに、伝わっていく。(私)の原型は波。

3581. 文字という「言葉」を読みながら、いつも、その彼方に、深淵に、見えない(不可視の)「コトバ」を読み込むのが、「読書」の真髄である。

3582. 見えないコトバが文字=文章になる(書かれて)。だから、道をたどって、見える「言葉」から、見えない「コトバ」に至る。

3583. 見るは、読む、触れるの果てにある。もちろん、(考える)の向う側にある。

3584. 透視か?幻視か?見定められなくても、ニンゲンは、もうひとつの眼を信じて、(見る)のだ。

3585. 言葉の彼方のコトバを書ける作家が、いったい、何人いるだろうか?

3586. ヒトは、誰でも、生命宇宙という(私)を生きている。高い、低い、深い、浅いに関係なく、ヒトの生命宇宙は、等しく同じものである。

3587. しかし、実は、(私)という生命宇宙の位相は、意識するところのものは、どれも、ちがった貌をもっている。

3588. 同時代を生きているから、ヒトの意識は、時代の色に染められる。(ソレは表面である)

3589. それでも、生きる意識の位相は一人一人、異っている。(深層では)

3590. 誰かに訊いてみれば、すぐに、わかる。君は、いったい、どんな生命宇宙に棲んでいるのか?と。時空は、決して、ひとつではない!!

3591. (私)にも意識が届かぬところにも(私)がいる。

3592. 脳の力が届かぬところにも(私)がいる。

3593. よって、(私)の脳は、(私)のすべてではない。

3594. 生命システムの中の脳。

3595. もちろん、ココロは、脳を超えて在る。

3596. (私)の記憶も、私の部分にすぎない。記憶の間違い、記憶以外にあるもの。

3597. (私)全体は、細胞の、DNAのシステムをも、超えている。

3598. 誰も(私)に会うことはない。完全に。”絶対”という王が死んで久しい。

3599. ヒトが生きれば、どんな心境・思想に至るのか?文豪・夏目漱石は?「則天去私」神話へ。天才・荒川修作は?「天命反転」の思想へ。重田昇は?「一即無限」の心境である。存在を、世界を、宇宙を、表現してみた。私の思想となった。(旧友I君に、空海みたいだねと言われて)

3600. (現実派)の江藤淳は、社会化された(私)の「言葉」で、歴史・文学・芸術を語った。(誰にでも共通する言葉で)「私はひとつの石ころである」という秋山駿の「石ころ」が何か解らなかった。「内部の人間」である秋山駿は「ノートのコトバ」で生きていた。社会の「言葉」の向う側の「コトバ」は、存在そのものであった。江藤淳は、秋山駿を「極楽トンボ」と呼んだ!!

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• 土曜日, 3月 20th, 2021

若くして、その感性で時代の若者たちの「問題」を、ユニークな文体で描き切ったものの、恍惚と不安の作家たち。石川啄木、中原中也、大江健三郎、石原慎太郎、村上龍、綿矢りさ、金原ひとみ、そして宇佐見りん。
(時代)を背負って、その風俗にまで影響を与えた作家たち。
一方で、生きて、生きて、人間も、世間も、社会も吸い尽くして中年で、老年で、突然、登場して、その生きざまで、思想で、文体で、テーマで、世間を驚かせた、作家たち。深沢七郎、石牟礼道子、稲垣足穂、藤沢周平、黒田夏子、夏目漱石、井原西鶴、須賀敦子。
もちろん、どちらが幸運か不幸かは、決定できない。
一人一人の作品と、その生涯をしばし、考えてみると、やはり、若くして作家になった者たちの足取りは、苦しい。辛い。華やいでいるが、その実体は、苦難に充ちている。なぜ?まだ、よく、私を、社会を生きてない者が書く小説は、想像力に頼るあまり、(人間)を丸ごと考える力が不足している。働いたことがない、(現場)を知らないまま、(人間)を書くから、成熟した社会の人の眼に耐えられない内容になる。小説の舞台が、テーマが、狭すぎる。したがって、小説は、ピンチに充ちた苦難の道をたどることになる。
一方で、生きて、生きて、(人間)を知り尽くした上で、作家となった人たちの書く小説は、「人間」が、深く、生き生きしている。テーマは豊富、登場人物もバラエティに豊み、その世界は、読者を魅了して止まない。

