Archive for the Category ◊ 作品 ◊

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• 月曜日, 2月 04th, 2019

3351. 宇宙の歯車が、時代の歯車が、またひとつ廻って、ひと呼吸遅れて、(私)も私の歯車を、ゆっくりと廻している。

3352. もうここらでいいだろう、完了しても。と精神は語っているのに、身体は、老いても、病んでも、執拗に生きのびる!!だらだらと。

3353. 逆に、精神は、もっともっと、まだまだ生きたいと叫んでいるのに、病んで、挫折して、ポキンと折れて、滅びてしまう。(私)という生命であるのに自由が利かない。ニンゲンのかかえる矛盾である。

3354. (私)は私以上に大きなものに生かされている。あるいは、大きなものに殺されてしまう。

3355. (事実)はたったひとつだと思っている人は幸せだ。(事実は)、視点によって、人によって、実に多様である。固有なものなど何もない。と考える人は、いつまでたっても、宇宙で、宙吊りになったまま揺れ続ける。不幸なことに。

3356. あらゆる存在はメッセージを放っている。(生きものでなくても)(石でも水でも)それは、存在のコトバである。

3357. 時間や空間も(真空)も時空そのものが、宇宙のメッセージである。

3358. ゆえに、声や文字でなくても、メッセージを放つものは(あらゆる量子も)コトバと言える。(広義の)

3359. 見えるものも、見えないものも、存在するものも、非在と思えるものも、メッセージは放っている。宇宙は無限のメッセージの放射体である。

3360. 量子は、コトバでも数式でも語れぬ。語れば別のものになる。つまり、すりぬけてしまう。同じように「悟り」もコトバでは語れぬ。「悟り」の心境は釈尊も語っておらぬから「無記」わからない。

3361. つまり、モノもコトも、そのモノ自体の(真)は終に、ニンゲンには、語れない。わからない、不思議である。(本当のもの)を見れば気が狂うだけの、ニンゲン存在の限界である。

3362. さて、では、(私)は、ただ、不思議な存在としての(私)の生きるという衝動に身を委ねているだけか?

3363. ココロは、意識の流れから生じて、終に、量子的存在となる、つまり、謎、不思議体である。

3364. 海辺に押し寄せてくる無数の波にはただひとつとして、同じ波はない。しかし波の形をしている。光も木も草も砂も同じことである。たったひとつのものが、無限変容して別の形になっている。(量子の泡たち)

3365. 生きたり死んだり、死んだり生きたり、現象は泡かもしれない。たっとひとつの「泡箱」がある。

3366. 意識が写す現象という幻。

3367. 事象の地平線に、ニンゲンは永遠に起てない。しかし、想像はできる。

3368. (歩く)をコトバで書くのは、矛盾である。コトバから遠く離れるためにぼんやりと、ただ歩いているのに。

3369. ニンゲンをしている。”生涯現役”とは、単に、(仕事)をしていることではない。何をしていてもいいのだ。ただ実在している(私)が、いつも、ニンゲンをしていればいいのだ。

3370. 宇宙に、地球に、放たれた(私)は、ニンゲンへの道を歩き続けている存在である。

3371. コトバで(事実)は表現できない。ゆえに、小説は(虚構)、ノンフィクションやエッセイは(事実)と、語っている一般人の認識は、誤りである。

3372. 何時、何処で、誰が、コトバを発したか?を考えてみるだけで(事実)の根拠は崩れてしまう。

3373. コトバとしての(事実)があるだけだ。

3374. 他人を見る、月を見る、天の川を見る(見る)ための差異は、いつも、(事実)を、遅れたコトバで表現する。(意識が、他人を、月を、天の川を生かしている!!)

3375. ニンゲンが生きるために、都合がいいように、(じじつ)を共有のものにしたいのだ。

3376. 書かなければ、消化できないものがある。ココロが混沌として、無数の糸が絡み合い、形が、顔が、顕れない。

3377. コトバの中に、移して、コトバを放って消化できないものに、目、耳、鼻、口、足、手と形を与えて、のっぺらぼうを、眼に見える形にする。

3378. ものに、位置と場と形と質量を与えて、やつと、ココロは、混沌から解放される。

3379. しかし、それで、安心というものではない。もの自体は、コトバの中にはない。あくまで、仮構したものの姿である。

3380. その証拠に、コトバで整理されたものたちは、また、コトバとなって、分裂し、結合し、離脱し、いつまでたっても、落ち着くことがないのだ。

3381. 朝、眼が覚めて、(私)が、いつものステージに立っている。と認められるヒトは、幸せである。今日も(私)は、歩いて行ける。自然な(私)として。あらゆる存在の網の上を。

3382. 意識が、ある、ひとつのステージに立つ(私)を認めた時、実感という、自然な(私)という存在が顕現する。

3383. 思考は、意識のあとを追うひとつの術である。

3384. (私)を喪う人がいる。つまり上手く、ひとつのステージに(私)が立てない人である。ただ、空洞、がらんどうだけがあって(私)はいない。辛いことだ。

3385. (私)が分裂するのは、あらゆるステージに(私)が偏在してしまうためである。ヒトは、そんな(私)を認められない。

3386. ただし、多重人格者は、自由に、あらゆるステージに、別の人格として立つことが可能である。

3387. あらゆるものを考える、考えるということも考えたデカルトであるが、虚数(i )だけは認めることがなかった。実体・数の信仰者デカルトは、どうやって、(神)を信仰したのか?

3388. ニンゲンの最高の武器・思考(考えるということ)は、どうやら信仰とはまったく別のものだ。

3389. 思考の、直観の外にあるもの。量子。ニンゲンの能力の及ばぬところにあるもの。いや、あるもないも、超えたもの。(本当のもの)を見れば、ニンゲンは、気が狂ってしまう!!

