Archive for ◊ 11月, 2010 ◊

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• 火曜日, 11月 02nd, 2010
1301. 耳を育てる。「耳順」に至るまで。
1302. 思考のキメイラが、次から次へと、(私)の中から起ちあがってくる。
1303. 見るけれども見えず、聞くけれども聞こえず、もう一度、眼と耳を洗濯せねば。風が吹くまで。
1304. 衰弱した、劣化した、言葉ばかりが入り乱れている。もっと、空気を。もっと、熱情を。
1305. 断念の中にこそ、火が燃え盛っている。静かな火が。
1306. 言葉を上手に使用する人は、正しく、ものを考えられる人だ。
1307. 問いに対しては、決して答えない。いつも、沈黙で応える。
1308. (知)もいらぬ、(意味)もいらぬ、ただ(在る)だけで生きている人がいる。
1309. 「このことは、秘密だ、絶対に、他人には言わないように」約束は、いつも破られてしまうのに。
1310. ここは何処?いまは何時と言った(少年)が(私)の中に棲み続けている。
1311. ニンゲンは、正しく考えることも、誤って考えることも可能である。(自然法則は、たったひとつだ)ニンゲンの自由度には、幅がある。
1312. 「経験」の総体としての(私)が考える、「存在」としての(私)が考える、どちらが(普遍)に至るか、わかるだろう。
1313. 科学は、(私)は考える、を説明できない。考えるという自由。
1314. ニンゲンを見る。男を見る。女を見る。まったく、別のものを見てしまう眼がある。
1315. (私)は、私だけのものではない。誰が(私)を所有できる?(私)をはみだしてしまう(私)を。
1316. 「嘘も方便」という東洋人(ひと)。「あらゆる嘘は罪だ」という西洋人(ひと)。原理はどちらにある?生きやすいのはどちら?
1317. 幸福は、一人一人、ちがうものだ。ゆえに、国、総理が、「最小不幸社会」をめざすというのは、誤りである。他人も、社会も、国も(私)の幸福は決められない。
1318. あらゆる問いに、長い、長い、沈黙の後で、(無)という答えがあった。寒い、凍りついた。
1319. すべての、音信が無化される。淋しいね、畏ろしいね。宇宙よ。
1320. もう、他人には問うてはならぬ。随分と、生きてきただろうが。答えは、必ず、生きてきた経験の中にある。
1321. 問いを宙吊りにして放り出してしまった者(ヤツ)。それも、答えのひとつか。
1322. (私)から発する声には限りがある。やはり、来るものを待たねばならない。
1323. 群れで生きている限りは、ニンゲンは、いつでも、他人に足を踏まれたり、他人の足を踏んだりと、良心の痛む生存競走を強いられる。(罪)のない人はいない。誰も、(罪)なくしては、存在できない。
1324. 秋、歩いていると、花や風に心を煽られる。人に、感動することは、実に少ないが。死者たちの声だけか。
1325. 書いても、書かなくても、知っても、知らなくても、生きてみれば、結局、同じことか。いや、ちがう。
1326. 浅くても、深くても、生きられる。横へ、横へ、垂直にも。
1327. 錐の穴、鍵の穴、水の穴、ブラックホール・星の穴、孤独の穴。
1328. 正体丸だしの、哀れなこと、もう、逃げ場がない。
1329. 肉体の殻、精神の殻、破れやすいのはどちらだ?
1330. 生き急いでいる、片をつけようとして。のっぺらぼうを相手に。
1331. 触る他人の手がない場合には、右手で左手を触る。
1332. いつも、(私)の中に(貧)を飼っておくこと。
1333. 衝突ばかりしている。たまには、握手してみろよ、私の(私)と。
1334. 慣れることがない、いつまでたっても。足の裏のヒリヒリ。
1335. 移動に次ぐ移動である。仕方がないか、時からは逃れられない。全身を摑まれているから。
1336. 最後の問いが発せられるとすれば、さて、(私)は、何と、言うだろうか。やはり、(私)は何処にいた、(私)は何処へ行く?か。
1337. まだ、(私)が一人であるのか、(私)(私)の二人であるのか、勝手に、決めないでくれ。あなたには、見えるのか?さあ、握手してみろ(私)と。
