Archive for ◊ 3月, 2011 ◊

Author:
• 水曜日, 3月 09th, 2011

どうやら、(私)は、「無限」へと「私」を開くことは可能か?そんなふうな、不可能とも思えるようなことを、アラカワをめぐって、新幹線での約4時間の間、考えていたらしい。

「人間原理」から「宇宙原理」へと吹きぬけてしまう、風の姿を、思い描こうとしていた。それを、(私)は、「無限開私」と呼んでみようと思っている。人は、誰でも、「無限」を感じている。

さて、津山市への、各駅停車の、約1時間の旅である。(私)は、(現実)へと戻った。野に菊の花が揺れていた。JR岡山駅に出て、10分も走ると、もう、山々が、眼の前に迫ってきて、街のビルや家並が遮切れて、突然、なつかしい、昔の、日本の、農村の気配が、窓の外に、ゆっくりと、ゆっくりと、流れはじめた。

電車が停る度に、駅名を読みあげて、長い、歴史という時間を、背負っている名前にも、日本の、古い時代の、気配を感じて、妙に、感動をした。名前が、風土の、風景の中に生きている。およそ、「便利」という名前の現代とは、似ても似つかない。裸の、ニンゲンの眼と耳にやさしいものである、と思った。

点在する家々、木々の蔭に、斜面に、田園に、川の両側に、道端に、地方の、固有の貌をもった、建築があった。都市の、サラリーマンの、紋切り型の家ではなくて、長い伝統に支えられて、土地の風と雨と光と冷暖に合致した、根を張った、力強い家々が眼を魅いた。

家は、ニンゲンの身体そのものである。カタツムリで云えば、身を隠す、身を守る殻である。機能ばかりを重視する都市のビルではなくて、ニンゲンそのものを育くむのが、家であった。

そう言えば、アラカワは、建築と建物を区別していた。「日本には一人も、建築家がいない」と豪語していた。「家」は、建物ではない。ニンゲンを育てるもの自体だ。いわば、カタツムリの殻である。建築するとは、そのカタツムリの殻を、創造する行為である。おそらく、アラカワは、そう考えていたのだろう。単に、雨風を防ぐものではなく、寝るための、慰うための、食べるための(家)でなくて、ニンゲンそのものを、創りあげる(場)=(装置)としての、(家)が、建築と呼ばれるに、ふさわしい、と。

山は、わずかに、紅葉していた。電車は、小さな山、中くらいの山、大きな山を、めぐって、川の左を、川の右を、縫うようにして、ゆっくりと、風景を歩くように、進んでいくのだった。身構えていた身体がほぐれて、(私)は、ゆっくりと、心の、深い層の下へと、入ってゆき、感性は、開かれて、風景に、感応しはじめていた。

正に、これが、旅であった。乗客の顔も、都市の、無表情の、殻の中の、閉じたものではなくて、その土地に、根付いて、セイカツをしているニンゲンの顔をしていた。何時の頃から、日本人は、固有の顔を失なって、”他人の顔”のような、無表情を、身につけてしまったのだろう。(私)自身も、都市では、おそらく、”他人の顔”で生きているのだろう。長い間の習慣で。

津山市は、四方を山に囲まれた、盆地の街であった。人口は、県内で岡山市、倉敷市に次いで、三番目に多い市である。海に向けて、開かれた、岡山市、倉敷市とはちがって、京都を思わせる、盆地の城下町であった。

JR津山駅で下車。友人Tと、Kホテルで、待ち合わせの約束。秋の陽が、西の空に、傾いてはいたが、タクシーを止めて、見物がてらに、歩いてみた。足で街を知りたかった。

どこの地方都市でも、同じ現象が起こっているが、津山市も、その例外ではなくて、駅前の賑わったであろう商店街も、シャッターの下りた店が眼について、人通りもなく、閑散として、テレビで、全国に、名前を売った、B級グルメの”ホルモンうどん”の看板が、秋の陽を浴びて、光っていた。