3390. だから、ボチボチ、まあまあ、で生きる。その以上を希まない。ところが、気が狂っても、行きたいニンゲンがいる。

3391. (仕事)で使うのは(どんなに厳しくても)ニンゲンの一部の能力だ。まだまだ眠っている力がいっぱいある。死ぬまでに、使ってやらなければもったいない。

3392. (仕事)を現場と呼ぶ。で、現場を離れていると、まるで終ったニンゲンのように思う。いやいや、ニンゲンという(存在)の現場では、まだ、いろいろな力が試される世界だ。

3393. (私)は、在る、在るの世界を生きすぎた。(私)は、無い、無いの世界も生きるべきであった。

3394. 見えるものだけを見すぎた。もっと、見えないものも、見るべきであった。

3395. 外へ、外へと歩け、外部へと歩け、外部という表面が世界のすべてだ。

3396. 内へ、内へと歩け、内部へと歩け、内部という深淵が世界のすべてだ。

3397. 外は内、内は外、外部も内部もあるもんか。たったひとつのモノが外と内の貌を覗かせているだけだ。

3398. そのように考える、そのように意識する、そのように存在する。そのこと自体が、ニンゲンの見る夢幻である。

3399. ヒトは、なぜモノを書くのか?モノ書きは(小説家であれ、詩人であれ、書家であれ)エクリチュールの魔にとり憑かれているニンゲンである。ゆえに、何を、どう書いているかよりも、書く瞬間の、コトバの快楽に生きている種族たちである。

3400. 「本当のもの」を見た人は発狂してしまう。ニンゲンのココロは「本当のもの」に耐えられるほど強靭ではないから。「本当のこと」を告白することもできない。ニンゲンの全細胞が反乱を起こして、それを拒否するから。まあまあ、ぼちぼち、仕事でもしている方が、ニンゲンには似合っている。
しかし、突然、それを見てしまったニンゲンもいる。ニーチェが、ゲーデルが、ゴッホが「本当のもの」を視た。そして発狂した。物理学者の、ファインマンは、そのことを熟知していた(ノーベル物理学賞受賞)量子は、ニンゲンの頭脳では考えられぬ。わかった、と考えた時、量子は、するりと擦り抜けているから。量子は、「本当のもの」をニンゲンの眼から頭脳から、隠している。永遠に。

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• 月曜日, 2月 04th, 2019

~人生の楽しみは、よき友にめぐりあうことである。(昇)~

俳句道をひたすら歩き続けて、終に俳句になった男である。
俳聖・芭蕉は、伊賀上野から江戸へ。遠藤若狭男は、福井の若狭(敦賀市出身)から東京へ。いつも、何かをはじらい、はにかみながら静かに笑みを浮かべている立ち姿の遠藤がいる。
19歳の出会い、いや邂逅、いや小説や物語よりも不思議な縁によって知り合った。
京都・百万遍にある「平安予備校」の大教室。300人から400人はいただろうか?浪人時代のことである。
ある夏の日、偶然隣に坐った、見知らぬ青年が、「僕、俳句やってや。読んでくれんか」ノオトに、数句、俳句を書いて、そのページを破って、手渡してくれた。

炎天下僕には僕の影がつく

春雷や少年遠き海を愛す

寒月や信仰なき身に翼欲し

生れてはじめて、「俳句・文学青年」に出会った瞬間であった。実に、繊細な文学言語をものにしていた。(早熟)
それから、53年間「文学」の友・いや朋輩となった、遠藤喬(若狭男)である。高校生でもない。大学生でもない。宙ぶらりんの浪人という存在。

偶然にも、運よく、早稲田大学に合格し、入学式が終って、教室に入ると、そこに、遠藤喬がいた。お互い、どこの大学を受けるとも、一切、話したこともない。ただ、挨拶を交わす程度の仲であったのに。奇妙な再会であった。
春の、大隈庭園での、スナップ写真がある。緑の芝生に横たわって、風に吹かれて、春光を浴び、笑っている。クラスメートの、石川知正君、遠藤喬君、そして、私の三人。
三人とも、一浪の末、約30倍の競争率を、勝ちとっての合格であり、ココロのやすらぎが、全身のくつろぎとなって、漂っている。
大学二年生になる年に、教育学専攻から、国語国文学科への転入試験を受けた。申し合わせた訳でもないのに、受験生は、遠藤君と私の二人であった。いわゆる「文学」を志した訳だ。
国語国文科は、俳句、短歌、戯曲、小説、アフォリズム、作詞と、多才な才能を発揮した、鬼才・寺山修司が在席した学科であった。遠藤喬は、高校時代に、雑誌に俳句を投稿して、選者の寺山修司から「日本の高校生俳人の五傑」に選ばれていた。ギターを弾き、サキソフォンを吹き、ブラスバンドで指揮棒を振っていた音楽青年の私とは、「文学」への志が違った。

同人雑誌『あくた』(1~13号)時代。教育・国文の2つの学科の有志が集って、同人雑誌をはじめた。小説、詩、評論、戯曲、歴史小説が載った。
後に、政経、商学部、法学部、文学部、そして、青山学院の在校生も参加して、13号まで続いた。息の長い同人雑誌であった。(数十人が参加した)
私は拙い、習作、小説を書いていた。
遠藤喬は、大学二年生になる直前に突然、父を亡くして、アルバイトをしながらの苦学生となった。それでも、創作意欲を刺激されたのか、5号から投稿者となり、同人に加わって小説「風霊」(60枚)を、9号に「乖離」(134枚)と12号に「告別」(172枚)を掲載した。後に、小説集『檻の子供』として上梓。8号には、「檻の弱獣族たち」として、16才から21才までに詠んだ俳句から、50句を選んで掲せている。
お金もない学生が、なんとか、お金を出し合って、(表現)への熱い思いを実現した、同人雑誌であった。1号は200部(定価200円)、13号は500部(定価400円)を印刷して、同人で販売した。(赤字)
創刊号は約60ページ、13号は約140ページ。昭和43年から昭和51年まで約8年間続いた。
合評会「茶房わせだぶんこ」「喫茶ラビアンローズ」では、作品の批評、分析、白熱した討論が繰りひろげられた。(小説論と芸術論)

遠藤喬は、庄野潤三、森内俊雄、古井由吉、伊東静雄と大人のセイカツの中にある静かな(私性)の強い作風・作家たちを敬愛していた。(ただ一人例外は『金閣寺』を書いた三島由紀夫)

伊東静雄は、京大を出て、大阪・住吉中学の教師をしながら孤高の詩を書き続けた。(第一級の詩人)
遠藤喬は、早大を出て、東京・目白の川村学園の教師をしながら、俳句を詠み続けた。同じように、都市生活者でありながら、芸術を探求したスタイルが似ている。
第一句集『神話』 第二句集『青年』 第三句集『船長』 第四句集『去来』 第五句集『旅鞄』を上梓した。約2400の句が収めらている。詠んだ句は、おそらく、その二倍以上はあるだろう。

「父、母、故郷」への哀歌が目につく。

「金閣寺」の句も、「八月」の句も「癌」という病いの句も、すべて遠藤若狭男の、人生の(私性)が色濃く漂っている。

敬愛した作家森内俊雄が称えた句。

われ去ればわれゐずなりぬ冬景色
(この句を詠んで、12年後の12月16日冬に遠藤は逝くのだが・・・)(享年71歳)

「鎮魂」として
八月のホテルにこもりニーチェ読む
(「八月」は死者の霊を弔うお盆のためか?あるいは敬愛する伊東静雄の「八月の石にすがりて」に啓発されたのか?単に、夏・八月が好きであったのか?)

