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• 月曜日, 12月 07th, 2009
301. 人間は、すべて、渦巻き人間である。
302. 生と死は、その度、(私)に生起しているが、いつも、少しだけ生の力が強いために、(私)は生きている。だから、(生)と(死)は、決して、二元論では語れない。(私)という球体に、それらは、同時に存在する。
303. 人間は、風景の中に沈んでしまう。そして、再び、発見される。見ようとする眼があれば。
304. 生きている、接続している(私)の証拠を探ろうとする。自己同一性の確立。当然、記憶というものに、頼る訳だが、その記憶ですら、薄く、ぼやけて、歪み、消え、虫喰い状態である。すると、実は、(私)もまた、あやふやな、記憶のように杳として存在しているのか?!!
305. 強いばかりの人間の眼は、病者には痛いだけだ。
306. 心の、身体の、躓きが、いつも、次のステップへの発条になる。
307. かさぶたの、傷の、下からは、いつも必ず、新しい細胞が貌を覗かせる。
308. 人は、決して、快感からは、ものを考えない。本気で、ものを考えさせるのは、いつも、傷・痛みからだ。もちろん、病いを知る人は、その考えに深みが出来て、竹の節目が、くっきりと、思想に表れてくる。
309. 生きる力は、生きられる力よりも質も量も低く少ない。人は、生きられる時間に生かされている。
310. とりたてて、特別なことをすることのない、1日が、人間には一番良い。冬の日溜りで、ゆっくりと、考えるということだけを考えて、坐っている。
311. 私(ニンゲン)は、決して、同じところ(定点)にはいられない。
312. 定点の移動する座標軸では、絶えず、時間も、空間も、場所も、揺らぎ、伸縮し歪み、ぴったりと(今・ここ)に貼りついている。
313. 現象の総和が世界であるのに、書かれた(本)は、いつも、書かれなかった部分で支えられないと成立しない。
314. モデルになった(モノ)は、いつも、不満が残る。書き手の(私)は、私の視点にしか立てぬ為に、(モデル)になった(モノ)は、もうひとつの視点を要求する。半面の姿、半面の論理。
315. (私)が他者になるという視点が必要になる。つまり、(私は他者である)と。
316. 意識だけになる。誰のものでもなく、誰のものでもある意識。考えるという現象体。
317. 定点・立場・位置(私)の中にあるものが、自由に移動すると、(モノ)も(コト)も、それにつられて、移動する。変化の変化。
318. やはり、私の持ち時間は、あとどのくらいだと言うよりも、私の生きられる時間はどのくらいだと言う方がより正確だ。
319. さっき、買いものに、コンビニへ行って来た。その時間はもうない。時間は、去るのでも消えるのでもない。今・ここに厳然として在るだけだ。そうだよね、池田晶子さん。
320. 突然、言葉の光線が射し込んできて、勝手に泳ぎはじめた。で、私は、静かに、それを追っている。どこへ私を連れていくのかわからないが。
321. 生きているということは、どう考えても(脳)ではなくて、(私)である。(私)という生命だ。だから(脳死)はない。
322. 脳は、生きている(私)を超えられない。
323. 仏になる、どうやら、(死)がわからないのに、死後を語ってしまうところに、宗教の秘儀と核がある。
324. (今・ここ)を歩いているしかない人間だが、どうしても、歩いたところに、時空の道が出来てしまう。それを仕方がないから(過去)と呼ぶ。
325. 神は死んだと、語ってしまったニーチェのあとを生きるのは辛い。不死・全能の神が死んだのだから、後は、宇宙のすべてを人間自身が、背負わなければならない。
326. 生命の張りにも頂点がある。頂点は、完全な成熟の一歩手前にある。
327. 時もまた成熟する、人間の生きられる時間の中で。時熟も滅びの手前にある。
328. 最終の到達点は、十(プラス)と一(マイナス)の合体にある。意識が至る、思考が至る、魂が至る、その地点に(普遍)がある。
329. 塔が建つ、その中心に、心柱がある。人間にも、透明な心柱が貫いている。
330. 南向きで育った木は南側へ
