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• 月曜日, 2月 04th, 2019

~人生の楽しみは、よき友にめぐりあうことである。(昇)~

俳句道をひたすら歩き続けて、終に俳句になった男である。
俳聖・芭蕉は、伊賀上野から江戸へ。遠藤若狭男は、福井の若狭(敦賀市出身)から東京へ。いつも、何かをはじらい、はにかみながら静かに笑みを浮かべている立ち姿の遠藤がいる。
19歳の出会い、いや邂逅、いや小説や物語よりも不思議な縁によって知り合った。
京都・百万遍にある「平安予備校」の大教室。300人から400人はいただろうか?浪人時代のことである。
ある夏の日、偶然隣に坐った、見知らぬ青年が、「僕、俳句やってや。読んでくれんか」ノオトに、数句、俳句を書いて、そのページを破って、手渡してくれた。

炎天下僕には僕の影がつく

春雷や少年遠き海を愛す

寒月や信仰なき身に翼欲し

生れてはじめて、「俳句・文学青年」に出会った瞬間であった。実に、繊細な文学言語をものにしていた。(早熟)
それから、53年間「文学」の友・いや朋輩となった、遠藤喬(若狭男)である。高校生でもない。大学生でもない。宙ぶらりんの浪人という存在。

偶然にも、運よく、早稲田大学に合格し、入学式が終って、教室に入ると、そこに、遠藤喬がいた。お互い、どこの大学を受けるとも、一切、話したこともない。ただ、挨拶を交わす程度の仲であったのに。奇妙な再会であった。
春の、大隈庭園での、スナップ写真がある。緑の芝生に横たわって、風に吹かれて、春光を浴び、笑っている。クラスメートの、石川知正君、遠藤喬君、そして、私の三人。
三人とも、一浪の末、約30倍の競争率を、勝ちとっての合格であり、ココロのやすらぎが、全身のくつろぎとなって、漂っている。
大学二年生になる年に、教育学専攻から、国語国文学科への転入試験を受けた。申し合わせた訳でもないのに、受験生は、遠藤君と私の二人であった。いわゆる「文学」を志した訳だ。
国語国文科は、俳句、短歌、戯曲、小説、アフォリズム、作詞と、多才な才能を発揮した、鬼才・寺山修司が在席した学科であった。遠藤喬は、高校時代に、雑誌に俳句を投稿して、選者の寺山修司から「日本の高校生俳人の五傑」に選ばれていた。ギターを弾き、サキソフォンを吹き、ブラスバンドで指揮棒を振っていた音楽青年の私とは、「文学」への志が違った。

同人雑誌『あくた』(1~13号)時代。教育・国文の2つの学科の有志が集って、同人雑誌をはじめた。小説、詩、評論、戯曲、歴史小説が載った。
後に、政経、商学部、法学部、文学部、そして、青山学院の在校生も参加して、13号まで続いた。息の長い同人雑誌であった。(数十人が参加した)
私は拙い、習作、小説を書いていた。
遠藤喬は、大学二年生になる直前に突然、父を亡くして、アルバイトをしながらの苦学生となった。それでも、創作意欲を刺激されたのか、5号から投稿者となり、同人に加わって小説「風霊」(60枚)を、9号に「乖離」(134枚)と12号に「告別」(172枚)を掲載した。後に、小説集『檻の子供』として上梓。8号には、「檻の弱獣族たち」として、16才から21才までに詠んだ俳句から、50句を選んで掲せている。
お金もない学生が、なんとか、お金を出し合って、(表現)への熱い思いを実現した、同人雑誌であった。1号は200部(定価200円)、13号は500部(定価400円)を印刷して、同人で販売した。(赤字)
創刊号は約60ページ、13号は約140ページ。昭和43年から昭和51年まで約8年間続いた。
合評会「茶房わせだぶんこ」「喫茶ラビアンローズ」では、作品の批評、分析、白熱した討論が繰りひろげられた。(小説論と芸術論)

遠藤喬は、庄野潤三、森内俊雄、古井由吉、伊東静雄と大人のセイカツの中にある静かな(私性)の強い作風・作家たちを敬愛していた。(ただ一人例外は『金閣寺』を書いた三島由紀夫)

伊東静雄は、京大を出て、大阪・住吉中学の教師をしながら孤高の詩を書き続けた。(第一級の詩人)
遠藤喬は、早大を出て、東京・目白の川村学園の教師をしながら、俳句を詠み続けた。同じように、都市生活者でありながら、芸術を探求したスタイルが似ている。
第一句集『神話』 第二句集『青年』 第三句集『船長』 第四句集『去来』 第五句集『旅鞄』を上梓した。約2400の句が収めらている。詠んだ句は、おそらく、その二倍以上はあるだろう。

「父、母、故郷」への哀歌が目につく。

「金閣寺」の句も、「八月」の句も「癌」という病いの句も、すべて遠藤若狭男の、人生の(私性)が色濃く漂っている。

敬愛した作家森内俊雄が称えた句。

われ去ればわれゐずなりぬ冬景色
(この句を詠んで、12年後の12月16日冬に遠藤は逝くのだが・・・)(享年71歳)

「鎮魂」として
八月のホテルにこもりニーチェ読む
(「八月」は死者の霊を弔うお盆のためか?あるいは敬愛する伊東静雄の「八月の石にすがりて」に啓発されたのか?単に、夏・八月が好きであったのか?)

修司忌や津波のあとに立ちつくし
(寺山修司は、俳人・若狭男発掘の恩人)

ふるさとは菜の花月夜帰らばや

若狭去る日の丘に群れ赤とんぼ
(故郷哀歌、抒情あふれる句)

旅鞄重たくなりぬ秋の暮
(「旅鞄」は父の遺品。第五句集のタイトル)

金閣にほろびのひかり苔の花
(三島由紀夫『金閣寺』は遠藤の生涯の愛読書)

わが肺の癌たとふれば霜の花
(胃ガンから肺ガンへ転移)

人間の証明として枯野ゆく
(第五句集、最後の句。俳聖・芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」に殉じた句か?)

若い頃、(大学生の時か?)遠藤君に、真剣な眼差しで、質問されたことがあった。今でも、その声が、耳の底に残っている。妙にココロを刺している。
「重田、意識ってなんだろう?わからないんだなあ」私は、なんと答えたか覚えていない。
三島由紀夫の『金閣寺』を読んで「唯識」(大乗仏教)のことが気にかかっていたのか?(アーラヤ識と種子が)
現在なら、哲学者・ジル・ドルーズの「意識は、文字どうり、眼を開いたまま見ている夢にすぎない」と答えたかもしれない。

訃報のハガキを受け取って(和子夫人から)もう10日ほどになるが、遠藤若狭男の俳句を詠み続けている。
俳人を知るには、俳句を読むしかない。残された者にできることは、その俳句を、後の世に伝えることである。
俳句は、若狭男は、時を超えはじめた。友よ、朋輩よ、ありがとう。

時を超え若狭男俳句が翔んでいる。(昇)

平成31年1月29日

Category: エッセイ
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