Archive for the Category ◊ アフオリズム ◊

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• 金曜日, 11月 11th, 2016

3251. 「言葉なき歌」をうたえと言う者がいる。
なるほど 絶対沈黙する 超球宇宙から 流れてくる 「コトバなき歌」がある。

3252. 一秒の歩行は百年の歩行。百年の歩行は百三十七億年の歩行である。

3253. コトバの種子よ、百花繚乱となって(私)の宇宙を形成せよ。

3254. 必要とあらば、原子、量子の見えぬものたちをも、見える眼を獲得せよ、ニンゲンよ。それが、進化だ。

3255. 意識、心、魂と、眼に見えぬものたちをも、見てきた、ニンゲンである。

3256. 千里眼、透視者、予言者、古代のニンゲンの眼を、あなどってはならぬ。

3257. 釈尊の瞬間移動、役小角の空中浮遊、ランボーの透視、キリストの予言と復活、神変・奇蹟は、起こるものだ。

3258. 光の三原色は(緑+赤+青→白) コトバの三原色(歩くコトバ・緑+踊るコトバ・赤+跳ぶコトバ・青→黒)である。

3259. バラモン教風に言えば、学ぶ、働く、想う、祈るがヒトのたどる一生の道程である。

3260. 戦争は、人類が生んだ、最大の愚行・狂気である。戦争は、同じニンゲンを、敵と味方に分ける。そして、者(ヤツ)は敵だ、殺せ!!という論理である。超法規の下に、禁じられている殺人を認める。敵は、悪であり、ニンゲンではない。味方は善であり、ニンゲンである。

3261. 真夏の光に悲しみがある。熱風に、生のゆらぎがある。息と息の間に(私)がいる。輝く砂粒が私語している。見えないもの・聴こえない音。姿・形が誕生して、波となって、光って、消えてしまう夏。

3262. 影たちと、魂たちと、静かに、共に、生きている。深く、深く、深く。

3263. 形(文章)にしてこそ見えてくるものがある。私の『喪の日記(コトバ)』(詩)を読んで妹が、しみじみと言った。
「こんな父(ひと)なら、もっと、尊敬してあげればよかった」と。

6264. 死者となってこそ見えてくるものがある。書いてこそ、現れてくる姿がある。ゆえに、死者も、語るのだ。

3265. 生者の眼と死者の眼。魂のコトバは、死者が放つコトバの謂である。で、ココロの眼に見えるのだ。

3266. 木と人が音信(シグナル)を交感する日、その時、脳ではなく 声ではなく 文字ではなく 魂のコトバが飛び交うだろう。

3267. 発光せよ!!(私) そんな声が、どこからともなくやってきた。真夏日の路上で。

3268. 光の化石・ニンゲン(私)よ、また、ふたたび、光に還るのだ。

3269. ニンゲンは、宇宙の中で、(私)自身を生きてやろう、と思うのに、いつの間にか、世間の、社会の中で、職業=(私)として生きてしまう。

3270. 思考するにしても、ニンゲンは、習慣の中で、考えてしまう。長い時間をかけて身につけた習慣である。だから、習慣を捨てて、新しい一歩を踏み出すのは、容易ではない。

3271. 思考の外部へ出ると、自然そのものがあるのだが、ニンゲンは、(私)を見失ってしまう。

3272. 死者は、光の速さで、宇宙を翔んでいるから、齢をとることがない。ホトケは光であるから。

3273. 読書は、黙読、朗読と手で読む書写の三つである。

3274. ニンゲンは、どんな人でも、それぞれの立場で、それぞれの役割を演じ続けて生きている。(社会的私)
それから、ニンゲンは、自分自身を生きはじめ、存在そのものを呼吸して、死んでいくのだ。(宇宙的私)

3275. いつまでも、立場や役割にこだわって生きている人は、見苦しい。一切は、無常迅速に、変化し、過ぎ去っていくのだから、宇宙での、生の一回性に、眼を転じて、死に、深く、想いをめぐらすべきである。

3276. 「人間原理」で生きるニンゲンでも、晩年は、最後は、「宇宙原理」の不思議へと、身をゆだねるべきである。深淵へ。超球宇宙へ。

3277. 任意の点が無限へと飛翔する快楽・瞑想を通じて。

3278. ニンゲンは、それぞれが、意識が認識した位相=世界=宇宙に生きる動物である。ゆえに、同時代を、生きている人達も、同じ宇宙に、生きているとは限らない。(アインシュタインと凡人)

3279. 科学者は、宇宙が、ビッグ・バンから誕生した、無から誕生したと、理論で証明したが、なぜ、宇宙というものが、誕生しなければならなかったのか、は、証明、説明できない。で、ニンゲンは、哲学する、宗教する!!文学をする!!

