901. ニンゲンは、宇宙の風媒花である。行け、時空を超えて。
902. 黄金の時間を食い尽くして生きよう。
903. 神々のいなくなった荒野を歩いている。
904. 経験というものが、役に立つ領域は限られている。生きれば、新しいことばかり。
905. 激しい快楽が、静かな燠火の楽しみに変わってしまった。
906. とりとめのない、普通の一日も、ありがたい。
907. 一応、ニンゲンと呼ばれて生きてきたが、(私)が解ったためしがない。
908. 宇宙の総時間から見れば、ひととき生きて、滅びてしまう。小さな惑星・地球のニンゲンたち。何処まで行けるだろうか?何が出来るだろうか?無限の時空は、存在の秘密を覗き見させてくれるのか?
909. 形態の進化には、億年単位の時間が必要だ。一人のニンゲンには、手も足もでない、気の遠くなるような、無限のひろがりの前にて、内爆発を起こして、むなしい抵抗を試みてはいるが・・・。
910. 「神は存在しない」そう呟かざるを得ない時代に生きているニンゲンが、次に求めるものは、時空の行方か、存在の究極の姿か。
911. 物質も、動植物の生命たちと同じように、もうひとつの記憶体ではないのか。千年、億年の石を眺めていると、そんな妙な気がした。いやいやと頭を振って歩きはじめたが。
912. いつも、一日のはじまりには、正坐をして、一日に向き合う儀式を行う。図面を描いて、計画を立てて、一歩を踏みだす瞬間には心の掛け声。
913. 音速者、光速者、思考者。一歩一歩、歩いてきたニンゲンも飛びはじめた。そして・・・。思考の十一次元へ。
914. 今日も、一日という地球の自転のリズムが刻まれる。泣いたり、笑ったり、昼と夜を分かたずに。
915. 目覚めると、(私)は、そいつに気がついて、いつものように握手をしている。
916. 無限に広い海、無限に広い空と思った頃のニンゲンは、まだ、牧歌的で、幸福であった。
917. 空の青、空の闇、どちらも、果てがなかった。地球の外から眺めてみると、空の青は薄く、細い帯となり、空の闇だけは、どこまでも続く、漆黒の闇・深淵である。「夜と昼」どちらが本当の顔かわかっただろう。
918. どんよりとした曇り空の下、肩にかかる重力が、いやに重く感じられる。
919. 1日の中に(私)が納まりきらぬ日がある。狂おしくて。
920. 会うのは、歩いている人ばかり。歩行する姿も形も十人十色。
921. 町を見て、国を見て、宇宙を見て、最後に見るのは、事象の地平線の彼方にある(私)。
922. 「何処か」は、いつも宙吊りであって、着地点が決まると、(現実)の(今・ここ)に吸い寄せられる。だから、「何処か」へは、永遠に行けない。
923. (私)の死後、ニンゲンたちの死後、宇宙は、何事もなかったかのように、存在し続ける。虚無感が生じるのは、そんな時だ。
924. 夢中になって仕事をしていたら、そろそろニンゲンの終わりの時だった−で、さようならだ。いったい、何をした?
925. 人は、「一生」を生きるのではない。(今・ここ)を生きて、生きて、生きてきたことが、人の一生と呼ばれるだけだ。
926. 無数のニンゲンがいて、会える人は、ほんの一握り。無数のモノが溢れていて、無数のコトが起こって、(私)が関係するのは、手がとどく範囲のものだけだ。
927. 物語は、意識を乗せていくのだ。だから、言葉は、意識が光のように、あらゆるものを照らし出すように在らねばならない。そう、光に耐えられる言葉が必要である。
928. もう、いや、いまや、いまだに、(私)は決定されない。(私)は、不可能だ。
929. ニンゲンと呼ばれている(私)を名付けられない。
930. (私)が、どのようにして(あなた)になれる?
931. 生れ変わるのではなく、生れ直すのは、可能だろうか?つまり、(私)が、ふたたび、生れるのだ。だから、復活でもなく、輪廻転生でもなくて。
932. やはり、魂と呼んでしまうことに問題があるのだな。ソレを。余分な色がつく。
933. 何をしている?と問われたら、迷わずに、照れずに、「文学」をしていると断言できる人が、何人いるだろうか?相手の眼を、正面から見て。作家と呼べる人は少ない。
934. 宇宙を解読するのが、「本」であるのか?宇宙自体が記された「本」であるのか?
935. 一日という時空を書くことは、誰にも出来ない。「一日、何もなし」と日記に書いた人は、何を書いて、何を書けなかったのだろうか?
936. 意識は、いつでも、自然に、在ること、を確認している。
937. 魅入られたように、モノにのめり込む。そのモノが仕事であれば、文句はあるまい。趣味であれば、どうであろうか?悪徳であれば、取り返しがつかない。
938. 宇宙が、宇宙自体が見ている夢のひとつであるならば、当然、ニンゲンも夢見られている存在のひとつにすぎない。(哄笑)
939. 「悩みの種」がなければ、誰も悩まないだろう。生きている限り、悩みが発生する、生きること自体が「悩みの種」だから。
940. 死者たちを見る時、いつも、頭の隅で、いったい、ニンゲンは、何をしてきたのだろうと考えてしまう。
941. 山の中に山があり、その山の中にも、また、山がありというふうに、山は、幾多の山をかかえ込んでいる。
942. 在ることと見ることは、永遠に結びつかなくなった。誰がそうしたのか?量子論のハイゼンベルグだ。
943. 見えなくても、聞こえなくても、話せなくても、ヴィヴィドに生きていたヘレン・ケラーという存在。いったい、彼女の何が生きていたのか?覚醒したのは何か?
944. ほんの少しだけ、感覚を揺さぶられると、もう、ニンゲンは、自分がどこにいるのか、何をしているのか、わからなくなる。空海の手法。戒壇めぐり。
945. 時代には、いつも、その時代にふさわしい死生観が生れる。神話の時代の、宗教の時代の、科学の時代の。宇宙の時代の死生観とは何か?
946. 一番の恐怖は、終りのない苦痛である。永遠は恐怖だ。
947. 気絶する人がいる。無限の中の生の一回性に目覚めて。しかし、歩け!!
948. 歩くと、いつも、中心が動いているという感覚が生じる。(私)という不思議が歩いているから。
949. 痛みは、ニンゲンの、良い部分を殺してしまう。何を考えだすかわかったものではない。
950. 中心を失ったニンゲンは苦しい。どこもが中心であると言われても、救いを、求める、中心もない。
801. もういいと自分の一生を思う時に、充分に生きたと思う人と、不運と不幸でうんざりだと思う人の差が生じてしまう。
802. 手で、自分の手で、モノを作る、それが一番、ニンゲンらしい仕事だ。
803. 腰の重い人だと言われるが、いざ、出発と決まると、今度は、疾走して、止まらなくなる。不器用な男だ。
804. (私)の死ぬということがわからないように、(私)の生れるということもわからなかった。気がつけば、(私)がいる、(今・ここ)に、それだけだ。
805. 不安、痛み、恐怖、ニンゲンが、逃れたいと思うものの、ベスト3であろう。困ったことに、生きて、存在する限りは、なくならないものばかりだ。
806. 楽しみ、喜び、快楽、感動、感激、法悦、60年も生きているのに、悲と苦の思いばかり多くて、(快)は少ないものだ。何日あった?
807 (数)は宇宙にあるものの名前か?
808. (考える)ことの範疇にないものに対して、(考える)という方法で挑む−それは無謀だ。
809. 1はわからない。1はこわい。1は考えられない。だから、2からはじめる。はじまりの2は1ではない。
810. 夫婦(2)は子供(1)を生む。2は1である。日本語としては、ちっともおかしくはない。しかし・・・。
811. 思考の連鎖がはじまっている。あらゆるものが、結局、ひとつのものに、通底してしまう。
812. 数学の問題を解くように、人生の問題を解く。それは、どだい、無理である。質と位相がちがう。
813. 生きる・一番の必要は、湧きあがるエネルギーだ。衰弱が一番困る。まだ、堕落する方がましだ。
814. すべてを失うことが、快感であり、心が、もっとも落着く人もいる。(自己処罰)
815. モノをもらったり、モノを持つと、妙に落着かず、持ちおもりがする種族(タイプ)が、必ずいる。
816. 誰もが、罪人になることを、拒むわけではない。大きな力で、処罰されて、ホッとする人もいる。早く捕らえてくれ、早く死刑にしてくれと。
817. ニンゲンは、実に、奇妙な生きものだ。助けてくれ、とも、殺してくれ、とも叫んでしまう。
818. 父殺し。王殺し。神殺し。存在殺し。連鎖してしまう、殺すということ。誰が?
819. 引き裂かれたまま生きている(私)
820. 空はいつも泡立っている。光の独楽が廻っているから空間はいたるところで歪んで見える。鏡のように澄んだ青空はない。
821. 「物語」(小説)の場自体がモノを考えてしまう。
822. よく、小説家が、勝手に「物語」が動きはじめたと語るが、フィクション(小説)であれ、ノンフィクション(事実)であれ、言語場を作ってしまうと、そこに、(力)が現れて、その差異が、衝突して、動きはじめ、作家は、本人が書いているのではなく(考え)る磁場に巻き込まれてしまうのだ。
823. 一人の作家が、思考するよりも、さらに、多くのものが、書かれる作品と、書かれない作品の両世界にひろがってしまうのだ。
824. 誰も書けない世界、言葉の外側に、(絶対言語)は立ちあがる。
825. どこまで、心の深淵へと降りていけるか。無意識の、アーラヤ識の、彼方へ。モノとココロが合体する1かゼロの地点へ。
826. モノとコトに囲続されて、形態の不条理へと身を委ねている。
827. 父の父の父の父へ。母の母の母の母へと。(私)は、その透明な糸をたぐり寄せてみる。
828. ニンゲンは、誰でも、いつか、不条理な(私)の死を受容せねばならぬ。現在、そのレッスンが必要だ。
829. すべてを失った者は、死の受容もやさしい。あらゆるものを手に入れたと思った者は死の受容に喘ぐ。どちらが幸せかわからない。幸せは不幸。不幸は幸せ。
830. 死にたいと思う人、生きたいと思う人。同じニンゲンで、まるで、意思のベクトルがちがう。存在することの畏しさ、不思議。
831. 何もいいことがなかった。幸福な日は、数えるほどだった。それでも、ゼロではない。生きて、存在しているだけで。
832. 思い出には限りがない。最低のものから最高のものまで。味わえば、文句はないだろう。で、どうだった?
833. わかっているだろうか?
ニンゲンが生きるということを。
ぼんやりと齢をとってしまって。
死にもの狂いで生きてきた。
ニンゲンの証明は、結局、自分自身で片をつけるしかない。
834. 平凡、普通。それは、すべて、他人との比較である。計りは(私)の中にある。
835. 文句に、愚痴に、不平に、不満に、悪口に、不快に、出てくるわ、出てくるわ、そんなニンゲンに限って、自分には甘いのだ。
836. この程度のニンゲンだと、自分自身に言いきかせられる人は、まだ、モノがわかっている。バカのバカは、利巧ではないが。
837. たいがいのニンゲンは、いつも、自分を、いい子にして語りたがる。なぜだ?
838. ただし、自分を責めて、責めて、責めて、必要以上に責める人は、自分を滅ぼしてしまう。
839. 結局、お前は、そういうニンゲンだよと他人が言う時、耳に痛いが、半分は当たっている。他人の眼は、厳しい。
840. 批判しても、攻撃をしても、悪口を言っても、隠口をきいても、結局、ニンゲンは、群れから離れられない。世間という世界。
841. おそらく、他人は、誤解をしない。ゆがんでいるものは、ゆがんでいるように見る。
842. 「俺を信じてくれ」という人は、言葉以外の行動の重さを、ほとんどわかっていない。
843. 嘘が、そのまま、身についている人がいる。平気である。嘘をつくのが。で、最後には、自分自身にも嘘をついていて、行き場を失ってしまう。
844. 情の人、知の人という。どちらを信用する?いつも別れ道は、そこにある。
845. 自分自身を大事にする。生きものだから当たり前だ。誰も文句はない。しかし・・・。
846. はじめて、62歳を生きている。だから、新しいことばかりだ。わからないのだ。心も身体も。
847. なぜ、人は、ニンゲンという、存在の、運命を受け入れてしまうのだろう。誕生から死へ。生、老、病、死というものを。100%の絶対だからと。もっと、他の、存在の変容はないものかと、考えないのだろうか?
848. 形があるから、形の変化を見てしまう。形がなければ・・・、いったいお前は、何を言いたいのかと、批難の声が飛んでくる。
849. 飛びっきりの、絶対の、有無を言わせぬ、生の一回性が、宇宙にはあるのだから、心臓がとび出してもおかしてないのに、平気で日々を生きている。その時が来るまで。
850. 死を前にして、作家・評論家の小田実は、「死なない念仏を唱えてよ」と、出家している瀬戸内寂聴に言った。「そんなものある訳ないじゃない」答えである。
851. 現在、いったい、宗教の存在理由はどこにあるのだろう。何をしているのか?何ができるのか?
852. 「 」ではなくて、( )でもなくて、) (を使いたくなる時がある。在るのに無い。居るのに居ない。開かれていて、内と外がない場合。
853. カーテンが風に揺れている。ただそれだけ。
854. 私のような男を受け入れてくれる女には、惚れたくないと友が言った。誰の言葉だったのか?
855. 頭が濁っている時には、ひたすら歩くこと。
856. 回転する独楽の模様の澄みかたが頭脳にも欲しい。
857. ニンゲンは、進化してきたと言われても、(私)は、私自身のことも、よく知らないのに。
858. 日常のセイカツの中に、一本の杭くらいは打っておこう。(現場)の勘がなくなれば、本当の世捨人の思考になる。
859. 銀河と原子の間で、中くらいのニンゲンは、どちらにも行けずに浮遊している。
860. 望遠鏡と顕微鏡が神を殺した。もう、誰も、神のイメージがもてない。
861. 「私小説」が光っている。耳によく響く声で。車谷長吉の声。西村賢太の声。
862. 今日、鶯の初音を聴いた。4月10日は、鶯記念日。
863. 何もしたくないために、言い訳ばかり考えている。おそらく、存在すること自体に、不満、不快があるのだろう。
864. 人が死体になった時の、あの言いようのない、踏しみしだかれた屈辱と悲惨。
865. 気分は、思考を変えられるか?
気分は、思考を作り出すか?
気分は、思考を呑みつくすか?
866. 肉体をゆすって、精神のリズムを整える。
867. ニンゲンの視点は小さすぎて、視野は、まだまだ狭すぎて、思考も低空飛行を続けている。もっともっと、超球宇宙へ。
868. いったい何をやっているのか、ニンゲンは、本当のことを解っていない。
869. 無限に続くラッキョの皮をむいている。生きている不思議を、誰も疑わない。
870. (神)を作り出した時代と、(神)を棄ててしまった時代と、どちらが幸せか、俄に断じがたい。
871. 日が昇り、日が沈む、地球の1日に慣れてしまったニンゲンは、宇宙の悠久のリズムに背丈が合わない。
872. 往復運動が思考のダイナミズムを生む。雑多な日常の中の思索活動。
873. 元手のかかった文章は、真夏日に呑む水と同じだ。全身に涼気が走る。心臓が、きゅっと音をたてて鳴る。
874. 気が通う。そんな人が何人いるだろう。
875. 知識だけで書いた文章は、尖っていて、ちっとも味がない。正確なだけで、面白くない。
876. 思考のゆらぎから結晶まで、文章が捉えたとして、宇宙の痙攣は、するりと身を変わしてしまう。
877. 時空の中で、途方にくれないニンゲンがいるだろうか。位置も場所を定まらず。
878. 宇宙飛行士たちは、美しい地球を、誇らし気に語るが、宇宙の暗黒の淵、闇の恐怖、畏怖については、多くを語りたがらない。なぜか?
