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• 月曜日, 2月 04th, 2019

3351. 宇宙の歯車が、時代の歯車が、またひとつ廻って、ひと呼吸遅れて、(私)も私の歯車を、ゆっくりと廻している。

3352. もうここらでいいだろう、完了しても。と精神は語っているのに、身体は、老いても、病んでも、執拗に生きのびる!!だらだらと。

3353. 逆に、精神は、もっともっと、まだまだ生きたいと叫んでいるのに、病んで、挫折して、ポキンと折れて、滅びてしまう。(私)という生命であるのに自由が利かない。ニンゲンのかかえる矛盾である。

3354. (私)は私以上に大きなものに生かされている。あるいは、大きなものに殺されてしまう。

3355. (事実)はたったひとつだと思っている人は幸せだ。(事実は)、視点によって、人によって、実に多様である。固有なものなど何もない。と考える人は、いつまでたっても、宇宙で、宙吊りになったまま揺れ続ける。不幸なことに。

3356. あらゆる存在はメッセージを放っている。(生きものでなくても)(石でも水でも)それは、存在のコトバである。

3357. 時間や空間も(真空)も時空そのものが、宇宙のメッセージである。

3358. ゆえに、声や文字でなくても、メッセージを放つものは(あらゆる量子も)コトバと言える。(広義の)

3359. 見えるものも、見えないものも、存在するものも、非在と思えるものも、メッセージは放っている。宇宙は無限のメッセージの放射体である。

3360. 量子は、コトバでも数式でも語れぬ。語れば別のものになる。つまり、すりぬけてしまう。同じように「悟り」もコトバでは語れぬ。「悟り」の心境は釈尊も語っておらぬから「無記」わからない。

3361. つまり、モノもコトも、そのモノ自体の(真)は終に、ニンゲンには、語れない。わからない、不思議である。(本当のもの)を見れば気が狂うだけの、ニンゲン存在の限界である。

3362. さて、では、(私)は、ただ、不思議な存在としての(私)の生きるという衝動に身を委ねているだけか?

3363. ココロは、意識の流れから生じて、終に、量子的存在となる、つまり、謎、不思議体である。

3364. 海辺に押し寄せてくる無数の波にはただひとつとして、同じ波はない。しかし波の形をしている。光も木も草も砂も同じことである。たったひとつのものが、無限変容して別の形になっている。(量子の泡たち)

3365. 生きたり死んだり、死んだり生きたり、現象は泡かもしれない。たっとひとつの「泡箱」がある。

3366. 意識が写す現象という幻。

3367. 事象の地平線に、ニンゲンは永遠に起てない。しかし、想像はできる。

3368. (歩く)をコトバで書くのは、矛盾である。コトバから遠く離れるためにぼんやりと、ただ歩いているのに。

3369. ニンゲンをしている。”生涯現役”とは、単に、(仕事)をしていることではない。何をしていてもいいのだ。ただ実在している(私)が、いつも、ニンゲンをしていればいいのだ。

3370. 宇宙に、地球に、放たれた(私)は、ニンゲンへの道を歩き続けている存在である。

3371. コトバで(事実)は表現できない。ゆえに、小説は(虚構)、ノンフィクションやエッセイは(事実)と、語っている一般人の認識は、誤りである。

3372. 何時、何処で、誰が、コトバを発したか?を考えてみるだけで(事実)の根拠は崩れてしまう。

3373. コトバとしての(事実)があるだけだ。

3374. 他人を見る、月を見る、天の川を見る(見る)ための差異は、いつも、(事実)を、遅れたコトバで表現する。(意識が、他人を、月を、天の川を生かしている!!)