修司忌や津波のあとに立ちつくし
(寺山修司は、俳人・若狭男発掘の恩人)

ふるさとは菜の花月夜帰らばや

若狭去る日の丘に群れ赤とんぼ
(故郷哀歌、抒情あふれる句)

旅鞄重たくなりぬ秋の暮
(「旅鞄」は父の遺品。第五句集のタイトル)

金閣にほろびのひかり苔の花
(三島由紀夫『金閣寺』は遠藤の生涯の愛読書)

わが肺の癌たとふれば霜の花
(胃ガンから肺ガンへ転移)

人間の証明として枯野ゆく
(第五句集、最後の句。俳聖・芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」に殉じた句か?)

若い頃、(大学生の時か?)遠藤君に、真剣な眼差しで、質問されたことがあった。今でも、その声が、耳の底に残っている。妙にココロを刺している。
「重田、意識ってなんだろう?わからないんだなあ」私は、なんと答えたか覚えていない。
三島由紀夫の『金閣寺』を読んで「唯識」(大乗仏教)のことが気にかかっていたのか?(アーラヤ識と種子が)
現在なら、哲学者・ジル・ドルーズの「意識は、文字どうり、眼を開いたまま見ている夢にすぎない」と答えたかもしれない。

訃報のハガキを受け取って(和子夫人から)もう10日ほどになるが、遠藤若狭男の俳句を詠み続けている。
俳人を知るには、俳句を読むしかない。残された者にできることは、その俳句を、後の世に伝えることである。
俳句は、若狭男は、時を超えはじめた。友よ、朋輩よ、ありがとう。

時を超え若狭男俳句が翔んでいる。(昇)

平成31年1月29日

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• 火曜日, 9月 11th, 2018

爆発的なエネルギーの放出と異能の発揮の秘密は、いったい何処にあるのだろう?

四つの(傷)
ニンゲンは(傷)つく動物である。意識があるから。ていねいに、生きても生きても、他人に足を踏まれたり、他人の足を踏んだりして生きる、世間、実生活という世界がある限り、(傷)つかないヒトは誰もおるまい。
しかし、(傷)から考える、そして、負を正に変えて、エネルギーとするのもニンゲンである。
見城徹も、四つの(傷)をかかえて生きている。

1. 地上に放り出されて(私)に気付いた時、見城は、自分の(身体が小さいこと)と自分の(顔が世界でいちばん醜い)ことに、深く傷ついてしまう。そして、タコと呼ばれ、いじめられっ児となる。
2. 父は、アルコール依存症で、子供の教育・子育てには、まったく無関心で、家は、いつも暗く、ココロが傷ついた。
3. 学校(小学5・6年)の女性教師のコトバに深く傷つけられた。学校に連れてきた女教師の子の前で「触らないで、あなたには触ってほしくないのよ」と叫ばれる。差別である。コトバの暴力である。通知表の「行動記録」は、見城を誤解したため「ほとんどC(最低評価)」であった。
4. 全共闘運動に本気で没頭する。高橋和巳、吉本隆明の「思想」に共鳴し、「革命」をめざすも、警察に逮捕されると、就職ができなくなる、土木作業で、大学の学費を稼いでくれている母を悲しませる、と、挫折して、サラリーマン(編集者)になる。思想よりも実生活を選んだことが、深い(傷)となる。

(快楽)は一瞬であるが、(傷)は消えることがない。
おそろしいことに、(傷)は、ヒトを潰し、叩き割り、破壊してしまう。
ある身体障害者の言葉。
「ボクは、生まれてから、怨みだけで生きている。」
マルメラードフは呟く「もう何処にも行くところがない」と。(ドストエフスキーの小説に登場する酔っぱらいの言葉。)
見城徹の、家庭を放棄した、酔っぱらいの父は、いったい、何に傷ついて、死人のように生きたのだろう???

ニンゲンが本気でものを考えるのは、存在の不思議と発生した(傷)からだけだ。無垢な魂はどこにもない。
自分のココロの声に従って、自然に、正しく、ていねいに生きても(傷)は発生する。ニンゲンは(生・老・病・死)の四苦を生きる存在である。千年たっても、そのスタイルは変えられない。(四苦)から(傷)が発生する。絶えるということがない。

「言葉」の発見、コトバの力「読書」
「本」は、現実空間から、別の場所へ、別の時間へ、別の人物へと連れていってくれる(コトバという)乗物である。新しい世界が開けるのだ。
物語は、傷ついた魂にも、やさしく、親身に、語りかけてくれる。マンガにはじまり、少年少女小説。(第一の「読書」)
見城少年も「ここではない『ほかの場所』を求めて」読書に熱中する。高校生になると「本」のコトバの力を得て、能弁になり、クラスのリーダーになり、成績もトップクラスに躍りでる。見事な変身である。
夏目漱石の『こころ』に、傷ついたニンゲンを発見する。主人公の心性に、自分の心性を重ね合わせる。他者の発見であり、自立のはじまりである。思考の開始である。見城はコトバと共に、歩きはじめる。(第二の「読書」)

あるべき人間観と世界観を刻みつけるのも「本」読書による言葉である。十代から二十代の、多感な、青春の真っ盛りに、コトバは、突然やってくる。
全共闘運動が全国に、燎原の火となって燃え広がった。見城も、本気で「革命」によって、世界を変える志に燃えた。
その中心に、高橋和巳と吉本隆明の声と行動と思想があった。
孤立無援の状態から、ニンゲンの自立を求めて、書き、闘った作家・高橋和巳を読まなかった運動家はおるまい。『わが解体』を書き、ガンで若くして死んでいった高橋和巳。そして、思想の中心には、吉本隆明がいた。『共同幻想論』『マチウ書試論』『言語にとって美とは何か』、日本の抒情詩を、「思想詩『固有時との対話』」に変えてしまった、吉本の「本」は、学生のバイブルであった。(第三の「読書」)
吉本も、また、敗戦で深く傷つき、友人の妻を奪って、結婚し、傷つき、労働運動で傷つき、その傷の追求の果てに、関係の絶対性を見い出し、詩を書き、評論を書き、(傷)を思想に転換させた。いわば、(傷)をアウフーベン(止揚)した思想家である。
運動の前線に立っていた見城徹も、当然のように、二人の思想家の「本」を熟読し、そのヴィジョンに共鳴し、自らの理想を描き、あるべき世界、「革命」によって出現する世界の実現を夢見て、行動する青年であった。
ところが、見城は、運動の前線から撤退して、ただの生活する人、サラリーマン(編集者)になってしまった。挫折である。深い、深い、(傷)が発生した。
思想は、実践してこそ、思想である。