今回、三島賞を受賞した『かか』と芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』の二冊を読んでみた。著者は、まだ、21歳の大学生である。書いた小説は、二作。その二作とも、大きな文学賞に輝いた。そして時代の寵児となった。
宇佐見りんは、SNS・インターネットやスマートホンの時代の子である。風俗を背景にして、ストーリィテーラーの文体が見事に、(時代)を切り取っている。この才能は、若き日の、大江健三郎や石原慎太郎の登場を思わせるものであった。

第一創作集『かか』(文藝賞受賞・三島由紀夫賞受賞)
処女作には、その作家のすべて(核)があると言われる。なるほど。
19歳のヒロイン・若者を描いた、20歳の宇佐見りんの作品『かか』にも、それからの彼女の将来を予見させる素材がすべて出揃っている。
インターネット・SNSの時代の単なる風俗小説と思いきや、実は、人間の「生・老・病・死」がすべて入っている小説だ。19歳の多感な女性の日常と非日常を描きながら。
①父の浮気で離婚した母のウツ。
②ババとジジの老い。
③母の病い・子宮筋腫と手術。
④叔母の子・明子の死。
⑤「家」の日常と非日常。
そして、熊野への旅で、対峙する「カミ」
これから、宇佐見が掘り下げていくテーマが、すべて、作品に含まれている。単なる感性の放出ではなく、物語作家としての、確かな「文体」を持っている。
小説を支えるものは「文体」であり、そのディテールの描写にある。モノにぴったりと吸いつくような文体は、三島由紀夫の文体とは正反対。黒田夏子の、練りに練った文体とも対局にある。実に読みやすい。特に、作品を支える、鍵ワードは「かか語」の発見、創造にある。家族・家庭内の「方言」の効果は、小説の柱(核)である。
SNS・インターネットを駆使する若者が、神々の国・熊野へ旅をする。横浜から熊野まで。(日常と非日常)(正気と狂気)の間で揺れるヒロイン。
宇佐見は、作家、中上健次のよき愛読者だという。熊野は、和歌山県(新宮)出身の中上が、好んで書いた、神々の棲む地である。
インターネット・SNSの電子空間を抜けて、自然の、神々の棲む熊野へ、旅するというラストシーンが、実によく描けている。宇佐見りんは、処女作で播いた種を、育て、掘り下げ、長い、長いもうひとつの旅へと出発したところだ。

第二創作集『推し、燃ゆ』(芥川賞受賞)
パソコンもできない。メールもできない。インターネットもできない。スマートホンもできない。もう、時代遅れの、「死んだ人間」である私が、実に面白く読めてしまった作品である。

舞台は、現代の、インターネットのSNSの時代である。「推し」もわからなかった。スターにあこがれる、スターを推しているファンである、という意味。

60年代(昭和)の石原慎太郎の小説の舞台は、湘南。ヨットにのる青年たち。海(自然)と人間。荒れ狂う、青年たちの日々。「太陽族」と呼ばれた。
『推し、燃ゆ』の舞台は、インターネットの、電子空間。ネットが炎上する。アイドルを追いかけて、そこに自らの感情を注入し、一喜一憂するヒロイン。
冒頭は「推しが燃えた。」で始まる。そこに、物語のすべてがある。短く、たたみかける、文章が、いい。
最後は「当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。」で終わる。まるで、カミューの「異邦人」のような簡潔な文体。余分なものは何もない。
ブログの時代。ブログの言葉。いや、宇佐見りんの書く言葉は、ブログの言葉を離れている。言葉をコントロールしている。(時代)は変わる。時は流れる。風俗も言葉も変わる。しかし「文学」の「言葉」は死んでいない。
宇佐見は、はじめて、ブログやインターネットの言葉を「文学」の「言葉」に変換した、はじめての作家であろう。
同時代を生きているが、やはり、宇佐見は、新人類である。詩人の「最果タヒ」の言葉も新しいが、宇佐見の言葉も新しい。二人とも、言葉の自由度が高い。一人の作家・詩人の言葉が「同時代」を代表する時は、意外にも短い。だから困難はある。
宇佐見や最果の作品が、どんな世界を見せてくれるか、楽しみである。最果タヒや宇佐見りんには「言葉の向うのコトバ」を書ける詩人・作家になってほしい。

Category: 書評  | Leave a Comment