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• 木曜日, 9月 19th, 2019

辺見庸の最新小説『月』を読む(見事な文体の振幅と強度)

ついにとうとうようやく、ぎりぎりのところで、辺見庸が小説家として自らの代表作となる「月」を完成させた。
三島由紀夫の「金閣寺」武田泰淳の「富士」埴谷雄高の「死靈」川端康成の「雪国」等に匹敵する傑作の出現である。
辺見庸といえば、代表作はルポタージュ「もの食う人びと」であった。もちろん詩集あり、評論あり、時評あり、紀行文あり、講演や対談ありと、さまざまなコトバを放ってきた。発言してきた。思想家として。その度、四種類の文体を発見し、辺見庸という思想を構築してきた。文体の進化、思想の深化。

思えば、スタートは、新聞記者の文章であり、作家として簡潔で、素朴で、竹を割ったような文体を重ねた「自動起床装置」(芥川賞受賞)であった。行間に含みをもたせて、余白に語らせる、スタイルであった。随分と地味な作風で、まだ、辺見庸が何者か、わからず、世間の注目を浴びる作品ではなかった。

三島由紀夫が、金閣寺放火という衝撃的な事件(素材)を借りて、自らの存在を、思想を語り尽くしたように、辺見庸も、神奈川県相模原市の障害者施設で発生した(津久井やまゆり園)大量殺人事件(素材)を借りて、その(事実)を想像力を駆使して、小説としての(じじつ)に変換し、ニンゲンとは何者か?存在とは何か?を根源的に問うことで、自らの思想を語ってみせた。(ニンゲンは誰でも病んでいる存在である)

ニンゲンの底が割れても(殺人者となっても)まだ、ニンゲンは、ニンゲンとして存在が可能であるのか?

辺見庸は、小説を、多視点を導入することで、六つの文体で書きわけている。

①はじまりは、呟きであり、意識による独白であり、まるで、モーリス・ブランショの「謎の男トマ」風に、「来たるべき書物」となっている文体。

②ニンゲン存在の深処からくる詩、アフォリズム、ピュアーなコトバ群からなる文体。

③そして、告発、厭世、抵抗、否定と洪水のように吐き出される文体。

④更に、思考に思考を重ねて、なお、その果てまで行こうとするコトバ群の文体。

⑤(現実)に寄り添って、事象をていねいに、ていねいにたどる、リアリズムのコトバの文体。

⑥疾走する、軽妙さの中に虚無や悲しみが走る音楽としてのコトバ・文体。

辺見は、さまざまなコトバを書くことで、自らの文体を鍛えあげてきた。あたかも、この小説『月』を書きあげるためでもあるかのように。

文体が多声的であるということは、同時に、登場人物、ニンゲンも多面的存在であるということだ。文体の中にしか思想はない。ポリフォニー小説「月」は何重もの壁に囲繞されたコトバの群れから成っている。独白あり、崩壊あり、幼児性あり、大衆性あり、知性あり、偏向性あり、俗性と聖性あり、コトバは七変化している。コトバそのものが、自己生成されて、勝手に動いているようにも見える。(力業である)
つまり、存在はコトバである。物語・単なるストーリを追っても、プロットを説明しても、辺見庸が投げかけるコトバの正体は容易に捉えられない。
もちろん、小説は歪んでいる、破綻している、壊れている、なぜ?ニンゲンがそのようにも存在しているからだ。

なぜか、救いのない事件を語る、辺見のコトバの中に、”無限のやさしさ”を感じた。
このココロの揺れは、いったい何だろう?どこからくるのだろう?(「自痴」のムイシュキンのような)

ニンゲン存在のグロテスクの中にも、手で手に触れる、他人への”無限のやさしさ”と覚える場面がある。不思議だ。それは、辺見庸が、さまざまな作品の中で書く”植物たち”への視線に含まれているある心情に似ている。
(在ること)(食べること)(殺すこと)(愛すること)生を構成するエレメント。簡単で、深い。根は同じところにある。つるつる滑ってしまう世間、社会の言葉の浅さと散漫に対して、辺見のコトバは、表面を深淵に変えてしまうほどに、したたかだ。
「月」の結末は?
「ああ、月だ。月に虹がかかっている。」
が余りにも凡庸で破綻していると読むかどうか?あるいは・・・。
三島由紀夫の最後の小説「豊饒の海」第四巻「天人五衰」の結末は?
「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。・・・」
コトバから生まれてきた三島由紀夫が何もないところに至ってしまう。なぜか?
ニンゲンは、動物・植物・鉱物と共生し、人間原理で生きている。宇宙原理では生きられない。しかし、実は、ニンゲンは、コズミック・ダンスを踊っている存在である。宇宙のビッグ・バンの風に吹かれて。
小説「月」は辺見庸の代表作、金字塔となるだろう。長く読まれんことを!!

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• 木曜日, 9月 19th, 2019

(無)から来た
(私)という骰子を
今日も振り続けている
あれかこれか 左か右か真ん中か
あれでもない これでもない

鳥は 鳥の意識で
(夢=現実)を見る
何を?
見えるものから 見えないものへ

魚は 魚の意識で
(夢=現実)を見る
何を?
見えないものから 見えるものへ

時空の無限放射の中に居る(私)
視点を変えると
(私)は時空へと無限放射されている

ニンゲンは もちろん
ニンゲンの意識で
(夢=現実)を見る
何を?
在るように在るから 想うように在るへ

もう(私)は 私自身を
一日も考える力をなくしている
いや 一時間も いやいやものの三分も
見ろ!!欠伸までしている 混沌の中で

ニンゲンは 本当のものを見ると
気が狂ってしまうから
まあまあ ボチボチ
日々流されて生きている

宇宙の歯車が
時代の歯車が
また ひと廻りして
ひと呼吸遅れて
振り出しに戻った(私)も
ゆっくりと 自然に
(私)の歯車を廻してみる
(私)のリズムで (私)の流儀で