「読書」は、読んで、認識して、実践してこそ「読書」であるという見城徹の原点は?
①サルトルのアンガージュマン(参加)の思想。
②思想(芸術)と実生活の論争。
トルストイの作品と実生活ートルストイの家出をめぐる、小林秀雄と正宗白鳥の論争。思想は、実生活で実現してこそ思想と主張する小林。芸術と実生活は別ものと主張する白鳥。
③認識と行動をめぐる、三島由紀夫と埴谷雄高の対談。認識者の限界を知り、行動(自衛隊に入隊)する三島、作家、思想家は、ヴィジョンを揚げるだけでよいという埴谷。
④「革命」とは?「革命の実践」とは?
国のかたちを変えること。人間の意識を変えること。日米安保の破棄・自立する日本へ。ベトナム戦争、日本の基地化反対。天皇制の反対、否定。ヴィジョンは実践するもの。

ドストエフスキー読む前と、読んだ後では、ニンゲンがまったく変わってしまう。(おそらく、カミ・ホトケのコトバ以外で、ニンゲンが書いた一番深いコトバである)一瞬で人を見抜く、どこまでも透視するドストエフスキーの眼。
私は、ドストエフスキーを読んでいるか、いないかで、その人を見極めるクセがある。
本書で見城徹が、ドストエフスキーを熟読していると知って、突然、安心し、信用できる男だと、今までの、世間に広がるイメージを消し去った。(見城徹は、日本のドストエフスキーを探すために、編集者という黒子に徹しているのだ!!)ドストエフスキーを中心にして、現代作家たちの作品を読めば、その良し悪しやレベルは、すぐにわかってしまう。
ミリオンセラーを23作も世に出した、その眼力が、どこから来たものか、やっと、わかってきた。
ドストエフスキーも(傷)を生きる人であった。実生活のドストエフスキーの(傷)は、四大長篇(『罪と罰』『悪霊』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』)を生んだ母体である。
ドストエフスキーの(傷)には驚嘆するばかりだ。
●皇帝暗殺未遂事件の疑惑で、シベリアへ流刑(死刑寸前)●人妻を奪って妻とした●賭けごとに狂った●借金まみれとなった●てんかん発作の持病があった●生まれた子供たちが次から次へと死んでしまった●父(地主)が農奴たちに撲殺された。
なんという(傷)の連鎖であろうか。(傷)に耐えて(傷)を乗り越えて、人類最高の作品を書きあげた神経は常人のものではない。作品も人生も超一流。超不思議。(第四の「読書」)

見城徹の人生の綱領が三つある。
もちろん、(生)の現場から、(傷)から、「読書」から得たものである。
1. 自己検証
2. 自己嫌悪
3. 自己否定(全共闘の合言葉だった?)
(詳しくは、本書を読んで、考えてもらいたい)

流行作家・大家・五木寛之、石原慎太郎との、(仕事)はじめのエピソードも、実に面白い。五木寛之の新刊が出る度に、一週間以内に、感想を書いて、郵便で送った話。石原慎太郎のデビュー作『太陽の季節』は、すべて、暗記していて、語ってみせる話など。どれだけのサラリーマン編集者が、これだけの日々の努力をしているだろうか?
同世代の作家たち、中上健次、高橋三千綱、村上龍たちとの交流、新人の発掘、見城徹の仕事の流儀が活写されている。(三つのカードのエピソードも面白い)
編集者から会社の設立。「幻冬舎」の見事な成功。すべてが「言葉」の力による。経営は、胆力のいる仕事である。限度というものがない。お金はおそろしい生きものである。
しかし、日本のドストエフスキーを探す(?)という夢があれば、どこまででも、行けるだろう。三つの人生の綱領を守って。

思想でも人は死ねるー(天皇を中心とする考え『文化防衛論』)三島由紀夫の、割腹自殺は、大きな、大きな、衝撃であり、高橋和巳、吉本隆明の立場に立つ者にも、人の生き死に、如何に生き、如何に死ぬべき、ニンゲンであるかを、深く胸に刻まれる事件であった。
68歳になった見城徹は、「葬式もやってもわらなくてもいいし、墓もいらない。むしろ遺骨は、清水とハワイの海に撒いてほしいくらいだ。・・・死後は風や波になりたい」と言う。(風や波)は、また、コトバである。言葉ではない。「存在はコトバである」(井筒俊彦)「自心の源底に至った」空海の真言、コトバを、井筒が分析した。見城徹も、死後は、コトバとなって、コズミックダンスを踊る、風や波となるのであろうか?(傷)を発条にして、ヒトの声を聞き続けている見城徹は”いい耳”を持った編集者・経営者の旅を続けるのだろう。コトバそのものになっても。
もう一仕事、頑張って下さい。お元気で。

