Archive for ◊ 10月, 2012 ◊

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• 金曜日, 10月 19th, 2012
2401. 瑜伽・瞑想は、ポラーニーの暗黙知・ニンゲンのアーラヤ識から湧きあがる、無・意識に眠る、潜在能力を発見する手法である。
2402. 一切は(私)の中に在る。(私)が(私)を生み続ける。で?(私)は宇宙である、と。
2403. (私)とは、他者であり、他者とは宇宙である。
2404. 父と母から生まれてくる(私)は、「天然人間」である。髪の毛や指の細胞から生れてくる(私)は、(私)を生み、その(私)が私を生み、父や母という存在をなくしてしまった「人工人間」である。病いも、老いも、死をも、消し去って、(神の手)を退けてしまう。
2405. 耳がない。3.11の死者たちの声を聞く耳が足りない。
2406. 眼がない。3.11の死者たちを見る眼が足りない。
2407. いい耳を育てたい。いい眼を育てたい。
2408. 一人で来たから一人で行くよ。一緒は、楽しい夢だったけど。
2409. なにもかにも、普通であった。その普通が一番の不思議であったが。
2410. 異次元に投げたコトバは、異次元から来たコトバは、いわゆる言葉の文法と意味を失うか、反転をする。だから、声でも、文字でもない。しかし、コトバである。
2411. 限りない分裂と増殖で、億、兆となって、(私)が来る。つまり、(私)は大日如来であるという秘密の蔵を開く、鍵が、コトバである。
2412. 無為のうちに、一日が溶けてしまう。
2413. 人生に、大欠伸をして、あーあ、しんど。
2414. 非・精神。非・物質。非時空。
2415. 何度も、何度も、出発をしたのに、いつまでも、今、ここに起っている!!
2416. 平成の世を徒然する。水平に、垂直に。
2417. 精神が限界に達すると、胃のコトバに、腸のコトバ、原初の単細胞の声。
2418. 空地で、”猫じゃらし”が風に揺れている。
2419. 土に還る、土葬。空に還る、火葬。分解の王国への旅立ちである。
2420. 子供たちが、夏の光に感応して、自然に、発光しておる。
2421. 快楽から大欲へ。
2422. はるかな、悠久の旅人である、この(私)を、限定された(昨日、今日、明日)という時空に閉じ込めて、生きている、ニンゲンである。目標を、見失うのは、当然である。
2423. 存在がみる夢は、すべて、現実に、実現しなければならぬ。
2424. 「輪廻転生」を信じなくなった現代人も、なぜ、億兆の原子や素粒子が、集って(私)を創るのか、を、説明できない。
2425. ニンゲンになった人間。さて、ニンゲンは、次のステップで、どんな存在になろうとしているのか?(ニンゲン=生死)というコンセプトの破壊と創造が、次なるXを決定するだろう。
2426. 存在を透視する眼、無限遠点からの視点を、完全に獲得した時、(我・宇宙なり)と叫ぶだろう。
2427. まだ、まだ、ニンゲンのレベルは低いものだ。矛盾を解決する手法も知らない。知、理性の外の法則。
2428. 存在としてのニンゲンの、「安心」を語ったのが、釈尊である。つまり、目覚めた人、悟った人。二千五百年の歴史の中で「仏陀」になったのは、たった一人、釈尊のみであるという、驚愕。
2429. そうか、「復活」したのも、イエス・キリスト唯一人である。
2430. 単なる、日常を、生活を、生きるだけが生きることではない。ニンゲンは、もっと、多様に、多重に生きている存在である。眼に見えぬ、透明な、異次元にも、遍在して生きているのだ。さて、信じられるか?
2431. 科学の(知)には、必ず、光と影がある。「原発」、夢の、希望のクリーンなエネルギーには、人間の、コントロールできぬ、10万年の放射能の汚染があった。さて、夢の「万能細胞」=iPS細胞の作製も、光と影を、考え尽くして、光の「病」の治療とは、別の、影をも、熟考しておかねばなるまいって。
2432. 薬を作ろうとしても、毒を作ってしまうこともある。病いを治療しようとして、怪物を生み出さなければいいが。
2433. ニンゲンは、宇宙の中で、自分が何をしているのか、その「真」を知ることができるのだろうか?それとも、「人間同志」の中でのみ意味のある、価値だけを信じて、ただ、生きればそれでよいのだろうか?
2434. 科学の(知)の時代であるからこそ、もう一度、宗教の(知慧)を考え直してみる必要がある。
2435. 「原発事故」は、ニンゲンの「生と死」の意味を、根本から、考え直す、いい機会であった。今、「万能細胞」の作製は、更に、もっと深い、「生・老・病・死」を考えさせる、存在の問題を、提起した。