     北向きで育った木は北側へ
     木の声を聴くとは、そういう使用法だ
     「松のことは、松に習え」 古代人は、自然の原理を知尽くしていた。
331. 心も、物質文明の進歩と同時に成熟しなければならぬ。現代人の心は、跛をひいている。
332. 赤ちゃんは、新らしい人間なのだ。古い父と母のように生きれなければニンゲンにはなれない。新らしいは古い。古いは新らしい。
333. 名詞でもなく、動詞でもなく、言葉とはちがう形のメッセージがある。文章を書く人間にとっては、辛い認識である。
334. 21世紀は人間の正念場である。滅びるか、進化するか、誰にもわからないが、すべては(私)の存在形態にある。
335. 刻々と変わる夕陽を眺めていた。私の中に流れていたのは、あらゆるものは、一切、もとに戻らない−そういう思いであった。光に触れると、美と無限が握手している。
336. 手に指があって、指と指の間に隙間がある。その、隙間があることに驚いた。何もない、隙間という空間が、手を造っている。
337. 言葉の根を凝視する。湧きあがり、滲み出してくる(私)の声の根。混沌から明晰へ。
338. なぜ、人は、他人の言葉ばかりで語って、安心しているのだろう。それは、考えではない。知識だ。
339. なぜ、人は、意識の上に、無限の現象の海からたった一つのモノ・コト・コトバを選択するのだろう。
340. ある地点を超してしまうと、(私)が選択したものも、実は、向かう側から、勝手にやってきたと思えてしまう。いったい、誰が考えていることになるのか?
341. モノを見る。その関係の関係の関係を見るというふうにたどっていって、最後に見えるものは何だろうか。見方を知らないものは見えない。
342. なぜ間違ったかは解るのに、間違わないようにするのは、別の問題だ。
343. アレも欲しいし、コレも欲しい、次から次へと欲望のままに、モノを手に入れておいて、環境が汚れて、生き辛くなると叫び声をあげる、まったく虫が好きすぎるわ。
344. ちがう、ちがう、ちがうと声をあげ続けることは、王道へと至る道になる行為のひとつだ。
345. 「自分はそういう性分だから仕方がない」、短気とか、癇が強いとか、暢気とか、学習や訓練ではどうしようもない(資質)や(心性)を考えて、人は、そう言う。生れつき人の顔が、それぞれ異なるように、性分も、また、固有のものか。
346. 「合性がいい」 合理的な説明を越えて、「合性」も、不思議な、関係のありかただ。他人眼にも、自分にも、納得させるだけの確かな根拠がないのに、馬がよくて、(合性)が合う場合がある。
347. 「朋輩」は「友人」「親友」ともちがった独特なニューアンスをもった言葉だ。還暦も過ぎると、少年時代の「朋輩」が掛け値なしに、ありがたく、なつかしい。
348. 山を歩き廻った秋の日、川で泳ぎ、川原に横たわっていた夏の、長い長い一日、足の裏に、背中に残っている黄金時代の少年の記憶。
349. 「言葉を使うな」とその人は言葉で言った。
350. 歩いていると、いつのまにか、歩行は肉体のリズムを作り、心の流れを作り、意識がそれを追い、時間が生起するたびに、何かが発火して、イメージを作り、不意に、言葉となって、私の中心に起きあがってくる。
351. 何処からか、何ものかが集まって、星が誕生する。何ものかである星が分解して、何処かへと散っていく。人間の誕生にも似たようなものか。星が人間であるというのも絵空事でないかもしれぬ。(集合−引く力と分解−分ける力)単純で、簡単で、根源的な+と−という力。在ると無い。
352. 平凡な、日常の中で、無限を感じる時、私の思考は、いつも、痙攣して役に立たない。放心する棒だ。
353. 呼吸に上手につきあうこと。
354. モノ・コト・コトバ。道具と思考。あらゆる揺らぎの中を吹く風がある。その姿が見える人・見えない人。
355. 謎と化してしまうように在る人が在る。
356. 全身にびっしりと貼りついてしまったものは告白すらできない。告白すればその人が死んでしまう。たいがいの告白は、告白ではない。やはり秘密は墓場までもってゆかれる。