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• 木曜日, 9月 19th, 2019

1. 正訳「源氏物語」第一巻(勉誠出版刊)中野幸一著
2.「空海教学の真髄」『十巻章』を読む(法蔵館刊)村上保壽著
3.「幻色江戸ごよみ」(新潮文庫刊)宮部みゆき著
4.「須賀敦子の本棚」没後20年・文豪別冊(河出書房新社刊)
5.「石牟礼道子」(さようなら 不知火海の言魂)(河出書房新社刊)
6.「新約聖書」ヨハネの黙示録 訳と注解(作品社刊)田川建三著
7.「日の名残り」(早川書房刊)カズオ・イシグロ著 ノーベル賞記念版
8.「東大駒場全共闘エリートたちの回転木馬」(白順社刊)大野正道著
9.「日大全共闘1968版乱のクロニクル」(白順社刊)眞武善行著
10. 正訳「源氏物語」第二巻(勉誠出版刊)中野幸一著
11. 句集「をどり字」(深夜叢書社)井口時男著
12. 詩集「森田進詩集」(土曜美術社出版販売刊)森田進著
13. 詩集「えみしのくにがたり」(土曜美術社出版販売刊)及川俊哉著
14. 詩集「星を産んだ日」(土曜美術社出版販売刊)青木由弥子著
15.「オウム真理教の精神史」(春秋社刊)大田俊寛著
16.「読書という荒野」(幻冬舎刊)見城徹著
17.「文字渦」(新潮社刊)円城塔著
18.「ユング心理学と仏教」(岩波文庫刊)河合隼雄著
19. 正訳「源氏物語」第三巻(勉誠出版刊)中野幸一著
20. 正訳「源氏物語」第四巻(勉誠出版刊)中野幸一著
21. 正訳「源氏物語」第五巻(勉誠出版刊)中野幸一著
22.「須賀敦子さんへ贈る花束」(思潮社刊)北原千代著
23.「蜩の記」(祥伝社文庫刊)葉室麟著
24.「川のあかり」(祥伝社文庫刊)葉室麟著
25.「映画『夜と霧』とホロコースト」(みすず書房刊)ファン・デル・クープ編 庭田ようこ訳
26.「おくのほそ道」芭蕉(岩波文庫刊)萩原恭男校注
27.「芭蕉紀行文」芭蕉(岩波文庫刊)中村俊定校注
28.「芭蕉七部集」芭蕉(岩波文庫刊)中村俊定校注
29.「芭蕉」(新潮社刊)山本健吉著
30.「われもまたおくのほそ道」(日本放送出版協会刊)森敦著
31. 正訳「源氏物語」第六巻(勉誠出版刊)中野幸一著
32.「超越と実存」(「無常」をめるぐ仏教史)(新潮社刊)南直哉著
33. 小説「明恵」(上・下巻)栂尾高山寺秘話(弦書房刊)高瀬千図著
34. 正訳「源氏物語」第七巻(勉誠出版刊)中野幸一著
35. 正訳「源氏物語」第八巻(勉誠出版刊)中野幸一著
●正訳「紫式部日記」(勉誠出版刊)中野幸一著
36.「吉野弘詩集」(ハルキ文庫刊)
37.「三島由紀夫ふたつの謎」(集英社新書刊)大澤真幸著
38. 正訳「源氏物語」第九巻(勉誠出版刊)中野幸一著
39. 正訳「源氏物語」第十巻(勉誠出版刊)中野幸一著
40. 小説「月」(角川書店刊)辺見庸著
41. 詩集「天国と、とてつもない暇」(小学館刊)最果タヒ著
42.「ある家族の会話」(白水ブックス刊)ナタリア・ギンズブルク著(須賀敦子訳)
43.「大拙」(講談社刊)安藤礼二著
44.「エチカ スピノザ」(NHKテキスト刊)國分功一郎著
45.「人生百景 松山足羽の世界」(本阿弥書店刊)遠藤若狭男著
46. 詩集「川を遡るすべての鮭に」(土曜美術出版販売刊)加藤思何理著
47.「ビッグ・クエスション」(NHK出版刊)スティーヴン・ホーキング著
48.「銀の匙」(岩波文庫刊)中勘助著
49.「あれは誰を呼ぶ声」(アーツアンドクラフツ刊)小嵐九八郎
50.「この道」(新潮社刊)古井由吉著
51.「明治の青春」猪股忠著

「本」のないセイカツは、(私)には考えられない。コトバのないセイカツ(沈黙していてもコトバはある)も(私)には考えられない。思考するためだ。
「読書」は、日常生活と思考生活の両車輪のひとつである。おそらく、いつも、ココロの歩行をしていたいのだと思う。足で遠くまで行かなくても、ココロの深みへと歩いて行きたいのだ。
すべての「本」を捨てて、「本」から遠く離れて生きたいと、実行している人、友人もいる。しかし、考えてみると「本」はコトバの宇宙である。「宇宙」も一冊の「本」(テキスト)である。文字、声以外のコトバを放っている(宇宙)である。
感じたり、意識したり、考えたりする(私)は、いわゆる「本」に頼るか、「宇宙」(存在のテキスト)に頼るかして、生きている。
あらゆる存在は、コトバを放っている。いや、「存在」はコトバであるから、生きている限り、コトバからは離れなれない。
「本」を捨てて生きる人も、結局は「宇宙」という「本」(テキスト)の中を漂っている。
ニンゲンは何処に生きている?もちろん、存在が置かれた場所であるが、同時に、ココロの位相にも生きている。
異なる時代、異なる場所にいる人とも共時的に生きることができる。「読書」の最高の快楽はそれである。
現在の(私)は年間30~50冊が「読書量」の限界である。体力・気力がいつまで続くかわからない。今回も、「本」を読んで、思った感想を自由に書き記してみた。