879. あらゆる物語を聴かされる人、知らされる人にとって、一人の作家など、もはや、なんのことはない。すべては、宇宙へと放たれる精神の軌跡にすぎないから。
880. 無限に続く物語には、「本」としての終わりや始まりはない。宇宙という物語。
881. 最高の作品とは、作者(私)の手から離れて言語そのものの歴史へと化したものである。
882. 石は、石以外にはなりたくないと言っている。水は、水以外のものにはなりたくないと言う。(私)は、永遠に、(私)として存在し続けるだろう。
883. 言語の物質化は、どのように、可能であろうか?分秘される、言葉は、言葉自身をしらない、ただのものになる。
884. ニンゲンは、けっこうアバウトな生きものかもしれない。どんな天才であっても。
885. とことん考えると、脳が痙攣する。そんな時には、解き放ってやれ。頭を棄てて、肉体へと走れ。
886. 泣くという行為がなければ、ニンゲンの悲しみには行き場がない。泣いて、泣いて、声をあげて泣くのだ。
887. 夫婦でも、親子でも、どうしても救けてやれない場合がある。死に至る病いだ。(私)は(あなた)にはなれない。
888. 火山の大爆発。6000年のニンゲンの一切の文明が役に立たない。
889. 他人(ひと)を丸ごと理解しようなんて、どだい、無理である。(私)自身でさえ、その正体が解らないのだから。
890. 書くことは、すでに書かれてしまったことを掘り起こすことかもしれない。
891. ニンゲンは、コズミック・ダンスを踊りながら何処へ行くのか?何をしているのか?一切が、眼隠しされたままだ。
892. 現在のニンゲンは、あらゆる面で、宙吊り状態である。(今・ここ)を通過しているだけの小さな、小さな、小さな存在。
893. 誰かはわからないが、最後のニンゲンは、生命、存在、宇宙のすべてを報らされるように出来ているとでもいうのだろうか。
894. 私たちニンゲンは、永久に「宇宙という巨大な本」を書き続けているマラソン・ランナーである。
895. 永続する(言葉)は、誰のものでもない。個人の(私)を超えて、不死の(言葉)になる。
896. 何が書かれているかよりも、「本」は、すべてのニンゲンに共通する(思考)の形だ。さあ、どんどん考えてくれ。
897. モノやコトがわかるのは、それらがすべて在るものだから。
898. 終日、歯痛で唸っている。何も手につかないだらしなさ。痛み、苦痛の破壊する力。
899. 歩いてみろ、あらゆるものが、思考の発条(ばね)になる。
900. 人生80年、ひとときのまどろみである。
701. アフォリズムはヴィジョンである。透明な橋を架ける力だ。
702. 昔の人は、よく歩いた。読んだ書物は、次から次へと消えていくが、歩いた足の裏が知っている大地の声とリズムは、不思議と消えないものだ。(現場)が何よりも大事である。
703. いくら考えてもわからないことが、時がたつと、時そのものが教えてくれる。だから、”時”に身をゆだねている。
704. 考えようとするから、わからない。生きようとすれば、わかってくる。
705. いつまでたっても”時”が皆目わからない。発生も消滅も顕現も。モノの時、イノチの時。
706. もっと読みたい、もっと、ムイシュキンと歩きたい、もっと一緒にいたい。合体した魂が、そう叫び続ける。それが、最高の読書だ。読むことが、そのまま生きることになってくる。
707. なぜ、人は、なつかしいという感覚で、モノとヒトを眺められるのだろう。会うこと。別れること。
708. 「またふたたび」という感覚と、「もう二度と」という感覚が、同じ、一人のヒンゲンの中に生じる不思議。
709. 生きることは、(私)を創造した宇宙への返礼である。
710. もう、アレ、コレと考えない。ただ(私)に顕れるものをそのまま記しているだけだ。
711. ここにいるのは誰だ?まさか、幽霊ではあるまいと、宇宙に問いかけると、もっと見ろ、もっと考えろと風が吹いているだけ。何も応えずに。
712. 去るもの、来るもの、通過している(私)は、いつも、(今・ここ)に立ちつくしている。
713. 蛙の鳴く声が、桜の散る空間に響いてくる。妙に狂おしい。春である。
714. もっと、もっと、どこまでも降りていって一番深いところまで。何が見えた?何がわかった?
715. 歩くことが、老いの計りになる。
716. 一人で生きるよりも、二人で生きる方が生き易い。第一、自然である。対のセイカツ。♀と♂。そして・・・。
717. 薄い膜だけが、ニンゲンの、(私)の生きる器である。
718. 何もかもが溶解していく。傷ついて、破れて、壊れて。芯よ起て!!
719. 巨木の生きる姿に、ニンゲンは圧倒されるばかりだ。
720. どんな仕事であれ、とりあえず、自分は仕事をしているという感覚があれば、大丈夫。空虚には呑み込まれない。
721. 何もすることがないと、心は、蛸になって我が身を喰いつくしてしまう。
722. もう、モノを、直接見るだけでは、コトが足りない。それも、ひとつの在り方にすぎないから。
723. 生きものたちは、それぞれ、自らが生きるために必要な形態を持つに至る。不思議だ。
724. 老衰死。病死。事故死。自殺死。他殺死。餓死。戦死。心中死。脳死。処刑死。切腹。狂死。大量殺人死(ジェノサイト)・・・。あ~あ。ニンゲンの死は、一回限りで、ひとつなのに。
725. 芸術は、どこかに”狂”の一滴を注入しなければ輝かない。小説も同じことだ。
726. 空を眺めすぎると(私)が消えてしまう。
727. 身。身体。体。躰。軀。漢字は、他の言語よりも面白い。何よりも、形がものを言う。
728. 「本」を読む。「文章」を読む。昔は、「知」を知ることが面白くて、意味、内容ばかりを探った。今では、何かを自由に思わせてくれる文章が面白い。だから、読まずに、凝っと眺めている。視線に長く耐えられる文章がいい。大半の文章は、眺めていると、崩れ壊れてしまう。
729. 光るものを「光」と命名しても仕方がない。「大日如来」と古人は呼んだ。おそらく、それは、正しい。「1」も、そのように、成立するしかないか?
730. 空海も、南方熊楠も、岡潔も、天才と呼ばれる人たちは「大日如来」を信じた。
731. 死ぬ時には、光の中へと飛び込むのだ。「大日如来」の中へ。横超。
732. 「1。光。大日如来。宇宙。」わかっているのに、わからないものばかりである。
733. 在るものでも、わかりかたをわからないと、まったくそのもの自体がわからない。しかし、信じるか!!
734. 「自然」という暗号を読み解くだけで、ニンゲンは、30億年を費してしまった。
735. 宇宙自体が、自らを記憶しているとすれば、ニンゲンも、大きなものに、記憶されている。
736. 知り得たものの量は、雨の一滴で、それでも、ニンゲンとして生きてゆかねばならぬ。無明。暗愚。
737. 宇宙には、「1」そのものは、存在しない。そんな声が脳裡に響いたので(私)は、無視して、歩き続けた。「1」をめぐる無限を思いながら。
738. (私)の外へと超出すること。
739. 身体が重い、身体が軽いと感じる時のあの微妙な感触、(私)は、(私)という器、入れもの、を思い浮かべている。しかし、まだ、(私)は、その、重い、軽いの膜を知らない。
740. 他人の声に、他人の存在に、誘い出されて響く(私)がいる。モノに、コトに、ニンゲンに誘発されてこそ、共に生きる意味がある。
741. 単独者の(私)という存在、長い間、そう考えていたが、(私)は、どうやら、あらゆるものの、集合した、ひとつの統合体かもしれぬ。だから、分裂していて、解体される。
742. 話をしながら、テレビを観る。点のことばかりを考えながら三角形を思い描く。同時に、二つのこと、三つ以上のことを実行する能力。ニンゲンは、考え得ることは、すべて、可能にしていく生きものかもしれない。(聖徳太子の未来)
743. 「もう、死んだように生きておるよ」と友は、淋し気に笑っているが、活躍の場が消えても、(私)という場は、残っているのだから、(私)という宇宙を歩いてみればいい。
744. 「あらわるモノ・コトは、考えられる対象として存在する。考える、起点は、どこにでも、ごろごろと転がっておる。
745. 見るということは、ひとつの見方である。
746. (私)が存在として顕現した以上、自分自身の存在くらいは、証明してやろうと思うのは、当然の欲望である。何代かかっても、ニンゲンは、宇宙に口を割らしてやれと思い続けるだろう。(沈黙する宇宙への質問状を作ってでも)
747. (声)が来たと言う。神からの(声)が来たと言う。ニンゲンの耳にとどいた(声)は、果たして、宇宙から来たものか?(神は、宇宙ではない)(声の正体は?)(光?)
748. 光は、声にもなる。共感覚があれば。
749. 闇から闇へは赦さない。果たして、誰にものを言っているのか?
750. 眼を閉じても、開いていても、いつも、額の前方に、何かがある。(私)の身体ではないのに、それは、いつも(私)と一緒に存在する。何?
751. 思考には、いくつも層があって、一歩一歩その層をステップしている。
752. ほとんどの「不満」は、自分が、自分自身に対して抱いているイメージよりも、他人が自分に対して抱いてくれるイメージが、劣っているという理由にある。もっと、(私)を見てよ。もっと(私)を知ってよ、もっと(私)の価値を認めてよと、叫んでいるのだ。あ~あ。ぷーふい。
753. 「どうも、(私)はないみたいだ」と言うから「まるで、幽霊じゃないか」と応えると「君に僕が見えるのか」と叫んだ。
754. (ただの人)になってからが、勝負である。衣裳をすべて脱ぎ棄てて、自分自身の貌を、じっくると覗き込んでみる。
755. 生きることは、どうやら、だんだんと、ニンゲンになっていくことである。形姿は、求めたように、現れるから。無数の貌。
756. あらゆる情報を集めて考えてみるか、ひとつのものを、じっくりと、何年も眺めて考えてみるか、(総合者と単独者の眼)
757. 本能半分。学習半分。
758. 生命が進化したとして、生命の系統樹を考える時、一つの単細胞に達するのか、あるいは、単細胞の群れへと達するのか、そこに<1>という数の魔がいるような気がする。
759. 同じように、俺たちの「宇宙」のビッグ・バンは、たったひとつの大爆発であったのか、複数の、多数のビッグ・バンがあったのか?証明もできない問いは、問いですらないのか!!
760. 地に、足をつけて、明日は、郵便局へ行こう。何を送りに?何を伝えに?
761. 歩けるうちには、歩こう。それ以外に、することがあるのか?
762. ニンゲンから(仕事)を取りあげてしまうと、自ら、長い間、放っておいた(私)に立ち向かわなければならない。で、突然、(私)が牙をむく。誰だ、お前は?必死になって、(私)を耕してみるしか他に術はないのだ。
763. なぜ、数があるのか、誰も証明できない。1が証明できないという。(私)とは何かがわからないはずだ。
764. 宇宙に、純粋な(1)として存在しているものなどあるのだろうか?私は知らない。数は深淵だ。足をとられると畏ろしい。
765. 私は、一人のニンゲンであるが、(1)ではない。一本の木は、木としてあるが(1)ではない。
766. 素朴に、自然を見て、在ると思える平凡な領域で生きていると、(自然)が、本当に、あるかどうか証明できぬと唸っている大数学者、自然科学者たちは・・・。知らぬが仏か?
767. ニンゲンは、あまりにも、素直に、(在る)ことを見るために、眼と脳のシステムに委ねすぎているのだろうか?(在る)ように見えると考えたのは、実は、ひとつの見方にしかすぎなった。見方が、ちがうと(在る)は、見えなくもなってしまう。(在る)か(無い)かは、わからなくなる−と、木も石も自然も存在するかどうか、本当は、わからなくなる。
768. 純朴な(1)は、宇宙のどこにも、発見できない。だから、人類の(知)は、まだ(1)を証明できない。6000年の文明とは、その程度のものである。もちろん(私)とは何かを問い続けても、わかるわけがない。
769. 自然の中を、どこを探しても(1)はない。しかし、人は、一枚の葉とか、一個の石とか、一本の木とか、どこかに(1)を探したがる。見る、意識する、どこまで追求しても、結局、自然の中には(1)がない。(ない)ということだけがわかってくる。どだい、(数)は、なぜ、現れたのだろう。(数)とは何か?
770. 木を見る。自然を見る。見えるように見ている。で、その、見えるようにが、崩れてしまうと(自然)は自然ではなくなってしまう。すると(見る)ということも、実は、アテにならない。テレビ画面の接続不良のように、(自然)に点と線が走って、画像が、見えなくなる。(自然)が、そのように崩れてしまう。それでは、(見)ている自然は、在るとも無いともいえなくなる。
771. 考えていては、アフォリズムは書けない。向う側から来るのを待つのだ。五感を解き放って。
772. (私)は、もちろん、宇宙人である。(私)が顕現した理由は、宇宙を知悉するためである。
773. (在る)から(居る)への移行が、宇宙での最高の変革であった。
774. 「小説」を書こうと意識した瞬間から、「物語」の「虚」が、作者の脳裡を掠める。だから、「小説」の文章とエッセイの文章は、まったくちがってしまう。
775. 何もない、実に、頼りないところから、筆(ペン)をすすめると、不思議なことに、小説の文章はのびやかになる。そこに、小説の上質な部分が現れる。いわば、腕の見せどころである。(考える)ことが光る。
776. 文体は思考の回路である。
777. 私たちが居ることは、どうやら、そんなに確かなことでないかもしれない。幽霊のような存在が、(私)の耳許でそう呟いた。眼の前の自然が消えた。1でもあり、2でもある。数でないかもしれない。
778. 存在(モノ)も形も色彩も、見る・見られるという関係をすりぬけると、虚へと移行する。
779. 蛇が自分の尻尾を咥えるようにして1が1を呑みこむことができるのだろうか?
780. 宇宙に生きることは、(1)を探す旅であるかもしれない。
781. (私)とは、途中で、放り出されてしまった存在の名前だろうか。
782. 光の光源を、呼びようがなくて、「大日如来」と云ったのは、おそらく正しいかもしれない。
783. 不思議なことに、物書き(作家)は、その言葉が潔くなればなるほど、死が近くなって、自死に至る。村上一郎、三島由紀夫、石原吉郎。
784. 30億年かかって、生きてきた(私)であるから、自殺は、実にもったいない。
785. いい読み手がいなければ、いい書き手は育たない。読むことと、書くことは、共同作業である。
786. 天皇、エンペラーの問題は、30億年の生命史の中に位置づければ、その姿がよく見えてくる。現実は、人は、たかだか、100年、1000年の単位で考えるから、その姿を見誤ってしまう。
787. 母から生まれてきたが、母の母、そのまた母と考えて、グレートマザーに思いを至すと、30億年も生みつづけている姿に、感動すら覚える。
788. 精神が、もっとも深いところに達すると、それが、そのまま、外部に存在するものに通底してしまう。
789. 外在した脳がスパークする時、いったい、何が起こっているのか、と思うほどの、陶酔の時が来る。
790. 「40年」もサラリーマンをしてくると、会社から放り出された時、どこにむかって、何をしていいのか、まったく見当がつかぬ」と友人が真顔で語った。「誰かに、命令してほしい」とも。
791. 誰でも、自分の(場所)と(役割)が欲しいのだ。
792. 会社生活で忘れていたものは(私)である。停年になると、その(私)が、姿を出して、お前はいったい、何をしてきたのだ、お前はいったい何者だと、怪物のように、突然、牙をむくのだ。
793. 働いてきた(私)は、存在としての(私)よりも小さいのに、(仕事=私)と考えたがる錯覚。
794. 何もかも、狂的な世界であるのに、平気で生きているニンゲン。
795. 訳もわからぬまま、透明な膜の中に突入して、一歩も、歩けぬ時期がある。
796. 日も、月も、季節も、遠くなったり、近くなったり。色彩までちがって見える。
797. 一日に、一度、ひとつは、ものを考えること。
798. 意識もなく、モノに、コトに気分が悪くなって、嘔吐を催す時がある。世界と上手く握手が出来ない。ユーウツな日。
799. 春、三月、空がすみれ色になる。光が変わった。気が昂ぶって、歩いてみたくなった。光の誘惑。
800. 時間をもて余す人、時間が足りない人。やれやれ、自由というものは、やっかいだ。
601. 共感覚というものがある。木を見ていると音楽が聞こえる。数字を見ると絵が浮かぶ。菓子を食べると風景が見える。石に触ると匂いが流れる。まだ、まだ、人間には、不思議な力が存在する。どこまで発見できるか、どこまで開発できるか。
602. (1+1=2)は、科学である。(1+1=3)は、宗教であり、文学だ。論理と想像力と信心。不条理、不可能へと人は、歩みたがるものだ。
603. まるで(私)というものが、一切、存在しなかったかのように、宇宙の時間は過ぎていくから、誕生も死も、人間同志の眼差しの中にしかない。無限の中の1は、零に等しいということか。やれやれ、ニンゲンの叫び声もとどかないか!!
604. 光という存在が、鍵を握っているのは、とうの昔からわかっている。光という音信は、ニンゲンにとどいているのに、その暗号が読みきれない。
605. 宇宙地図は、何時頃、完成するのだろう。迷い児のニンゲンは、浮遊しているだけだ。あてもなく、偶然に偶然を重ねて。
606. お前は、何が楽しくて、何が苦しくて、浴びるように酒を呑むのだ!!赦してくれ、酒呑みの論理。
607. 正しい論理に反揆して、故意に、足を滑らせてみせる、天邪鬼がいる。負のリアリティが欲しいのだ。
608. 世の中、金ばかりじゃないよと言いながら、舌の根も乾かぬうちに、経済、経済が一番、生活第一だよと唱える人がいる。
609. 存在の底はぬけてしまい、時空はゆがみ、ニンゲンのセイカツが、まるで、絵空事のように稀薄になる。
610. 人間は、まだ、太陽のひとつも創りだせない。1000億個の太陽、1000億個の銀河、宇宙という自然は、人間原理を確実に無化してしまう。
611. 異空間、異次元へと通過できる存在でなければ、宇宙の旅は不可能だ。
612. 問いには必ず、答えがある。では、1000万分の1の原子の形を見るように、130億年の超球宇宙を見れないものか?と問うてみる。おそらく、見るという方法自体が、変わらなければなるまい。脳が写す宇宙の見方?何?それ?