357. 一人の作家が”国のかたち”を発言すれば自分の頭で考えたこともない政治家が、誰も彼もが、”国のかたち”とどうするのかと他人に問う。”私のかたち”こそ、自分自身に問うてみる、はじまりは、そこからだろうが。
358. 会話の大半が、他人の言葉に染っている。テレビ・新聞・他人の考えた言葉。ものを考えるという力に満ちた言葉は、そのダイナミズムを実現した文章は、何パーセントあるのか。言葉は、誰のものでもないが・・・。
359. 時計に、暦に、太陽に、木に、風に、風景に、光景に、(時間)を私の外側で確認する習慣が身についてしまって、生物としての私の内側の時間について、考える時が少なくなっている。息・呼吸・意識が、瞬間瞬間に、今・ここに起きあがってくる(時間)に触れ、立ち会っていると、私自身が、生きられる時間と共に、存在する、在る、在る、在ると叫んでいるのがわかる。で、私は、時間の不思議を、私の不思議に重ねて、どちらも、知り尽くすことのない、外も内もない、形もない、しかし、透明な、無限の、運動体として、眺め、感応している。
360. 山に入ると山の音。
     風がなくても山の音。
361. 私の生きる地点にしか時間は発生しない。
362. 生きている時は、最低のものから最高のものまでいろいろなもに触れなければならないが、生活では、(普通)が一番良い。
363. 私の心の振幅にも限度というものがある。針が振り切れると、心は壊れ、生の歩行は中断される。何人も、そういう人を見てきた。
364. 見者、ブレイクよ。なぜ、見えたものを見たと言って、父と母に撲られたのか。あなたの眼は、見者にしか見えないものを見る。(異界)
365. 手が仕事をする。だから、必要以上は考えない、語らない、職人とはそういう人だ。
366. 村の、山の、入会地に、祖母と薪を伐りにいった。少年の時の、枯れ木に射す冬の光を、度々思いだしたりする。奇妙な感触だ。
367. 一日を生きて、空振りのような日もある。しかし、決して、空白や余白ではない。余分な日など一日もない。いつも(私)がいる。
368. ぶらぶらして、心を遊ばせておく日があるからこそ、過度な緊張や持続にも耐えられる。
369. 子供は、時がたつのも忘れて、我を忘れて、遊びに熱中する。叱られても、怒られても。
370. ものごとを先送りするという心の動きが生じると、いつも、あ~あと溜息をつく。解決したくない、いや、決して、片がつくという問題などどこにもない、何か言い訳を探している。やれやれ、腰の重い人だ。生きることは、先送りできないのに。
371. もらったものは、確実に、返さなければならない。それが、約束でなくても、礼節だ。言葉、思想、お金、生命。誰に、どこへ、何時?
372. 生きても、生きても、充分ではないが、決して、納得できるものではないが、普通の人間は、普通の流儀で、さようならと言わねばなるまい。
373. いつまでたっても、葬式や法事の席で、堂々と振る舞えない。おそらく、正しい形式を学びそこなったのだ。(形がいる)
374. 他人の顔が、妙に、うっとおしく感じられたり、汚れていると見える時、たぶん、私の生のヴォルテージは低下している。(同化と異化)
375. 解釈も説明もあきらめて、その文章を声に出して読んでみた。すると、わかるということがわかり、わからないということがわかった。
376. 土の時代は足の裏で、石の時代は掌で、コンクリートと鉄の時代は眼で、原子力の時代は意識で。
377. 「馬が合う」「性格の不一致」 感性・気質・性癖・心性、人と人が長く付き合えたり、別れたりする、その根底には、理論では分析できない微妙なものがある。性格が陰と陽で正反対だから、上手くいく場合もある。似たもの同志で上手くいく場合もある。人と人の、あの、眼に見えないが、心地の良さ、悪さをめぐる、関係は、不思議そのものである。
378. 長い間、光に不思議を感じている。光には質量というものがない、その科学的な事実、おそらく真実を、どうしても呑みこめない。光の出現、光の発生、光という存在が、在るということと上手く結びつけられない。変ないい方になるが、光が消える、光が消滅する、すると闇が来る、闇にも質量はない(?)陰と陽の関係のようにいつも光と闇は論じられる。光がなくて、闇もない、そういう状態はあるまい(?)(無)あるいは、闇だけが、光なしに存在する、それもあるまい。生と死。私には、左手と右手のちがいが説明できないように、どうしても、光というものが、上手く、私自身に説明できないのだ。光は何処から来た?(光は私だ)そんな馬鹿な叫び声もあがる。