1.10.19.20.21.31.34.35.38.39.「源氏物語」
千年の時を超えて、なお、読み継がれる、日本の小説の最高峰『源氏物語』
21世紀、原文で読める人は少ない。で、幾人もの文人、作家たちが、古文を現代文へと翻訳して、一般の、普通の読者の道標となった。与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴・・・等々。

中野幸一は、国文学者である。研究者である。作家たちの、現代語訳の長所も短所も見極めた上で、「本文対照の正訳」として『源氏物語』全十巻を上梓した。「正訳」が鍵ワードである。時代考証はもちろん、史料、文献の考察から「本文」=「物語」の本質を、口語で語ってみせた。
私は、学生時代、中野幸一先生から『枕草子』の講義を受けた生徒である。作家・川端康成から新進気鋭の国文学者として、その論文を認められた、講師であった。(残念ながら、中野先生の『源氏物語』の講義はなかった)

80歳の喜寿のお祝いの時、先生は、もう、自分は完了してしまったニンゲンとして、周囲から扱われていると思い、それで終わってたまるかと、『源氏物語』の口語訳に挑戦して、全十巻を、約4年の年月をかけて、完訳した。見事な仕事である。正しく「老人力」の勝利である。
大学を卒業して、50年経って、現在『正訳・源氏物語』を愉しんでいる。感謝である。
先生、ありがとうございました。

2.「空海教学の真髄」
『意識と本質』で、井筒俊彦は、「存在はコトバである」と語った。村上保壽は『空海からの「ことば」の世界』で、空海の書いた「ことば」は、いわゆる社会的な言葉ではなく、大自然の存在の、如来の「ことば」であると、「言葉」と「ことば」を区別した。
つまり、空海は「行」の人であって、悟った心境を「ことば」で語った、思考の人・宗教者であると、単なる天才・空海論を否定してみせた。
さて『空海教学の真髄』は真言密教の教学・教義を膨大な空海の著作の中から選んで「十巻章」と名付けたものである。
三部書『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』はもちろん、空海の重要な著作はすべて含まれている。ただひとつ、龍樹の『菩堤心論』が含まれている。空海の思想に最も大きな影響を与えた書である。いや、空海の思想の(核)となったものである。

東北大学で、哲学を学んだ村上が、真言密教・空海の世界へと舵を切り、西洋哲学を捨てて、密教の教学と「行」に生き、ついに、伝燈阿闇梨まで至った生きざまは、現代人にとって「僧」とは何者か、「信仰」とは何か、宗教者空海は、現代を生きるニンゲンに、何を与えてくれるのか、身をもって示してくれる本書である。

3.「幻色江戸ごよみ」
流行作家の、エンターテイナーの小説類は、ほとんど、読むことがない。もちろんミステリイも読まない。今回、はじめて宮部みゆきの、短編集を読んでみた。
大学の旧友が、突然、難病で急死した。国文学者であった。その旧友の奥様が、実は、「朗読会」の案内をくれた。で、テキストが「幻色江戸ごよみ」だった。(千葉・市原市にて)
宮部みゆきの、物語作者として、言語感覚に触れた。藤沢周平同様、一言半句に、プロの眼と腕を感じた。

4.「須賀敦子の本棚」
死後20年たっても、なお、愛読されている、須賀敦子の文体の力。「コトバ」を生きた、須賀敦子の生涯が見えてくる一冊。

5.「石牟礼道子」(さようなら 不知火海の言魂)
ニンゲンの根源から流れてくる言葉の世界を掬いあげた人。小説・思想・ふつうのニンゲンが突然かかえてしまった「難問」に正面からむかいあった、共に生き、コトバ化した石牟礼道子。言葉にならぬコトバを、よくぞ書き切ったものだ。力業である。そのコトバが消えるはずがない。正に(言魂)である。

6.「新約聖書」ヨハネの黙示録 訳と注解
ニンゲンおそるべし。ニンゲンの仕事は、こんな高みまで昇りつめることができる!!
共時性を感じるコトバ。イエス・キリストが生きた時代の息吹きが、鮮やかに甦る、そして現代にも圧倒的な力で迫ってくる。田川建三の思想の集大成。とにかく、本文は、もちろん、「訳と注解」が、ニンゲンの眼を開き、ココロを一番深いところまで導いてくれる。稿を起こして十数年、何万枚にものぼる原稿、おそらく、(現世)は消えて田川建三は、イエスと共に、考え、語り、生き、古代を現代に変えて、(信仰)の位相に生きていたのだろう。感謝である。

7.「日の名残り」
大学のOB会にて「読書会」のテキストに使用。ノーベル賞記念版でも読んでみた。(作家・村上春樹のエッセー付き)

8.9.
とうとう「全共闘」運動も「歴史」になった。50年!!一昔である。もう語ってもいいだろう。長い間、ココロの深処に秘めていたことを、(私)のコトバで語ってみる。
いったい、あれは、私にとって、何だったのだろう?そして、その結果、私の(生)は、どのような道程になってしまったのか?本気でモノを考えはじめた、自面の青年が、そのように(社会)に立ちむかったのか?革命はどうなったのか?そして、古希を過ぎた現在は?世界は?自己否定、権力、安保、天皇制、ベトナム戦争、革命・・・。東大全共闘を、日大全共闘を本気で闘った二人の回想録である。
歩いてみなければ見えない。生きてみなければわからない。過剰な青春という時を、全共闘という、普通の学生が、何を闘い、何を喪い、何を得たのか、人生の検証が、今、行われている。

11. 句集「をどり字」
第一句集「天来の独楽」は、理のコトバに生きる井口時男が、日々の心情や思いを「俳句」という五・七・五という定型の芸術に身をゆだねた、新鮮な驚きをもたらした「本」であった。
当然、第二句集は、その深化にある。「をどり字」と銘打った俳句。井口時男が敬愛する、詩人・石原吉郎も、晩年には、自由散文詩から、短歌へ、俳句へとコトバの裾野をひろげてみせた。俳句の言葉も、最後は、存在のコトバへと、突き進むのであろうか?私の気に入った俳句を、二つ、三つ頭の中に、いや声として、ココロの深部に刻み込み暗誦してみる。
「多摩川に無神の自裁雪しきり降る」 