1338. まだ、(私)の中から、何がでてくるか、わからないのに、あなたと、(私)を同じニンゲンだと、決めないでくれ。さあ、(私)を叩いてみろ、どんな音がするか、とあの人は言った。
1339. 何かを作ることが、大事なのではない。(私)が何になるのか、それが問題だ。
1340. (私)であると断言できる人は、幸せだ。宙吊りに気がついて、迷わなければ。
1341. 情報のイン・プットと情報のアウト・プット。やれやれ、ブラック・ボックスを見てもいないのに。
1342. いつも、存在へと着地しているはずだが、今日に限って、影の上にいるようで。
1343. 秋の風が吹いた。青空に光子が踊っている。眼が歩きはじめた。高い、高い空へと。
1344. 本当に、時間に(量)などあるのだろうか?勝手に、ニンゲンの物差しで計って。
1345. 普通に生きていると、意識に(死)は訪れない。生きる、生きる、生きるばかりだ。
1346. (感覚)は、実にあいまいだ。同じように視覚も、実にあいまいだ。ならば、混乱し、麻痺する感覚の中に、(真)を求められるわけがない。見ることは、何か、わからないものになることだから。それでは、生きて、生活できないから、視たものを(現実)と、仮に呼ぶのだ。理性で。
1347. 曼茶羅の製作に熱中した空海も、ダイアグラムの制作に熱中したアラカワも、人々に、眩暈を起こさせて、ここにいながら彼方へと連れていくのだ。空海の、アラカワの、イデアの中へ。
1348. (私)に揺さぶりをかけてみる。全感覚が狂ってしまうほどの。何が、出現する?新しい(私)だ。
1349. 文章のリアリティとは、不思議なものだ。その人が、生きたように、考えたように、立ちあがってくる。呼吸だ。
1350. (私)は、文章になろうとしている、いや、いつも、文章の外に立っているので、いくら(私)を描いても、(私)は、どこにも、見あたらない。では。文章になってしまったのは、誰だ?
1351. (私)を書くことは、不可能だよ、と、文章の外に立っている(私)は、言い続けているのに、いつものまにか、文章の(私)は、私に似てきた。
1352. どこにもない場所から声が響いてくる。耳は何をしている?耳は、本当に聞いているのか?
1353. 響きあって、揺れながら、揺れながら、いつのまにか、音のない音になってしまったから。
1354. 眼、見ているだけで、考えない。しかし、考える人を、凝っと見ている。宇宙に、眼。
1355. どうも、(私)のいる、時空が落着かない。彼方にもいて、ここにもいて。しかも、同時に。
1356. 義理をそのまま、実人生で実践する、すると、必ず、躓いてしまう。転びかたも、発見への入口である。
1357. もう、仕方がない、ずっと時間が流れていたから。さあ、行こうよ。
1358. 心配で、心配で、心配の種子をかかえ続けるのが母であるらしい。老いた母を見て。
1359. 終日、兼好の声と(私)の声が響きあっている。700年の時を超えて。もう親友だ。
1360. 原子爆弾に次ぐ、大きな、大きな、爆弾でなければよいが、万能細胞よ。科学は、いつも、危険と背中合わせだから。
1361. 1.(私) 2.あなた 3. 彼等、彼女等。数の原理はこのように、出発したのか。そして、10本の指から。
1362. 論理で考える人、直観で考える人、形式で考える人、いづれにせよ、(考える)手法を選ばねば、考えられまい。
1363. 心は、一生、泡立ったままであるから、死んだ時くらいは、魂は、鎮まってほしいものだ。
1364. 四苦八苦の生涯だから、息が切れたら、苦痛も痛みも、きれいに、消えてほしい。浄化されるためにこそ、ニンゲンは祈るのだ。
1365. いい詩人たちは、若くして死ぬ。高齢者になると、高齢者の詩も読みたい。どこにも、まだ、読む詩がみつからない。
1366. ニンゲン、急に、あり余る自由を与えられると、必ず頼むから、命令してくれ、束縛してくれ、と叫ぶに決まっている。自由は、不自由でもあるから。
1367. 場を奪われると、植え変えられた庭木のように、枯れてしまう、種族(タイプ)がいるものだ。もとの、水と、土と、空気が欲しいのだ。
1369. なぜ、自ら、書かなかったのか!!孔子よ、釈迦よ、ソクラテスよ、イエス・キリストよ、声の時代は、声を放つことが、真剣勝負であったのか。弟子たちばかりが、書いている秘密がある。