3280. で、ニンゲンが、宇宙に生きている意味も意義も、決定できない。さて、あなたはいったい、何を生きているのか?

3281. どんな場所に立つかで、見える風景の姿は変わってくる。どんな位置に立つかで、見える人の姿は変わってくる。どんなココロの位想に立つかで、人生の姿は変わってくる。
同じ風景、同じ歌、同じ世界は、どこにもない。いつも、モノもコトも、無限変化してしまう。(私)も、決して、固有のニンゲンではないのだ。

3282. 新緑(色)は、静か(音)になり、やわらかく(質感)になり、平和(コトバ)になる。不思議な変身である。(見る=聞く=触る=考える)

3283. ヒトは、それを「光」と呼んでいるが光自身がコトバである。

3284. 言語としての、声としての、文字としてのコトバを超えて、交通するもの、発信するもののすべてが、広義のコトバである。

3285. ゆえに、存在は、コトバである。アーラヤ識の、種子が、コトバの源である。

3286. いったい、何が起こっているのか?生きるをしている(私)という現象に。

3287. 現象としての自然(モノ) 現象としての生命(コト) 見る、考える、直観する(交流)

3288. いつも、何かをしている 何もしてくなくても。在ることと無いこと。それ以外ない。

3289. 一切を放り出して (私)を放り出して なお、残るものよ!!

3290. 青い柿の実が落ちた、地面に。痛い、生命が。

3291. 地球の風、銀河の風、銀河にも秋風が。見えた!!

3292. 何もしない日。現代人に、必要な日。しかし、ヒトは、何もしないことを畏れている。

3293. (私)が私自身と和解したから、私の体調不良が回復したのだろうか?呼吸に集中して、呼吸をしていた。

3294. 人類のコトバは、進化しているか?退化しているか?孔子・釈尊、ソクラテス、イエス・キリストのコトバから、ヒトは、どのくらい遠くまで歩いてきたのか?あるいは、退行したのか?

3295. 当然、コトバは、声、文字というだけではない。天からの「啓示」も含んでいる。アーラヤ識から吹きあげてくる種子のコトバでもある。

3296. 大学の文系を少なくして、理系を多くする―国―現代の政治家の方針。
文系(文学・教育・哲学・倫理・芸術)は役に立たず、理系(機械・道具・コンピューター・車・ロケット・飛行機)などのモノ作りが、社会・人間の役に立つという、思考・方針。
愚かである。無知である。狂っている。ニンゲンを結びつけ、楽しませ、生きる力となっているのは、「コトバ」ではないか!!
(表現)の根本である、文系を軽視すれば、国が、民族が滅ぶ。
思考力の浅い、深い知識も、教養もない、政治家たちが、勝手に、(教育)を悪化、劣化させようとしている。

3297. ひとつの(事実)は、いつも多面的である。AがAのままであるならば探求は、実に、容易であるが。AがBであり、AがCであり、(量子的事実)は、いつも、ヒトを混乱させる。狂わせる。慣れることは可能であろうか?

3398. 木と親しくなると(眺め続ける) 肉親に対する感情と同じようなものが、(私)の内部から流れ出してくる。

3399. 音―音楽を聴いて感動する―(普通の音楽) 音楽を聴いて、深く、深く、深く、思考してしまう(武満徹の音楽)

3300. ある日、突然、瞑想の中に、金色の兜と朱色の鎧を着た武士が現れた。そして、風景の中に、居坐り続けている!!峠に坐って、眼下に、蛇行する川、菜の花、水の輝きを海を、遠望する、私のイメージ・瞑想。
あなたは、誰だ?私の守護神か?