379. 「胸が痛むことばかり」 叫び声があがり、人間が傷だらけで痛み続けている。実際、TV・新聞のニュースは、肉体の胸をしめつけるものばかりだ。肉体から心へ、心から肉体へ。死に至る病はどこにでもある。
380 権力・金・愛・原子力と、色々な強い力が存在する。その中でも、もっとも強い力が、時間であろう。時間は、存在の根幹を揺さぶる。時は流れる、二度と戻らぬ。そのパワー。
381. 幼年期、少年期に抱いた疑問が種子だった。その種子を育むために、生きているようなものだ。
382. 「ものぐさ」の代表がオブローモフだ。何もしないで、ただ横たわっている。世の中が騒々しい時は、歩き廻る蟻に混って、一人、二人とオブローモフが生れる。
383. 驚くのにも力がいる。歳を重ねるとそのことがよくわかる。
384. 現在は、いつも、混乱の波に晒されている。もちろん(私)は、いつも(今・ここ)=現在にいる。何が明確か、わかっただろうか?
385. 実は、簡単な現象しか起こっていないのではないか、そこに、人間が現れると、急に、簡単が難しいことに変わるのだ。つまり、世界の原理は、人間の原理ではない。だから、人間・私は躓いてしまう。
386. 時間に色がつく。朝・昼・夜と。時間に姿が現れる。春・夏・秋・冬と。そして、形も、色も、姿もなく、生と死を、一生涯を無化する時間が流れる。
387. 音楽のような、小説のような、写真のような、いくら、説明しても、説明にもならない言葉。呪文を唱える方が、説明になる。いや、そのものを生きられる。
388. 生きる、と言うから、今日から明日へと、道らしきものでもあるかのように錯覚する。座標軸が頭の中にすりこまれている。中心はどこにでもあるし、点は、どこにでも打てるし、(私)自身の居る場処もわからないのに。
389. ぐうたら人間も、何度でも、出発してやろうと思う意識さえ起ちあがれば、まだ、大丈夫だ。
390. 今日、”感情”という言葉は、どのくらい使われているのだろうか。昔は、”感情”が人間そのものと思われるほどに、大事に使われ、大きな意味をもっていた。長い間、生きている人の口から、直接、聴いたことがない。フローベルの小説「感情教育」。情操という言葉は、もっと聴かない。妙な時代だ。大事なものを殺している。いや、日々、殺されることが、あたり前の光景になってしまって、人間自身が、”感情”を育てられない。
391. 身も心も、一切を棄てて、逅走して、隠者になっても、なお、棄てきれぬ(私)が残る。
392. どだい、生きるということ自体が、何か、無理をしていることではないのか?本当に、誰もが思っているように、自然なことなのか、どうも疑がわしい。しかし、かと言って・・・。
393. 自ら望んで生れてきた人は、誰もいない。気がつけば、偶然(私)という者がいた。生きている間は、その(私)のお守をしなければならない。それが大問題だ。
394. で、(私)は死ぬ存在だと告げられる。まあ、生きている間は、生きているだけで、(死)はないのだから、(私)を生きてみる。
395. (私)を隠しているものがある。どうも、(私)がすべての(私)を知悉できないのは、何かが、(私)の眼を隠して、ものが見えないようにしている。あるいは、見者となって、すべてを見てしまってはいけない理由でもあるのだろうか?
396. もう、たいがいの事は、どうでもいいと思いはじめると、生活が破綻していく。生活のほとんどは、無用のような断片ばかりで出来ているから。
397. 精神という独楽の廻る振幅だけが(私)を露出させる。
398. いつも、少しずつ無理をしている。それで、生活は普通になる。身も心も壊れるが。
399. 本気になると死ぬ気になるは、似ていて、近いように思われるが、その一歩は千歩である。
400. 心に皺の刻まれている人の声を聴くと、ホッと眼が醒める。
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• 日曜日, 12月 06th, 2009