12.「森田進詩集」
牧師詩人。14歳で洗礼を受ける。66歳で神学の大学に入る。そして牧師に。当然にも、詩と信仰が、森の作品の(核)である。信仰は美学を排除するか、合一するか?「剣玉」は、それを象徴する作品。

「詩と思想」の総集長としての森田さんから、何回か、作品の依頼を受けた。何かの会合で、立ち話をした。ある日、突然、訃報を聴いた。詩集「野兎半島」は、森田進を代表する詩集。合掌。

13.「えみしのくにがたり」
まだ、あの大地震・大津波・原発事故の3・11に、それに均り合うコトバを与えた作品には出会ったことがない。いや、3・11を表現することは不可能かもしれない。なぜ?
3・11は、コトバの外部に厳として存在している大事件だから。コトバを喪った作家、詩人はたくさんいる。意識は、ゼロ・ポイントに落ちた。しかし、ニンゲンは、なんとしても、3・11を語ろうとする。
「えみしのくにがたり」は、古事記、日本書紀、旧約聖書のコトバを現代に再生させて、祝詞会はコトバの世界を創出した詩集である。
コトバの異化作用である。詩のタイトルからして「水蛙子の神に戦を防ぐ為に戻り出でますことを請ひ願ふ詞」である。東北の「えみしのくに」のヒトの声が聞こえてくる新鋭の詩集。

14.「星を産んだ日」
十七年間の出来事が詩となった。父の死と新しい生命の考察。円環するニンゲンの生命。仏教的な輪廻の匂いはしない。もっと、垂直に流れる。(血)の匂いがする。(赤い一本の流れ)結ぼれである。あちことに(狂)があふれている。このエネルギーは、いったい、何であろうか?破壊の後のカタルシス?

15.「オウム真理教の精神史」
宗教とはいったい何だろう?ニンゲンだけが(宗教)に目覚めた。さまざまな悲しみ、苦しみ、貧しさ、不幸から救われるもの?いや、人それぞれか?自力であれ、他力であれ、カミ・ホトケに救われるという宗教。もちろん、無神論者もいる。

麻原彰晃・オウム真理教の教祖。本人は、自分を「最終解脱者」と称した。(日本では、私は悟ったという僧侶はいない)出家して、オウムの信者となった青年たち(東大、京大、早稲田、慶応と一流大学の卒業生・・・医師、弁護士・・・知識人たち・・・)
なぜ、彼等は、オウムに入信したのか?なぜ、大量殺人事件(サリン)を起こしてしまったのか?
新進気鋭の学者や研究者たちが、なぜ麻原のオウム(教義や修法)を支援したのか?
大田俊寛は若き宗教学者である。オウム事件によって、失墜した(宗教学)学問の修復を図る。キリスト教(グノーシス主義)の研究者。「ロマン主義・全体主義・原理主義)の視点から論じる力作である。

17.「文字渦」
「文字」について文字で書かれた文字が主人公の小説(?)である。円城塔の頭の中は、いったい、どうなっているのだろうと、「文字」で書かれた小説を読むたびに不思議に思う。(スリル満点の探求譚)一瞬にして「文字」が飛ぶ。とんでもない時空に・
「文字」をめぐる12の短篇から成る。本文のコトバ「真言ラジオ」「「アミダ・ドライブ」「浄土テクノロジー」なんという名付け方、発想の妙、小説は、なんでもありの自由な器であるが、円城の手にかかると「宗教=仏教」世界までが、刷新されて、思わず、笑ってしまう。実は、高笑いしているのは、作者の円城塔自身ではないか。博識で、変化自在の円城ワールド。川端康成文学賞受賞も、なんだか、おかしい?(笑)

18.「ユング心理学と仏教」
フロイドよりもユングが好きである。ゆえに、河合隼雄の著作に魅かれる。「昔話」や「明恵」はユング研究者・河合隼雄の読み込みに、思わず、唸ってしまった。本書でも、「牧牛図と錬金術」は、禅の世界とユングの世界が見事に通底している。

22.「須賀敦子さんへ贈る花束」
北原千代(H氏賞受賞)による、敬愛する作家・須賀敦子に捧げる13の花束(エッセイ)である。
モノに、ヒトに、コトに、コトバに、実に、ていねいにあたる人柄が、エッセイの各所にあらわれていて、ココロが自然に開かれていく。論評や探求のコトバではなく、須賀の自由な、強度の整った文体に触れて、自然にココロの深処から湧きあがる感慨を、自分のコトバのリズムで綴っていくエッセイ。
北原の個人誌詩「ばらいろ爪」に十二回にわたって連載されたものに、書き下ろし一篇を含めたエッセイ集。見知らぬ須賀敦子を求めて、その生涯を、作品に添って、ていねいに読み解いていく。誰の為でもない。自分のココロの滋養となる読書であり、感想であり、生きられるコトバの世界の発見の書である。

23.「蜩の記」24.「川のあかり」
縁があって、二冊ほど読んでみた。なんでも読む、新しい作家を探すのが趣味の、大学時代の旧友、文学仲間が大阪から電話してきた。
「ええ文体もった作家やでえ。若いもんはかなわんわ。まあ、読んでみ、時代小説やけどな」
「藤沢周平みたいなかい?」
「ちがうな、九州が舞台や、江戸時代かな。推理小説みたいで、まあ、気晴らしになる」
なるほど、簡潔な文体で、風景描写からはじめる物語は、一気に読めた。テーマは?幽閑であり、その日々であり、武士の生きる姿であり(死)であった。