613. 宇宙と響き合うように在りたい。(私)は、何者であっても良いと。
614. 先日、高校時代の同級生2人に会った。長い間、別々に、生きてきた3人が、偶然会った。今日の自分が、この場に、この私としているのは、ほぼ(偶然)という力に依っている、それが、3人が出した断定的な結論であった。大きな存在の力を、お互いが認めている証拠だった。
615. 現在(いま)の私の状況は、どうも、形や習慣や法からはみだしていて、身の置き処に、戸惑っている。そんな訳で、私という形態までが、不確かになっている。
616. (私)のイメージが定まらないと、小説も書けない。同時に、私の生きている日常も共振れしている。日常と小説を書くという事実が入り組んでしまって、どちらが、表か裏か見分けがつかない。モノを本気で考えはじめると、いつも、こういう状態になる。
617. モノが完全に露出する時、眼も耳も、全感覚が対応しても、間に合わない。爆発の中の痙攣。
618. モノが、人間の手に負えない深淵を覗かせる。まるで、夢をみる夢のリアリティの畏怖と同じだ。
619. 宇宙の総エネルギーに立ち向かわない(純文学)は、滅びてしまう。
620. 「毎日が日曜日」の齢となった。考えてみれば、色分けされた日々が消えて、一日という時空に、私の影しか写らぬ透明な、鏡が出現したのだから、分身を殺して、私自身を生きられる。
621. 闇に闇を重ねて、一切の形を消し、光という色を消しても、まだ、闇の底の底に、蠢いている者がいる。
622. 時間の経つスピードが、日によって変化をする。遅くなったり、早くなったり、幸いに、まだ、止まることはないが。
623. 最近は、市内に、葬儀場ばかりが増えて、電話で、セールスまでしてくる。それでは、もう死にますか、まだですかと問合せをされているみたいで、実に気分がわるい。無言で受話器を置く。墓の予約、葬式の予約、言葉は、互助会員の募集とまであるが、妙な世の中になったものだ。
624. おそろしいほどのスピードで、文字(言葉)が、私の中から溢れだしてくる。湧きあがってくる宙に浮いた文字を写す手が間に合わない。いったい、私のどこから、その言葉が湧きあがってくるのか、わからない。私は、記述するマシーンになる。
625. どこまでも、読み込んで、読み込んで、コトとモノの森の奥処へと進んでいくこと。
626. 若い頃には「人生は一行のボードレールにも如かず」という芥川龍之介の言葉に妙に感心していた。いったい、何を考えて生きていたのだ。現在(いま)なら「万書(本)は一人の生命(人生)に如かず」と断言できる。
627. 身の振り方を考えろ、そう言われて、突然、夢見ていた若者は、人生のハンドルを切った。ニンゲンの形にはいろいろとあるものだが、ひとつしか、選べない不便さがあった。
628. 銀河と銀河の大衝突を眺めていた。光の錯裂。眼が覚めると冷汗がでていた。頭の芯が疼いて、役に立たない。永遠の徒労感が来た。
629. 大声をあげて、歌を歌う。声にも年輪(齢)がでてしまう。高齢者のカラオケ大会。頭の中には、若き日の消えた夢々。
630. 無いものねだりを承知のうえで、ニンゲンは、もうひとつの命、もう少しと呟いてしまう。もう一年、いやもう一ヶ月、せめてもう一日でもと。
631. 満員電車の歳月が終ったら、身のまわりに、人の姿がない。いつも、何かが過剰で、何かが不足している。ちょうどいい人生などない。
632. お金を使うように、生命を使う。丁寧に、丁寧に、用心して、用心して。それでも、災いと病いと事故が来る。
633. 運が悪い人だと、諦めるわけにはいかないのが、人の情である。何故?理由は?原因は?と声をあげて、他人を、自分を、神を責める。責めて、叫んで、泣いて、静かになって、逝くのだ。
634. 遠くまではるばると歩いた人も、隣近所をうろうろと歩いた人も、結局、私自身へと還ってくる。みんな、同じ終着駅へとたどり着くのだ。
635. 課長、部長、社長という椅子を棄てたら、名刺と肩書きで通用した声が、無視されて、相手の声まで変わってしまう。私も、生のままの声を出した。どうやら、言葉まで、通じなくなった。
636. 肩の荷がおりると、急に、顔付きまで変わってしまった。
637. 名刺を破って、肩書きを棄てると、背をむける人、散る人、去る人、逃げる人、椅子に坐っていたのは幽霊か?
638. 無信心者の現代人には、慈雨の降ることはあるまいが、宇宙の雨は、平等に降る。
639. 深夜、闇の底で、存在の私語をきく習慣が身について、とびっきりの音信の訪れに耳を澄ましているが・・・。
640. 執行猶予の身の上で、ニンゲンは、いつか、爆発してやろうと身構えている。砕け散る星雲のように。
641. 舵はきちんと握っていたはずだが、天の川は、ニンゲンの横切れる川ではない。
642. 透明な扉が次から次へと閉っていく。一人、また一人と、ポロポロ、ポロポロ、扉の向こう側へと姿を消していく。他力に委ねるしか、術がない。
643. 深夜に、目が覚めて、独り坐っていると、身振いするほどの空虚が(私)を襲った。で、コップに一杯の水を呑んだ。
644. 130億年かかって誕生した(私)。(私)の死後も130億年の時間が流れる。ちょうど、心を病んで、身も心も分裂した人が、癒えるのに同じくらいの時間がかかるように。いったい、これは、何だ?時間という魔。
645. 人に邂逅する。何が、大切で、不思議だと言っても、偶然、この世で、人に会い、友人になることほど、貴重で、ありがたいことはない。魂と魂が交感して、響きあう快楽。他に何がある。
646. 気心の知れた仲間との対話は、特別なことを話さなくても、時間が熟れる。
647. 生・老・病・死は、誰にとっても一大事であるが、酒池肉林にうつつをぬかした、若き日々、にがい日々もあった。どうやら、生命にも、うねりというものがある。
648. 煙草はやめて、酒もほどほどに、親切な忠告は耳に痛い。それはそうだと頷きながらも、突然、爆発する、狂おしい声に衝きあげられて、深酒をする。
649. 素粒子を考えても、宇宙を考えても、ニンゲンのセイカツは、一向に、関係なく流れていく。人は普通の、眼の前の実業ばかり見て、経済が第一だから。で、競走で、神経が擦り減る日々を生きる。
650. なぜ、歓喜の歌や詩や小説は、ことごとく、失敗してしまうのだろう。(讃歌)は(悲歌)よりも、よっぽどむつかしいということか。
651. 書けないモノは、事象ではないし、おそらく(現実)でもない。
652. だから、抽象も、観念も、夢も、もちろん(現実)になる(現実)である。
653. 消えていくアレやコレ。別の時空へとスリップしていくものの、何と多いことか。
654. 残ったものだけが(現在)の(私)である。それで、充分か、不足か、淋しすぎるか。長く生きると、人は、誰でも、そのように在る。
655. 眠って、眠って、飽きるほど眠ると、不意に、起ちあがってくるものがある。お前は、いったい、何をしているのだ、と。(何モシタクナイ、何モデキナイ人へ)
656. 歩いて、歩いて、歩いて、見聞をひろめ、日本を、世界を、とびまわっていた人も、結局、最後の一歩でたどり着くのは(私)だ。
657. 苦痛、苦脳は、科学では救えない。現在は、科学、経済の時代であって、宗教は分が悪い。しかし、(救う)という一点が、宗教の存在理由であることにかわりはない。科学、医療、経済、哲学。(宗教)や(文学)は、今こそ、輝かねばなるまい。魂の渇いた時代に。
658. 唯心論と唯脳論
①脳の中にすべてがある。
②脳の中には、何もない。花も木も、水も空気も、すべてが、(脳)の外に在る。
③(脳)は、システムとしてのひとつの機能だ。
④見るというシステム。知るというシステム。感じるというシステム。考えるというシステム。
⑤そして、そのシステムは、スーパーシステムである(私)のものだ。
⑥(脳)は行動しない。行動するのは(私)だ。
⑦(脳)にはモノはなく、コトがある。
659. モノとコトは、いつも複眼で見なければ、(全体)が見えない。
660. 魂が歩いている。遍路さんである。お米やミカンやお芋をあげて、その肉体を支えてあげよう。お接待。私の分まで歩いてね。私の分まで祈ってね。
661. 遍路さんに、マレビトを見た少年期。海の彼方から、山の彼方から、運んできたものは、異国の、異界の、未知の言葉の束だった。
662. 「文学」は、お金も、権力も、性も、食も、労働も、殺人も、家も、自殺も、学校も、あらゆるものを、描かねばならない。哲学でも、宗教でも、現れぬ裸のニンゲンを。(私)という宇宙のあらわれる「本」
663. 鈴木大拙は、絵空事ではなく、本気で「浄土くらいあってもいいだろう」と宗教を唱える。人類の夢は、消してはならぬか。
664. 真実を語ることは、必ずしも、正しいとは限らぬ。宇宙の原理は、人間原理とは相入れぬから。
665. ニンゲンの実感できる距離は、どのくらいだろうか?1000キロメートル、1万キロ、1億キロ、銀河系の幅くらい?億・兆・石・京・・・・・もう、絵空事の距離になる。
666. 眼の中に、蚊のような点が飛びはじめた。眼・歯・足と衰えのしるしが襲ってきた。使って、使って(私)が擦り減っていく。あと少しの辛抱だ。そのうち、(私)が飛んでいく。彼方へ。
667. 不思議なことに、どの部屋に入っても、その空間が放つエネルギーや気配がちがう。ホテルは、もちろん、会社、学校、デパート、劇場、食堂、酒場。で、私とその部屋・空間の関係に、濃淡があるのに気がつく。坐っていると、空気の質感までちがっているので、すぐに、相性の度合いが計れてしまう。部屋も生きものである。
668. 何かの本で、「壁が記憶をもっている」という文章を読んだことがある。モノ自体、風景自体、自然までも、当然、記憶の層を持っている。私も、そう感じ、考えはじめている。
669. 人類が滅びても、ビグともしない宇宙である。しかし、時空に生命が発生したのは、奇跡である。宇宙自体を見る眼をもった、ニンゲンが誕生した事実は、誇ってもよい。見られた宇宙もわかっているだろうが。
670. 宇宙そのものが、自分を見てやろうと、生きものを、眼を、誕生させた。宇宙が、宇宙自体を見て、いったい、なんになるのだろう。どこか、おかしい。何が?
671. 毎日、毎日、生命の海を泳いでいる、億・兆の生きものたちに、食べて、食べられての関係の中で、禁止という一本の線を、ひとつの法を、振りかざしてみたところで、ニンゲンに便利で、都合の良いものにすぎない。
672. 蟻を、鳥を、魚を、ニンゲンよりも低いレベルの生物と位置ずけてみたが、実際、本能という学習のみで生きる彼らにも、優れた美点は山ほどある。下等動物と呼んだニンゲンが昆虫に、魚に、鳥に、嘲われるくらいだ。虫けら、獣とあなどっていたが。
673. 10余年の社員生活には、希薄な風が吹いていた。20余年の経営者生活には、突風に、たつ巻に、台風まで吹いていた。
674. スピードと効率だけでは、人間は、いつかは壊れる。花見酒があり、紅葉狩りがあり、緊張の中にも、弛緩のひとときがいる。
675. 旅。眼線をあげて、遠くへと。春の岬。夏の砂浜。秋の渓谷。冬の雪国。歩いて、空の青、歩いて、山の緑。海の光。満天の星。眼も耳も。足も腕も。五感全開の旅へと歩を進める。
676. 魂を磨くために、坐禅をする。食は他人からもらって。(修業者)A
677. 労働だけの日々だ。身体を壊しながら。魂のことなど放っておいて。(サラリーマン)B
678. 働いて、食べて、魂を凝視めて。(現実)は、どうも、中庸にならない。AかBの極端に走ってしまう。
679. 森に入れば、山に入れば、神社に参れば、身も心も、清涼な空気に洗われるが、街に帰れば、家に帰れば、会社に行けば、もう、身も心もストレスで染まる。
680. 毎日、歩いて、歩いて、他人に会ってみればわかる。ニンゲンの容量が見えてくる。
681. 頭が火照り、顔が痙攣し、心が寸断されて、バラバラになるほど、一日、働いてみると、静かに、眠りにつくことも出来ない。そんな時だ、酒、酒、酒と声をあげるのは。
682. きっと、歩き方が悪いのだ。靴の外側ばかりが擦り減ってしまう。で、いつも、(私)は、傾いて歩いてしまう。
683. もうひと仕事と思う反面、やれやれ、また、火事場へと足を運ぶのかと呟く声がある。
684. 昏れていく人、消えていく人、去っていく人、冬は、心身ともに、冷えるので、暗い姿ばかりが目についてしまう。葬式の看板。
685. 暗いニュースを、見ることも、聞くことも、読むことも、できないくらい、傷が深いので、三匹の猿になると女(ひと)はいう。本気だ。見ざる、聞かざる、言わざると。
686. どんな思考をすれば、どんな存在に変化すれば、ニンゲンは、130億光年の宇宙の彼方を手に入れることができるのか?日々、夜々、歯ぎしりしているうちに、終に、存在(こいつ)が、妙なうめき声をあげた。
687. 正しい問いがあれば、必ず、正しい答えがある。−そんな声を信じて。さあ、問え。
688. 宇宙のインフレーションになる。すると、ほぼ、光速で、時空を疾走できる。乗り物、宇宙船に乗るという発想を棄てなければならぬ。自ら飛ぶものに成る。
689. 黙々として、考える、それ以外にどんな方法がある。夜を徹して。光の中でも。
690. 眠りは、実に、不思議だ。一日一日、毎日毎日、ニンゲンは眠る。夜と昼があるから、眠るのか。眠るリズムが襲ってくるから眠るのか。人生の半分も眠っている。もったいない。夜だけの時空、昼だけの時空へと飛び立つと、地球人であるニンゲンは、眠ることができるだろうか?それとも、ずっと眠り続けるのか?果たして、宇宙の眠りとは、何か?
691. 蟻たちの仕事の流儀は見事なものだ。一匹残らず、歩いて、歩いて、餌を運び、巣づくりをして、立派な本能に根ざして子供を残すために、あわただしく働いている。余分な蟻、暇な蟻、手振らで帰る蟻など一匹も見当たらぬ。統一の、組織で、共同の目的にむかって、歩いて、歩いて、働く形式は、ニンゲンよりも、上質かもしれぬ。虫ケラという言葉を返上しなければならない。
692. 人はなぜ、彼方へと想いを馳せるのであろうか。一生かけて、砂漠を歩いて天笠まで行った人、海を渡って、長安の都へ行った人、月まで行って、歩いた人、時空の、彼方は、どんどん遠くなり、いつまでたっても、約束の地へは逞りつけないニンゲンである。
693. 膜。バリア。磁場。外と内。私と非私。壁と襞。在ると無い。棒と筒。点と線。形とのっぺらぼう。何やら、意識が点を追うように、あちらへ、こちらへとびはねて、(私)は、落ち着かぬ。透明な線が、眼の外を疾走しているが、いったい、何が起きているのか、見定めがつかない。揺れている。
694. 存在(これ)の発見、つまり、(私)と呼ばれているものの発見から、すべてが始まった。呼ばれて、呼ばれて、その名前が(私)だと知ることになる。名前を呼ばれ続けると、名前は(私)そのものではないとわかった。で、いつまでたっても、?が(私)である。
695. 「お前という人間は・・・」と他人に言われ続けているが、そのお前と(私)が重なりあった時(ためし)がない。誤解はいつもそこからだ。
696. 売り言葉に買い言葉で、お互いに、相手の欠点、短所、悪口を並べて、批判し続けているうちに、その人も、自分も、ニンゲンからはほど遠い怪物になってしまって、口を噤んだ。気分が沈む。寒いだけ。
697. 善人、悪人も救われるというなら、もう一歩踏み込んで、生きとし生けるもの、すべての存在が、救われると言わねばなるまい。「悪人正機」から「全存在者正機」へと。
698. 狂った魂は、もはや、自分自身の手では、どうしようもないのだから、他力を超えた大きな力に委ねるしか術がない。
699. 泣く暇も笑う暇もなくひたすら歩いて、歩いて、モノを売った。歩く先々に、崖があったが、歩かねば、深淵が口を開けていた。
700. 眉間にタテ皺を寄せて、額が硬直したまま生きていると、笑顔を忘れる。1日1、2度は鏡を見て、笑い方のレッスンをすること。(自戒)
501. 放擲したモノもコトも、遠くなり、ひたすら、魂を舐いでいる。幾多の夢は、空にのぼって、消えて。
502. 転んで、転んで、歩き方を覚えた。一人前の顔をして、世間を渡り歩いていても、転んで、転んで、生き方を覚えた。失敗のない人生などない。
503. 人に会う。笑顔があれば、大丈夫。
504. 人間は、農夫が土を耕すように、一画、一画、漢字とひらがなを書かねばならない。文章の奥が深くなって、心にとどくために。
505. 表情も文化である。ニンゲン以外は笑わない。気配を読む、空気を読む、実に繊細な表情は感情を伝えるリトマス試験紙だ。
506. 何を考えているのか、一番わからないのが笑顔である。ホッともするが。
507. 笑わないニンゲンが増えている。笑えないのだ。病んでいて。傷だらけで。
508. (そのこと)を知っている。
(そのこと)を知らない。
(そのこと)を知らないと知っている。
結局、知らないということが、わかってきた。
509. ときどき、モノ自体の素顔が覗いて、爆発的な暴力を振るう時がある。
510. 石化するニンゲンを視た。
511. 雨の日には殺人が多い。自殺者が多い。死者は、雨に吸い寄せられる。
512. ”ブータン”という国には、墓がない。長い間、私は、その事実を知らなかった。そうか、魂はめぐる、輪廻転生の国だ。
513. (今・ここ)で発光し続けるニンゲン。魂の灯が消えるまでの空騒ぎだ。
514. 伸縮自在のやわらかい二本の角と足が触れる部分が蝸牛の宇宙だ。
515. おそろしいヨー、おそろしいヨー、と、五歳になった少年は、泣き続けるのだが、何を聴いても、首を横に振る、大人たちには、見当がつかぬ。人は、生きると、自然に、おそろしいものを知ってしまうものらしい。誰にも助けてあげる術がない。
516. 結局、どう生きてみても、(私)を、説得することが一番難しかった。断念につぐ断念。
517. 人間は、身の丈以上に、ニンゲンのことを考えてはいけない。眼の前に、無限があっても。
518. 考えるようには生きられないのに、考えるということを止められないニンゲンである。
519. どんな説明も、完全な説明に至ることはない。だから、対話は終らないし、切りがない。
520. どのように生きていると他人に訊いてみると、ほとんどがセイカツの説明ばかりで、生きている(私)のちがいに、びっくりした。(私)はどこにいるの?