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• 火曜日, 5月 10th, 2016

3201. ゴッホの、絵画の、渦の生成の秘密はいったい、どこに、あるのだろうか?あらゆる水は廻る。あらゆる空気は廻る。あらゆる物質(素粒子)は廻る。時空は廻る。スピンする宇宙である。存在と非在の根の根を、ゴッホの眼は視た、渦だ!!と。
3.11の大津波の渦、原発の原子の渦、大地震の揺れる渦、そこから一切が起ちあがってくる。
-宇宙渦を、ゴッホは透視した-(吉増剛造の『我が詩的自伝』を読みながら)

3202. 「吃る」、「閉じ込もる」、「分裂する」、「非常時」が来る。発語する-詩-である。「怪物君」が顕現する。吉増剛造よ、あなたは、いったい、どのような宇宙に、生きているのか?

3203. 分裂もせず、失語もせず、自殺もせず、離婚もせず、狂気と正気の境界線の上をコトバで歩いてきた。吉増剛造が77歳になった!!現代にも、詩人が存在できる、証明となった。何時、一線を越えて、壁の向こう側へ落ちるか、わからない、もう、二度と、戻って来れない、吉増のコトバは、そんな危険に満ちている。
何処へ行くかわからない(おそらく、本人も)詩のコトバは、スリル満点で、いつも、新しいモノとコトが生成される。吉増宇宙を航海する快楽は、至福の読書でもある。

3204. ゴッホは、渦を見る。(私)は、光の独楽(スピン)を見る。直視、幻視、透視する力のあらわれ。

3205. 春の菫色の空間に舞う光の独楽が、ただ坐っている(私)に力を与える不思議!!生命が呼応して疼くのだ。

3206. 特別なことが何もなくてもただ、二時間、歩き続けただけで(私)の内部が改変された。

3207. 光で、質量が一気に変わってしまった春の坂道で、山桜花の白が、生命の頂点にあった。

3208. 神的シンタックスが、舗石の坂道から立ち昇ってくる気配に、熱っぽさが増している(私)が、不意に、目覚めた。

3209. 無限変容する、存在を、無限放射する大慈悲を、それを、「大日如来」と呼ぶ、「法身」と呼ぶ、空海よ!!大宇宙のことだなと了解する。で、宇宙は、「法身のコトバ」であった。

3210. (1)であれ(私)であれ、宇宙そのものの謂であろう。

3211. 事象の地平線、存在の消失点、(私)もまた、そこへと、宇宙の風に吹かれて行く者である。

3212. 宇宙の消失が、あらたな宇宙のはじまりであると、どうやって、証明できるか?人間よ!!

3213. 宇宙で一番、速いものは?と問うと、ほとんどの人が、(光)であると答えるだろう。実は、(光)は、宇宙という器が出来てから、宇宙を飛ぶ、一番速いものである。答えは、宇宙という存在が誕生して、時空間という拡がりが生じた、そのスピード、宇宙のインフレーションが、宇宙で一番速いものである。

3214. (光)は、宇宙という時空を超えられない。時空のないところには、(光)は存在しない。???すると、闇の、ダーク・マター、ダークエネルギーは、時空を超える存在であるかもしれない。

3215. 形の在る無しに、こだわってはならぬ。存在と非在は、背中合わせである。

3216. 存在は、エネルギーの、まばたきに過ぎない。

3217. 負のエネルギーは、形のないものを構成するであろう。ニンゲンの眼には見えないが。

3218. (虚)の存在は(虚)の鏡が写すであろう。

3219. (生)と(死)という区分そのものが、「人間原理」からくるものだ。「宇宙原理」では、意味を成さない。(在る)は(無い)。(無い)は(在る)と。

3220. ニンゲンよ、たまには、一日という時間を生きる、地球の時間を離れて、1000億兆年の時間を想像してみよ。空には、星も銀河もない、ただ、闇だけがある、宇宙!!

3221. 眼の限界、見るという限界、さて、その時、五感以外の何が役に立つか?眼の誕生は、次のステップに何を待つか?

3222. 百年、千年、万年、億年、兆年、時間の旅を考えてみると、ニンゲンの、宇宙への、最終目標が定まるだろう!!無限個宇宙への旅である。

3223. 科学の証明が役に立たぬ。科学が通用しない時代には、ニンゲンが、次の存在へとステップする時だ。(猿)から(人間)へ跳んだように。(人間)から(x)へと跳ぶ。

3224. 無限変容する存在の、ひとつの通過点に(私)は、ニンゲンとして、在る。

3225. 虫が蝶になって空を飛ぶ不思議。ニンゲンが、姿、形を変えて、宇宙を飛ぶ不思議へ。

3226. (夢)の形は、いつも、ニンゲンの、来たるべき存在を、暗示している。

3227. ニンゲンが(私)に至った無限時間と死んでからの、無限時間と、いったいどちらが、長く、重要であろうか?一瞬の、現世を生きる(私)が、何に、重きを置かねばならぬか、もう一度、よくよく、考えてみなければならぬ。