「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される」(草枕)漱石の言葉だ。

池田晶子は、論理の人・考える人そのものだった。その、池田晶子というニンゲンが死んで、もう、二年になる。(知)の人は、世間の人間が、汗かいて、働き、足を踏んだり踏まれたりしながら、メシを食う、いわゆる(社会的な私)と、ほとんど無縁の人だった。

(私という現象)の不思議を、どこまでも探求する、その、存在を、すべて、解きほぐしていたいという強烈な要求が、池田の文章を支えていた(核)であった。

在ることは、いくら考えても尽きることのない謎であるから、それに挑戦する池田の言葉は、真剣勝負で、実に、インパクトがあった。

その池田晶子が、「魂」について、語る、考察するのが、本書である。

私は、魂は、論じるものではなくて、感じる、観照するものである、と思っているから、池田の、この仕事は、大変、危険なものとなるだろうと考えた。

池田晶子も、そのことは、充分に解っている。しかし、(意識)では、私は満たされぬという思いが日々、増すにつれて、私は魂であるという、命題へと、歩みはじめる。

かつて、小林秀雄も、中断した長篇評論「感想」の冒頭で、魂について、語っていた。「お母さんという蛍が飛んでいた」小林は、その火の玉のような蛍が、死んだ母の魂であると語りながらも、それは、私の実体験であって、私は、そのまま、その現象を信じるが、文章にして、他人に提示する場合には、まるで、文法にもならぬ、童話になってしまうと用心していた。

(信じる)という言葉がポイントである。

論理で考える、魂を考える、いや、その魂へと至る、池田の思考のうねり、その足取りが、実に、魅力的だ。

池田は、魂の考え方から、感じ方、そして、理解の仕方まで、着実に、歩をすすめていく。オウム事件、兵庫県での「少年A」の事件、脳死、父の病気(ガン⇒死)、愛犬の死をめぐって、探求は続くが、どうしても(魂)を語り尽くすことができない。

魂をめぐる考察は、やはり、考えるよりも、信じるの方へと比重がかかっており、論理では容易にその姿を現さない。

魂を象徴するには、実は、ユングのような、方法があるのだ。決して、分析するフロイドではなく、共時的な揺れの中に、ものを捉えていく、ユングの手法。ユングの「自伝」は、魂について、一番、説得力のある本だと思う。

おかしな言いかたであるが、池田晶子というニンゲンが死んでも、その言魂は、魂は、残っている、読んでいる私の中に、と感じる日々だ。

将来どこまで行くのか、その行き先が楽しみな作家・哲学者、考える人の、突然の死は、和歌山への出張の日の、朝、知った。仕事が手につかなかった。これだけの、考える力が生れるのに、また、どれだけの時間と、ニンゲンが必要になるのだろうか、本当に、惜しい人という言葉がぴったりだった。

東京駅で、週刊新潮を購入した。ガンだった。そういえば、文体に、論調に、ある種の変化が現れていた。「魂」について、「死」について、「私」について、死後も、池田晶子の言魂は、私たちの心の中に、垂直に降りてきて、語り続けている。

小林秀雄が死んだ時には、実に、妙な気がした。小林秀雄は死なないと、私は思っていたらしいのだ。なぜ?その、言魂が、あまりにも深く、私の内部に降りてきて、響き続けているものだから、その声の主が、消えてしまうと、私の魂も、消えてしまう、どうやら、そういうふうに考えていたみたいだ。