1369. 声に感応するニンゲンの時代よ、来い。
1370. 単純に、視界が広がって、空が大きく見える場所で、心も、大きく、呼吸してしまう。
1371. 放心から凝視へ。時の淵に佇んで。
1372. 風景が壊れる。(私)の宇宙が。見ていたのは、いったい、何だったのか?
1373. 風景を眺める、末期の眼には、みな、美し。
1374. まだ、まだ、来る、来る、問題の束が、(私)に襲いかかってくる。生きているから。
1375. 「空(カラ)」にしておけばいいものを、なかなか人は、(私)を「空(カラ)」にしておけない。我楽多で埋めてしまう。
1376. 放っておけば、自然に、モノを考えるようになる。熱がでるように。深く、強い必要に強制されて。
1377. 人は、おそらく、いつもの、その人が考える世界に棲んでいる。
1378. 空虚から吹きあげてくる言葉こそ、本物だろう。
1379. 何もしないでいることも、随分と、エネルギーがいるものだ。
1380. ただ、在れ、そして、考えよ。
1381. いつも、永劫の一瞬に起っている、その驚愕。
1382. 蝸牛の角は、小宇宙を探るアンテナである。(私)も、いつも、透明な角を出しているが。
1383. 見たくもない、隠しておきたい(私)を白昼の光の中へ、闇の底から引きずり出してくる。
1384. 叩いても、叩いても、同じ音しかださなくなると、人は自分に飽きてくる。もういいよ、充分だよ、と。
1385. ニンゲンの大問題は、もちろん、(私)の死である。誰彼の区別もなく、容赦もなく、100パーセントやってくる(私)の死である。何も役に立たない。賢者も、天才も、聖人も、為す術がない。翔ぶしかない。彼岸へ、無へ、宇宙へ。
1386. (私)という身体は、いつか滅び去る。それでも、永く残したいという奇妙な欲望は、いったい(私)の何を残したいのだろうか?(書くことの根底にあるもの)
1387. 目的も無く、清算もなく、企てもなく、ただ、ただ、来る声に耳を澄まして、ノオトに記す行為が、アフォリズムになった。(私)は私を、救済しているのかもしれない。破綻と破滅から。
1388. 心の軽さと重さについて。会社を離れ、人との縁が薄くなると、(私)の、本当の楽しみが味わえる。関係の中に生きるリアリティと関係の外に立つリアリティ。
1389. 人間関係の中に閉じ込められていた。一歩、引いていた言葉が、引退すると同時に、裸のまま(私)の中からとびだしてきた。まるで、言葉のシャワーである。
1390. 色気づくのは、心か身体か?本能だと言えば、見も蓋もないが。
1391. 「徒然草」は、まだ、現代でも、新らしいぞ。超高齢者社会にピッタリの声だ。
1392. 絵画を眺める。ルドン、エッシャー、荒川修作。眼が考えてしまう。異空間へ。
1393. 音楽に身を委ねる。耳が時間を呼びこむ。
1394. なかなか、文章が齢をとれない。これは、決して、いいことではない。
1395. どうしても、空を、眺めると、空が、何もない空間に見えない。エネルギーが充満していて、光の独楽たちと、踊っているのだ。空間で。
1396. ニンゲン、一日を、どう生きても、パターンができる。食べる。歩く。働く。眠る。欠かせない要素が、「人間原理」を決めてしまうから。で、時間がない。
1397. 遠くの星、何億光年も離れた星を見ることは、どうしても(過去)の星を見ることになってしまう。不思議だ。(現在)は、近くでしか、発見できない。光は、唯一、その音信を含む存在である。見るは、知ることそのものではないが、考える、補助線にはなれる。わかるね。
1398. 両手の指を折って数える。10本と。原理は、そこから起ちあがってくる。(発想の根)
1399. 日々の、世事の、生活のアレやコレやを片付けていると、何も、特別にしている訳ではないのに、人は、一生を終えてしまう。世の中には、片づくことなど何もないと、若いうちに、思い知るべきなのだ。
1400. 存在の種子の出現は一番の驚愕である。
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• 火曜日, 11月 02nd, 2010