3228. 理性(知)と良識と常識で、生きてきたニンゲンが、3・11を体験してみると、ニンゲンの(知)を超えた、不条理と、不思議の時空に、身をゆだねたくなったのも、当然である。

3229. (知)が壊れて(知)の外に(信)を置く、小さな、小さなニンゲンの(脳)の外に生きる、いや、内と外、数さえ、越えねばならぬ。

3230. 考えるな、ただ生きよ!!(A)なるほど。疑え、一切を!!(B)なるほど。

3231. 思考(意識)があってか(B)存在(モノ)があってか?(A)

3232. 宇宙の(量子の)意識を考えると、カミの存在が浮かびあがる!!

3233. (無)からの自己生成化(生命化)がある(科学的)、カミの存在をぬきにして(宗教的)

3234. 存在(モノ)を発見するのは意識(考える)であって、それを表現するのがコトバだ。-それは、本当であろうか?

3235. 意識の発見なしに、宇宙(時空)は存在しない、ニンゲンにとって。

3236. 流れる、流れる、大きな時空が流れる。無常迅速に。母が死んで。

3237. 帰らないのは何だろう 帰れないのは何故だろう 帰らないのは誰だろう 帰れないのは何時だろう?

3238. 生きても生きても、生きれば生きるほど、ヒビ割れるニンゲン存在である。

3239. 生きてもいけない、死んでもいけない、いつも、ニンゲンは、ダブル・バインドの中にいる。

3240. 解決などという便利なものはない。だから垂直にも歩け。

3241. 混沌なら、まだ、いい。エネルギーがあるから。

3242. 閑かに、生きる。足元には、いつも炎が。

3243. 在ったような、無かったような、手触りも希薄な、生命となった。(アラユル物ヲ、忘レテシマウ)

3244. 考える(私)を棄てる日も月に一度くらいは持ちたい。

3245. 他人の沈黙(コトバが来ない) (私)の沈黙(コトバを発しない) 宇宙の沈黙(コトバが死んでいる)

3246. 本当の(私)の沈黙とは、話さないだけではない。(私)のココロも(私)の思考も(私)の感情も(私)の意識も一切が、動かないことである。

3247. 水を廻している。(私)の全身に。いや、本当は、水の中を(私)という生命が廻っているのだ!!

3248. 一切をよく見る、よく考える、いや、洞察するのだ!!深い洞察は宇宙に至る。

3249. 恐怖も不安も畏れもその観念や概念を消し去れば、(私)は私自身を自由にできる。

3250. 歩くは、一歩毎に、(私)を捨て去る行為である。現れる、消える一切が(足、歩く)になる。

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• 月曜日, 9月 28th, 2015
3151. 時空の無限放射の中に居る(私)。視点を変えると、(私)は、時空へと無限放射されている。

3152. 時間は(私)に無常を告げる。空間は(私)に無我を告げる。さて、あなたは(定点)をどこに置くか?

3153. (死)はない。(死)という概念がある。(無)はない。(無)という概念がある。(生)も(死)も(悟り)も(涅槃・ニルヴァーナ)も概念であるから、コトバを捨てる。思考を捨てる。(私)を捨てる。至高へと、跳ぶ。宇宙である!!

3154. 食べものとは何だろう?食べることはどういうことだろう?と問う人がいたから、テーブルの上にあるミカンを差し出した「食べて下さい」と。

3155. 道はあるか?と問うてはならぬ。道は空である。ホラ、歩いてみなさい。

3156. 道は、顕れることも消えることもない。ただ、足が知っている。(歩く)者がいる。

3157. ニンゲンは、存在し合って、生きている。人間、動物、鉱物と、あらゆるものと共生している。(相依相関)

3158. 宇宙は、存在と非在のシイフォニィである。

3159. 仏教の真理、有から無にはならない。従って、生も死もない。(宗教的事実)

3160. 科学の真理、無から有は生まれる。従って、あらゆる有は無に至る。生も死もある。(科学的事実)

3161. さて(真理)はひとつか?あれも、これも、量子のように(真理)か?決定不能、絶対の死、宙吊りにされた(真理)

