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• 月曜日, 1月 18th, 2010
401. 人間は、意識が、産む、産まぬ、と選択できる。鮎も鮭も本能で産む。で、意識が本能に勝ったとは言えぬ。どちらが良いか、本当は、わからない。高低はない。
402. お前は必要な子だったと喜ばれた者か、お前はいらない子だったと、憎まれた者かで一生は大きく左右されてしまう。
403. 「存在は良し」という声が響けば、もう、それだけで、生きる意味が半分はある。
404. 本能も、また、生きるための大きな声の指令だろうか。知性と同じほどに。
405. 魂が生れるのであれば、(私)は魂だ。
406. 不死の人とは魂の謂か!!
407. (私)は、人間という物語を生きている。
408. 父が死んだ瞬間から、私の中に、突然ひとつの画像が発生した。直立不動で立っている父が、大きな口をあけている。口からは、赤い、長い長い舌が伸びて来て、私に迫ってくる。眼を見ひらいて、私に、訴えている。その長い舌は、波のように、揺れていて、舌の上に、文字が書き込まれている。父が死んで、もう、一年になるのに、そのイメージは、消えない。私は、その画像が出現する度に舌に書かれた文字を読もうとしている。父が、何を言いたかったのか、いつの日か、解るだろうと思っている。奇妙な経験だ。
409. 確か、動物としての本能が壊れたのが人間であると語ったのは、心理学者の岸田秀だった。なるほど、四六時中セックスができるし、自殺もできる、原爆まで作ってしまった、戦争もする、何よりも言葉を作って、考えるということまでするようになった。
410. 鮎や鮭の産卵の瞬間の、あの、裂けるように開いた口、苦痛か、眼は虚空を見ているが。
411. (私)が在ると思う瞬間に、いつでも(世界=宇宙)がひろがって在る。
412. 空っぽの家に、空っぽの言葉。
413. 「私」の使用法は、どこで学習できる?家?学校?会社?本能?
414. 明日は、わが身ぞ。そう覚悟をして、一日を生きねばならぬ。呼吸は一瞬で無限。
415. 「眼球遊び」は面白く、身体の不思議が体験できる。指で、両目蓋を圧迫する。光が飛び交って、まるで、光の誕生する宇宙である。見える、見える、眼以外の力で。
416. 時間の中で無化されるあらゆるモノとコト。それでも、存在は、呟き続けてる、泡のように。
417. 結局、人がどちらに転んでも、何かを為しても、何もしなくても、時空は、びくともしないで在り続ける。偶然という魔。
418. 知者、識者が考えて、考えても戦争をやめる理由、法、論理、が構築できないのなら、知識がないのなら、「無答無用!!戦争は禁止とでも言うしかないか」
419. 偶然生きてきた。自分で望んで生まれてきた人は、誰もいない。おそるべし偶然の歴史。
420. 戦争をする前に、サイコロを振って、勝ち負けを決める−一番の平等、文句なし。
421. いい戦争(聖戦)も、悪い戦争(侵略)もない。ただ、人と人が殺し合う戦争があるだけだ。
422. 他人を見れば愛し、敵を見れば殺し、これでは、ニンゲンは、壊れ、分裂してしまう。(人)は矛盾に耐えられぬ、正しい存在だ。
423. 歩いている。私が薄れる。意識が私を離れるその瞬間に、それは来る。それの貌が見える。一番深いところに隠れていたものが顕現する。触れて、達して、それと共に痙攣している。(普遍)
424. 芭蕉は、「純粋直観」でものを捉えて、「絶対言語」で俳句を作る。だから、句の言葉は、日常のものであっても、彼方から垂直に来る。正に、「風雅の誠」である。
425. 瞬時に来たものは、歩いているうちにでも、言葉にして、ノオトに記さねばならぬ。それは、光のように消えてしまうから。
426. 歩くことは、私の意識を純化することである。だから、声は、いつでもその境目をすぎると、素直に来るのだ。耳にとどくのではない。脳の中心を直撃する。そして、心に触れる。
427. 道を歩く。風景の中を歩く。意識が、見るものに触れて、一瞬一瞬ぴくぴくと反応している。知覚。風景の発見。原子の群れの集合、その流れ。まだ、本当は、見えていない、漠然と続く道、漠然とある家並み、植木、空・・・。
それぞれが、バラバラに存在している、統一はない。まだモノらしいが、よくは、わからない。ぼんやり。