H30.8.28

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• 水曜日, 8月 08th, 2018

他人(ヒト)は青空をどのように見ているのだろうか?実は誰にもわからない ただ自分の見方・見え方があるだけだ

ゴッホの絵画の 空 顔 風景には渦巻きがある 渦の生成の秘密はいったいどこに あるのだろうか

空は廻る 水は廻る 空気は廻る 生命は廻る あらゆる物質(素粒子も)は廻る スピンするゴッホの絵画宇宙である

ゴッホは空を幻視する 渦だ と 顔を幻視する 生命は 渦だ と ヒマワリを幻視する 渦だ と 宇宙渦をゴッホは透視した

私の青空には独楽が廻っている
無数の光子がスピンしている
決して絵画のような美しい青空ではない
畏怖する美の独楽である

存在と非在の根の根を
ゴッホは渦と見た
私は独楽と見た
渦と独楽は兄弟だ

3・11の大津波の渦
原発の原子の独楽
大地震の揺れる渦
見えない海辺の量子の独楽

色彩と線と形でゴッホが見たものは
精神のリールが切れる瞬間の
分裂した 魂の宇宙である

一切が起ちあがり
一切が消失する地点で
私は無限回転する独楽を見る
見えない 透明なコトバで
宇宙を一筆書きしてみせる

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• 月曜日, 6月 11th, 2018

1.「苦海浄土」(河出書房新社刊)石牟礼道子著
2.「評伝 石牟礼道子-渚に立つひと」(新潮社刊)米本浩二著
3.「天災から日本史を読みなおす」(中公新書刊)磯田道史著
4.「刺青・性・死」(逆光の日本美)(講談社学術文庫刊)松田修著
5.「夫・車谷長吉」(文藝春秋社刊)高橋順子著
6.「仏教思想のゼロポイント」(悟りとは何か)(新潮社刊)魚川祐司著
7.「小説における反復」(作品社刊)坂井真弥著
8. 詩集「グッドモーニング」(新潮文庫刊)最果タヒ著
9. 詩集「空が分裂する」(新潮文庫刊)最果タヒ著
10. 詩集「死んでしまう系のぼくらに」(リトルモア刊)最果タヒ著
11. 詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(リトルモア刊)最果タヒ著
12.「開高健の文学世界」(アルファベータブック刊)吉岡栄一著
13.「芥川追想」(岩波文庫刊)石割透著
14.「輝ける闇」(新潮社刊)開高健著
15.「夏の闇」(新潮社刊)開高健著
16.「花終る闇」(新潮社刊)開高健著
17.「日の名残り」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
18.「遠い山なみの光」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
19.「浮世の画家」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
20.「わたしを離さないで」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
21.「忘れられた巨人」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
22.「浮虜記」(新潮文庫刊)大岡昇平著
23.「野火」(新潮文庫刊)大岡昇平著
24. 詩集「絶景ノート」(思潮社刊)岡本啓著
25.「永山則夫の罪と罰」(コールサック社刊)井口時男著
26. 詩集「愛の縫い目はここ」(リトルモア刊)最果タヒ著
27.「数学する身体」(新潮社刊)森田真生著
28.「文部科学省は解体せよ」(扶桑社刊)有元秀文著
29.「わたしたちが孤児だったころ」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
30.「夜想曲集」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
31~37.「須賀敦子全集」第2巻~第8巻(河出文庫)
38.「千年後の百人一首」(リトルモア刊)最果タヒ+清川あさみ著
39.「道の向こうの道」(新潮社刊)森内俊雄著

「読書」にもいろいあって、体力と時間とココロの用意がなければ、読めない「本」がある。作者自身が、生命がけで、ココロを叩き割られながら、書いている「本」がそれである。
意識が、はじき飛ばされてしまい、ココロは作品の色に染めぬかれて(出口なし)の状態になる。長い間『苦海浄土』を避けてきた。

①②偶然、米本浩二著『評伝 石牟礼道子-渚に立つひと』を読んだ。石牟礼道子その人を追った労作であった。その「本」に導かれて、『苦海浄土』に挑戦している。超大作である。一息ついては、休み、休んでは読み、石牟礼道子の世界に入っている。まだ、先は、長い。

③『天災から日本史を読みなおす』司馬遼太郎の次に、(歴史)を読み込んでいると言われている人、磯田道史。磯田の祖母が、徳島県牟岐町の出身と知る。徳島出身の私も(三つ隣の町)地震・津波に悩まされてきた昔話をよく聴いた。磯田の読み込みが面白い。

④『刺青・性・死』谷崎潤一郎の小説『刺青』は、美人の肌に刺青を刻む男の話である。彫師は、日本では、異端の仕事である?刺青は芸術か?美は異端の美か?私の甥(弟の長男)が、彫師になった。「刺青」とは何か?その歴史を知りたかった。

⑤『夫・車谷長吉』車谷の『四国八十八ヶ所感情巡礼』を「図書新聞」で書評をした。車谷本人が会社を尋ねて来たという。お礼のためか?さて、本書は、詩人でもある妻、高橋順子が夫・車谷を回想したものである。小説家と詩人の夫婦。そのなれそめから、夫の病い、お遍路、不意の死までを、ていねいに語っている。
島尾敏雄、ミホ夫妻にどこか似ている。夫が病気に、妻が病気にのちがいはあるが。

⑥『仏教の思想のゼロポイント』魚川祐司は、僧侶ではない。従って、どの宗派にも属していない。東大で、インド哲学・仏教学を専攻している。ミャンマーに渡って、5年間、テーラーワーダ仏教の教理と実践を修学している。
<釈尊>によりそって、日本仏教は、なぜ悟れないのか、と考察している。立場が、自由だから、<釈尊>のコトバにそって、語ってくれる。日本の仏教とは?と疑問をかかえる人はたくさんいる。<釈尊に帰れ!!>という書でもある。

⑦『小説における反復』「文芸賞」を受賞した作家の、最後の小説である。偶然作者の知人から頼まれて、感想を5枚ほど書いて、本人に送った。ていねいな礼状が届いた。数か月後に、坂井さんは逝ってしまった。
日々の、仕事、ニンゲンの「反復」する行為がテーマであった。横光利一、椎名鱗三、黒井千次等の「仕事」を継ぐ労作であった。
(後日、知人から、重田さん、いいコトバをありがとう、坂井の冥途へのいい土産になりましたと電話あり)

⑧⑨⑩⑪㉖㊳ 天才ランボーの詩、天才ル・クレジオの小説を思わせる詩人の登場である。<詩>が読まれない、日本の現代。コトバが、数万人の人に読まれている詩人である。そのコトバの自由度が、とても高く広い。ひとつの才能である。特に『千年後の百人一首』には驚愕した。単なる「百人一首」の解釈や注釈ではない。古代の、時代の(情景)や(意(ココロ))を最果の光のコトバが、現代の風景の中に顕現させるのだ。(和歌)の五七五七七が、自由な散文詩となっている。見事である。古代のコトバによる情景もココロも捨てずに、しかも、革新されたコトバで新しいリアリティをもって、世界を出現させる。正に(最果タヒワールド)である。
清川あさみの百の絵が、実に素晴らしい。コトバと絵のコラボレーションが、一体化している。

⑫⑭⑮⑯「稲門会」の読書会。開高健の世界を読む。テキスト『輝ける闇』
行動の人、食の人、釣りの人、そして何よりも「文体」を生命とした作家である。<純文学>の作家でも、「文体」らしきものを持たない者が多い現在、開高健を再読すると、眼が洗われる。一言半句に、開高健の審美眼がキラリと光る。しかし、同時に「文体」を持つ者は、追いつめられて、文章が書けなくなる。「闇」の三部作の『花終る闇』では矢は尽き、刃は折れて、苦闘する開高の姿が見えてくる。

⑰⑱⑲⑳㉑㉙㉚ カズオ・イシグロの世界へ。5歳で長崎からイギリスへ。主題は<記憶>である。
一作一作、場所も時代も変えているが、<文体>は変わらない。5年に一作しか書かない。(日本では、食べていけないだろうが)全世界で、読まれている。
<記憶>ニンゲンのアイデンティティを追求する姿勢が、読者の共感を呼ぶのだろう。<物語>モノカタリの人である。実によく取材し、観察し、熟考し、リアルを感じさせる<文体>を創出している。
<日本>と<イギリス>「と」がポイントである。「と」の深淵。

㉒㉓ 市民の「読書会」のテキストである。(春と秋に、市民の方たちにむけた「読書会」があって、私は、講師をしている)
『浮虜記』と『野火』第一次戦後派、ニンゲンの根源的テーマを小説にした。野間宏、武田泰淳、堀田善衛、椎名鱗三、埴谷雄高、梅崎春生・・・等々。
(戦争という事実)と(小説の創造力)

㉔『絶景ノート』中原中也賞とH氏賞をW受賞した詩人の第二詩集である。おそらく、現代詩の最前線の、若手の詩集であろう。
<旅>が舞台である。<日常>からのタビ。熊野へ。タイ・ミャンマー・ラオス・カンボジア・ベトナム。五感が捉える、風景、ヒト、コト、モノ、時間、空間、コトバが疾走する!!
疾走?少しだけ、吉増剛造さんのコトバの影響があり、しかし、そこから、自らの新しい地平へと、伸びるコトバがあって、確かに「ノート」のコトバになっている。「ノート」のコトバは秋山駿。着地できる「日常」はあるのだろうか?コトバは「日常」を生きられるのだろうか?