大原富枝の名作「腕という女」を思い出させる作品であった。限られた生命を生きる蜩にニンゲンの幽閑された短い生を重ね合わせている。
唯一、気になったのは、会話の文である。江戸時代、九州が舞台であるが、方言ではなく、現代の標準語が使われているために。(ところどころに九州弁あり)時代や風土の匂いが立ち上がってこない。

25.「映画『夜と霧』とホロコースト」
フランクルの「夜と霧」(本)は、魂を震撼させられた一冊であった。映画化された「夜と霧」(ドキュメント)は、高校時代、田舎の映画館で観た。ドイツ軍・ナチスによる、ユダヤ人のホロコースト。強制収容所でのドキュメント映画。
本書は、ホロコーストの実態を、アラン・レネ監督がドキュメンタリー映画としてまとめたものの世界への影響とその波紋を、国別にまとめたものである。

長編小説「百年の歩行」を書くために、資料として、毎日少しづつ読んでいる。

26.27.28.29.30
大学のOBによる「読書会」で芭蕉の「おくのほそ道」をテキストに使うために、少し、まとめて、芭蕉の作品、俳句、関連の評論などをまとめて読んでみた。(40年以上前に読んだ作品の再読である。芭蕉おそるべし。新鮮な発見が、コトバの中から立ちあがってくる。(不易流行か)
放浪の作家・森敦は『月山』で芥川賞を受賞。すでに、還暦を越えていた。時の人となった森敦は、NHKに促されて、四国八十八ヶ所を歩いて、おくのほそ道を歩いて、放映の後、「本」にまとめている。
森敦の若き日の深い教養(読書)が、真言宗に、俳句にむけられて、なるほど、名作『月山』の背景にはこんな思想が隠されていたのかと思わず、納得。

32.「超越と実存」
お寺の子が、僧侶になるのが普通の時代である。なぜ?現代の僧侶たちは大半が結婚をするから。お寺の子。「僧侶」が職業になってしまった!!昔は、僧侶は、妻帯しなかった。世を棄てて、出家をして、独り、悟りを求めて、修行をする。そして、衆生を救う僧となった。
南直哉は、お寺の子ではない。普通の家の子である。大学を出た。就職をした。会社を辞めた。出家をした。真理を求めるために、悟りを開くために、衆生を救うために、出家をしたのではない。成仏や悟りを求めなくて、なぜ、南直哉は、出家の道、僧侶の道へと門をくぐったのか?
一、死とはなにか
一、私が私である根拠は何か
この二つの疑問を解くために、南直哉は、僧侶となった。(なるほど、会社勤めでは解けず)そして、道元のコトバに出会う(正法眼蔵)浄土をも信じない僧侶、三十余年の修行を経て、「無常」をめぐる仏教史を書いた。(釈尊から道元まで)
八年間、真言宗・空海を修行した(私)にとって、本書は、現代の(僧侶)のひとつのあり方として、深く感動させられた「本」である。感謝を。

36.「吉野弘詩集」
詩とはいったい何だろう?詩人とはいったい何者だろう?吉野弘の詩を読みながら、そんな素朴な、根源的な問いが起ちあたってきた。イメージで、発想一発で、感性で書いた詩は、一瞬、新鮮で、驚きがあるが、いつのまにか、古びてしまう。セイカツの中にとけ込んで、(私)と一体と化したコトバ、詩は、地味だが、とても長持ちする。なぜか?
(私)が生きた(生)であるから。(私)が生きられた時空のことだから。
そして、個人的なものが、いつのまにか伝染して(他人のココロに)普通になる。藤沢周平、城山三郎、そして秋山駿のコトバ。簡単で、深く、根源的で、しかも力強い。
① I was born ② 祝婚歌 ③ 夕焼け
どれも自分自身の(生)の、セイカツの一番深いところから起ちあがってきたコトバである。
詩など読まない人でも、耳から聴くと、深く、なるほどと頷いてしまう詩。誰も読まなくなった現代詩への吉野弘の意識的抵抗・実践の詩。

37.「三島由紀夫ふたつの謎」
「社会学者」というものが(私)にはよくわからない。医師、弁護士、詩人、作家、評論家。明確なイメージを結ぶものと、いつまでたってもよくわからない存在者。大澤真幸は、社会学者である。「キリスト教」について、「仏教」について、「文学」について、論じたり書いたり、その幅広さには驚きもするが、いつも、何者、あなたは?と思う。
さて、三島由紀夫が、割腹自殺(1970年11月25日)した日から、もう約半世紀の時間が流れようとしている。早稲田大学のキャンパスで、三島由紀夫が自衛隊に突入のニュースを聴いて、友人と、市ヶ谷まで駆けだした日のことが、まるで、昨日の出来事のように思い出させる。(あの声、あの叫び声)「思想でも人は死ぬ」
さて、三島由紀夫の思想とは?大澤真幸は、六歳で、三島由紀夫の切腹事件を知り、十六歳で『金閣寺』を読んで衝撃を受け、天才・創造者の謎に立ちむかうことになる。
「仮面の告白」「金閣寺」「豊饒の海」の主作品の分析、読み解きから、「太陽と鉄」(私が一番好きな作品)まで、社会学者の大澤真幸が挑む。三島由紀夫のイデアと行動の謎に迫る力作。(大澤の決着のつけ方が面白い)

40.「月」
小説「月」は、さまざまな鍛えられた五つの文体によって書かれた辺見庸の代表作になるだろう。三島由紀夫の「金閣寺」に相当する。(書評で詳しく論じてみる)

41. 詩集「天国と、とてつもない暇」
コトバが詩である。コトバが詩を書いてしまう。(私)が書くのではなくて、無限回転する宇宙の風景とカーテンの揺れる部屋が同時に、共時的に存在する。
「だれも本当は死なないのです」(蜂の絶滅)「ぼくの体とともに、宇宙を、回転している」(100歳)「何も知らないからこそ詩が書けるかもしれない」(あとがき)
最果タヒの詩は、いつも、解けない謎にむかっている。だから、面白い。