3162. 科学の眼では、見えないもの(量子、ニュートリノ)も見える。宗教の眼では、見えないもの(死者、ココロ)も見える。

3163. 色と形を見る眼の顕現は、不思議のひとつである。色や形がなくても、見えてしまう魂の眼は、もっと不思議である。

3164. イエス・キリストが復活するように、宇宙のすべての生命、存在も復活する。宇宙の眼で見れば。

3165. 復活といい、輪廻といい、結局、宇宙の貌の見方に過ぎない。ニンゲンによる。

3166. 見えるものも、見えないものも、結局、コトバが名付けてしまう。

3167. ビッグ・バンの風を眺めながら、地球の風に吹かれている。

3168. 60兆の細胞の揺らぎから、たったひとつの意思が、起ちあがってくる。

3169. コトバは、知慧の実だから、毎日毎日食べ続けなければならない。「仏典」であれ「聖書」であれ「コーラン」であれ。声をあげて、読む、唱える!!

3170. 見ているのは、誰か?(私)と呼ばれている者か?いいや、見ているものは、40億年、生命を運んでいる、リレーされている者。つまり、たったひとつの単細胞が見ているのだ。(私)という形を借りて。

3171. 宇宙は、悠久の時を刻んで、終に(見る)を(考える)を顕現させてしまった!!

3172. (私)がモノをわかるのは、モノを考えられるのは、(個)としての(私)の力だけではない。単細胞から父母に至った膨大な(祖ー先人)たちの力が、億年単位で受け継がれて進化してきたものが(私)の中で、(わかる)とか(考える)として花開いているものでもある。

3173. (私)が考えるーは、実に、細胞たちの、無限増殖への力が、時間を垂直に生き、空間を水平に生き、変化、変身し続けている波動にすぎない。思考の内容ではなく、思考そのものが、生命の顕現である。

3174. ニンゲンの思考の外にあるもの。ニンゲンのコトバの外にあるもの。それを(涅槃・ニルヴァーナ)と、コトバで呼んでいる。だから(涅槃)が何であるか、説明も証明もできない。(無記)

3175. 瞑想で、(非想非非想天)・(第四禅)に至ることは可能であるが、現実に帰っても、コトバでは説明できない。(意識も、無意識もない世界だから)

3176. 歩けば、行くことは、誰にでもできるが、帰ることはむつかしい。(教わるか、他人の助けが必要である)

3177. (私)の一切を解き放つ、宇宙にむけて。それが自由である。究極の。

3178. (私)とあなたは、別のものだ。(A) (私)とあなたは、一緒だ。(B) 深く洞察して、目覚めなければ(A)から(B)へは、跳べない。

3179. 木は木、草は草(A) 木は(私)、草は(私)(B)

3180. 存在の根は、ひとつである。ただ、顕現の仕方がちがう。

3181. 緑+赤+青は、白か黒となる。(光と色)

3182. 何かを為すことが、生きることだと思っていた(私)から、何もしないことが、生きることだと思える(私)へ。

3183. (私)の自然な顕現の発見。朝に。

3184. 目的地には、すでに、もう、たどり着いている。歩いて(私)の中へ。

3185. ぼんやりと生きた(私)あわただしく生きた(私)・今は、閑かに、覚めて生きる。

3186. (考える)をやめて、呼吸になる!!

3187. 地球の核にむけて、閑かに坐っている。(私)を放って。

3188. 一日に一度は(私)の意識の眼を大きくあけてみる。一粒の砂粒から、木へ、地球へ、銀河へ、宇宙へ。そして、静かに、今、ここの(私)に戻る。

3189. (私)の定点を、歩く足元から銀河の宇宙の間に置く。

3190. (私)が一番長く付き合っているものはいったい、何であろうか?夜も昼も。呼吸である。せめて、一日に一度は、ゆっくりと、深く、息を吸って、意識をしよう。(私)は、今、ここにいる。(私)は呼吸である、と。

3191. (私)の細胞も、骨も、脳も入れ変わって、消えて、現れて、絶えず、別のものになっているのに、呼吸だけは変わることがない。(私)と共にいる。

3192. モノを食べるように、ニンゲンは、コトバも食べ続けている。目覚めるためには、真なるコトバが必要だ。

3193. (私)は「妙音菩薩(ガドガダシュヴァル)」になりたい。海の波音のように普遍なるコトバを書き、話し、唱える人に。

3194. 水平に、垂直に生きるためには、コトバそのものにならなければならぬ。

3195. 意識は、(気付き)の為に在る!!