521. ついこの間、そう、たった500年ばかり前までは、海の彼方に、山の彼方に、浄土を求めていたニンゲンは、もう、現代では、銀河の、宇宙の、彼方に浄土を求めなくてはならない、そういう時代になった。
522. 人が、随分と、遠いと感じる日々がある。
523. 神輿は、ひとりでは担げない。肩と肩で支え合うところに、神輿の本質がある。
524. 一粒の砂にも、無限がある。なぜ?答えは、時間だ。一粒の砂も、また、無限の時間を帯びている。砂粒の私。
525. 無限に展開される思考には、いつも、意識がぴったりとくっついている。
526. 柔らかい蝸虫のような脚を持たねばならない。モノに吸いつく、あの認識する脚。
527. 思索の日々ほど、豊饒なものはない。他には、何もいらない。無限に身をゆだねる。
528. 歩きながら、自然に、1、2、3、4と数を数えている。数こそが疑われなくてはならない。−突然、どこからか、そんな声が降ってきた。頭の中央に。そして、蒼ざめてしまった。
529. 無名の者。名前がないのではない。名前を消して生きる者の謂だ。
530. 木の本能?木の遺伝子。そんなものがあるのだろうか。花を咲かせ、実をつけて、子孫を残すという方法。
531. 場を変えてみる。簡単な行為が思考を変える。目の移動。
532. 気分というニューアンス。思考よりも繊細な襞の染まり方。眼の色にでる。気分という波。
533. 感情には、いつも、さざ波が立っている。
534. 風に吹かれて、光に触れて、歩いているだけで、角がとれ、固い思いが溶けて、流れ出し、リズムにのって、浮遊するものが結晶する。
535. 一日一日、在るということを確認していくこと。ひび割れ、痙攣し、渇き切っている(私)が再生するために。
536. 不思議だ。歩けば歩くほどに、リズムが、点在するものを統一してくれる。
537. (世界)の顕現の仕方は、ひとりびとりちがっている。
538. 眼の分析は、瞬時に行われている。説明はその後からついてくる。
539. 村にはじめて、バスが来た日、少年たちは、バスを追って、排気ガスを吸った。それが、文明だった。
540. 人は風土に染められて生きている。旅に出て、歩いてみると、風景ごとに人がちがう。
541. 夏の光がある。ムルソーはそこで生れた。
542. 閑居の日々が、我が身に来るとは、考えもせぬ事態であった。誠に、春、夏、秋、冬という四季が人間にもやってくるものだ。
543. 百年、千年と鳴り響く声でなければ思想という名に価しない。それは(私)の声である。
544. 「不易流行」と芭蕉は語った。なるほど、400年経っても、生きている「普遍」だ。
545. 父の死は「次は、お前の番だよ」と、絶対的な声で、知識や哲学や思想をうっちゃった。痙攣である。
546. 喪が明けた。私も、また、死すべき者として生きねばならぬ。
547. 人は、いつも、その延長線上にいると安心する。いつ断たれるか、わからぬ日々であるのに。
548. 持続は、もちろん、力ではあるが、悪い習慣ほど、困ったことに続いてしまう。
549. 「我」と「執着」を捨てて、無私の私へと至るその鍛錬がいる。
550. (私)を考える−思想
(私)に固執する−自己愛
この二つは、まったく異なる。
551. 久し振りに(現場)に顔を出すと、いかに、私が、隠者へと傾斜しているかがよくわかった。たった一年、(現場)を離れただけで。
552. 何もかも、うんざりだという状態は心の井戸が浅くなっている証拠だ。深呼吸をする。
553. 不在は見えないのに、見えてくる、それが死者だ。
554. 四六時中、(私)は、死すべきものだと、意識し続けることは、誰にも出来ない。気が狂うだけだ。
555. 「生」が盛りになればなるほど、「死」も近くに在る。
556. 「文学」に淫しすぎると、思考がゆがむ。
557. 今では、父の存在が、ひとつの画像(イメージ)になってしまった。驚きである。
558. 必要とされる人間がある。必要とされる会社がある。では、老人は、高齢者は、どのように、必要とされるのか?現代の問題である。
559. 現代に生きる人は、誰であれ、多かれ少なかれ、神経症的な痙攣をまぬがれることは出来ない。
560. 放棄せざるを得ない、そんな認識で生きるしかないニンゲンであるから、当然この世界=宇宙は、分裂的に存在する。確実なものは何もない、一切は、混沌であると。
561. 存在(モノ)と言語(コトバ)の比重を、誤まらぬように、使用して、生きる。
562. 頭を殺して、足で生きる日もある。
563. 質素に生きる。余分なものを剥ぎ落として、それでも、考えるという宇宙は、豊饒である。
564. 畏怖の感覚はなくしてはならない。山へ、海へ、野へ、川へ、自然のあふれる中へと(私)を晒してみるだけで充分だ。
565. まあまあという、平凡な、感情が、セイカツには必要である。
566. 時空がなければ、時間もない。一人に一人の時空。
567. (私)へと、結晶したものが、いつのまにか、衰弱し、分解されて、消えていく。
568. 永遠に触れると、破壊される。畏怖と苦痛がある。卒倒して、痙攣するだけだ。
569. 清潔に、綺麗に、整理された世界。塵も芥もない。ニンゲンの身体は、細菌だらけだから、そんな世界には棲めない。やはり、汗と汚れが似合う。
570. 風が吹く。竹が揺れる。竹の動きは、すべて、曲線で出来ている。眺めていて飽きるということがない。現代人の心に、竹を接木したくなる。
571. 人は、病むと、(病んだ人)になる。もう、元気な時の、あの人ではない。
572. (現場)に人の姿が少なくなった。
(街)に人の姿が少なくなった。
(病院)に行くと、人ばかりである。
573. 久しく、(人の高み)のようなものを見たことがない。
574. 人の持つ場所の形はさまざまだが、必ず一人にひとつ場所が必要だ。歪んでいても。
575. 一人の人間の手が届く範囲など、たかだか知れたものだ。何度、断腸の思いをしたことか、ほんの身近で。
576. 大事の時に、知恵と力が足りなかった。努力をしても、いつも、「後の祭り」だ。赦してくれ!!
577. 知恵と力が少しは、身についてきたと思ったら、もう、本人自身が、ボロボロである。
578. 実の業という。(実業)万巻の書を読破するよりも、具体的な、ひとつの行為が要る場合がある。
579. 無学、無知は、責められないが、辛いことに、それが(悪)を生むことがある。更に辛くなる。
580. 壁は、次から次へと現れる。人が、高みへと昇ろうとすれば。おそらく、限度がない。
581. 人が高揚するように時代も高揚する時がある。
582. 沈滞する、没落する時には、淋しく、悲しく、辛いものだが、いつかは、歩み出す時が来る。ぐるぐる廻る世界だから。
583. 生き方と、放つ言葉が合致しなければ、言葉は、正直なもので、見事なくらいに反逆して、その人を撃つ。
584. 若いうちには、先行した言葉が、肉離れを起こしても、当然だ。まだ、生きていないから。ヴィジョンのままに走れ!!
585. 江戸の風を受けて育った福沢諭吉が、なぜ「学問のすすめ」を書けたのか。百年も生き延びる言葉を。明治の風が吹きぬけたのだ、彼の内部に。
586. 原子たちが、何億、何兆も集って、歩き出し、笑ったり、泣いたり、考えはじめたと思えば、なんだか、おかしい。不思議そのものである。
587. 一千万分の一の世界。原子を、ニンゲンが、見る時代になった。原子のかたまりが原子を覗く不思議。言葉がとどかない。何?それ。
588. 頭がくらくらして、眼が、見るという力の限界を越してしまったような畏怖が来た。原子の並んだ絵図に。
589. 闇の中で、眼を閉じて、モノを見ようとしはじめた(私)がいる。透視する力の顕現。
590. 宇宙に吹きわたる原子の風。今日も縁側で風を受ける。煙草を喫いながら。
591. 細胞の粒々が、すべてが、眼になる。
592. 電子言語は、時空へと放たれるモノであったのか?
593. 空騒ぎであれ、他人真似であれ、真険であれ、とにかく、他人がするということを、私もやってみる。神輿を担ぐ一人、参加者になるために。
594. 朝日が昇り、夕日となって沈む。眼は、いつも、発見している。何を?光という太陽の不思議を。
595. (私)の声だけを記している「本」を探している。なかなか、見つからない。混ざった、濁った声ばかりだ。
596. 作為のない、自然な(私)の声に耳を傾けたいが、雑音ばかりが流れてくる。
597. 余分なものが多すぎる。簡素が一番であるのに。
598. 私には、地面に対して、垂直に立つための、首と顔・頭の位置の在り方(納まり方)がわからない。誰でもがするように、自然に立っても傾いているのだから。
599. 40年振りにお会いした、高校の音楽の先生が「あなたは、いつも、首を傾けて歩いていたわね」と告白った。そういえば、私の一番古い写真、祖母と並んだ写真も口を真一文字に結び、掌を握りしめて、首を傾けている。なぜ、私は、傾いているのか?
600. 冬の日、雨の後、木の枝に無数の水滴が付着している。それが、落ちるさまを、長い間、眺めていた。無為の休日。
401. 人間は、意識が、産む、産まぬ、と選択できる。鮎も鮭も本能で産む。で、意識が本能に勝ったとは言えぬ。どちらが良いか、本当は、わからない。高低はない。
402. お前は必要な子だったと喜ばれた者か、お前はいらない子だったと、憎まれた者かで一生は大きく左右されてしまう。
403. 「存在は良し」という声が響けば、もう、それだけで、生きる意味が半分はある。
404. 本能も、また、生きるための大きな声の指令だろうか。知性と同じほどに。
405. 魂が生れるのであれば、(私)は魂だ。
406. 不死の人とは魂の謂か!!
407. (私)は、人間という物語を生きている。
408. 父が死んだ瞬間から、私の中に、突然ひとつの画像が発生した。直立不動で立っている父が、大きな口をあけている。口からは、赤い、長い長い舌が伸びて来て、私に迫ってくる。眼を見ひらいて、私に、訴えている。その長い舌は、波のように、揺れていて、舌の上に、文字が書き込まれている。父が死んで、もう、一年になるのに、そのイメージは、消えない。私は、その画像が出現する度に舌に書かれた文字を読もうとしている。父が、何を言いたかったのか、いつの日か、解るだろうと思っている。奇妙な経験だ。
409. 確か、動物としての本能が壊れたのが人間であると語ったのは、心理学者の岸田秀だった。なるほど、四六時中セックスができるし、自殺もできる、原爆まで作ってしまった、戦争もする、何よりも言葉を作って、考えるということまでするようになった。
410. 鮎や鮭の産卵の瞬間の、あの、裂けるように開いた口、苦痛か、眼は虚空を見ているが。
411. (私)が在ると思う瞬間に、いつでも(世界=宇宙)がひろがって在る。
412. 空っぽの家に、空っぽの言葉。
413. 「私」の使用法は、どこで学習できる?家?学校?会社?本能?
414. 明日は、わが身ぞ。そう覚悟をして、一日を生きねばならぬ。呼吸は一瞬で無限。
415. 「眼球遊び」は面白く、身体の不思議が体験できる。指で、両目蓋を圧迫する。光が飛び交って、まるで、光の誕生する宇宙である。見える、見える、眼以外の力で。
416. 時間の中で無化されるあらゆるモノとコト。それでも、存在は、呟き続けてる、泡のように。
417. 結局、人がどちらに転んでも、何かを為しても、何もしなくても、時空は、びくともしないで在り続ける。偶然という魔。
418. 知者、識者が考えて、考えても戦争をやめる理由、法、論理、が構築できないのなら、知識がないのなら、「無答無用!!戦争は禁止とでも言うしかないか」
419. 偶然生きてきた。自分で望んで生まれてきた人は、誰もいない。おそるべし偶然の歴史。
420. 戦争をする前に、サイコロを振って、勝ち負けを決める−一番の平等、文句なし。
421. いい戦争(聖戦)も、悪い戦争(侵略)もない。ただ、人と人が殺し合う戦争があるだけだ。
422. 他人を見れば愛し、敵を見れば殺し、これでは、ニンゲンは、壊れ、分裂してしまう。(人)は矛盾に耐えられぬ、正しい存在だ。
423. 歩いている。私が薄れる。意識が私を離れるその瞬間に、それは来る。それの貌が見える。一番深いところに隠れていたものが顕現する。触れて、達して、それと共に痙攣している。(普遍)
424. 芭蕉は、「純粋直観」でものを捉えて、「絶対言語」で俳句を作る。だから、句の言葉は、日常のものであっても、彼方から垂直に来る。正に、「風雅の誠」である。
425. 瞬時に来たものは、歩いているうちにでも、言葉にして、ノオトに記さねばならぬ。それは、光のように消えてしまうから。
426. 歩くことは、私の意識を純化することである。だから、声は、いつでもその境目をすぎると、素直に来るのだ。耳にとどくのではない。脳の中心を直撃する。そして、心に触れる。
427. 道を歩く。風景の中を歩く。意識が、見るものに触れて、一瞬一瞬ぴくぴくと反応している。知覚。風景の発見。原子の群れの集合、その流れ。まだ、本当は、見えていない、漠然と続く道、漠然とある家並み、植木、空・・・。
それぞれが、バラバラに存在している、統一はない。まだモノらしいが、よくは、わからない。ぼんやり。
428. 人間の自由度は、行為にしろ、思考にしろそれほど、大きな閾をもっている訳ではない。しかし、一が多である、一粒の砂に無限があり、思考からは永遠に至る発見もあって、ニンゲンまだまだ捨てたものじゃないぞな。
429. 一切を無化する時間に対しては、一瞬の中にも永遠があると、嘘ぶいて、時を呼吸してみる。
430. 虚無に蒼ざめる。生の一回性に、慄のき二度と顕現しないという存在の宿命に、躓いて、絶望するのも当然だが、(普通)のセイカツをする心の形があれば、気がちがうこともあるまい。
431. 「花は花である」−花は花そのものではない−花は風である−花は心である−花は星座である−花は無限である
見たり、思ったり、考えたり、(花)は出現しては、消える(美)だ。
432. 「音楽が流れる。耳がそのまま心になる。」
433. 男よ、男よ、男よと、女よ、女よ、女よと、求める力、肉の力、本能の力、愛の力、なんと呼んでもいいが、その力が、何百年、何千年、何万年と、ニンゲンを作りあげてきたと思うと、個人の(私)が求めるのか、類としてのニンゲンが求めているのか、その根源的な力は、生命の祝祭とでも呼ぶべき、おそろしいものである。
434. 産卵時には、鮎や鮭が、裂けるほどに口を開き、全身を痙攣させ、眼は虚空を見ている、快感か苦痛かは見わけがつかないが、とにかく、ある生の絶頂に達する。そして、ぼろぼろになって死んでいく。魚たちの性交。生命の伝達。
435. 肉体、細胞の力の(産み続ける力)の圧倒感!!
436. 困ったことに、ガン細胞も、また(私)である。
437. (私)を創っている細胞に、突然、発生して、一気に、その勢力を強める、異分子、ガン細胞は、(私)自身を滅ぼしてしまう。
438. 人間の細胞の爆発力は、驚威である。しかし、その力を上廻るのが(ガン細胞)だ。
439. おそらく、私は、生きられる限り、私の、もっとも深いところへと、降りていって、私の「元型」を覗き込まねばならぬと思う。「私」とは何者かと。
440. 言語の限界を超えた、「絶対言語」で、詩を創造したマラルメは、メタレベルの最高地点まで歩いていった。虚無から美へ。
441. 日常の、表層の、普通のものの次元から跳びあがって、高次の次元へと旅立ったまま、還って来ぬ人たちもいる。狂人と呼ばれたまま。
442. 何層あるか、わからぬ位相へは、覚悟を決めて、超歩せねばなるまい。猿から人へ。人からXへ。
443. 表層も深層も、歩行の危機はどこにでもある。
444. 人に、動物に、植物に、鉱物に、触ってみる。触れられている(私)が、映し出されて、手が、眼が、耳が、口が、鼻が騒ぎはじめる。
445. 山の墓!! 海の墓!! どこからか私の耳に流れ込んできた音信である。
446. 目的地へと歩く道から、歩行そのものを愉しむ道へと、変わってしまった。
447. 今日も、宇宙への旅に出る。砕け散った(私)を拾い集めて。
448. (人を殺すな!!)日常の声が(人を殺せ!!)と戦争の声に変わる。人間の良質な部分がすべて失われて、人間の悪質な部分が吹き出してくる戦争の論理。敵と味方の二分法。
449. 実在する(私)空である(私)。どのように表現しようとも(私)から発している。
450. (私)の生きた経験を、一日を、そのまま他人に伝えるのは、いかにも、不可能である。
451. (私)が空っぽの状態の時には、ゆっくりと潮が満ちてくるのを信じて、待つだけだ。
452. 心の動きは、誰でも、同じようなものなのか、あるいは、個人の心性によって、全く異なるのか。誰が、どのように、証明できる?
453. 言葉に犯されると、(現実)を、言葉で見るようになってしまう。で、のっぺらぼうの(現実)は言葉で染まってしまう。(モノ)は言葉ではないのに。
454. 声が、他人にとどく、不思議だ。
455. 耳で生きる人は、声の調子にも、心の流れを読んでしまう。耳人。垂直に来る声。
456. 眼で生きる人は、見る、読む、意識の魔になる。
457. 五感は、意識に磨きをかけるから、いつも手当が必要だ。
458. あ~あと溜息をつく。息の中にいる(私)を見ている意識が舌を出している。
459. 思いきり欠伸をしたら、気分が楽になった。身体は、実に、正直である。
460 ウイルスが人を食べる。しかし、すべての人を食べ尽くすと、生きていけないから、ある地点で、ウイルスは、人を食べるのを止めてしまう。つまりは、共存の道を選ぶ。宿借りの論理。
461. 揺らぎからすべてがはじまる。時空の歩行。
462. で、どうするんだ?