428. 人間の自由度は、行為にしろ、思考にしろそれほど、大きな閾をもっている訳ではない。しかし、一が多である、一粒の砂に無限があり、思考からは永遠に至る発見もあって、ニンゲンまだまだ捨てたものじゃないぞな。
429. 一切を無化する時間に対しては、一瞬の中にも永遠があると、嘘ぶいて、時を呼吸してみる。
430. 虚無に蒼ざめる。生の一回性に、慄のき二度と顕現しないという存在の宿命に、躓いて、絶望するのも当然だが、(普通)のセイカツをする心の形があれば、気がちがうこともあるまい。
431. 「花は花である」−花は花そのものではない−花は風である−花は心である−花は星座である−花は無限である
見たり、思ったり、考えたり、(花)は出現しては、消える(美)だ。
432. 「音楽が流れる。耳がそのまま心になる。」
433. 男よ、男よ、男よと、女よ、女よ、女よと、求める力、肉の力、本能の力、愛の力、なんと呼んでもいいが、その力が、何百年、何千年、何万年と、ニンゲンを作りあげてきたと思うと、個人の(私)が求めるのか、類としてのニンゲンが求めているのか、その根源的な力は、生命の祝祭とでも呼ぶべき、おそろしいものである。
434. 産卵時には、鮎や鮭が、裂けるほどに口を開き、全身を痙攣させ、眼は虚空を見ている、快感か苦痛かは見わけがつかないが、とにかく、ある生の絶頂に達する。そして、ぼろぼろになって死んでいく。魚たちの性交。生命の伝達。
435. 肉体、細胞の力の(産み続ける力)の圧倒感!!
436. 困ったことに、ガン細胞も、また(私)である。
437. (私)を創っている細胞に、突然、発生して、一気に、その勢力を強める、異分子、ガン細胞は、(私)自身を滅ぼしてしまう。
438. 人間の細胞の爆発力は、驚威である。しかし、その力を上廻るのが(ガン細胞)だ。
439. おそらく、私は、生きられる限り、私の、もっとも深いところへと、降りていって、私の「元型」を覗き込まねばならぬと思う。「私」とは何者かと。
440. 言語の限界を超えた、「絶対言語」で、詩を創造したマラルメは、メタレベルの最高地点まで歩いていった。虚無から美へ。
441. 日常の、表層の、普通のものの次元から跳びあがって、高次の次元へと旅立ったまま、還って来ぬ人たちもいる。狂人と呼ばれたまま。
442. 何層あるか、わからぬ位相へは、覚悟を決めて、超歩せねばなるまい。猿から人へ。人からXへ。
443. 表層も深層も、歩行の危機はどこにでもある。
444. 人に、動物に、植物に、鉱物に、触ってみる。触れられている(私)が、映し出されて、手が、眼が、耳が、口が、鼻が騒ぎはじめる。
445. 山の墓!! 海の墓!! どこからか私の耳に流れ込んできた音信である。
446. 目的地へと歩く道から、歩行そのものを愉しむ道へと、変わってしまった。
447. 今日も、宇宙への旅に出る。砕け散った(私)を拾い集めて。
448. (人を殺すな!!)日常の声が(人を殺せ!!)と戦争の声に変わる。人間の良質な部分がすべて失われて、人間の悪質な部分が吹き出してくる戦争の論理。敵と味方の二分法。
449. 実在する(私)空である(私)。どのように表現しようとも(私)から発している。
450. (私)の生きた経験を、一日を、そのまま他人に伝えるのは、いかにも、不可能である。
451. (私)が空っぽの状態の時には、ゆっくりと潮が満ちてくるのを信じて、待つだけだ。
452. 心の動きは、誰でも、同じようなものなのか、あるいは、個人の心性によって、全く異なるのか。誰が、どのように、証明できる?
453. 言葉に犯されると、(現実)を、言葉で見るようになってしまう。で、のっぺらぼうの(現実)は言葉で染まってしまう。(モノ)は言葉ではないのに。
454. 声が、他人にとどく、不思議だ。
455. 耳で生きる人は、声の調子にも、心の流れを読んでしまう。耳人。垂直に来る声。
456. 眼で生きる人は、見る、読む、意識の魔になる。
457. 五感は、意識に磨きをかけるから、いつも手当が必要だ。
458. あ~あと溜息をつく。息の中にいる(私)を見ている意識が舌を出している。
459. 思いきり欠伸をしたら、気分が楽になった。身体は、実に、正直である。
460 ウイルスが人を食べる。しかし、すべての人を食べ尽くすと、生きていけないから、ある地点で、ウイルスは、人を食べるのを止めてしまう。つまりは、共存の道を選ぶ。宿借りの論理。