2436. 生死が終っても、なお(私)は存在する。問題は、その形である。
2437. (考える)は宇宙にとって、何だろうか?
2438. ニンゲンは、無限の一歩手前までの実数を数えられるか?もちろん、不可能である。だから(無限マイナスⅠ)とする。
2439. あとどのくらい(私)という状態を続けられるか、わからない。だからこそ、現象として、実現を、ただ生きるのだ。如実知自心。
2440. 有も生きる。無も生きる。どちらも(私)の中にあるから。
2441. (私)が、空の空なら、もう、これ以上、存在に、固執することもあるまい。
2442. 時空は(私)だから、(私)は、宇宙である。1である。すべてである。
2443. 3.11日に生起した痙攣は、それ以降(私)の中で止むことがない。
2444. 意識が、これ以上は、耐えられぬ、もう限界である、と(私)を放棄した時に、走った痙攣は、(私)の中の暗闇に、存在し続けている。
2445. 頭痛、吐き気、乱反射する光、わかっている、その震源は、闇の中の痙攣にある。
2446. 死者たちの、中にも、眠っている痙攣があるだろう。
2447. 生と死を同時に、駈け抜けたのも、痙攣である。
2448. 泡を吹き、卒倒して、痙攣しているものを、見て、気絶する少女がいた。
2449. ニンゲンには、ふたつのタイプがある。(私)は、私自身から起ちあがる、と考える、(思考)中心の人と、(私)は、私以外の、他のものから、成立し、構成されている、と考える(身体)中心の人である。
2450. 意識は、思考ばかりではなくて、存在そのものをも、分解してしまう。
2451. 身体と精神を止揚するために、瑜伽(ヨーガ)・瞑想が用いられるが、観想は、異次元での、<身体もなし、精神もなし>の実現である。つまりは(無我)であり、(無法)である境地。
2452. 瞬間という場に、花が咲いた。存在という謎を形にして。
2453. 銀河も素粒子も、その顕現は、時間の、空間の、ひとつの結婚状態である。
2454. 存在へと至ろうとして、アーラヤ識から種子が吹きあげてくる無数劫の種子たちが、たったひとつの花を形象化させるために。
2455. 気がつくと、(私)のアフォリズムは、いつのまにか、メタ・メッセージになっている。
2456. (考える)のでもなく、(書く)のでもなく、ただ、勝手に来たものを、手が、動いて、コトバを、文字として写している。妙な行為である。
2457. しかし、なぜ、来たのもが、コトバになるのか、(私)自身も、実は、知らないのだ。
2458. 歩くと(私)が揺れる。その揺れの中から、ポツー、ポツーと、湧きあがって来るものがある。(私)はソレを捉えて、ただ書き記している。
2459. どだい、神のコトバなど、ニンゲンにわかるはずがない。しかし。ソレが、ニンゲンのコトバに、翻訳(?)されている不思議。
2460. 生命は、来たものを、生命という流れの中に、見事に取り込んで、生命自体にしてしまうから、驚愕である。
2461. (私)は、毎日毎日、あらゆるものと共振れしてすべてに、名前を与えて、闇の中のものを、光の中に、存在させている。
2462. 「四六時中、頭が痛い、眼の底に光が飛ぶ。」3.11の被災者の声である。「いったい、どうして、こんなことになってしまったのか?」医学も医者も、応えられない。あの日から、まだ、身体も心も、揺れ続けている。
2463. 日常に、軟着陸できないまま、とりあえず、仮設住宅で、宙吊りにされている。宙には、揺れと黒い水と放射能がある。
2464. 漱石の「則天去私」神話も、釈尊の「諸法無我」に比べてみると、そのスケールのちがいに、呆然とする。(私)と(仏)のいる時空の差異である。
2465. 目覚めた者、覚醒した者は、どれだけのことに耐えているのか、その我慢の幅を考えると、気が遠くなる、やはり、ニンゲンには、到達できない。仏の境地である。
2466. 仏になる、往生する、現代人は、もう、そのことを信じられまい。
2467. 勝義、行願、三昧地が、仏になる道であると、師資相承された密教である。信仰とは、それを実行することである。(信)は、跳ばなければ、わからない。
2468. 文学は、科学や宗教という杖をついてはいけない。もちろん、政治は、杖にもならない。
2469. 考えるように在る人と、動きがそのままその人である人と。
2470. コトバで生きる人は、沈黙の重さを一番知っている。
2471. 論破できるのは、語る人に対してだ。沈黙する者は、畏怖である。