探求するにせよ
研究するにせよ
運動するにせよ
商いするにせよ
とにかく、するということをしていなければ、人間、仕方がない。
463. 精神のリレーよりも魂のリレーが大事だ。しかし、ニンゲンにとっては、魂のリレーの前に、肉体のリレーがいる。肉体は、種の核であるから。
464. 環。鎖。そして、螺旋。
465. 分析に分析を重ねて、ついに、「元型」が見えなくなった。
466. 日常生活の力と「本」のもつ力が均衡しはじめた。
467. 大事に、大事に育ててきたものを棄てたのだから、あとは、無心になって、奉仕の気持で生きねばならない。
468. 眼が合った瞬間に、お互いが、滅びゆく者であると、認め合う、心の交感が、腹に落ちて、疼き、永遠の別れともなる。
469. いつか、また、会えるよと呟いて歩く人の、その背中を、凝っと眺めて、立っていた。
470. 千里眼の君に、特別、語ることもないのだが、見者であることは、辛いねと声を掛けてしまった。
471. 物語を読むというよりも、物語の波に乗っている、一緒に歩いている、その感覚が、最近、大事になってきた。(私)を投射する者に、魅かれて。
472. 短気になった。怒りたい時、一瞬、間を置くこと。間は、怒りを鎮めてくれる。
473. 雪が降って、空間が、賑わい、華やぎ、その密度が濃くなった。空の空間の透明な存在が形をもち、(私)に触れる。
474. 会っても、会っても、人は、語り尽くせないものだ。
475. テレビの声、新聞の声、現場の声、声という声の意味がぬきとられて、単なる記号に思える時がある。声が白紙になるのだ。
476. 「山は山ではない」非山。禅という手法。
477. 言語使用のパターンが眼を曇らせる。
478. 人は、まったく別人になってしまう。(私)である、その持続の根拠も棄てて。
479. どこの子だ、誰の子だと言い続けられて、(私)というカードを切り続ける。
480. 何者かに、(私)は、読み込まれている。意識をも、覗いている者がある。すべてから、離れて、ただ、ただ、そのもののままで、流れていたいものを。
481. 音もなく崩れている。時空の中へ。(私)が(私)自身の中へと雪崩込んでいる。
482. 溺れているニンゲン。いたるところで。差し出す手がない。なんという頽廃。
483. ただ、ただ、放心している。黙って、肩に手を置く人がある。声よりも強い手。
484. ぶらぶらと歩いていると風景もぶらぶらと現れる。
485. どこかに、自然に、結びついている、その感覚さえあれば、大丈夫。普通に生きていける。
486. ものがつるつると滑りはじめると危ない。すとんと透明な深淵に陥ちてしまう。気をつけて。
487. 無数の、無用の断片も、存在するという理由だけで、ニンゲンを支えている。在るという力。
488. 普通の一日の、普通の時にも、どこかへ、迷い込みそうな、奇妙な時空が現れる瞬間が確かにある。
489. 危険だ、危険だと半鐘を鳴らし続けていると、平凡な日常の、本当の危機を見逃してしまう。
490. ふとした瞬間に、アッ、今の(私)を私は見ていた、知っている、予測、予知、即視感。そうそう、そして、この(現実)の中で、この風景を見て、その中を西の方へと歩いていく、誰だ、お前は!!
491. 疲労が過労になって、過労が病気を呼ぶと、休むこと、一息つくこともできなくなる。神経が針になっていて。
492. 子供に、親の姿が見えないように、親にも子供の姿が見えなくなる時がある。その理由は、まったく違うが。
493. ものを食べることに躓いてしまうと、ニンゲンという存在を全否定してしまう。
494. ものを食べる、その、ものは、生きものだから、どうしても、罪の意識がめばえてしまう。美味しい、マズいと、話をしている凡庸さも必要である。
495. とにかく、何があっても、何を言われても、ただ生きることにも「我慢をしている」と言ったのは、武田泰淳(作家)であった。
496. 身体は、気持よくなりたい。精神も気持よくなりたい。しかし、苦痛と不快が来る。快は不快、不快は快。
497. もう、終ってしまう、この一日と床の中で思う。あの感触。闇へ。
498. 独楽(スピン)する太陽。熱射。光を!!
499. いつも、斜面に立っていると、意識している限り、ニンゲンは思考し、行動する。
500. 生きていること自体がダブルバインドである。
301. 人間は、すべて、渦巻き人間である。
302. 生と死は、その度、(私)に生起しているが、いつも、少しだけ生の力が強いために、(私)は生きている。だから、(生)と(死)は、決して、二元論では語れない。(私)という球体に、それらは、同時に存在する。
303. 人間は、風景の中に沈んでしまう。そして、再び、発見される。見ようとする眼があれば。
304. 生きている、接続している(私)の証拠を探ろうとする。自己同一性の確立。当然、記憶というものに、頼る訳だが、その記憶ですら、薄く、ぼやけて、歪み、消え、虫喰い状態である。すると、実は、(私)もまた、あやふやな、記憶のように杳として存在しているのか?!!
305. 強いばかりの人間の眼は、病者には痛いだけだ。
306. 心の、身体の、躓きが、いつも、次のステップへの発条になる。
307. かさぶたの、傷の、下からは、いつも必ず、新しい細胞が貌を覗かせる。
308. 人は、決して、快感からは、ものを考えない。本気で、ものを考えさせるのは、いつも、傷・痛みからだ。もちろん、病いを知る人は、その考えに深みが出来て、竹の節目が、くっきりと、思想に表れてくる。
309. 生きる力は、生きられる力よりも質も量も低く少ない。人は、生きられる時間に生かされている。
310. とりたてて、特別なことをすることのない、1日が、人間には一番良い。冬の日溜りで、ゆっくりと、考えるということだけを考えて、坐っている。
311. 私(ニンゲン)は、決して、同じところ(定点)にはいられない。
312. 定点の移動する座標軸では、絶えず、時間も、空間も、場所も、揺らぎ、伸縮し歪み、ぴったりと(今・ここ)に貼りついている。
313. 現象の総和が世界であるのに、書かれた(本)は、いつも、書かれなかった部分で支えられないと成立しない。
314. モデルになった(モノ)は、いつも、不満が残る。書き手の(私)は、私の視点にしか立てぬ為に、(モデル)になった(モノ)は、もうひとつの視点を要求する。半面の姿、半面の論理。
315. (私)が他者になるという視点が必要になる。つまり、(私は他者である)と。
316. 意識だけになる。誰のものでもなく、誰のものでもある意識。考えるという現象体。
317. 定点・立場・位置(私)の中にあるものが、自由に移動すると、(モノ)も(コト)も、それにつられて、移動する。変化の変化。
318. やはり、私の持ち時間は、あとどのくらいだと言うよりも、私の生きられる時間はどのくらいだと言う方がより正確だ。
319. さっき、買いものに、コンビニへ行って来た。その時間はもうない。時間は、去るのでも消えるのでもない。今・ここに厳然として在るだけだ。そうだよね、池田晶子さん。
320. 突然、言葉の光線が射し込んできて、勝手に泳ぎはじめた。で、私は、静かに、それを追っている。どこへ私を連れていくのかわからないが。
321. 生きているということは、どう考えても(脳)ではなくて、(私)である。(私)という生命だ。だから(脳死)はない。
322. 脳は、生きている(私)を超えられない。
323. 仏になる、どうやら、(死)がわからないのに、死後を語ってしまうところに、宗教の秘儀と核がある。
324. (今・ここ)を歩いているしかない人間だが、どうしても、歩いたところに、時空の道が出来てしまう。それを仕方がないから(過去)と呼ぶ。
325. 神は死んだと、語ってしまったニーチェのあとを生きるのは辛い。不死・全能の神が死んだのだから、後は、宇宙のすべてを人間自身が、背負わなければならない。
326. 生命の張りにも頂点がある。頂点は、完全な成熟の一歩手前にある。
327. 時もまた成熟する、人間の生きられる時間の中で。時熟も滅びの手前にある。
328. 最終の到達点は、十(プラス)と一(マイナス)の合体にある。意識が至る、思考が至る、魂が至る、その地点に(普遍)がある。
329. 塔が建つ、その中心に、心柱がある。人間にも、透明な心柱が貫いている。
330. 南向きで育った木は南側へ
北向きで育った木は北側へ
木の声を聴くとは、そういう使用法だ
「松のことは、松に習え」 古代人は、自然の原理を知尽くしていた。
331. 心も、物質文明の進歩と同時に成熟しなければならぬ。現代人の心は、跛をひいている。
332. 赤ちゃんは、新らしい人間なのだ。古い父と母のように生きれなければニンゲンにはなれない。新らしいは古い。古いは新らしい。
333. 名詞でもなく、動詞でもなく、言葉とはちがう形のメッセージがある。文章を書く人間にとっては、辛い認識である。
334. 21世紀は人間の正念場である。滅びるか、進化するか、誰にもわからないが、すべては(私)の存在形態にある。
335. 刻々と変わる夕陽を眺めていた。私の中に流れていたのは、あらゆるものは、一切、もとに戻らない−そういう思いであった。光に触れると、美と無限が握手している。
336. 手に指があって、指と指の間に隙間がある。その、隙間があることに驚いた。何もない、隙間という空間が、手を造っている。
337. 言葉の根を凝視する。湧きあがり、滲み出してくる(私)の声の根。混沌から明晰へ。
338. なぜ、人は、他人の言葉ばかりで語って、安心しているのだろう。それは、考えではない。知識だ。
339. なぜ、人は、意識の上に、無限の現象の海からたった一つのモノ・コト・コトバを選択するのだろう。
340. ある地点を超してしまうと、(私)が選択したものも、実は、向かう側から、勝手にやってきたと思えてしまう。いったい、誰が考えていることになるのか?
341. モノを見る。その関係の関係の関係を見るというふうにたどっていって、最後に見えるものは何だろうか。見方を知らないものは見えない。
342. なぜ間違ったかは解るのに、間違わないようにするのは、別の問題だ。
343. アレも欲しいし、コレも欲しい、次から次へと欲望のままに、モノを手に入れておいて、環境が汚れて、生き辛くなると叫び声をあげる、まったく虫が好きすぎるわ。
344. ちがう、ちがう、ちがうと声をあげ続けることは、王道へと至る道になる行為のひとつだ。
345. 「自分はそういう性分だから仕方がない」、短気とか、癇が強いとか、暢気とか、学習や訓練ではどうしようもない(資質)や(心性)を考えて、人は、そう言う。生れつき人の顔が、それぞれ異なるように、性分も、また、固有のものか。
346. 「合性がいい」 合理的な説明を越えて、「合性」も、不思議な、関係のありかただ。他人眼にも、自分にも、納得させるだけの確かな根拠がないのに、馬がよくて、(合性)が合う場合がある。
347. 「朋輩」は「友人」「親友」ともちがった独特なニューアンスをもった言葉だ。還暦も過ぎると、少年時代の「朋輩」が掛け値なしに、ありがたく、なつかしい。
348. 山を歩き廻った秋の日、川で泳ぎ、川原に横たわっていた夏の、長い長い一日、足の裏に、背中に残っている黄金時代の少年の記憶。
349. 「言葉を使うな」とその人は言葉で言った。
350. 歩いていると、いつのまにか、歩行は肉体のリズムを作り、心の流れを作り、意識がそれを追い、時間が生起するたびに、何かが発火して、イメージを作り、不意に、言葉となって、私の中心に起きあがってくる。
351. 何処からか、何ものかが集まって、星が誕生する。何ものかである星が分解して、何処かへと散っていく。人間の誕生にも似たようなものか。星が人間であるというのも絵空事でないかもしれぬ。(集合−引く力と分解−分ける力)単純で、簡単で、根源的な+と−という力。在ると無い。
352. 平凡な、日常の中で、無限を感じる時、私の思考は、いつも、痙攣して役に立たない。放心する棒だ。
353. 呼吸に上手につきあうこと。
354. モノ・コト・コトバ。道具と思考。あらゆる揺らぎの中を吹く風がある。その姿が見える人・見えない人。
355. 謎と化してしまうように在る人が在る。
356. 全身にびっしりと貼りついてしまったものは告白すらできない。告白すればその人が死んでしまう。たいがいの告白は、告白ではない。やはり秘密は墓場までもってゆかれる。
357. 一人の作家が”国のかたち”を発言すれば自分の頭で考えたこともない政治家が、誰も彼もが、”国のかたち”とどうするのかと他人に問う。”私のかたち”こそ、自分自身に問うてみる、はじまりは、そこからだろうが。
358. 会話の大半が、他人の言葉に染っている。テレビ・新聞・他人の考えた言葉。ものを考えるという力に満ちた言葉は、そのダイナミズムを実現した文章は、何パーセントあるのか。言葉は、誰のものでもないが・・・。
359. 時計に、暦に、太陽に、木に、風に、風景に、光景に、(時間)を私の外側で確認する習慣が身についてしまって、生物としての私の内側の時間について、考える時が少なくなっている。息・呼吸・意識が、瞬間瞬間に、今・ここに起きあがってくる(時間)に触れ、立ち会っていると、私自身が、生きられる時間と共に、存在する、在る、在る、在ると叫んでいるのがわかる。で、私は、時間の不思議を、私の不思議に重ねて、どちらも、知り尽くすことのない、外も内もない、形もない、しかし、透明な、無限の、運動体として、眺め、感応している。
360. 山に入ると山の音。
風がなくても山の音。
361. 私の生きる地点にしか時間は発生しない。
362. 生きている時は、最低のものから最高のものまでいろいろなもに触れなければならないが、生活では、(普通)が一番良い。
363. 私の心の振幅にも限度というものがある。針が振り切れると、心は壊れ、生の歩行は中断される。何人も、そういう人を見てきた。
364. 見者、ブレイクよ。なぜ、見えたものを見たと言って、父と母に撲られたのか。あなたの眼は、見者にしか見えないものを見る。(異界)
365. 手が仕事をする。だから、必要以上は考えない、語らない、職人とはそういう人だ。
366. 村の、山の、入会地に、祖母と薪を伐りにいった。少年の時の、枯れ木に射す冬の光を、度々思いだしたりする。奇妙な感触だ。
367. 一日を生きて、空振りのような日もある。しかし、決して、空白や余白ではない。余分な日など一日もない。いつも(私)がいる。
368. ぶらぶらして、心を遊ばせておく日があるからこそ、過度な緊張や持続にも耐えられる。
369. 子供は、時がたつのも忘れて、我を忘れて、遊びに熱中する。叱られても、怒られても。
370. ものごとを先送りするという心の動きが生じると、いつも、あ~あと溜息をつく。解決したくない、いや、決して、片がつくという問題などどこにもない、何か言い訳を探している。やれやれ、腰の重い人だ。生きることは、先送りできないのに。
371. もらったものは、確実に、返さなければならない。それが、約束でなくても、礼節だ。言葉、思想、お金、生命。誰に、どこへ、何時?
372. 生きても、生きても、充分ではないが、決して、納得できるものではないが、普通の人間は、普通の流儀で、さようならと言わねばなるまい。
373. いつまでたっても、葬式や法事の席で、堂々と振る舞えない。おそらく、正しい形式を学びそこなったのだ。(形がいる)
374. 他人の顔が、妙に、うっとおしく感じられたり、汚れていると見える時、たぶん、私の生のヴォルテージは低下している。(同化と異化)
375. 解釈も説明もあきらめて、その文章を声に出して読んでみた。すると、わかるということがわかり、わからないということがわかった。
376. 土の時代は足の裏で、石の時代は掌で、コンクリートと鉄の時代は眼で、原子力の時代は意識で。
377. 「馬が合う」「性格の不一致」 感性・気質・性癖・心性、人と人が長く付き合えたり、別れたりする、その根底には、理論では分析できない微妙なものがある。性格が陰と陽で正反対だから、上手くいく場合もある。似たもの同志で上手くいく場合もある。人と人の、あの、眼に見えないが、心地の良さ、悪さをめぐる、関係は、不思議そのものである。
378. 長い間、光に不思議を感じている。光には質量というものがない、その科学的な事実、おそらく真実を、どうしても呑みこめない。光の出現、光の発生、光という存在が、在るということと上手く結びつけられない。変ないい方になるが、光が消える、光が消滅する、すると闇が来る、闇にも質量はない(?)陰と陽の関係のようにいつも光と闇は論じられる。光がなくて、闇もない、そういう状態はあるまい(?)(無)あるいは、闇だけが、光なしに存在する、それもあるまい。生と死。私には、左手と右手のちがいが説明できないように、どうしても、光というものが、上手く、私自身に説明できないのだ。光は何処から来た?(光は私だ)そんな馬鹿な叫び声もあがる。
379. 「胸が痛むことばかり」 叫び声があがり、人間が傷だらけで痛み続けている。実際、TV・新聞のニュースは、肉体の胸をしめつけるものばかりだ。肉体から心へ、心から肉体へ。死に至る病はどこにでもある。
380 権力・金・愛・原子力と、色々な強い力が存在する。その中でも、もっとも強い力が、時間であろう。時間は、存在の根幹を揺さぶる。時は流れる、二度と戻らぬ。そのパワー。
381. 幼年期、少年期に抱いた疑問が種子だった。その種子を育むために、生きているようなものだ。
382. 「ものぐさ」の代表がオブローモフだ。何もしないで、ただ横たわっている。世の中が騒々しい時は、歩き廻る蟻に混って、一人、二人とオブローモフが生れる。
383. 驚くのにも力がいる。歳を重ねるとそのことがよくわかる。
384. 現在は、いつも、混乱の波に晒されている。もちろん(私)は、いつも(今・ここ)=現在にいる。何が明確か、わかっただろうか?