461. 揺らぎからすべてがはじまる。時空の歩行。
462. で、どうするんだ?
     探求するにせよ
     研究するにせよ
     運動するにせよ
     商いするにせよ
     とにかく、するということをしていなければ、人間、仕方がない。
463. 精神のリレーよりも魂のリレーが大事だ。しかし、ニンゲンにとっては、魂のリレーの前に、肉体のリレーがいる。肉体は、種の核であるから。
464. 環。鎖。そして、螺旋。
465. 分析に分析を重ねて、ついに、「元型」が見えなくなった。
466. 日常生活の力と「本」のもつ力が均衡しはじめた。
467. 大事に、大事に育ててきたものを棄てたのだから、あとは、無心になって、奉仕の気持で生きねばならない。
468. 眼が合った瞬間に、お互いが、滅びゆく者であると、認め合う、心の交感が、腹に落ちて、疼き、永遠の別れともなる。
469. いつか、また、会えるよと呟いて歩く人の、その背中を、凝っと眺めて、立っていた。
470. 千里眼の君に、特別、語ることもないのだが、見者であることは、辛いねと声を掛けてしまった。
471. 物語を読むというよりも、物語の波に乗っている、一緒に歩いている、その感覚が、最近、大事になってきた。(私)を投射する者に、魅かれて。
472. 短気になった。怒りたい時、一瞬、間を置くこと。間は、怒りを鎮めてくれる。
473. 雪が降って、空間が、賑わい、華やぎ、その密度が濃くなった。空の空間の透明な存在が形をもち、(私)に触れる。
474. 会っても、会っても、人は、語り尽くせないものだ。
475. テレビの声、新聞の声、現場の声、声という声の意味がぬきとられて、単なる記号に思える時がある。声が白紙になるのだ。
476. 「山は山ではない」非山。禅という手法。
477. 言語使用のパターンが眼を曇らせる。
478. 人は、まったく別人になってしまう。(私)である、その持続の根拠も棄てて。
479. どこの子だ、誰の子だと言い続けられて、(私)というカードを切り続ける。
480. 何者かに、(私)は、読み込まれている。意識をも、覗いている者がある。すべてから、離れて、ただ、ただ、そのもののままで、流れていたいものを。
481. 音もなく崩れている。時空の中へ。(私)が(私)自身の中へと雪崩込んでいる。
482. 溺れているニンゲン。いたるところで。差し出す手がない。なんという頽廃。
483. ただ、ただ、放心している。黙って、肩に手を置く人がある。声よりも強い手。
484. ぶらぶらと歩いていると風景もぶらぶらと現れる。
485. どこかに、自然に、結びついている、その感覚さえあれば、大丈夫。普通に生きていける。
486. ものがつるつると滑りはじめると危ない。すとんと透明な深淵に陥ちてしまう。気をつけて。
487. 無数の、無用の断片も、存在するという理由だけで、ニンゲンを支えている。在るという力。
488. 普通の一日の、普通の時にも、どこかへ、迷い込みそうな、奇妙な時空が現れる瞬間が確かにある。
489. 危険だ、危険だと半鐘を鳴らし続けていると、平凡な日常の、本当の危機を見逃してしまう。
490. ふとした瞬間に、アッ、今の(私)を私は見ていた、知っている、予測、予知、即視感。そうそう、そして、この(現実)の中で、この風景を見て、その中を西の方へと歩いていく、誰だ、お前は!!
491. 疲労が過労になって、過労が病気を呼ぶと、休むこと、一息つくこともできなくなる。神経が針になっていて。
492. 子供に、親の姿が見えないように、親にも子供の姿が見えなくなる時がある。その理由は、まったく違うが。
493. ものを食べることに躓いてしまうと、ニンゲンという存在を全否定してしまう。
494. ものを食べる、その、ものは、生きものだから、どうしても、罪の意識がめばえてしまう。美味しい、マズいと、話をしている凡庸さも必要である。
495. とにかく、何があっても、何を言われても、ただ生きることにも「我慢をしている」と言ったのは、武田泰淳(作家)であった。
496. 身体は、気持よくなりたい。精神も気持よくなりたい。しかし、苦痛と不快が来る。快は不快、不快は快。
497. もう、終ってしまう、この一日と床の中で思う。あの感触。闇へ。
498. 独楽(スピン)する太陽。熱射。光を!!