42.「ある家族の会話」
訳者は、文章家の須賀敦子である。イタリアに留学し、イタリアの男性と結婚し、死別、帰国して、大学の講師。教授となり、イタリアを中心としたエッセイを書き綴った名・文章家である。(没約20年)
須賀は、ナタリア・ギンズブルクの小説を読み、震撼させられて、翻訳し、私も文章が書けると、目覚めた人である。須賀は、ナタリアの小説、文章から何かを発見し、何を学び、何を得たのだろうか?そんな思いで、本書を読んでみた。

日本の私小説に似た、ナタリア本人の家族の物語である。島崎藤村の「家」(小説)のように。しかし、徹底している。小説のまえがきで、ナタリアは断言する。場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである、と。人名もありのままである。まるで、ノン・フィクションノベルである。ただ一点、私自身のことは、ほとんど書いていない。語り手にて徹している。あくまでも、イタリアの、その時代の、自分の(家族)の物語である。家族の一人一人が放ったコトバが中心になる。ナチスの、ムッソリーニのファシズムの嵐が吹きすさぶ時代である。
おそらく、自由な、語り口の、コトバの息が、コトバの息吹きが、存在としてのコトバが、須賀の全身に浴びせられたのだろう。
(私)という光源を通じて、こんなにも生き生きと、ニンゲンが活動する世界が描ける。(私)を無にすれば・・・。須賀が、小説ではなく、(事実)を中心にしてエッセイ(じじつ)を書くに至った大きな理由が、この小説にはある。

33.「明恵」
作家が、詩人が、イエス・キリストや釈尊や高名な宗教者・空海、親鸞、日蓮、最澄、道元を小説化すると、必ず大きく躓いてしまう。ポイントは(信仰)の、(悟り)の深さであり、行(修法)の実践である。
洗礼を受けた者、出家して、得度した者であっても、作家は作家である。どうしても、(文学・芸術)の道と宗教の道には、矛盾が横たわる。しかし、それでも、作家は、宗教者をモデルにして、小説を書きたい、書く、書いた。司馬遼太郎の「空海の風景」高村薫の「空海」立松和平の「道元」五木寛之の「親鸞」と遠藤周作の「沈黙」等々。私は、宗教小説として、最高の作品は、ベトナム出身のディック・ナット・ハン師による「ブッダ」だと思っている。
さて、高瀬千図氏は、20年の歳月をかけて、歴史小説「明恵」上下巻、約2000枚を書き終えた。ほとんどニンゲンの半生をかけて、挑戦した大作である。

鎌倉時代の僧侶。両親をなくして仏門に。京都・高山寺・故郷の和歌山で修行する。華厳宗の中興の祖。華厳宗と真言宗の融合の祖。生涯、見た夢を「夢記」として記録した、孤高の僧。心理学者・河合俊雄の「明恵」夢分析がある。

高瀬氏は、著作・史料の読み込み、得度して、修行に入り、(教学)と(事相)から、明恵の信仰と実践に迫る。「唯識」も「三密」も、容易に体得できるものではない。何度か、もう、私には書けないと断念したという。当然、仏教の深みに、躓いただろう。

約半年間かけて読了した。立派な仕事だと思う。「衆生救済」と瞑想による「意識の変革」が、明恵の旗印であった。「人は人のあるべきように生きる」明恵の有名なコトバである。

改めて、本の扉を見ると、「文学の師、森敦先生と人生の師、原田正純先生の御霊にこの著作を捧げます」とある。なるほど、あの「月山」の作者、森敦が、文学の師、手本であったか。

私事。八年間、高野山大学大学院にて、「密教・仏教・空海」を修学したが、得度もせず、灌頂も受けず、行にも励まぬ学生では、とても「空海」は書けない。断念。実践なしに宗教はなしである。

43.「大拙」
折口信夫の研究者・そして文芸評論家だと思っていた、安藤礼二が、知の巨人・鈴木大拙に挑んだ力作である。
「日本的霊性」(岩波文庫)と「禅とは何か」しか読んでない鈴木大拙であるが、安藤礼二の大きなプログロムに添って通読した。出家・得度した僧でもない(?)鈴木大拙が、いったいどのようにして禅を修得し、アメリカにまで「ゼン」を広げる人物に成長したのか?私の興味はそんなところにあった。(大拙は居土として、在野で仏教を、禅を修行した、僧ではない)

「インド」にはじまり「芸術」に至る全八章の中で、当然にも、圧巻は第六章の「華厳」と第七章の「禅」である。

盟友、西田幾太郎との思想交流は、西洋の、デカルト・カント・スピノザの哲学に対して、華厳経の「四法界」(事事無礙法界)つまりは、東洋の仏教思想を対峙させて、それぞれが、新しい、オリジナルの思想の樹立へと邁進する様は(知)の火花が散る場面である。

論考の中心は、なんと言っても「禅」である。「禅」の探求と、その実践なくしては鈴木大拙は語れない。思想の(核)だ。同じ頃、禅僧の南直哉の「超越と実存」を読んでいたので、(道元・曹洞宗)大拙の禅との比較ができて、とても面白かった。
(ちなみに、研究者・安藤礼二氏は禅を実践しているのであろうか?)