385. 実は、簡単な現象しか起こっていないのではないか、そこに、人間が現れると、急に、簡単が難しいことに変わるのだ。つまり、世界の原理は、人間の原理ではない。だから、人間・私は躓いてしまう。
386. 時間に色がつく。朝・昼・夜と。時間に姿が現れる。春・夏・秋・冬と。そして、形も、色も、姿もなく、生と死を、一生涯を無化する時間が流れる。
387. 音楽のような、小説のような、写真のような、いくら、説明しても、説明にもならない言葉。呪文を唱える方が、説明になる。いや、そのものを生きられる。
388. 生きる、と言うから、今日から明日へと、道らしきものでもあるかのように錯覚する。座標軸が頭の中にすりこまれている。中心はどこにでもあるし、点は、どこにでも打てるし、(私)自身の居る場処もわからないのに。
389. ぐうたら人間も、何度でも、出発してやろうと思う意識さえ起ちあがれば、まだ、大丈夫だ。
390. 今日、”感情”という言葉は、どのくらい使われているのだろうか。昔は、”感情”が人間そのものと思われるほどに、大事に使われ、大きな意味をもっていた。長い間、生きている人の口から、直接、聴いたことがない。フローベルの小説「感情教育」。情操という言葉は、もっと聴かない。妙な時代だ。大事なものを殺している。いや、日々、殺されることが、あたり前の光景になってしまって、人間自身が、”感情”を育てられない。
391. 身も心も、一切を棄てて、逅走して、隠者になっても、なお、棄てきれぬ(私)が残る。
392. どだい、生きるということ自体が、何か、無理をしていることではないのか?本当に、誰もが思っているように、自然なことなのか、どうも疑がわしい。しかし、かと言って・・・。
393. 自ら望んで生れてきた人は、誰もいない。気がつけば、偶然(私)という者がいた。生きている間は、その(私)のお守をしなければならない。それが大問題だ。
394. で、(私)は死ぬ存在だと告げられる。まあ、生きている間は、生きているだけで、(死)はないのだから、(私)を生きてみる。
395. (私)を隠しているものがある。どうも、(私)がすべての(私)を知悉できないのは、何かが、(私)の眼を隠して、ものが見えないようにしている。あるいは、見者となって、すべてを見てしまってはいけない理由でもあるのだろうか?
396. もう、たいがいの事は、どうでもいいと思いはじめると、生活が破綻していく。生活のほとんどは、無用のような断片ばかりで出来ているから。
397. 精神という独楽の廻る振幅だけが(私)を露出させる。
398. いつも、少しずつ無理をしている。それで、生活は普通になる。身も心も壊れるが。
399. 本気になると死ぬ気になるは、似ていて、近いように思われるが、その一歩は千歩である。
400. 心に皺の刻まれている人の声を聴くと、ホッと眼が醒める。
201. 一万回も歩いてきた道が、ある日、見覚えのない道となって、私の心の水準器を狂わせてしまった。不意に、今・ここがわからなくなるそんな瞬間を体験した。
202. 「始まり」のはじまりを読み解く手法が要る。
203. 人と人が切り結ぶところに、恋愛も、闘いも、仕事も、喜びと悲しみを伴って発生する。
204. 自殺は、二度死ぬことだ。放っておいても人は死ぬ。自然という不条理である。(私)を棄ててしまう、その極点が自殺である。本当は、人は、自分に、何かいいことをしてやりたいのだ。
205. 仕事では、現場が一番面白い。現場では、いつも、コト、モノ、ヒトが動いている。
206. 政治とは、混乱する現場に、行動でもって、具体的に、設計図を作って、整理をして、生活のための補助線を引く力業のことだ。
207. 仕事は、人と人が、人と物が、人と事が交わるところに発生する。その交流の中にこそ、労働の喜びと悲しみがある。
208. 交換の中の火花こそ感動と悲嘆の源である。闘いであれ、愛であれ。
209. 思考の劇は、生きている人々、死んでしまった人々との魂の交感があるから愉しいのだ。
210. 人と人の声が響き合うように、人と風景も響き合う。風景にも、もうひとつの声がある。
211. 人間としての総体は、その人の歩いた距離と時間に正比例する。どこまで、どのように歩いたかが問題である。思考の歩行だ。その形がニンゲンを決定する。
212. 現象の海に”私”は浮いている。ほとんど一本の木と同じだ。
213. 深夜の思考と、昼中の思考では紡ぎ出される言葉までちがう。
214. 「宇宙」の耳というものがある。人間の耳は、空気の振動で、音を知る。「宇宙の耳」は、あらゆる宇宙線の中に流れるものにも、音を聴いてしまう。
215. 在るがままに在れ。
変わり続けろ。
時空を超えろ。
そして、存在が思考を生むなら思考も存在を生め!!
216. (生きる−死ぬ)という公式を破壊してみる。
217. 「生は死であり、死は生である」 この言葉はいったい、何を語っているのか。いったい、誰の声か。矛盾の矛盾をも超えてしまう存在の形。
218. いったい無限の原子たちは、無限の宇宙で何をしようとしているのか?祝祭か?
219. 空間と言い、真空と言い、虚と言い、空と言い、何もないことは、考えられぬことであるから、触れることも、知ることもない”無”という王である。事象の地平線の彼方では、言葉も存在も、沈黙して、その海を消してしまう。
”無知=知” 知っても知っても、知らぬことがある。
220. 在るということ自体が啓示である。
221. ”モノ”に驚き、人に驚き、心に驚く。
222. 人間の、(今・ここ)を生きるという現象が存在の形式を決定して、いわゆる人間原理を生んでしまう。
223. 原子の大群が浮遊する宇宙という大海原を見わたせる巨大な眼があれば、原子の波の存在の形がわかる。巨大な眼は、理論や原理ではなくて、蛸が触れるように物を理解してしまう。正しく、”無限”を見る眼の誕生だ。
224. 人間が、宇宙を統一する大理論を構築したとしても、それは、人間が発見した”原理”であって、宇宙そのものではない。
225. 重力・引力を発見した人間。しかし、重力も、引力も、実は、無い。それは、人間が、作り出したものの名前である。
226. 身体のもつ精密さと思考のもつ精密さは、まったく質の異なるものである。
227. 知識も、行動も、無限の前では何の役にもたたない。秋風の吹く空の下、点になって歩いている。「無限の前で腕を振った」中也さん。今では、あなたの腕がよく見えますよ。
228. 熱病に憑かれたようにして「事」を為さねば、決して「大事」は成就しない。狂うことと紙一重の熱情がなければ「志」は遂げられぬ。
229. まだある、何かがある、空白がある、余白がある、未知の領域が残されている。(私)が歩める場所と時間が、微かに、残されている、意識がそう思うことで、正気が保たれている。すべてがないと思えば、気がくるってしまうだけだ。だから無限に触れるのは、一瞬で良い。(今・ここ)に在る(私)を解き放つのも意識である。
230. 有限者は、いつも、永遠の前に、敗北する。しかし、永遠との、一瞬の合体は恍惚である。
231. 宇宙全体を知悉したい、それは、生命のもつ、意識の最後の夢である。断念に断念を重ねて、望みは絶たれ、それでも、生命は、延々と環になって、その形を追い続けている。
232. 生命の、星々の、銀河の、宇宙の死滅する日には、いったい、何処へ行って、誰を救うのだろう。もう、どこにも、ニンゲンはいないのに。
233. (私)が、まだ誕生していなかった長い長い宇宙の時間、どこにも(私)の断片もなかった時、その宇宙へ(未出現)の可能性を思う時、(私)の出現は、ほとんど、奇蹟に近い。理由もなく、目的もなく、顕現してしまった(私)という存在の不思議に、震撼させられるのだ。同時に、(私)の死後長く長く続く永延の時間に、もう、二度と、(私)が現れることがない、そのことが、気絶しそうなくらいに、畏怖すべき事件に思えるのだ。どちらも、完全な(無)に近い。
有限者である(私)は、本当は、そのことを上手く自分に言いきかせることができない。日常の、生活の、あれやこれやの苦痛や責苦は、その二つの思いに比べれば、まったく、カスリ傷のようなものだ。
空恐ろしいのは、ニンゲンに関係なく、時間も、宇宙も、存在し続けるということだ。宇宙には、原子には、素粒子には、生と死の区別さえもなく、ただ、運動するエネルギーがあるだけである。人間には、耐えられない、事象というものがある。絶句するばかりだ。沈黙の中へ。
234. 過去、現在、未来という時間はない。人間が、仮に、そう呼んでいるだけだ。
235. 時間が生起する。どこに?(今・ここ)に。曲った時空に貼りついている(私)が見える。
236. 同時に偏在して存在するものがひとつの物であることは可能か?
237. 原子が無限運動をするものならば思考も、また、無限運動をする。
238. 光の化石が物であるならば、物が光になるもの当然だ。
239. もちろん、人間も光になる。宇宙のコーラスに参加できる。
240. 生命も、物質も、光も、あらゆるものがコズミックダンズを踊っているだけである。それを宇宙と呼ぶ。
241. (私)の中には、一匹の魚、一頭の恐竜が棲んでいる。数億年の時間の記憶に、火が点いてくれると、(私)の正体が見えてくるのだが・・・。
242. いくら、丁寧に、詳しく説明してみても、直観の”わかる”という力には及ばない。
243. 人間は、本来が、ぐうたらである。その証拠に、充分な食べものと、雨風をしのぐ家と、ゆっくりと眠れる場所さえあれば、終日、ごろごろしてしまう。
244. しかし、実は、あらゆる条件が整っても、満足しないタイプがいる。(私)とは何かと考えはじめる者、宇宙とは何かと想像する者、そして(私)というニンゲンの存在の形式に我慢がならぬ者だ。
245. あらゆる(知)を学習したい人⇒学者へ
あらゆる(こと)を考えたい人⇒哲学者へ
あらゆる(存在)を発見したい人⇒物理学者
あらゆる(存在)を変化させたい人⇒発明家
あらゆる(法)(原理)を統一したい人⇒宇宙論者
何もしたくない人⇒(?)
作家とは、いったい何をしたい人のことだろう?
246. ニンゲンも、物質と同じように、原子の離合集散である。原子から見れば、石と同じく、ニンゲンも生も死もなく、ただ原子という波の運動が永久に続いているだけの現象である。
247. しかし、確かに、生きている(私)から見れば、生も死もあり、100パーセント死が来る。(死)は、未知のものであるから、人間はその不条理と否々ながらも、握手しなければならない。
248. 原子が、集合して物質を作り、生物を作り、脳を作り、意識を作ったのだから、逆に、ニンゲンも、物質を生命を創出できない訳がない。
249. 「在る」は、必ず「続く」という持続の意識に支えられている。「無い」は、中断であり、切断であり、消滅であり、蒸発である。意識は、それを容認しない。ゆえに「死」は、不条理であり、自然ではない。
250. 「死」と対峙することはできない。「死」は必ずやってくるが、どこにも「私」の「死」がないから、考えることさえできない。「死」が来た時には、ニンゲンは、痙攣して気絶して、悲鳴をあげて、意識を失っている。完全な沈黙である。
251. 天才も凡人もない。ただ、ニンゲンが生きているだけだ。宇宙の、小さな、惑星の上で一匹の生きものがいるだけだ。快楽も苦痛も、たったひと時のこと。
252. すべての(知)を得るということは、ニンゲンにとっては、不可能だ。百年ばかりの生命が百四十億年の寿命の宇宙を知悉できる訳がない。結局、(知)は学ぶという連続した運動であるからいつまでたっても、知らないことは、知らないと知るしかないのだ。
253. 世界を、宇宙を知る(知)などない。宇宙の法則を発見しても、宇宙自体は、また、別のものだ。
254. 科学と文学のちがいは、何だろう。科学は、理論と数式で、物質を、遺伝子を証明する。仮説(実験)、証明。しかし、そこには、ニンゲンがいない。文学は、ニンゲンという宇宙を表現する。人間原理から誕生する。
255. なぜ生れてきたのだろうと悩む人がいる。なぜ、宇宙に、生れてきたのだろうと悩む人がいる。(悩み)の質がちがうのだ。ニンゲンの世を悩む人と存在する宇宙を悩む人。(社会)と(存在)
256. ニンゲンは、完全なる無意味には耐えられない生きものだ。だから、宇宙の原理に合致する”本当のこと”には我慢がならないのだ。幻想でもいいから、ニンゲンは(人間原理)にそって生きたいのだ。
257. 人間は、宇宙に何を残せるのだろう。存在に対して、どんなサインが有効なのか、文学か、電波か、数式か遺伝子の設計図か・・・。
258. 那須の野で秋の花を見た。原っぱに、一群れ、コスモスが咲いていて、透明な風に揺れていた。田の畔には、彼岸花が血のように紅い色を誇示していた。山々には、黄色、朱色がちらほらと、秋の始まりを告げていた。心にも、一瞬、柔らかな風が吹いた。その質感が、風景と私を、結びつけた。旅は心の休日であった。バスに揺られて。
259. 「無常」と言い、「あわれ」といい、現代のニンゲンにも、同じ心の状態が訪れるのに、その言葉は、死語になっている。
260. すべてを知りたい人がいる。ひとつのことを為し遂げたい人がいる。
261. 「エチカ」を書いた哲学者スピノザはレンズ磨きを生業とした職人だった。その思想は、透明で、文体は、思考に発条が利いていて、百年、千年たっても、決して古びないレンズのように輝いている。スピノザの宇宙は、現代でも刺激的だ。
262. 時間も空間も歪んでいるとアインシュタインは言う。時間の歪みは、直線的に流れるのではなく、遅くなったり早くなったりするとイメージができる。しかし、どうしても空間そのものが歪んでいるイメージが、私の平凡な頭には像を結ばない。同じように、宇宙が超球であるという、その超級もイメージができない。
時空は、地球という球体の表面で生きている人間にとって、ほとんど、固定されている。上も下もなく、左も右もなく、削除もなく、過去も現在も未来もなく、一を一と確定できず、ひとつの命題にふたつの解があり、光より速い存在を許さず、超球宇宙は、人間を畏怖させる。不可思議な宇宙に、知的生命体として生きている人間は、もっと不思議な存在である。
263. 旅をする度に、森で海で、山で、空気が実においしいと思う。近い将来には、本当の空気のおいしさを知らない人間が増えるだろう。本物の空気を奪い合う人間の姿を想うと、正直、ゾッとする。空気までが商品になる。美味い空気を吸うことが旅の大きな目的になる。そんな日が来るかも知れない。
264. 考えれば考えるほどに、確実なものが崩れていく。考えるということ自体は疑えないとデカルトは言ったが、その、(考える)とは何かが、揺らぎの波に晒されている。で、思考を止めて、外へ出る。そして、風に吹かれて、歩く。
265. 脳が脳を殺せと命令するか(脳の自殺) 私は(私)を殺せと命令するが
266. (私)は生命というスーパーシステムである。(多田富雄) なるほど、そうすると、(脳)は器官のひとつである。(私)は、決して(脳)ではない。(池田晶子) それは、そうだろう。
「(脳)の中すべての現象がある・感情・認識・意識)(茂木健一郎) 養老猛先生も、茂木健一郎先生も、唯脳論者であって、唯心論者ではない。
「脳」もまた、生命の進化が生んだものである。(三木成夫) 心臓の、肺の発生原理も面白い。腸も胃も、(私)を作っている器官だ。悲しみや喜びは、腸から発生する。心も。決して(脳)からは発生しない。腸管は考える。
「精神の中には、花も、犬も、事物もない」(ベイトソン) 精神は、システムであり、その役割りを(脳)が果たしている。知者たちの(考え)を追ってみると、人間という存在が、さまざまな不思議そのものを生きている現象であることがよくわかる。さて、「器官なき身体」を唱えた詩人もいたが・・・。名前は、アルトー。
267. 「脳」の中に(私)は在るか?」
「ない」
「では、「脳」は(私)ではない。」
困ったことに、この質問、疑問は、私自身が考えたのか、池田晶子が考えたのか、区別がつかない。彼女の著作を読んでいて、なるほど、それはそうだよ、私も同じことを考えていると思うことがよくある。だから、彼女の本、言葉は、よくわかる。
268. 「脳」が「脳」を考える時、(私)は、どこに在るのだろう?この問いも同様である。
269. 言葉は、誰のものでもない。思考も誰のものでもない。学習から、すべてがはじまる。「文体」といい(思想)といい、その人に、固有のものが、言葉から、思考から紡ぎ出される。
270. で、新しいものは、すべて、先人の「文体」や「思想」を学ぶところから出現することになる。何しろ、すべての人間は、赤ん坊からスタートするから。
271. 「無」になると他人は言うが、実際、「無」など誰も見たことがない。果たして「無」そのものは可能なのか?
272. 人間、生きてみなければ、時間は流れない。
273. (私)がこの世にいなかった時、つまり、まだ、この宇宙に誕生していなかった時、(私)には、苦痛も、悩みもなかった。さて、(私)が死んで、この世を去ると、またしても、(私)がこの世からいなくなる。なぜ、そのことが、苦痛、恐怖であるのか?