499. いつも、斜面に立っていると、意識している限り、ニンゲンは思考し、行動する。

500. 生きていること自体がダブルバインドである。

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• 金曜日, 1月 15th, 2010

1. 「人生の色気」(新潮社刊) 古井由吉著
2. 「西鶴の感情」(講談社文芸文庫刊) 富岡多恵子著
3. 「世界漫遊随筆抄」(講談社文芸文庫刊) 正宗白鳥著
4. 「美濃」(講談社文芸文庫刊) 小島信夫著
5. 「戦後短編小説再発見」(講談社文芸文庫刊) 小島信夫著
6. 「ブレイク詩集」(岩波文庫刊) ウイリアム・ブレイク著
7. 「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」(講談社文庫刊) 川上未映子著
8. 「イスラーム文化」(岩波文庫刊) 井筒俊彦著
9. 「意識と本質」精神的東洋を求めて(岩波文庫刊) 井筒俊彦著
10. 「日本書史」(名古屋大学出版会刊) 石川九楊著
11. 「生きて、語り伝える」(新潮社刊) Gガルシア、マルケス著
12. 「水死」(講談社刊) 大江健三郎著
13. 「ひべるにあ島紀行」(講談社文芸文庫刊) 富岡多恵子著
14. 「親鸞 上・下」(講談社刊) 五木寛之著

今年は十二分に読書を楽しめる年になりそうである。
10年に一度、出会えるか出会えないかという、大作が出版された。
石川九楊著「日本書史」である。700ページ、A4版という大冊でもあるが、もう、「本」というよりも、命を削って彫りあげた作品だ。
「書」をめぐる作品を、良寛から詩人、吉増剛造まで、論じている。普段は、「書」に関して、あまり熱心ではない私も、「『書』は文学である」という著者の声に導かれて、読みはじめている。人が、10年、20年かけた、考察は、もう、書の研究というレベルを超えて、人間とは何かという次元にまで昇華されていて、圧倒される。文学、書、漢字、その姿、形、意味、意識、思想へと直進する作者の眼は、磨ぎ澄まされて、「無」をも吸収しているのだ。

仕事とは、命懸けの作業である。衝突し、破壊し、崩れ、融合し、合体し、「書」に寄りそう真摯で温かい眼差しは、書に、人そのものを発見する。

半年、一年かけて、舐めるように、触れてみたい「本」の出現である。定価18,000円も、安いものだと思う。

井筒俊彦の「意識と本質」は、思想の深淵を歩行する、人類の知の結晶である。イスラム教を中心に、禅、仏教、そして、マラルメの「絶対言語」、芭蕉の俳句と、東洋思想から、西洋思想まで、とにかく、(知)の人、井筒俊彦の著作は、一生涯をかけた人の、歩みが、堪能できる、本格的な論考だ。

そして、何時読んでも、魂を感じさせてくれるブレイクの詩。
自由自在に時空を超えて語る、90歳を過ぎても、筆の衰えを見せなかった、「美濃」小島信夫の小説。
今回は、語れば限りがない作品ばかりだ。