それにしても、大拙の人間関係・研究対象の拡がりは、そうして、その影響は、音楽家・ジョン・ケージにまで至るとは。文芸評論家とばかり思っていた安藤礼二が、いつのまにか、宗教研究者になっていた。安藤さん、文献学者だけではなく、たまには、瞑想もしているのかなあ。(呟き)
「大拙」は大変勉強になりました。お礼。

44.「エチカ スピノザ」
青年時代の読書は①デカルト ②パスカル ③スピノザの順番であった。(私は考える、だから私がある)・・・つまり、(私とは何か)という問いの前に立ちすくんでいた。そして、足許に、宇宙の深淵を見るパスカルに移った。(人間は考える葦である)パスカルのアフォリズムにココロが騒いだ。そして、スピノザの世界へ。

レンズ磨きの職人が、宇宙について神について考察する。その考察の手法に魅かれた。その「外部世界」宗教の神のいない世界・汎神的世界。宇宙そのもののスピノザ宇宙。

45.「人生百景 松山足羽の世界」
私の文学の友、旧友の俳句・俳人論。福井・若狭を故郷とする遠藤若狭男が、同郷の先達・俳人・松山足羽を論じた著書。

俳人が俳句を論じる。俳人が(他の)俳人を語る。当然にも、そこには、自らの俳句観が現れる。
昨年の暮れの12月に「喪」のハガキをもらった。遠藤若狭男死す。ガン。難病。もうすぐまた一年が来る。否、まだ9月か。
声。遠藤の声が聞きたいと思い「人生百景」を入手。
俳句集・五冊は、いつも贈ってくれた。評論集は、専門的すぎると思ったのか?いただいていなかった。インターネットを使って、妻に、買ってもらう。

俳誌(川)に、平成22年4月から平成28年3月まで連載したもの。28年9月刊。そういえば、何か、大きな賞をもらったと、年賀状に書いてあった。(俳句の世界には不案内で)

「石鹸玉人生百景すぐ消ゆる」(この)本のタイトル「人生百景」のモト。
「春寒や妻を着替人形に」
「つくつくぼうしつくつくぼうし愛の欲し」
「高雲雀長病み妻は声が出ぬ出ぬ」
言霊論あり、俳句の文体論あり、第二芸術論の否定あり、人生探求派の人生あり・・・あの静かな男・遠藤若狭男が「俳句に芸術」を求める、希求する声が響きわたっている。「本物の俳人」松山足羽への温かいオマージュである。

46. 詩集「川を遡るすべての鮭に」
「分野」を超えるコトバの交配師である。詩、小説、アフォリズム、作中劇、対話、Q&Aと、コトバの垣根を、壁を崩して、破壊してしまう、快楽のエクリチュールが疾走する「本(テキスト)」である。
凡庸な、日常の断片が、衰弱したコトバで書かれる詩が大半の現在、夢を、エロスを、少年愛を、自由自在に書き尽くす、ポップな文体が生み出す、快楽と笑いと探求のテキスト宇宙は、実に瑞々しい、生命の球体である。
日本の、湿った「私性」の匂いがどこにもない。私が想ったのは、ブルトン・ブランショ、クロソフスキー、ロートレアモン、そして、バタイユである。
誰もが見ているはずのものが、誰もが知っているはずのものが、具象が、コトバによって抽象となって、結晶する世界。加藤ワールドである。加藤は、さまざまなコトバを、シャッフルして、その幻種を交配してみせる。単なる写実はつまならい。ここにあるものから、思うものへと昇華しなければ、(詩)ではない。(「熱いフライパンの上のバター」が最高)
自由なコトバの交配は、疾走する透明で、ポップな文体にある。
読者は、これが「詩」か?「小説」かと悩む必要がない。加藤が放ったコトバに、ゆっくりと身をゆだねてみる、そこには、まだ、名前のないものたちが、新しく名付けられる世界が顕現している。

47.「ビッグ・クエスション」
アインシュタインに次ぐ、100年に一人の天才。ホーキング博士。
(神)の存在。(宇宙)のはじまり。(未来)の予言。(ブラックホール)の正体。(タイムトラベル)の可能性は?(地球外知的生命)の存在。(AI)はニンゲンを超える。いったい、宇宙において、ニンゲンに何が出来るか?
宇宙で、意識をもち、自己発見し、世界を発見し、AIを創り出した人類の不思議。
ニンゲンよりも能力が高くなってしまうAIの進化。自己増殖し自己進化し、あらゆる点においてニンゲンの能力を超えてしまうAI。はたして、ニンゲンに、コントロールできるか?不可能ならば、ニンゲンは、AIのもとで生きる生物になってしまう。
原発の爆発事故で、ニンゲンは、まだ、放射能をコントロールできないと判明したー大事故・大事件。同じように、AIも、膨大な記憶と判断力で、ニンゲンを超えてしまう。ニンゲンをコントロールするAI。ホーキングは、(AI)に対する(法)が必要だ、と警告している。
DNAの自然進化ではなくて、AIは、おそろしいスピードで自己進化する存在者になる可能性がある。作り出したのは、ニンゲンの手だ。
時空に果てがない。時間に境界がない。
(私)たちニンゲンは、他の宇宙をみることはない。
ニンゲンは、ほんのひととき、宇宙での生命をたのしんでいるだけの存在か?
想像力と思考実験。ビッグ・クエスチョンに胸おどらせる人もいれば、眼の前の快楽に、日々を楽しむ人もいる。(200億年後のビッグ・クランチは関係ないと)
ニンゲンは、好奇心の塊りである。スティーヴン・ホーキング亡き後も、誰かが、ビッグ・クエスチョンを考え続けなければならない。ホーキング博士、ありがとう!!

48.「銀の匙」
岩波文庫のロングセラーである。文庫本では、漱石の「こころ」と同じくらい、売れ続けている。中勘助の名前を知らない人もいるのに。市民のための「読者会」で、テキストに選び、読んでもらった。
20代、30代の方でも感動する作品であった。