㉕『永山則夫の罪と罰』井口の30年にわたる<永山則夫>へのこだわりを、どのように考えればいいのだろうか?30年間、井口が書いてきた永山則夫論の集大成。コトバとニンゲン論でもある。(犯罪)の秘処を探っていいるのではない。あくまで、永山則夫が書いたコトバを徹々的に文学的に、考察している。
なぜ?ヒトは、コトバで起ち、コトバで生きる動物である。コトバを知らず、私のコトバを持てない貧困のうちにある者は、どうやって、(私)を表現する?井口は、あきらかに、自分の中にいる、もう一人の永山則夫を、凝視している。”私”も永山則夫であったかもしれないと。

㉗ コトバに生きる人=文学者。色と線に生きる人=画家。数・数学に生きる人=数学者。
『数学する身体』コトバは不思議だ。数はもっと不思議だ。宇宙を表現する、数、数式、E=mc2。算数から超数学まで。

<数>が、古代から、ニンゲンを魅惑してきた。大学の先生ではなく(独立研究者)として生きる、数学者・森田真生。手本は(岡潔)である。農耕と数学と念仏三昧の日々を生きた天才である(岡潔)。存在、在ることの不思議と発見から<数学>がやってくる!!
(コトバ)と(数学)何にせよ、驚きのないところに発見はない。だから、野に(私)を放つ。普通の日常に(私)を放つ、ただ、宇宙に在る!!と。

㉘『文部科学省は解体せよ』タイトルは、実に、過激であるが、読んでみると、ていねいな<教育論>である。
文部省は、小学生から、英語を学ばせる計画である。有元は断言する。ニンゲンとして生きるためには、英語ではなく、母語=日本語で、深く、思考できるように育てることが第一だと。
中学校、高校でも、生きた英語を教えられる教師がいないのに、英語教育のいろはも教わっていない、小学校の先生方が、どうやって、生徒に(英語)を教えられるのか?有元は、高校教師を経て、文部省に入る。アメリカで開発された読書による国語の指導法「ブッククラブ」を調査・改良して、日本で普及されている。いわば(考えるニンゲン)づくりをめざしている。教育者なら、一度は、読んで、耳を傾けてもらいたい「本」である。

㉛~㊲ ココロが渇いている時、良質のコトバを読みたいと思う。ていねいに、ていねいに人生を生きた人の声を聴きたいと思う。なかなか、そんな極上のコトバには出会わないが。
『トリエステの坂道』に、偶然出会った。どのエッセイも、読後には必ず、涼風が身体の中を吹きぬけた。実に、見事な文体の結晶があった。思わず、「須賀敦子全集」を購入した。熟読した。唸った。いったい、須賀敦子とは何者だ・・・と。
ココロの皺が眼に見える。他人への眼差し、仕事への熱情、文学、詩へのオマージュ、底に流れる宗教者としての息づかい・・・。イタリアでの生活、翻訳、結婚、労働、夫との死別、日本への帰郷・・・。日記、手紙、詩、翻訳、そして、見事な随筆。
疲れた時、神経が尖った時、ココロが渇いた時、須賀のコトバを、聖水のように呑む。たった7~8年の作品であるが、(全集八巻)は、一人のニンゲンの発見に至る愉楽がある。

㊴『道の向こうの道』森内俊雄、実に、なつかしい名前である。私の学生時代、新進気鋭の小説家であった。実にユニークな感性、不思議な物語。
25歳の時、小説『風の貌』を上梓した私は、敬愛する森内俊雄に読んでもらいたくて、手紙を出した。新潮社の別館で、カンズメになって、小説を書かされていた。閑かな一軒家で、庭が見える部屋でお会いした。机の上には、原稿用紙とペンと十字架があった。何度も芥川賞の候補になったが、どういう訳か?受賞できなかった!!(李恢成は受賞したのに、ロシア文学の同級生)
その森内俊雄が、八十代をむかえた。”純文学”で、生涯を貫いた作家である。作品に登場する場所、地名、喫茶店、酒場、食堂、すべてがなつかしい。早稲田の先輩でもある。(詩人であった!!知らなかった)(俳句を詠むのは知っていたが)
内向の世代(古井由吉、後藤明生、宮原昭夫、阿部昭)の一人であった。
森内さん、何時か、お目にかかりたいですね。もう、書くものすべてが、作品です。お元気で。ご健筆を!!

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• 木曜日, 5月 10th, 2018

死者の魂に呼ばれて
風景そのものに呼ばれて
時空を超える旅に出る
今日ノ花ヲ今日摘ム

ある日 突然 何かが発火して
記憶の暗箱の一番奥に眠っていた
ひとつの風景が起ちあがってきた
百年という時間を生きた
祖母キヨの故郷 阿波海南大里の寒竹迷路

木立と竹林の中に
曲がりくねった24本の細道が走っている
国道55号から海辺の松林まで
家々は閑かに 生垣の中に沈んで見えない

いくつもの入口と出口がある
歩いてみると 振り返ると
もう 道は高い生垣の中に消え
眼をあけて前方を見ると
道は緑の生垣に隠れて見えない

今 歩いている ”今” も
何時の ”今” かわからなくなる
方向感覚が狂い 時間感覚が狂い
一本道も 三叉路も 四ツ辻も
イヌマキ 寒竹 常緑樹の緑の壁で見えない
前も後も 右も左も 道があって道はない

五歳の少年は泣きベソをかいた
「お祖母ちゃん 手エー放さんといて ボク迷児になるさかいな」
十歳の少年が言い放った
「お祖母ちゃん 大里の道はおもしろい ボク 友達と ”お鉄砲屋敷” 探険してくるわい」
六十歳で歩いてみると 曲がりくねった24本の里道は 閉じてはいない 開かれている
見えない道へと
大里では ”私の時間” が自然に ”時熟” していた 道も生きている 四百年の時空を超えて

※(長篇大河小説『百年の歩行』全30章の中の第1章を「詩」にしてみました。平成30年刊行予定)