地図を頼りに、商店街をぬけると、大きな橋が架かっていた。堂々とした橋であった。陽が沈む西の山のあたりから、街の中央を二分するように、川が流れていた。河岸には、ウォーキングコースが、綺麗に整備されていて、犬を連れた人、歩く人の姿が眼についた。

川の中に、中洲というか、小さな柳の木の一群があって、透明な水に洗われていた。秋の白い風が水辺から橋上に吹きあげてきた。右手には、津山城が、夕陽を浴びて、静かに、佇んでいた。お城のある街の風景には、芯があって、統一というのか、象徴というのか、垂直に流れる時間が、透けて見えて、いつも、魅惑されてしまう。深呼吸をひとつ、空気がおいしい。携帯電話で、Kホテルを呼びだして、ホテルの位置を確認をして、橋を渡り切ると、街の中心街の、閉じたシャッターの多さに、地域社会の没落を思いながら、足に任せて、歩き続けた。

ホテルに着くと、友人Tが、ロビーで、手をあげて、合図を送ってきた。不思議なもので、友人Tは、自分の生れ故郷にいるためか、いつも、都市で見ていた、身にまとっている雰囲気とは別の、妙に、落着いた、安心した気配に包まれていた。

「遅かったな、タクシーなら、5分とかからないのに」
「いや、歩いてきたよ」
「そんな事だろうと思ったよ」

ホテルの手続きが終って、夜の、薄闇の降りはじめた街へ、と思案をしていると、偶然、友人Tの、高校時代の同級生が現れて、ゴルフが終って、これから、打ち上げだと、挨拶をした。地元に残って、商工会の、役員をしていると言う。ホテルで、呑み食いすると、東京に居るのと変わらないから、津山の、地元らしい、食材のある店を紹介してもらった。

40年前、Tにも、地元に残って、市役所に入るか、都市生活者になるか、大きな、決断の、分岐点があったのだ。で、Tは、都市・東京を選択し、40年という時間が流れた。

秋の、夜の、津山の街を、Tに誘われて、歩いた。元県庁の庁舎、木造の三階建ての旅館、料亭、路地には、ひと昔前の、古びた家々が、静かに、古風に、息づいていた。昔の、賑わいの中心地も、祭日というのに、風が通りぬけるだけで、人影は、まばらで、随分と、淋しく、錆れてしまったと、昔の家族連れと、宴会の、盛りを、記憶の中から、取り出すような、Tの説明に、うん、うん、どこも、そうだったあねと、頷きながら、城下の街を散策した。

身土不二という言葉がある。その季節に採れた、地元のものを、食べる、それが、身体には一番、適っているという思想だ。赤い堤灯が風に揺れる、古びた木造の二階建ての、居酒屋が、Tの友人に、教わった店であった。焼鳥専門の店であったが、特別に、”ホルモン焼き”が美味しいと言うので、店員さんのすすめるままに、注文し、地酒をもらった。

”なぜ、荒川修作なんだ”と旅の目標を訊かれて、まあ、気ちがいか天才か、わからないほど、面白そうな男だから、しばらくは、探求してみるよと、アラカワの、「天命反転」を語ってみた。逆に、なぜ、岡山の、田舎の、山の中の、小さな町に、荒川修作だいと訪ねてみると、自衛隊の基地があって、財政が豊かで、歌舞伎の伝統があったり、文化・芸術に熱心な人がいて、一種の”町おこし”じゃないのということであった。

アラカワを受け入れ、美術館を造るには、町長も、議会も、相当の、覚悟が必要であったろうと、推測した。独りで、津山に居る母を、関東の都市へと、連れていって、生活を共にするという話から、学生時代の、文学と、無類の、セイカツから、長い、長い、出版界での仕事から、気の置けない仲間だけの話題まで、語りはじめると、終りがない。

で、どうする、これから、何をして生きる?酒の、軽い、酔いの中で、お互いの顔を覗き込んで、二人だけの酒宴は終った。明日は、奈義である。