274. イエス・キリストは、死後3日後に復活したと言う。ならば、死んだニンゲン全員も復活せねばならない。宗教とは、そういうものだろう。
275. 「ああ~とうとう、仏さんになってしもうた。」祖母の呟きを聴いて、仏さんになれば、何処へ行くのか?と訊いた。「墓の中や」と応えた。少年時代のことである。墓は、山の中腹にあった。
276. 宇宙の本当のことを知れば知るほど科学者の頭脳はニンゲンから遠く離れていくだろう。「人間原理」は、もっと輝かなければならない。分裂した心は、もう、もとに戻らないか?デーゲルのように。
277. 生命の歌を歌うこと。息を吸う。声を出す。歩く。その単純な行為こそ、ニンゲンのエネルギーであり、(私)の存在証明である。コスミック・ダンスを踊る、その躍動の中にこそ人間原理がある。
278. 「私とは何者か?」ではなくて、一度、問いかたを変えてみよう。「何が私を構成しているのか?」と。
279. 人間の身体は、穴だらけだ。その穴を囲うようにして肉がある。まるで、中空の管だ。
280. 腸管に心がある、そこから悲しみや喜びが発生すると語ったのは、確か解剖学者・生物形態学者の三木成夫だった。管から、動物も植物も進化したのだった。
281. 脳が考えていると、いったい、誰が証明したのだろう?やはり、考えているのは(私)である。
282. 「形」の中で、もっとも力強く、美しい生き生きとしたものが、渦巻きである。遺伝子から銀河宇宙までが、結晶。「渦」は不思議そのものだ。
283. 歩くことは交流することである。風景と人と物と、時空にあるすべてのものと切り結ぶ行為である。
284. (今・ここ)にしか時間は起たない。意識は、あちらへ、こちらへと浮遊するが、結局は、どこもが(私)へと結集する。
285. 果たして、私たち人間は、確かに、生き死にをしているのだろうか?(いったい、誰が、何をしているのだろう)
286. 最高の(知)を求めた、天才・空海さんが入定(死んだ)したのは62歳だった。宗教(仏教)と(知)が結婚していた時代の子だった。科学の時代になった現代でも(信仰)は、信じる力は、弱くなっても、なくなりはしない。62歳になった私も、空海さんの残した言葉と対話しながら、(信)にむかってみる。深化する言葉のモノローグこそ、空海さんへの旅だ。
287. 言葉の魔に魅入られて、文を書きまくろうが、言葉の限界を感じて、歯がみをして、言葉を棄てようが、問題は、いつまでたっても、一向に片付かない。世の中に片付くものなどあるのだろうか?
288. 人は、生きる為に食べるのか。人は食べる為に生きるのかを悩む人がいる。のん気な悩みだ。世界には、メシが食べられない人が30億人もいる。
289. 人類は、飢えと闘ってきた。現在でも、今日、明日の食料がない。世界の半数が、飢えと闘っている。ところが、日本は、豊かで、飽食の時代だという。そんな時代は長く続くまいと思っていたら、失業の時代、格差社会の時代になった。いつになったら、足るを知る、知足の時代が来るのだろう。
290. 絵にもならない、言葉にもならない、形にもならない、心の起ちあがりに風が吹いて。
291. 今日は、日がない一日、魂のお守りをしている。
292. モノばかりが氾濫しているから、眼を閉じている。
293. 柿の実の、見事に熟した姿に終日、見惚れている。夕陽が降り注いで、風が吹き、柿の実が揺れる。時も熟している。
294. 遠くから、大工の釘をうつ音が響いている。規則正しい音が空に流れて、静かだ。私は、ただ、感覚をしておる。
295. 魂は考えるものではなく、観照するものである。
296. 思考は現象の海から起ちあがる。
297. 実在と言い、実生活と言い、結局は(私)をめぐる考察である。
298. 宇宙時間の中に、二度と生れぬ(私)の戦慄がある。生の一回性の驚愕だ。
299. 一歩踏みだせば、あらゆる現象が起ちあがってきて、眩暈がする。
300. まあ一服しませんか?声には素直に応えたい。
101. 生命には、何度か、大跳躍がある。水の中で生きていた生命・魚類が、はじめて大気の中へと侵進した時。どんな力が働いて、魚は、土を踏み、大気に触れたのか。もうひとつは、なぜ、どんな思いで、猿たちは樹上の生活を離れて、大地を歩きはじめたのか。そして、人間という生きものの条件に我慢がならず、超人間Xへと、どのようにして、進化していくかだ。
(誕生)⇒(死)という生命の条件からの大跳躍が望まれている。(不死へ)地球という惑星の生きものから、宇宙という超球世界での生きものXへ。それが、もっとも大きな生きものとしての人間の大ヴィジョンである。⇒生命樹⇒「生命は内的な力−あらゆる形になる−(素)をもっている!!」
102. 「復活」「即身成仏」「輪廻転生−(生れかわり)」「永劫回帰」そして、荒川修作の「天命反転」絶対的な証明がないままに、人は、人が作り出した、思想を信じている。疑いながらも。なぜか?
103. 木と木が響き合っている。木の対話は自然に在る。
104. 曇天の空の下、蝉が鳴いている。力のない、弱々しい声だ。真夏・青空の下で、蝉は、周辺の空気を振動させて、激しく鳴く。長く、だらだら続く梅雨空と夏の境目のない日々。光が少ないと、蝉の声まで、淋しく、翳る。蝉よ、短い生命を、夏の大気を破るほどに鳴け。もっと光を!!
105. 一番小さいものから一番大きなものにまで、触れるために人間は全開しなければならぬ。
106. 56億7千万後に、弥勒菩薩が地上に降りて、人々を救ってくれるというが、その時、太陽は爆発し、地球も燃え尽き、蒸発している。その時、人間は、何になって、何処にいるのだろう?
107. (死)は、何もなくなることではない。(私)を構成している原子は、数十億年も時空を浮遊している。ニンゲンという形が変形するだけだ。
108. 人間の耳には、達しない低周波が襲ってくる。全身がもう1つの耳になって、その音の気配を受けとめている。まるで、無限遠点から来る音信だ。
109. 原子の波が薄くなったり、濃くなったり、結合したり、分離したり、中心もなく、辺境もなく、(形)の変化だけが生起している。そして(声)まで出してしまう。
110. 人間が、人間の外へと超出する。
111. 達磨さんは、9年間、壁に向かって座禅を組んだ。デカルトは、密室で9年間、考えに考えぬいた。(悟り)と言い、(思考)といい、思想の誕生には、気の遠くなるような時間が要る。身体という精神が果ての果てで摑んだ呻き声が思想だ。
112. 統合の天才・空海の頭脳が現在にあれば、分子生物学、量子力学、超数学、あらゆる宇宙論を統一して(宇宙の最高の法)を創出するのはまちがいない。(物)を(生命)と(時空)から、人間のヴィジョンを描いてみせるにちがいない。入定している空海よ眼を醒ませ!!
113. 蝋燭は身を溶かすことで灯を燃やし続ける。ニンゲンも身を焼きこがさねば思想の火を灯し続けれまい。
114. 肩を張って生きてきた。いや、止まれば倒れる独楽だから、いつも、廻り続けていた。もう、飄飄と生きてもいいだろう。他人に会えば、「お元気ですか」と挨拶などして、「どうです近頃は?」と言葉を交わして、「まあ、お蔭さまで、どうにか」と応えて「そのうち、一杯やりましょう」と別れては、歩いていくのだ。風に吹かれて。
115. 歩くことがそのまま思想になる時が来る。
116. 時空を移動する蝸牛は、動いた場処がそのまま宇宙になる。それ以外はない。
117. 思想の大伽藍もひとつの呼吸からはじまった。
118. 風を切って歩く。風の中に(私)の形が現れては、消えていく。いったい何が通過しているのか?
119. 手で水を切る。手の形が水の中に出現して、また、もとに戻って、形を消してしまう。泡立ち、波紋が起きる。現象は、実に面白い。何度やっても飽きない。存在の戯れ。
120. 音が聞こえてくる。耳。同じ種類の音であっても、前方から、後方から、上から、下から、左から、右から、その音の来る方向によって(音)は違うふうに聞こえてしまう。同じ質と量の音であるのに。耳は錯乱しているのか?否。
121. 会社・商社で、銀行で、(お金)を扱って、世界中を走り廻って、(金)で(現実)を動かしていると思っている経済人がいる。(お金)貨幣・経済を考察し、分析し、(お金)の(原理)を追求して、その(原理)が(現実)を動かしていると思っている学者がいる。さて、どちらの(現実)が、より深い、現実を生きていることになるのだろうか?
122. 人の顔を見る − 人相
人の手を見る − 手相
風景を見る − 形相
考え方を見る − 思想
123. 私に場所を下さい。一人分の身体が入る場所で充分です。場所とは仕事のことです。私は、気が違わない為に、何かをしていなければなりません。−そんな声が響いている。
124. 空気が薄くなっている。人の傷みかたがあまりにもひどい時代だ。心に杖をついて歩かなければ倒れてしまう。叫び声が火の手となって、方々であがっている。
125. 3万人の自殺者と、数量で呼ばれる時、それは、もう、人ではないから、3万人の父や母、3万人の兄弟・姉妹と言いかえてみる。そうすると、一人一人の顔が、人に変わる。更に、3万人の固有名詞を、その人の名前で読んでみる。現代は気絶しそうなくらい、暗い時代だ。
126. 遺伝子だけが生きている。(私)は、遺伝子が生き延びていくための器であり、乗り物だ。それでは、ニンゲンは淋しい。虚ろである。
127. 生と死の間にしか自由がない。限られた時空である。しかし無限でもある。
128. 宇宙全体に、原子の海が拡がっている。もちろんニンゲンもそのひとつだ。そして、その全光景を見るための眼も、見えるようにしか、見えない。見ているのは(私)か、あるいは、(私)に仕掛けられた装置か?
129. 考えるという力を与えられた人間を、宇宙に放り出したのは、いったい誰か?
130. 脳は、私を考える。脳は、私を見る。私がなければ、もちろん脳もない。しかし、決して、私=脳ではない。と考えているのも(私)だ。
131. 朝、風景を見る。原子の海がある。(眼)を創造したのも、原子である。原子が、自分自身を見る。いったい、何の為に、(私)は、原子の私を見るのだろう。鏡もない宇宙で。
132. 意識という魔が、生と死を誕生させた。ニンゲンを、ニンゲンたらしめた素が意識だ。
133. あらゆる存在を宇宙という時空に浮遊させて、結びつけ、斥して、無限回転をする、その中心に、途轍もない、巨きな、巨きたものがある。闇の底の底の、光の中の中心に、それは在る。まだ、それの名前はない。
134. ノオトとペンを持って、散歩にでる。公園の樹木の下で、木のベンチに坐って、凝っと風に吹かれて、風景を眺めている。身体の中から、滲み出してくるものがある。手が、勝手に動きはじめる。ひらめぎが、次から次へとやってくる。ものを書いている。手が。いや、手が書いているのでもない。私が、書いているのでもない。脳が命令しているのでもない。
勝手に言葉が来て、文章になる。不思議な現象だ。私の沈黙が破られて、誰かの声が響き、文章が生起する。私は、巨きなものの掌のなかで、点いたり消えたりしている、ひとつの生命の灯だ。
135. 都市の夜空から満天の星が消えてもう何十年になるのか。闇がない。外灯が都市ばかりか、地方の町にまでひろがって、闇が消えた。
星空と星空が、星雲と星々が、衝突するくらい、びっしりと星が輝いた夜空を眺めながら、川岸の、土手の上を懐中電灯を持って歩いた少年時代がある。星は、畏怖すべき存在であった。現在、子供たちが、毎晩、満天の夜空を眺められたら、学校の(教育)では教えられない、本能の底の底にある力をひきだせるだろうに。もう、子供たちは、夜空から教わるという環境にはない。可哀そうに。原始の力がどっさりと、その全身に眠っているのに。それを使う機会がない。ニンゲンは、巨きな、巨きなものの存在と力を、見失ってしまった。(無限)というものを満天の星空は教えてくれたのに。
136. 宇宙の闇を同じ深淵を(私)の中にも作ってみる。闇から、滲み出してくるものがある。
137. 手は、(形態)を生む天才だ。
138. 祖母の足の裏は樹皮のように硬かった。その足は、100年という時間を知っていた。足の裏に宇宙があった。
139. 耳は、音と声を聴くだけのものではない。死者たちの魂にも反応する。
140. 波の音は月からの贈物だ。これ以上の音楽はない。呼吸を鎮め、魂を鎮め、いつの間にか、コズミック・ダンスを踊っている。
141. (私)というものが持っているすべての力をどのようにすれば、使い切ってしまうことができるのか、まだニンゲンはそれを知らない。
142. 世間を生きのびる力は、ひとつの知恵ではあっても、ニンゲンそのものを生きる知恵ではない。
143. G・ベイトソンは、「生きものたち」の「学習」を4つの段階に分けた。条件反射的な①の段階から、出来事の矛盾を止揚して行動する②の段階へ。さらに、バートランド・ラッセルの「論理階型」の考え方を導入して、メタレベルとしての学習③へ、そして、次のメタレベルとしての④へというふうに。
学習③は、危険で実行すると精神を病み、もとの自分に戻れなくなって、宙吊りになる場合もある。学習④は、論理的には可能だが、現在の人間の進化レベルでは、不可能だとした。だから、新しいニンゲンが出現するためには、進化の速度が一気に速くなって、新ニンゲンXが出現する時まで、待たなくてはならない。
144. 人格・(私)が分裂して、偏在してしまう。二重人格が、長い間、人類の話題になった。現在では、多重人格まで出現した。「24人のビリーミリガン」は、1人の人間の中に、24人のニンゲンが生きている、棲み分けているという話だ。ここまで来ると、ニンゲンが何ものかを乗せている器だという遺伝子の話が、絵空事ではなくなってくる。
145. (私)という心のステージには、(私)が立つのは、当然だ。私の心のステージに何人もの他人が立って、(私)は、ステージから追放される。その時、別の人格が現れた時(私)は、いったいどこに行っているのだろう?
146. (私)が私自身に重なっている。それが、普通の人間の形だ。歩いている時、身一点に感じられる、(私)は(私)であると。その統一が、破れてしまうと、(私)は、(私)のもとへと戻れなくなる。病気である。時々、これ以上、歩を進めると、(私)は、私自身を超えてしまうと思う時がある。危険だ!!
147. 変化、変容のスピードはすさまじい。40年間、自分の身に起こったこと、仕事の変化、社会、世界に生起した事象を追ってみると、背筋が冷々とするほどにめぐるましく、狂的ですらある。単なる競走原理だけでは、片づかない、説明がつかない。しかも、世界をめぐるネットワークは、時間と距離を消しはじめた。脳が裸になって、コンピューターというものに偏在して、同時に、勝手に、動き、そのスピードを、自動的に速めている。生身のニンゲンがついて行けなくなる日は、そう遠くなくて、何のための、スピードか、何のための、効率か、便利さかと、悲鳴をあげた時は、ニンゲンが壊れてしまう時だろう。(人間原理)を再構築する時だ。
148. 怪物は、機械やコンピューターではなく(私)自身の中に棲んでいる。
149. 陽が昇れば働き、陽が沈んで夜が来れば眠る、時間は、太陽とともに在った。そんな時代があった。現在は夜のない時代だ。
150. ものを書かず、一生、黙って働く人の立場に、いつも、良心の針を立てておくこと。
151. 変化しつづけるものが生きもの・人間であるなら、その変化には、始まりと終りがある。従って、ニンゲンに永遠はない。持続は、変化を伴い、いつかは終る。動かないもの、一切の変化をしないものは、永遠でもある。それは、もうニンゲンと呼べない。
152. 増えることも、減ることもない。質的にも量的にも。それは何か?
153. 風を受ければ竹がしなるように、心というものが在ってくれれば、もう、それで充分だ。
154. (私)が類の中で死んだ時、(私)は類の中に生きている。死も、また、生である。
155. 人間が、自分のもっているであろう能力・エネルギーを、まだ、わずかしか使って生きていないのは、その眠っている能力の使い方を知らないのではなくて、(私)を、あらゆる方向に(時間・空間・物質・習慣・・・)解き放っていないからだ。(私)という窓を開け放つ勇気がないのだ。未知への不安。
156. 学習のステップを次から次へとランクをあげて挑み続けることが可能であれば、ニンゲンは、新しい生きものXにまで到達できる。しかし・・・壊れるかもしれない。旧い人間は。
157. 「ONの時、スイッチは存在しない OFFの時スイッチは存在しない スイッチが存在するのは、切り換える瞬間のみだ」
G・ベイトソンの思考は、具体的で、面白く、深い。なるほど、心のスイッチを押す手はどこにあるのだろう?
158. 木の歩行。(植物の歩行。)木は成長期に、光を求めて、光の方へとその身体をねじっていく。それが木の歩行だ。夏、向日葵の花の歩行は、太陽という光へのステップである。
159. 言霊という魔に憑かれていた時には、蜘蛛のように透明な言葉の糸を投げまくったが、絶対に、捉えられないものに遇って、沈黙をした。
160. 心の重力が衰弱している。危険だ。
161. 生きれば生きるほどに、その本が面白くなり、応えてくれる(本)がある。
162. 青春時代に、刺戟を受けた本が、年をとってみると、つまらない、色褪せた本になってしまう場合もある。
163. 本を読んでも読んでも、考えても、考えても、考えても到達できぬ場所がある。
164. 結局、言語は、一匹の蛙そのものをさえ、表現できぬという思いがある。断念。
165. 言葉のネットワークの上に浮かびあがる”地図”がある。それは、(現実)そのものでもなく、(現象)そのものでもなく、もうひとつの(地図)にすぎない。
166. 一番美しいものは、数十億年かかって、ニンゲンという、この(私)を出現させた、時空を貫いてきた(設計図)だ。
167. 無数の言葉の組み合わせによって、あらゆる文章が発生する。文章が現れるということは、現れるものがあるからだろうか?それとも、無数の事象があるから、文章が現れるのだろうか?(モノやコト)と(言葉)。関係という迷宮がある。
168. 素朴な写実からはじまった文書が、リアリズムを経て、メタファーに至る。新しい段階のクラスへと進化する。クラスのクラスのクラスへとアップしていくと、いつかは、超球までも、表現できる文章が出現するのだろうか?
169. (私)という人間の中にある(設計図)。単細胞生物から始まって、魚や恐竜や鳥や蛙やサルたちが棲んでいる、ニンゲンと呼ばれている種。その種の核となる(設計図)とは何か?誰か?それを書いた手はどこにあるのか?
170. 原っぱ、森、滝、場所が力をもっている、そんな光景に会うことが少なくなった。
171. 心が、どこまでも、深く、深く、降りてゆけるのがわかってくる、長く生きてみれば。
172. 透明な錘りが、時間を超えて、空間を超えて、原子の、種の、巨大な海まで至ってしまう、それに心が触れる。
173. 右手で殺せ!!左手で救え!!