人は、傷を、病気を、痛みを通して、論理から、魂へと通じる言葉を得ていくものだと思う。論理よりも、肌理のこまかい、人間そのものにぴったりと吸いつくような、表現がある。

池田晶子の文体が、今、大きなターニングポイントに差しかかっていた、それが「魂とは何か」という本である。しかし、考えるという形がそのまま表出されるような、池田晶子の文体は、いつも、素手で、裸のままで、(今・ここ)から出発するという、正に天から、垂直におりてくる、言魂そのものであった。時空を超えて。

追記
やはり、言魂(言霊)は、伝播するものだ。何気なく、雑誌「群像」で、川上未映子の「ヘヴン」という小説を読んだ。とりとめのない、冗餂な作品だと思いながら読んでいたら不意に、小説世界が一変した。

これは、池田晶子の世界ではないか。驚いて、詩集「先端で、さすわ、さされるわ、そらええわ」を読み、初めての小説集「わたくし率 イン歯−、または世界」、芥川賞受賞作品「乳と卵」を熟読した。

池田晶子の言魂が、もう、川上未映子という作家の作品の中に再誕している。驚きであった。精神の、言魂の、リレーが、はやくも実現されている。

実際、川上未映子も、池田晶子の世界に感応して、その言魂の中に、自分の中にあるものと同質のものを発見して、それを、小説や詩という形をかりて、表現している。

単なる影響というのではない、池田の簡潔で、明晰な文体に較べると、川上のそれは、いかにも、関西人らしい、具体の世界で展開される日常そのものの語りであるが、その語りの中に、垂直に、(存在)を直撃する(思う)が混入されている。

魂は、このように、交感するのだ。合掌。

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• 日曜日, 12月 06th, 2009

1. 「動的平衡」(木楽舎刊) 福岡伸一著
2. 「思考の補助線」(ちくま新書刊) 茂木健一郎著
3. 「エレファントム」(木楽舎刊) ライアル・ワトソン著
4. 「夜明けの家」(講談社文芸文庫刊) 古井由吉著
5. 「人とこの世界」(ちくま文庫刊) 開高健著
6. 「世紀の発見」(河出書房新社刊) 磯崎憲一郎著
7. 「生きる勇気・死ぬ元気」(平凡社刊) 五木寛之VS帯津良一著
8. 「隠者はめぐる」(岩波新書刊) 富岡多恵子著
9. 「食・息・心・身」の法則(成甲書房刊) 阪口由美子著
10. 「名づけえぬもの」(白水社刊) サミュエル・ベケット著
11. 「ヘヴン」(講談社) 川上未映子著
12. 「乳と卵」(講談社) 川上未映子著
13. 「わたくし率 イン歯−または世界」 」(講談社) 川上未映子著
14. 「死とは何か」(毎日新聞社刊) 池田晶子著
15. 「私とは何か」(毎日新聞社刊) 池田晶子著
16. 「思考する豚」(木楽舎刊) ライアル・ワトソン著
17. 「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(青土社刊) 川上未映子著
18. 「残光」(新潮社文庫刊) 小島信夫著
19. 「ドン・キホーテ」(岩波文庫刊) セルバンテス 前3巻 後3巻
20. 「父・藤沢周平との暮し」(新潮社刊) 遠藤康子著

読書は、瞬間爆発の快感と、読み終えたあとの、長く尾をひく、燠火のような燻りと、二つの愉しみがある。

発想一発の驚きは、長い時間がすぎてみると、色褪せるものが多いが、静かな文章は、その味わいがじわじわと利いてくる。先日庄野潤三氏が死んだ。「記録もひとつの文学である」という信条で、日常のなに気ない事柄を淡々と描き続けた。事件も、事故も、作為もない、無作為の文章は、静謐であった。合掌。

文章の姿が、そのまま人柄に、生き方に、そして、思想にもなる、いい例である。

逆に、見事なまでに、読者の眼を、思考を揺さぶり続け、新しい事象の地平をきりひらいてきたライアル・ワトソンも逝った。「豚」と「象」をテーマにした、最終の作品は、まるで、自らの生いたちを語る小説そのものだった。夢をありがとう。