歌人・福島泰樹と作家・立松和平—
9月22日、約40年振りに、母校・早稲田大学の大隈講堂を訪ねた。
2月に死んだ立松和平を追悼する集いがあった。自決前の、三島由紀夫の講演会を聴いた時以来の再訪である。
『和っぺい母校に還る』「立松和平の夕べ」—である。

1. 映像で偲ぶ 『立松和平 こころの旅路』
2. 短歌絶叫ライブ 『さらば、立松和平』 福島泰樹(歌人)
3. パネルディスカッション 『立松和平という男』
  パネリスト 黒古一夫(文芸評論家)
         福島泰樹(歌人)
         麿赤兒(舞踏家・俳優)
         高橋公(NPO法人ふるさと回帰支援センター事務理事)

今年は、いつ終るのか、先の見えない猛暑日が続き、熱中症で死者が続出して、60余年生きている私の記憶にもない真夏日ばかりで、街路樹や夏草が枯れ、異様な気候に、ニンゲンは、悲鳴をあげていた。

9月22日も、東京では、34度の猛暑日であった。額から汗が流れ落ち、下着まで濡れるほどの熱が充満していた。

受け付けと、開演が遅れて、6時まで、会場に入場できないとのことだった。30分ほど、早稲田の学内を歩いてみた。静かだった。立看板も姿を消して、閑散としており、あちこちに、談笑する学生たちの明るい顔があって、新しい、校舎が、いくつも、空に突き出していた。私の記憶に貼りついているのは、朱と黒の文字が踊る立看、ヘルメット姿の男たち、角棒、笛の鋭い音、喧躁、バリケード、拡声器から流れる、アジテーターの声、熱気と殺気の入り混じった、ぴりぴりする空気。ゲバルト。テロ。リンチ。・・・時が流れた。40年の時間が。

全共闘の時代、「自己否定」というスローガンが、40年たっても、私の中に居坐っていて、早稲田の杜を歩いていると、まるで、昨日放たれた声のように、棘となって、甦ってくる。学費の値上げ闘争にはじまって、原子力潜水艦(エンタープライズ)の入港から、安保闘争(70年)まで、学園は、揺れに揺れた。闘争の火は、全国に広がった。

この場所から、歩いて、約40年。時は流れた。団塊の世代は、企業戦士となり、働きバチとなり、停年をむかえた。

いったい、何をしてきたのか?あの、熱気と騒擾は、なんだったのか?

若い世代からの批判は、胸に痛い。学園で騒ぐだけ騒いで、高度成長を楽しむだけ楽しんで、あなた達は、何を樹立し、何を残したのか?

もちろん、一人一人の、胸に描いた夢と、ヴィジョンが、生きざまの中に顕れているはずである。

私は、自立、共生、あんしんの旗を揚げて生きてきた。小さな、小さな旗であるが・・・。

大隈講堂の舞台に、福島泰樹が起っていた。舞台で、何かが発生していた。
短歌を眼で読むのではない。
眼は、「気」の発生を見ていた。
耳が、歌を聴いていた。
頭は、気となって、放射される(情)に触れて、痺れていた。
歌謡とは、全身で、声と気を放つものだった。

福島が、肉体の復活として絶叫コンサートと叫ぶものは、古代の人が、和歌として謡った、魂の気であった。
おそらく、他の追随を赦さない、このスタイルの発見が、福島の固有の思想を創造したのだ。

私は、全身に降ってくる声の慈雨に、濡れて、情念という、声の塊りに眠っていた私の魂を揺さぶれて、痙攣していた。
おそらく、日常の空間ではない、異空の時間で、私は、感動していた。

見事な芸であった。
ピアノと尺八の伴奏にのせて、朗々と、時空に響きわたる福島の声は、詩人たちの、素人の、はずかしくなるような朗読とは、無縁で、正に、プロとしての絶唱であった。

『バリケード・一九六六年二月』という歌集が、福島の処女作であり、原点である。
なぜ、肉体の復活を唱えるのか、眼で短歌を読んでいた私は、納得をした。圧倒的な声量は、僧として、鍛えられ、魂の風を起こすには充分であった。正に、立松和平の魂を鎮める絶叫コンサートでった。

久し振りに、自分の声で、自分の思想を唱いあげる快感に酔った。感謝である。

懇親会の席で、福島さんが言った。
「君とは、どこかで、会っているよな。」
確かに、どこかで、会っているのだ。記憶の壁をおしあけてみる。

私も、学生時代に「早稲田文学」(第七次)に小説「投射器」を発表した。立松和平は「自転車」「途方にくれて」を発表している。福島泰樹は、編集の立松に頼まれて、短歌を発表している。
みんな、「早稲田文学」から歩きはじめている。そして、今がある。

パネルディスカッションでは、黒古、福島、麿、高橋が、立松和平との出会い、思い出、エピソードを披露した。60年~70年代の風景が、昨日のように甦ってくる話ばかりであった。
「温故知新」である。

人、それぞれに、時代と寝る時がある。青春の作家、壮年の作家、晩年の作家。どの時代に、才能が花開くか、誰にもわからない。
私は、晩年の作家、時が満ちて、熟して、語る人になりたい。