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• 水曜日, 1月 24th, 2018

3301. (無)から来た(私)という骰子を今日も振り続けている。あれかこれか。あれでもない、これでもない。

3302. もう(私)は私自身を一日も考え続ける力をなくしている。いや一時間も。いやいや、ものの三分も。意識は切れ切れで、欠伸までしている。

3303. 舗石の上を歩いている、意識の上を歩いている。区別などない。

3304. 非想非非想天の歩行。至るところなどない位相への希求。

3305. 日常の中でも”踏みはずし”をしてしまう。やれやれ、硬い地面がない。一切が流れて、崩れて、深淵へ。

3306. 一度は、必ず、時代と切り結ばねばならない時が来る。手持ちのカードをすべて切ってでも。

3307. 四方八方へと歩いていた(私)も、終に(私)自身の記憶の暗箱の一番深いところへ、歩を進める時が来た。(私)という他者にむかって。

3308. コトバを無限遠点へと放つ覚悟でアーラヤ識から湧きあがるコトバの種子を待っている。コトバの振幅の強度を。

3309. 眼には見えないが、(気配)が漂うことがある。形・色・匂い・音もないのに(気配)がある。わかる。春の(気配)、死者の(気配)、戦争の(気配)、殺気の(気配)。不思議な現象である。量子の、ダーク・マターの(気配)は感じられないものか?

3310. ニンゲンの大半の行為は(真似)である。食事も野球も読書も仕事も恋愛も。自分だけのオリジナルは、ほとんど存在しない。(私という存在も)コトバだって、誰のものでもない、(真似)の反復である。(生も死も)それでも、ニンゲンは(私)だけのオリジナルを希求する!!(死なない(私)などを)(不死の人)

3311. 散文が、いつのまにか、詩になり、アフォリズムになり、意識の流れになる、そんな作品「本」は可能であろうか。コトバという宇宙。そして(真言)へ。

3312. 病気をすると、(コレが私ダ)という思い込みが崩れてしまう。(病気という私)を受け入れられぬ。本来、(私)という病気をしている私であるのだ。生・老・病・死は、変容する(私の貌)だ。

3313. (健康)=いいもの、(病気)わるいもの、という概念を捨てる。(健康)は(私)であったり、(病気)が(私)であったりするから。つまり、(生)という(私)、(死)という(私)を同時に生きている。

3314. コトバで考える人、数字で考える人、音で考える人、色と形で考える人、筋肉で考える人、さまざまな手法がある。(宇宙)が来る、ニンゲンは、来るものを表現する。

3315. (青空)を、ヒトは、どのように感覚しているのだろうか?おそらく、一人一人にそれぞれの(青空)がある。他人の(青空)の感覚の仕方は、(青空)のわかり方は、自分には、わからない。

3316. 物質の時代は終った。見えないものの時代が来た。

3317. あれかこれか、AかBか、おそらく、どちらが正しいかではない。ニンゲンにとって、必要なものは何か?なのだ。真偽は問わないのだ。

3318. ニンゲンは、いくつもの誤ちを選択してきた。しかし、修正し、改善し、もう二度と、と考える。それでも、正しく、選択できるかどうかは、わからない。世界の紛争と戦争とテロの実体を眺めてみると、背筋に悪寒が走る。

3319. 戦争を起こさない、戦争を止める、人類共通の(法)が見つからない。

3320. 木は、木を記憶しなければ木そのものになれない。(木の記憶)

3321. もちろん、ニンゲンも、ニンゲン自体を記憶していて、ニンゲンになる。原理から言えば”光”も同じことであろう。

3322. ビッグ・バンも、ひとつの記憶であろうか?宇宙自体の。

3323. 存在はもちろん、空間も、あるいは、非在さえ、見えないもの、ある巨大なものの記憶にあるか?

3324. ヒトの名前が、風景が、現象や事象が、習い覚えた(知)が(私)の記憶の中から消えていく日々。記憶の暗箱の底に沈んで出て来ないのだ。つまりは、ニンゲンを終ろうとしている。

3325. 歩いた分だけ、ココロに皺ができた。苦・悲・喜・楽…刻まれた皺の数を読む。

3326. 人を変えるものが、思想と呼ばれるなら、コトバは、その中心に置かねばならない。

3327. 父母というニンゲンの系統樹を超えて、光であったころの(私)を幻視する。宇宙に遍在する無数の(私)がいた。

3328. (私)は固定された「物質」であるはずがない。変容するネットワークの塊である。

3329. 地上に、水の中に、土の中に、空気の中に、天に、宇宙に無数の(生命)が存在する。ホレ、(生命)を定義してみろ!!

3330. (私)はひとつの宇宙であった。(私)が無数に増えると、いつのまにか宇宙も無限個になった。

3331. 生きても、生きても、何もわからない。巨きな手で目隠しをされているみたいで。

3332. セイカツをすることがニンゲンの一生であるなら、(私)は、はじめから欠伸をしていた。いや、他人の真似をしていた。本当は、(私)=(宇宙)を知悉したいだけだったから。

3333. 闇から闇へと行く身であってもせめて(私)という花火として光りたい。

3334. 光の無限放射に触れていると(私)が呼応して、私自身も、時空へ無限放射されて、(私)が誕生する前の、億年の記憶に触れているような、とても、とても、なつかしい感覚に襲われるのだ。(私)は、太古の大昔にも、確かに存在した!!と。(私)が光であった頃。

3335. 脳の記憶は、実に、浅く、短い。存在自体の記憶は、もちろん宇宙大である。真夏の砂浜で、太陽の光を浴びながら、青空に対峙していると、光の記憶まで透視できる。

3336. (現在)の(私)は、唯一、絶対ではない。(私)は宇宙に遍在している。もちろん、時空を超えて。わかるかな?

3337. (宇宙)をニンゲンの手で創り出してしまう~余りにも、巨きすぎて、まるで夢幻かと思える計画に、挑戦している科学者がいる、と知って、驚嘆したが、道具を作り出したニンゲンの、最終の夢は、時空をも、創出することにちがいない。

3338. (現実)は、ただ、そこに、眼の前に在るものではない。無数のニンゲンが、支えて、支えて、無数の手が支え続けて創りあげたものである。

3339. 手の歪みは、そのまま(現実)の歪みとなる。歪みを作るのも、修正するのもニンゲンの手である。

3340. 読むたびに、ひとつのコトバが、無限に変化する、そんな量子的なコトバが、ニンゲンには可能であろうか?

3341. AがBに、BがCに…1が2に、2が3に…自由自在に変化してしまうコトバに、現在のニンゲンの頭脳(思考)は耐え切れぬであろう。しかし、宇宙は、宇宙のコトバはおそらく、そのような存在としてあるのだろう(畏怖)

3342. 意味の深みへ、形の深みへ、音の深みへ、どこまでも深化していくコトバには眩暈しかない、ニンゲンである。

3343. この(私)に、何を与えてあげれば、ニンゲンらしい(生)となるのか?ニンゲンらしい(死)となるのか?