3375. ニンゲンが生きるために、都合がいいように、(じじつ)を共有のものにしたいのだ。

3376. 書かなければ、消化できないものがある。ココロが混沌として、無数の糸が絡み合い、形が、顔が、顕れない。

3377. コトバの中に、移して、コトバを放って消化できないものに、目、耳、鼻、口、足、手と形を与えて、のっぺらぼうを、眼に見える形にする。

3378. ものに、位置と場と形と質量を与えて、やつと、ココロは、混沌から解放される。

3379. しかし、それで、安心というものではない。もの自体は、コトバの中にはない。あくまで、仮構したものの姿である。

3380. その証拠に、コトバで整理されたものたちは、また、コトバとなって、分裂し、結合し、離脱し、いつまでたっても、落ち着くことがないのだ。

3381. 朝、眼が覚めて、(私)が、いつものステージに立っている。と認められるヒトは、幸せである。今日も(私)は、歩いて行ける。自然な(私)として。あらゆる存在の網の上を。

3382. 意識が、ある、ひとつのステージに立つ(私)を認めた時、実感という、自然な(私)という存在が顕現する。

3383. 思考は、意識のあとを追うひとつの術である。

3384. (私)を喪う人がいる。つまり上手く、ひとつのステージに(私)が立てない人である。ただ、空洞、がらんどうだけがあって(私)はいない。辛いことだ。

3385. (私)が分裂するのは、あらゆるステージに(私)が偏在してしまうためである。ヒトは、そんな(私)を認められない。

3386. ただし、多重人格者は、自由に、あらゆるステージに、別の人格として立つことが可能である。

3387. あらゆるものを考える、考えるということも考えたデカルトであるが、虚数(i )だけは認めることがなかった。実体・数の信仰者デカルトは、どうやって、(神)を信仰したのか?

3388. ニンゲンの最高の武器・思考(考えるということ)は、どうやら信仰とはまったく別のものだ。

3389. 思考の、直観の外にあるもの。量子。ニンゲンの能力の及ばぬところにあるもの。いや、あるもないも、超えたもの。(本当のもの)を見れば、ニンゲンは、気が狂ってしまう!!

3390. だから、ボチボチ、まあまあ、で生きる。その以上を希まない。ところが、気が狂っても、行きたいニンゲンがいる。

3391. (仕事)で使うのは(どんなに厳しくても)ニンゲンの一部の能力だ。まだまだ眠っている力がいっぱいある。死ぬまでに、使ってやらなければもったいない。

3392. (仕事)を現場と呼ぶ。で、現場を離れていると、まるで終ったニンゲンのように思う。いやいや、ニンゲンという(存在)の現場では、まだ、いろいろな力が試される世界だ。

3393. (私)は、在る、在るの世界を生きすぎた。(私)は、無い、無いの世界も生きるべきであった。

3394. 見えるものだけを見すぎた。もっと、見えないものも、見るべきであった。

3395. 外へ、外へと歩け、外部へと歩け、外部という表面が世界のすべてだ。

3396. 内へ、内へと歩け、内部へと歩け、内部という深淵が世界のすべてだ。

3397. 外は内、内は外、外部も内部もあるもんか。たったひとつのモノが外と内の貌を覗かせているだけだ。

3398. そのように考える、そのように意識する、そのように存在する。そのこと自体が、ニンゲンの見る夢幻である。

3399. ヒトは、なぜモノを書くのか?モノ書きは(小説家であれ、詩人であれ、書家であれ)エクリチュールの魔にとり憑かれているニンゲンである。ゆえに、何を、どう書いているかよりも、書く瞬間の、コトバの快楽に生きている種族たちである。

3400. 「本当のもの」を見た人は発狂してしまう。ニンゲンのココロは「本当のもの」に耐えられるほど強靭ではないから。「本当のこと」を告白することもできない。ニンゲンの全細胞が反乱を起こして、それを拒否するから。まあまあ、ぼちぼち、仕事でもしている方が、ニンゲンには似合っている。
しかし、突然、それを見てしまったニンゲンもいる。ニーチェが、ゲーデルが、ゴッホが「本当のもの」を視た。そして発狂した。物理学者の、ファインマンは、そのことを熟知していた(ノーベル物理学賞受賞)量子は、ニンゲンの頭脳では考えられぬ。わかった、と考えた時、量子は、するりと擦り抜けているから。量子は、「本当のもの」をニンゲンの眼から頭脳から、隠している。永遠に。

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