49.「あれは誰を呼ぶ声」
内省と自己検証の時代に入った。何が?全共闘世代が。60年代の後半から70年代の半ばにかけて、全国の学園に吹きあれた学生運動に主体的に係わった若者たちが、もう古希に達して、自らの青春にかかげた夢と志と半世紀を生きのびた現実との相克を、語りはじめた。
小嵐九八郎のこの小説の舞台も、70年前後の、政治の時代である。二人の政治青年(早大生と日大生)と北海道から上京して、看護婦か保母になるための学校に通う女性の、三人の視点から描かれている。
羽田闘争、国際反戦デー、ベトナム戦争反対運動、東大・日大闘争、新宿騒乱事件、70年安保闘争、成田空港反対闘争、内ゲバ・連合赤軍事件、爆弾闘争(三菱重工爆破)あげれば切がないほどの事件や闘争が、ひとつの絵巻きもののように、小説に刻み込まれている。普通のどこにでもいる青年が、政治活動のセクトに入って、混沌とした時代を、思想を身につけ、行動し、時代の波を全身に受けて、流されていく。
三島由紀夫の割腹自殺、川端康成のガス自殺、野坂や五木の文学と、あらゆる風俗や事件が匂いたつように描かれる。そして、セクトの政治活動に疑問を抱き、脱退して、農業に生きる男と女になる。時代の空気がプンプン匂ってくる小説である。主人公たちは、決して、本気で革命のビジョンを抱き、政治活動をしたのではない。共産主義をの国をつくるとか、天皇制を廃止するとか、国のかたちを変えるとか、存在や意識の変容をめざすとか。
政治の季節が終わったのは、浅間での連合赤軍の事件や内ゲバの連続で、いわゆる、全共闘の普通の学生たちが”政治”から身を引き、企業戦士となりはじめた頃である。
三島由紀夫が最も嫌った”日常”何事も起きず、ただ、日々が流れ去る”日常”のセイカツに、青年立ちが重心を移しはじめたからだ。主人公と女性の農業によるセイカツがどうなったのか、残念ながら、この小説には書いていない。願わくば、ドストエフスキーの「悪霊」の政治青年たちのような思想を深化させる人物を、一人くらいは登場させてもらいたかった。存在革命を語る青年とか。
おそらく、この小説は、小嵐九八郎自身の、内省と人生の検証の総括であろう。

50.「この道」
おそらく、古井由吉・日本の小説家として最高の文体を確立した作家だと思う。”内向の世代”と呼ばれた作家たちの代表である。”政治”とは、ほぼ、無縁の小説。日常の不思議、存在そのものの不思議を、これほど見事に抽出してくれる作家は他にない。”思想”は文体の中にしかない。誰が書いているのか、エッセイか小説か随筆か、分野も見分けがたいコトバが、ひとつの意識という光源から放たれて、まるで、コトバ自体が生きもののように自己増殖していく小説である。古井さんには、もう、いわゆる小説を書く意識さえないようにも見える。しかし思わぬ告白の一行がひそんでいる。「自身、墓というものを持たぬことに定めている」と。心境の探化と徹底がある。まるで、小説かエッセイか評論かわからない。三島由紀夫の作品「太陽と鉄」を読んだ時と同じような、ココロの一番深いところにあるものに触れているコトバの感触がある。
小説のタイトルは「この道」である。古井由吉の「生」が、ある一点にむけて、静かに歩行している。(死)がひそんでいる。語り得ぬものへコトバがにじり寄っていく。もう、これ以上は、不可能だという地点まで。初期作品「円陣を組む女たち」や「杳子・妻隠」から愛読してきた古井由吉の作品である。まだ、誰も、到達したことのない、比類のない文体に触れて、ある種の感慨を禁じ得ない。古井さん、長生きして、コトバを私たちに下さい。

51.「明治の青春」
ヒトは、なぜ、「本」を書くという奇妙な衝動に身を委ねるのだろうか?声を他人に投げかけるため?いや、内なるもう一人の自分に語るため?形にならぬものに「本」という宇宙の形を与えるため?
猪股忠は、旧友である。大学の文学仲間である。同人誌「あくた」のメンバーであった。
まだ何者でもない、過剰な意識をかかえた青年たちが集って、同人誌「あくた」が歩みはじめた。文学青年、哲学青年、政治青年がいた。13号まで続いた「あくた」に、猪股忠は三つの作品を発表している。
①詩「古いノートから」(室生犀星風な抒情詩)(第三号)
②「『刺青』論考」(谷崎潤一郎論)力作80枚(第五号)
③小説「さい果て」中篇(第六号)
猪股忠は、東北・秋田の出身である。ショーペンハウエルやヤスパースやサルトルの哲学を読み、伊藤整の小説の方法論を読み、北国の孤独な抒情詩を書く、「文学青年」であった。早稲田大学で国文学を学ぶ。大学卒業後は、山形県の教員試験に合格して、約四十年、山形県内の高校教師(国語・古文)として、停年まで勤めあげた。
教師としてセイカツしてきた猪股忠が青春の原点に戻って、書いた作品が「明治の青春」である。(晩学のすすめ)
藤原正を中心軸として、山形出身の斎藤茂吉、阿部次郎、そして、一高の仲間たち、藤村操、安倍能成、岩波茂雄、魚住影雄の七人の「青春時代」を論じている。
本書は、644ページの大作である。猪股は、著書、資料、文献に細かく目を通して、七人の青春群像を描き出した。歌人、哲学者、経営者、教師と、大きな仕事をした者たちのまだ何者でもなかった「青春」の日々、交流、思索、苦悩、自殺(藤村操)と、もがき、あがくニンゲンの実像が浮かびあがってくる、労作である。
猪股は、自らの夢を、七人の夢に重ね合わせて、自らのココロを検証したかったのかもしれぬ。ドストエフスキーの小説の主人公は大半が「青年」である。何者かわからない、何を考えているかわからない、何をするかわからない。怪物のような存在「青年」である。
若き日の猪股の夢は①学問に縁のある職業につくこと ②自費出版でもいいから、一生に一冊は本を出したい、であった。
五年も七年もかけた、「本」が完成した。これが、猪股忠の「本」である。もう一人の猪股忠の貌が「本」の中にある。正に、夢は叶うものではなく、叶えるものである。
なお、本書は、発行者が猪股忠の自宅になっている。関心のある方は以下の住所に連絡して、購入し、じっくりと読んで、楽しんでいただきたい。
〒993-0075 山形県長井市成田3067-2 TEL・FAX:0238-84-6119 「猪股忠」宛
定価2,800円