3344. 光と水と土を得て、充分に(木)として立っている。簡単な生の形は、美しい。

3345. 文明という着物でニンゲンは膨らみきっている。大地震、大津波、大雨、原発では、素の、裸になってしまったニンゲンが、また…さまざまな着物を着る。

3346. 身体が重い。気が滅入る。アンニュイ。メランコリィ。ウツへ。虚へ。空へ。無へ。何もしたくない病の根源には、もちろん(死)がある。存在の、耐えがたい、軽みの時代に。

3347. 宇宙の誕生のメカニズムは、いつの日か、科学者が解き明かしてくれるだろう。しかし、なぜ、宇宙が誕生しなければならなかったのかは、科学では、解けない。哲学、宗教、文学の存在価値は、その問いに答えることにある。

3348. (私)は、どうして、顕現しなければならなかったのか?(私)を(宇宙)に置きかえても、同じことだ。

3349. ほとんどのニンゲンは、人の世を生きる。一生かけて。(人間原理)しかし、人の世を生きることに、合点がいかない種類がいる。「内部の人間」たちである。おそらく、(宇宙原理)そのものに触れているのだ。

3350. 悲しみは共有できる。不幸も共有できる。苦しみも共有できる。もちろん楽しみも共有できる。ただ、身体の痛みだけは共有できない。ああ、今日も、終日、歯が痛い。

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• 水曜日, 1月 24th, 2018

①『グッドモーニング』(新潮文庫刊)
②『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア刊)
③『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア刊)
④『愛の縫い目はここ』(リトルモア刊)
⑤『最果タヒによる最果タヒ』(青土社刊)

「コトバの自由度」について(見事な、シンタックスの結晶がある)

若い詩人「最果タヒ」の詩集と本を五冊ほど読んだ。コトバの自由度が広いので驚愕した。

10代の終りごろから、20代のはじめの頃に、ニンゲンの内部で、突然、コトバが爆発する時がある。内的意識がそのままコトバとなって、一人のニンゲンから湧きあがってくるのだ。”天才”と呼ばれることもあるひとつの現象である。
ランボーの詩、
ロートレアモンの詩、
ル・クレジオの初期の小説、
等にも、同じような、自由度を感じた。

より良く生き、よく熟考した人の深いコトバではない。(しかし、深い)(疾走する深さである)
まだ、世間、社会、世界の約束に縛られていない、コトバの自由度のままに、想像の世界に、舞い、踊る詩である。
体験をもとに、考え、構成し、想像する作家たちのものとは、まったく異なる。存在そのものに触れる詩である。コトバが存在である。

その最果タヒの「小説」=散文を読むと、その自由度が殺されている。一歩一歩、思考して、進む散文、小説は、さほど感心しなかった。なぜだろう?
小説には「物語」があり、「時間」があり、「舞台」があり、「他者」がいる。すると、あれほど、自由度を誇った最果タヒのコトバの力が減少する。
コトバの自由度は(少ない方から考えると)
①散文
②詩
③アフォリズム
の順番であろう。
<書く>という、自由度を、縛るものがあるほどに、コトバ自体もその自由度がなくなる。
不思議である。
最果タヒは、自然に、インターネットにむかって、書いていると、他人からそれは「詩」だと言われたという。詩、散文、小説という、ジャンルを考えることもなく(私)を、(私のコトバ)を放っていただけである。

50年も原稿用紙に、モノを書き続けている私にとって、パソコンもインターネットもメールも出来ない私にとって、「インターネットから生まれた詩人」は信じられない詩人、存在者である。

詩人、石原吉郎が、シベリアのラーゲリーから帰還して(断たれてしまったヒトやモノとの関係を)コトバによって回復しようとして失われてしまった「コトバ」を求めて、「詩」を書きはじめたエピソードとは(断念から)まったく異なる。

最果タヒは、人に、読者に(顔)を見せない詩人である。(中原中也の詩集に、中也の写真があるのを、ひどく嘆いていた!!)
一切のコトバが、最果タヒというペンネームのもとにある。<実像>と<コトバ>を完全に切り離したいのだろうか?(私)はコトバである、と。

なんでも語ってしまう。(語れてしまう)タブーがない。コトバが唯一の実在である。ニンゲン世界からも自由に在る。まるで、宇宙の、たったひとつの原子のように存在する。

コトバとして、生れてしまったものが(私)であり、それ以外は、ない。その統合が「最果タヒ」という名前である。とりあえずの。

ランボー、ル・クレジオの歩みを考えると、最果タヒの歩みも、困難に満ちたものになるのだろうか?今、注視したい詩人。

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• 木曜日, 8月 03rd, 2017

”無”と”無限”が結婚する。

長い間、バッハの音楽を聴くたびに、そんな思いを強くした。オルガン音楽は、無限螺旋階段を、昇ったり、降りたりした。ヴァイオリンによる、無伴奏パルティターやシャコンヌは、気が狂いそうな無限深淵へと、聴く者を連れていって、虚空へと放りだしてしまう。

ある深夜のことだった。ラジオの、深夜放送に、ゲストとして、ヴァイオリン奏者の、千住真理子が登場した。二年間、出演したが、今夜が、最後だから、と挨拶をして、今夜は特別に、生放送で、バッハを弾くという。
「バッハは、禅僧にならなければ弾けません」私は、そのコトバに、同志を見た。

ニンゲンの運命のベェートーベンでもなく、疾走する悲しみのモーツアルトでもなく、大地の歌のマーラーでもなく、光の煌めくドビュッシーでもなく、バッハは、神的なのだ。

バッハが流れた。千住真理子が翔んだ。バッハは、禅僧になって作曲した(無相)。千住真理子は、禅僧になって、ヴァイオリンを弾いた(無我)。私も、自然に、禅僧になって、バッハ音楽を、聴く人になっていた。(無心)。

闇の底に横たわっている、手と足が消えた。眼と鼻が消えた。舌と肌が消えた。胴体と内臓が消えた。頭と意識が消えた。耳だけが、宙に浮いていた。バッハが流れる。バッハの時が流れる。いつのまにか、最後に残った、私の耳まで消えていた。私は、私の外部へと誘い出されていた。

何処へ。果てへ。深淵へ。無限へ。はじまりもなく、終りもなく。快楽は大欲であった。私は、バッハの音になっていた。バッハと、千住真理子と、私が、ひとつの音となって、生きていた。至高者になっていた。

そして、終に、

非想非非想天へと、超出していた。そこには、異次元の時空があった。バッハ音楽(うちゅう)である。

”無”と”無限”が結婚している。

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• 土曜日, 6月 10th, 2017

「イデアという花」良いですね、文句なしです。
貴兄のこれまでの思索が集約されているのだろうな。