2472. 「汝自身を知れ」西洋の哲学者。「如実知自心」東洋の仏教者。空海は、見事に、「自心の源底」に至ってしまった。それから、千二百余年の時が流れたが、いったい、何人が、そこに至ったか。進歩も、進化も、虚ろなものだ。
2473. 青年は、正しく想像していても、夢想していると見られるものだ。いや、狂想と思われることもあろう。発見も、発明も、想像も、煮えたぎる青年のパッションから生れるのは、歴史が証明しているのに。
2474. 何を考えだすものやら、何をしでかすものやら、わからないから、青年である。幻想も、夢想も、狂想も、その果てまで、歩いてみるのが、正しく、青年の熱情である。
2475. 夢想する大人、老人とは、悪いジョークであろう。いつまでも、好奇心の衰えぬ、老人は、青年の魂の火を消し去らぬ人だ。
2476. 日々、面白くない、うっとうしい、億劫だと思いはじめたら、(生きる)から(死ぬ)へと、意識的に(私)を転回させてみることだ。モノもコトも、まるで、別の貌を見せてくれる。
2477. 草木も、生きる眼には平凡でも、死ぬ眼には、必ず美しく、固有に見えてくる。さて、末期の眼には、何が見えるか?何が写るか?一回限りの、愉しみである。
2478. 光には光のコトバを。石には石のコトバを、あてがう。もちろん、死者たちには、仏のコトバを。
2479. アーラヤ識から吹きあがってくるコトバは、仏のコトバ同様、異界の声である。決して、ニンゲンの声ではない。
2480. モノがわかる。コトがわかる。わかり合えるというシステムそのものが驚愕である。
2481. 無関心は、ニンゲンの特徴であるが、無関係はない。一切が、関係の絶対性のもとにある。それを、因と言っても、縁と呼んでもいいが。
2482. 毎日毎日、夏の光に、無限を見ておる。飽きるということがない。
2483. 光に感応すると、一瞬は永遠になり、(私)はあらゆる時空に遍在する。愉楽である。畏怖である。
2484. 砂粒が語りはじめるまで、どれだけの時間が流れたか。億、兆、京、石、無限の一歩手前で、石は語る。
2485. わが宇宙は137億歳だというが、他の無数の宇宙たちには、無限の時間が流れておる。”無数劫”の時間が。
2486. どうやら、夏は、頭の廻り方がちがうらしい。意識が、妙なところへと、飛んでしまう。眼も、いつもとちがうものを、見てしまう。光と熱のせいだ。
2487. 頭の回転が遅くなるとか、鈍くなるとかそんな話ではない。春や秋には、とても、考えない、そんなところで、頭が働いてしまう。もちろん(私)は、特別な工夫をしていない。
2488. ある日、ある場所で、一人の子供が叫んだ。「ボク。セシウムもプルトニウムもストロンチームも、みんな見えるよ」母らしき女が言った。「いいかい、絶対、他人の前で、そんなこと言ったらダメだよ、新らしい、もうひとつの眼が誕生したなんて」
2489. 光と影の間を、白昼、夢魔が疾走する。
2489. モノでもない、風の形でもない、見えているのは、遠い昔の、(私)の分身である。
2490. 眩暈がして、振り返ると、風景が、白紙だった。これも、夏の光のせいだ。
2491. 光が音になった。空耳ではない。
2492. 木々の緑が、煮えたぎって、黝んで見える。(私)は、緑を見ていない。
2493. 足場が定まらぬ。どうやら、宙吊りになって、歩いている。
2494. 長い間、四十年も、随分と他人の話を聞いてきたが、気が付けば、(聞く)ということも、(私)にとっては、ひとつの表現の方法であった。
2495. (話す)は(聞く)がなければ、成立しない。いい聞き手になることは、大変むつかしいことではあるが、(入我我入)の関係であろう。
2496. (歩く)は、なぜ、(考える)と結びつくのだろう。モノに会う、モノに衝突するが、(歩く)である。(考える)は、会う、衝突する時、飛び散る火花である。本気で、モノを考える時、人は、必ず、モノに出会い、衝突をしておる。(考える)の本質は、歩行にある因縁だ。
2497. 一人の身体は、一人の身体の場を占める。一人の精神も、一人の精神の場を占める。その存在が脅かされる時、反乱が生れる。
2498. 家、土地、会社、国家、領土、境界では、いつも、(場)の紛争が生じる。身体と精神の延長がそれらであるから。
2499. 宇宙視線には、境界・国境がない。あるのは、地球と宇宙の境界である。で、宇宙人と宇宙場との、紛争が待っている。
2500. 読むことは、時空を歩くことである。しかし、長い人類史で、耳に至福のコトバを、誰が語ったか?何人が語れたか?おそらく、両手の指で足りる人数であろう。
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• 水曜日, 10月 10th, 2012