174. (私)という現象が無限に拡がっていく。(私)は、遊んでいる。固有の(私)が溶けて流れだしてしまった。
175. 意識がニンゲンの病であったとしても、人は、木にも蟻にもなる訳にはいかず、病いを言葉で語り続けねばならぬ。
176. 断念ばかりの人生である。それでも、心に心を接木して生きてゆかねばならぬ。
177. 語っている者の姿が消えてしまっても、微かに響いてくる声に耳を傾けて。
178. ツクツクボウシの声が消えて、秋が来た。ニンゲンの泣き声は止むことがない。
179. (私)であって、(私)でないように、振舞い続ける。それは可能か?
180. 思想が人を染める。ニンゲンの色が分かれるのはそこだ。
181. (私)は無限であり、(私)は何者でもない。
182. あの声はいったいどこから来たのだろう。語り手の姿も見えぬのに来る声がある。
183. ニンゲンはるばるとここまで来たと、苦も喜も味わって、生きてくれば、もう充分ではないか。底の底であれ天の天であれ。何の文句がある。
184. 身体は、自然に、齢をとっていくのに、心は、齢のとりかたを知らない。心の年輪を刻む、眼が見なければならないのは、その節だ。
185. 思考は、さまざまな無限を生む。それは、発見か、説明か、証明か。創造か。
186. あらゆる現象を、人間は、自分にわかるようにしか説明できない。で、現象の証明も、同じことだ。そのものは、結局、人間原理のようなものだ。
187. どこまでも(私)を開く覚悟があれば、人間は、何段階もレベルアップした存在になれるのに。
188. 木洩れ日を踏んで、太陽を知る。
189. 太陽を神と拝めた古代人を笑う現代人も、太陽の力なにしは生きられぬ。
190. 闇の中から、秋の虫の音が流れてくる。波・呼吸に似たリズムを刻んでいる。宇宙の合唱に合わせて、参加しているオーケストラのメンバーである虫たちの音楽。月に、星雲に呼応しているリズムに、いつまでも耳を立てている、長い夜。
191. 世界の一切を、言葉で、論理で説明してやろうと思っていた男と女が、いつのまにか言葉の中にしか世界がないと思いはじめる。ニンゲンの中には、男も女もいないと。
192. 写真は、ニンゲンを写すことはできても、(私)を写すことはできない。誰かがそう呟いた。
193. 底がないということや、果てがないということや、終りがないということは、永遠に宙吊りされているみたいで、やはり、人間には耐えられないのだろう。意識は必ず、殺してくれと叫ぶに決まっている。
194. 人間は、のっぺらぼうの存在には必ず、形を与えたがるものだ。
195. 毎日毎日歩いている。不思議なことに、路上を歩いていて、その場所を通りかかると、必ず、脳にひらめきがあって、声のように、文章が降りてくる。誰が語っているのだ。
196. いつもの公園のベンチに坐る。(私)が私の中にそのまま坐る。ぴったりと重なる時もあれば、(私)という形の中に上手く納まらない時もある。何かが貌を出している。
197. 口から肛門にかけて、空洞が筒のように走っているから、胃も、腸も、外部のはずだが、人は、それを内臓と呼んでいる。内部は外部。
198. 今は、「百年の歩行」という作品を妊娠しているので、長いトンネルの中を歩き続けているような気分。期待と不安で心はいつも波打っている。
199. 知ることと生きることが縄をあむようにして、一日という時間に縫い結ばれる。
200. 結ぼれがこれほどに稀薄になった時代はない。コミュニケーションの時代だというのに。
1. 時間が爆発する。空間が爆発する。意識が爆発する。(私)が爆発する。
アフォリズムとは、もうひとつの宇宙である。
2. 足許はいつもじりじりと焼けている。焦らず、迷わず、ゆっくりと、愚直こそが王道だと、歩め。
3. 承認された瞬間に、浮遊していた「それ」は、「事」と「物」になる。
4. 眼で、思考で、意識で、五感で了解したものは、言葉以前からの「事実」となって誕生する。
5. 「事実」は「現実」と呼ばれてもよい。ただし、表現された言語の中での「現実」だ。物自体は、その外に在る。
6. 前を視るだけでは駄目だ。背後も、右も左も、上も下も視る。ものが本当に視えるのは、複眼だから。心眼で見る。透視の力はもっと強い。一番強いのは、もちろん死者の眼だ。
7. あらゆる現象、時空、存在を浮かべているわが超球宇宙に、法もなく、目的もなく、ただ、偶然に顕現したものだとするならば、私たち人間の生きる意味とは、宇宙にとって何だろうか?
8. 沈黙する宇宙、暗黒の宇宙に、まだ見えぬが、かすかに、語りかけてくるものがある。それは、波に似たリズムに乗ってくる。
9. 夢は知恵の塊だ。眠りの中で点滅するサインは、ひとつのエネルギーであり、ヴィジョンの形だ。
10. 大人という人を見なくなって久しい。世の中は、頭のいい小人ばかりだ。無私の精神はどこにあるのだろう。
11. 眩暈は、存在に対する驚きだ。いつも平凡な生活の中にある。
12. 空を見るだけの人は、天を見る人に勝てない。
13. 発熱こそがはじまりである。
14. 100パーセント来るという「死」が見えない。「死」はどこにもない。あるのは、他人の、他の生物の死体ばかりだ。「私」の死は、永遠に宙吊りにされている。闇から闇へ。
15. 一瞬にして狂う。そんな、危険な、亀裂があるものだ。心というブラック・ボックス。
16. 「私」の言葉と「社会」の言葉は絶対にちがう。家を出る時、人は、「私」の言葉を殺して、会社へと歩いていく。言葉の化粧だ。
17. 私・(今=ここ)・無限の宇宙を歩いている不思議!!
18. カメレオンが自由に身体の色を変えるように人間の思考も、形や姿を変える新しい力を持てないものか?存在の革命ということ。
19. 自然の進化では遅すぎる。科学の進歩も待ってられない。意識が変客体そのものになることだ。
20. 終日、自由に自分を泳がせてみる。必ず、そこから湧きあがってくるものがある。その声に耳を傾ける。存在の呟き。
21. 「私」という現象の宇宙地図を作る。それが「本」の最終目標だ。
22. 顕れるもの・隠れるもの、表現はその一切を含まねばならない。
23. 思考の透明な棒を振っても振っても深淵宇宙は遁れていく。
24. 言葉自体が「魂」をもっている。
25. 「隠遁」は、現代では、死語だろう。実際、もう、どこにも、隠遁できる場所がない。素顔と仮面がぴったりと縫い合わされた顔をした現代人は、辛い。
26. あらゆるものを食い潰して、均一にしていく力がある。差異を認めぬ光という力。
27. 血が30億年も生きている。それはいったい何者だ。
28. 波。波打つということ。呼吸から銀河星雲まで。
29. 人は、何重にも生きねばならぬ存在である。
30. 現代という時代は、西行を、芭蕉を、兼好を拒否する。山頭火も放哉もいない時代は乾いている。
31. 思考が、まばたきをして、三分と同じことを考えられぬ。
32. 何かいいことをしたい。それが、人間にできる最高の行為だと信じる。その何かいいことがなかなか見つからない。あれでもない、これでもない。
33. 停年というのは、不思議な制度だ。人間にはいつまでたっても停年はないのに社員だから、停年が来る。
34. 蛍が光る、女郎蜘蛛の尻が朱く光る。人間は、どのようにして、何時光るのだろう。
35. 私というレンズを磨き続けること。あらゆる事象が写るレンズにはあらゆる言葉が発光体となる。
36. 「私」が考える、そう考えるしかない、と、そのように考えることが、人間という「私」の存在の在り方にあるとすれば、おそらく、思考の特異点というものがある。いわく、”無”と。
37. 観照は、思考とは別の認識のあり方だ。
38. 全盲の人にも色がわかる。−見たこともない色が、見える、わかる、心の眼か?
39. とすれば、言葉を知らない人にも(わかる)ということが可能になる。それは、考えるという力とは別の力だ。
40. 人間が知りたがっているのか、それとも、何かが知らせたがっているのか。
41. 謎は深ければ深いほどよい。未知なるものがあればあるほどよい。人は混沌からそこまで歩いてゆく。
42. 思考のコンビニ化ほどつまらないものはない。
43. 明日がみえないという。それが不安だという。では、現在は見えているのか。今、ここを生きている限り、混沌は人間の足許にある。カオスを生きるのが人間だから。いつも覚悟がいるだけだ。
44. 一かゼロではない。じりじり、じりじりと消耗していく。辛いのは、日々の衰弱だ。錆びた鉄が腐っていくように、ボロボロ、ボロボロと身も心も崩れていく。その時には、声をあげるのだ。助けてくれ!!と。恥も外聞もあるものか。他人にとどくように大きな声で叫ぶのだ。人間がいる限り声はとどくものだ。
45. 人は、いつ、生きるのだろう。「仕事」をしている時が、唯一の生きる時であるならば、生活のすべてが仕事で占められている訳だ。実に淋しい限りだ。
46. 結局、「私」が私自身に重なる時が、もっとも、生きている時だと思う。
47. 書くことは、死ぬための、レッスンかもしれぬ。
48. それは、突然、向こう側からやってくる。歩いている時、公園の林で、書斎で。私は必死にそれを追う。額の前40センチばかりのところに、文章が現れる。手はそれを追う。いったい誰がものを書いているのだろう。至福の時だ。
49. 何時の頃から、日本には「お金の神さま」が出現したのだろう。心の時代と唱えられながら、ものの時代に突入して、いつの間にか、誰もが、お金が一番という信仰を持ってしまった。
50. お金に泣かされた者ほど、お金を信仰する。お金を馬鹿にした者は、お金に泣かされる。お金を持てば持つほど幸せになると思った人が不幸になる。「お金という神さま」は、何時まで幅を利かせるのだろう。
51. 「無」の王は、時間も、空間も、物質も、光も、闇も、一切のものを、存在から解き放つ。
52. 人間の頭脳は、完全な「無」を意識できない。ないものは、考えられない、想像もできない。しかし、「無」という名辞がある。不思議だ。
53. 死さえも「無」ではない。
54. 「無」は「空」でもない。
55. 「死」もまた、ひとつの変容である。
56. 在ることから無いことへと移行するには、時空を飛躍して、完全なる蒸発をするしか、術がない。
57. 「無」からのはじまりこそ、人間が創出すべき最大の課題だ。
58. 一が多である、多が一であるとしても、なお「はじまり」は見えぬ。
59. 「零」の発見は古代インド人の最高の功績である。「無」の発見とその証明は、人類の最大の課題であろう。
60. 数式・理論が「宇宙」を解明・表現したとしても、宇宙は、その外にある。
61. 不死・永劫回帰・輪廻転生、復活・ビッグ・バンと、人間は、神話、哲学、宗教、科学で「世界⇒宇宙」の誕生と死を追ってきた。まだ、その答えはない。はじまりも終りも見えない。
62. 「誕生」も「死」も、仮のはじめり、仮のの終りにすぎない。
63. 時間の反対に「虚時間」がある。「無」のかすかな揺らぎに、「虚時間」が動き、ひび割れ、時空が噴出して、「宇宙」がはじまったとしても、やはり、「虚時間」もまた、「無」の中に、ひそんでいなければならぬ。それでは、「無」が「無」でなくなってしまう。
64. ビッグ・バン(火の玉)からはじまった、わが「宇宙」も、やはり、ビッグ・バンの前を問わなければ、「はじまり」は始まらない。
65. 「神」が宇宙を創造したとしても、その創造以前に、「神」は、いったいどこにいたのだろうと誰もが、考えてしまう。「無」は「神」の場ではあるまい。
66. 「神」が発見できるもの、想像できるもの、考えられるもの、証明できるもの、それを「宇宙」と呼ぼう。それ以外のものは、何ものでもない。なぜか?人間が、その存在を証明・発見できぬもの、それは「もの」ですらない。人間原理。
67. 「宇宙」の存在と「人間」という存在の不思議は等価である。
68. 「瞬間が永遠である」そう感じた時、人は、おそらく「光」の正体に触れている。
69. 無限遠点から見れば、人間の生活も、一瞬の光にすぎないが、そのはかなさの中に人生があると思えば、実におかしい。哄笑したいほどだ。
70. 物理学者ボームが「宇宙は、たったひとつの原子で出来ている」とアイデアを語った時、アインシュタインは、足をとめて、沈黙したという。なぜか?
71. 神話・宗教・哲学・科学と、人類は、6000年の時間をかけて「世界⇒宇宙」を探求してきた。その謎は、解けるのか?現在、何合目くらいにいるのだろう。(文学)も、また、ひとつの人間という宇宙地図を求めてスタートし、現在は、息が切れて、衰弱している。しかし、たった一人の才能の爆発で、事態は急変するだろう。
72. 結局、(道)は、大きく二つに分かれる。ひとつは、孔子の「論語」のように、人間の生き方を問う道と、存在そのものを問う老子の「道」だ。
73. 人生訓、経済書、法、医学書、生きるために、生活のために、役に立つ本が99パーセント読まれ、(存在)の探求の書は1パーセントも読まれればいいくらいだろう。役に立つとは何か?
74. 小説・文学は、実用の書ではない。なんの役にも立たない。それでも(人間の形)がわかり(魂)の声が響いてくるから、(存在)する意味はある。
75. 星空・銀河・天の川を美しいと思った時期があった。銀河・星雲を畏怖する時期があった。どちらが幸せだったものか・・・。
76. 人間の原点が露出するのが「歩行」である。歩いていると、「私」が、身一点に感じられる時がくる。社会の、会社の、家庭のあらゆる着物を脱ぎ棄てて、(私)が宇宙に触れている。波の衝突。
77. 始められないものは終れない。
78. どうしても、人間は、「宇宙」の誕生と死を考えてしまう。思考の形か?
79. 物語は、決して、終れない。完全なプロットの小説でも。
80. 宇宙の全物質からの放射を受けた(人間)は、いったい、何というだろうか?そこには、表現さえも無いのかもしれぬ。(無限)の顕現。
81. 万事休す・・・生きていれば、必ず、一度や二度は、そういう場面に遭遇する。そんな時には、(私)を放り投げて、自由に泳がせておくことだ。
82. 断念からものを書く(核)が立ちあがる。もう、失うものは何もない。無私になって思考のバネに委ねてみることだ。
83. 昆虫は、自分の存在に必要なものしか食べない。それに比べて、人間は、手当り次第、何でも食べてしまう。怪物だ。
84. 私も、(仕事)のない時代を経験した。生きる(場)が、(仕事)である。無職は辛い。あれゆるものが、(私)を否定している。そういう暗い、悲しい状態は、人をして歪めるが、人の声を聞き分ける、いい耳も育ててくれる。
85. 脳の力ばかりが強調される時代になった。「本能」という力は、もう一度、見直されるべきだ。脳のない生きものたちの底力。
86. 「見ることは見られることだ」−それ以上に、「触ることは、触られることである」−その方が、最近では、(知る)という点では深いと思うようになった。
87. 「今日の人は、もう、誰も、氏神さんにお拝りにいかん」−老いた母が語った。帰郷して祭りを見学した。衰えて、消えていくのは祭りばかりでない。祭りを支えた日々の人々の心の灯が消えているのだ。
88. 「私は死なないことに決めた」荒川修作の言葉だ。奇人・変人・天才と言われる荒川修作は、100パーセント自明だと言われている「ニンゲンの死」に挑戦する。思えば(私は復活した)と言った人や、「私は生まれ変わる−仏になる」と言った人とどうちがうのだろうか?「建築する身体」「天命反転」は、実に過激であるが、狂った声ではない。ニンゲンから、次のステップへと移行する者の種子だ。
89. 人間は、物心がつけば、自分(私)が、(今・ここ)にニンゲンとしているとわかる。で、そのまま、ニンゲンを続けて生きることになる。(始まり)も(終り)も見えぬまま。
90. 仏になる、復活する、輪廻転生する、即身成仏する。天国・地獄といい、この世・あの世と言い、比岸・彼岸と言い、現世・来世と言い、過去・現在・未来と言い、多次元・宇宙と言い、人は、いつまでも、(私)はどこから来て、どこへ行くのかを問い続ける。すべて、(私)という現象の不思議がなせる術である。
91. 永劫回帰も、また、流転する宇宙の見事な表現である。
92. ニンゲンがヴィジョンを見失っている。方法は二つある。①小さな惑星の生きものとして、(私)の至高のものを追求し続けること。そして死滅。②銀河から宇宙へと、永遠に飛び続ける生命体に進化して、全宇宙を知悉する探索者になること。自らが創造する者になる。永久革命。
93. おびただしい数の星と無数の太陽で夜空が煌めき、時空がゆがむほどの力で漂っている、そのエネルギーを浴びていると(私)が何者でもないと納得する。
94. 世の中を相手にいくら闘っても限りがない。本当に闘う相手は自分自身だから。
95. どんな悪い人でも、自分自身はかわいいものらしい。その証拠に、食べて、呑んで、快楽して、自分に対しては、いいことをしたがる。
96. (私)は宇宙の中で痙攣する一本の線だ。
97. 人間は、何かいいことをしたい動物だ。もちろん①自分自身にとっていいこと(気持ちいいこと、快感、必要)②他人にとってもいいこと③社会・環境にとってもいいこと④宇宙にとってもいいこと
①~④が成立すれば最高のヴィジョンになる。しかし、いざ行動を起こすと、衝突があり、闘があり、文句・不平・不満・批判が続出する。さて、ニンゲンのヴィジョンは①~④の条件を含むものだとして、考えてみよう。
98. 曜日が消え、暦が消え、時計が消え、裸の(私)が露出していく。
99. どうやら、「精神と身体」という二分法・二元論が、毒だった。
100. 一日、コトとモノにあふれる形相のなかを歩いた。無数のパルスが(私)を刺し貫いて、光となって飛んでいく。そこには生きられる時間が流れていた。