ニンゲンには、
光に”無限”を直観して、感受する、心的な力がある。(永遠、聖なるもの、畏怖すべきもの)
また、神、仏に感応する、神的な力もある。仏像は、イコンは、(信)という力でもって、神や仏へと、異次元へと跳ぶための、ひとつの仮の形、表徴であろうか。(眼に見えぬものを見るために)

眼に見えない、放射能、素粒子・ヒッグス粒子と、眼に見えない、神や仏と、いったい、何が、どのようにちがうのだろうか?
素粒子は、理論で、数式で、実験で、科学の(知)が証明したものである。
眼に見えない、神や仏は、信じるという(信)の力で証明するものである。
(考える)と(信じる)は、同じコトバというものであるが、その、位相と意味が異なる。哲学、科学の(知)と、宗教の(信)

阿弥陀三尊像(京都・三千院)

光。今も昔も、光は、人間を魅了して止まない。太陽の、月の、2000億個の銀河の、2000億個の恒星の、無限遠点から来る、光という宇宙からの音信に魅惑されて、それを読み解きたいと思う。宇宙は、読み解くための巨大な本であり、光は、その中心にある存在である。
光の光子は、1かと思えば2になり、計測しようとすると、2が1になる、正に、量子論的な存在である。

阿弥陀如来は、無限の光を放つ仏である。宗教にとって、光は、聖なるもの、崇高なるものの象徴として欠かせない。聖書でも、天地創造のはじめに、神が、光あれと言えば、光があらわれた。
仏教でも、光は、さまざまな役割りを果たす、聖なる存在である。

「阿弥陀」
「大乗仏教における最も重要な仏の一つ。<阿弥陀仏><阿弥陀如来>と呼び、略して<弥陀>ともいう。」(仏教辞典)
「[原語と訳語] サンスクリット原名は二つあり、Amitaayusは、<無限の寿命をもつもの、無量寿>Amitaabhaは<無限の光明をもつもの、無量光の意味で、どちらも<阿弥陀>と音写された。」(仏教辞典)

光という語を、その名前に冠した仏、阿弥陀は、インドで誕生したが、太陽神、アラーの神の影響を受けたという説もある。
光り輝く阿弥陀は、西方の、極楽浄土・光の国に棲んでいる仏である。

平安末期から鎌倉時代にかけて、末法思想が浸透して、人々は、戦乱、飢餓、病い、大地震、大津波の現世を厭い、極楽浄土へ往生することを願い、阿弥陀に救いを求めた。
阿弥陀は、四十八の本願を立て、その中でも、十八願は、一切の象生は、阿弥陀の名を唱えるだけで、往生できる、それまでは、菩薩から悟りをひらいた如来にはならぬと約束を誓った。

和歌山の、補陀落渡海は、舟に乗って、西方の極楽浄土をめざす信仰であった。僧たちは、浄土をめざした。飲みもの食べものもなく、舟に乗って、泣く泣く、海へ、西方へ、浄土を願って、漕ぎ出した。光の国を求めて。
現世は、苦であり、闇の世界である。浄土思想は、光を放する仏、阿弥陀のいる、極楽浄土で救われたいという、他力本願の思想である。

ただ、ひたすら、南無阿弥陀仏の六文字を唱えれば、往生できるという、実に、シンプルな思想は、法然、親鸞の出現で、頂点をむかえた。
空海の、真言の、三密の、深遠な、哲学的宗教思想は、天皇、貴族の知識人の心を捉えたが、浄土教、浄土真宗は、武士、庶民、大衆の心を魅了した。

京都の、山間の、大原の地に「三千院」がある。歩いて、約三十分ほどの「寂光院」とともに、日本人に人気のある、天台宗の古刹である。
青不動で有名な青蓮院・妙法寺とともに、延暦寺の三門跡のひとつである「三千院」には、阿弥陀三尊像が設置されている。
阿弥陀三尊像が安置されている極楽院本堂は、平安時代の遺構で、まるで、舟底型のように、灰暗くて、狭い。
二十歳の頃から、春、夏、秋、冬と、桜、青葉、紅葉、雪の風景を楽しみながら、四度ばかり訪寺をした。
渡来人の仏師たちが伝えた、シンプルな飛鳥の仏たち、飾りの増えた白鳳の仏たち、仏像の様式、技術が爛熟とした天平の仏たち、男性的で、神秘的な、空海の時代、平安前期の仏たち、そして、終に、日本風な、オリジナルの仏たちの出現した、藤原時代。日本の、定朝、運慶と、仏師たちも、大和風な、<美>の世界を表現した。

「阿弥陀三尊像」(1148年)

結跏趺坐、印は、定印ではなく、右手をあげ、左手を膝の上に置いた、来迎印。背景には、金色の十三仏と十三仏種子、顔は、いつもおだやかで、半眼、瞑想、三味地に入ったかのようで、親しみのあるリアリズム。光を放つ白毫が、額に確と刻まれている。
脇侍は、膝を折り曲げ、手に蓮台を持ち、宙を飛んでいるように、前傾姿勢である、観音菩薩。同じく、同じ姿勢で、合掌印をつくり、蓮の台座の上に坐っている勢至菩薩。
二つの仏の特徴は、光を放射する、光円と光条があることだ。

仏たちの、
光を放つ、光を発するものに、白毫がある。頭光がある。眼がある。毛穴がある。舌の根がある。(長舌相)
光は、三千大千世界を照らしだして、正しく完全な悟りに(無上等正覚)導くためのものである。光は、五色の糸(紙)でも表現される。象生は、何もしなくても、仏たちを拝って、光を浴び、南無阿弥陀仏を唱えればいいのである。
十三観に「日想観」がある。太陽、光をイメージする瞑想である。
光は、力、エネルギーである。仏たちは、光を放つ。あるいは、瞑想の中で、仏を胸にして、光を放ち、本当の仏を、光の手で、捉えるという手法もある。
光は、山と日常を、天と地を、結ぶ、降臨する光、昇天する光、あらゆる境界を、結びつけるのが(光)である。

文学にも、見事に、(光)を表現した作品がある。
「ひかりごけ」(武田泰淳作)である。
テーマは、「難破船長人喰事件」だ。戦時中、軍の船、清神丸(乗組員7名)が、嵐で漂流、難破、洞窟のある、無人島に上陸。何も食べるものがなくて、仲間たち、人間を食べあい、最後に、船長が生き残る話。
羅臼の村で、地元の校長先生に、ひかりごけを見るために、ある洞窟に案内される話。戯曲として、生き残った、船長他三人が、人肉を食べる場面。船長が裁判所で、裁きを受ける場面、の三部構成。人間の肉を食べた者には、頭の後に、光の輪ができる。人肉を食べた人には見えないが、罪を犯していない人には見える。その光が、植物の放つ、ひかりごけの光に似ているのだ。

人間の原罪を考える作品である。裁判長も、検事も、弁護士も、その光が見えないという。船長は、もっと見てくれ、あなたたちは、食べていないのだから、俺の頭の後にある、光の輪を見てくれと叫ぶ。
実は、傍聴人たちにも、見えない。武田泰淳は、実は、読者にも、見てくれ、と叫んでいる。
”我慢”あらゆる我慢をして生きている船長の思想に、普通に生きている、と思っている人々は、どう応えるか。サルトルの「嘔吐」よりも、更に、深い、東洋の思想を、「ひかりごけ」は、表現している。
実は、泰淳は、お寺の生まれで、得度している。僧でありながら、共産主義に加担した。兄は、浄土宗の高僧である。

「光は、まだまだ謎である。

アミダブツよ、
3.11の被災地に
光の慈雨を
降らせてよ!!

※最高の光は、大日如来、法身であった。 H24.8

(高野山大学大学院レポート)