3196. 齢を重ねて、老いても、一日は、いつも、新しい出発である。

3197. 魂を磨き続ければ、平凡な一日にも、新しい(私)は在る。洞察の力が加わって。

3198. ココロの雑草は、抜いても抜いても、生えてくる。生涯、雑草を抜き続けるのが、ニンゲンである。

3199. 宇宙は(無)から、顕現した!!この21世紀の、ニンゲンの、発見が(私)を震撼させた。(「無から有は生じない」-長い間ニンゲンが信じてきた論理・法が破壊された)あらゆるもの、時間、場、空間、生命、存在、非存在は、偶然から発生した驚愕)

3200. ニンゲンは、生きる為の定点(大地・地球、銀河)を、新しく求めなければならなくなった。

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• 火曜日, 8月 25th, 2015

3101. 目的を問うな。ただ、歩くために歩け。(歩く瞑想のレッスンをはじめる)

3102. 不可能性へとココロが渇いている。

3103. 事象しか見ない人。現象しか見ない人。心象まで見る人。いくつもの時空をも見る人。無数の、超球宇宙を見抜いてしまう人。

3104. どのステージに立つかで、(私)は決定される。さて、立つのは、誰か?

3105. 場が(私)であるなら、時空・身体での(私)の位置が、(私)を決定する。

3106. (私)は、瞬時瞬時に、定まる。固有の(私)など、どこにもない。

3107. 24人のビリーミリガン。多重人格者は(私)の成立を、証明する。

3108. つまり、(私)は、あらゆる時空に遍在する存在である。

3109. (死)は、単なる、消滅・無ではあり得ない。

3110. 意識の眼がなければ(私)も(宇宙)もない。

3111. 単なる、物質主義者の主義は、壊れた!!(モノ)は、単なるモノではない。(無即有)

3112. 3.11以降、誰にも、コトバは、降りてこなくなった。(啓示は消えた)語られる言葉は、内実のない、単なる、記号ばかりである。

3113. 理由は?天から降りてくる、魂のコトバを聞く、耳をもった人が、いなくなってしまったからだ。

3114. 3.11が、別れ目であった。ニンゲンのもっている一切が、一瞬で奪われてしまう、体験で、目覚める人、コトバが降りてきて、耳に入る人が現れなければならなかった。(また、いつのまにか、学者、政治家、科学者たちが、もとの姿にもどって、もとの言葉を、使いはじめた)

3115. 読めば、わかる文章ではなくて、生きなければ、わからない文章を書かねば。

3116. だから(私)が知りたいのは、よく生きた人の言葉、文章である。決して、よく勉強した評論家や学者の言葉ではない。

3117. ニンゲンは、長い間、(声)で対話をしてきた。活字の言葉ではなくて、生きている人の(声)という言葉で、人と人の信が交換された。人に、会うことが、一番である。

3118. その人全体が、(私)を表現しているから、出合いは、すでに、「大きな言葉(コトバ)」である。

3119. 生きる姿を見る。会えないから「本」で読む。決して、逆ではない。

3120. 思想は言葉の中にしかない?だから、思想をそのまま実践すると、躓いてしまう。

3121. いのちは、お互いに、いのちを、食べあうことによって、ネットワークを作り出している。

3122. 罪の原形は、いのちを食べる、にある。

3123. ニンゲンは、食べるいのちを、分類して、差別化し、聖化し、罪悪化し、お互いの「正義」を、主張しあっている。

3124. もちろん、原理的には、どれも「正義」ではない。空気も吸っても、水を呑んでも「罪」になる。

3125. 他に依らない、いのちは、成立しない。ゆえに、「いのち」が、罪を発生させる。

3126. 共生するしかない、いのちである。とりあえず、境界線を引いて、位相を変えて、宗教は、「戒」を作って、聖化する。

3127. 「人間原理」の中でしか、「正義」も「悪」も、語るしかない。いのちの宿命である。

3128. 仏教は、思考ではなく、洞察である。瑜伽=瞑想は、釈尊・空海の核となる思想である。(非想非非想天)に至れば(第四禅)意識も無意識もない、悟りの覚知の世界である。

3129. 哲学の思考世界が終わったところで仏教の涅槃(ニルヴァーナ)がはじまる。コトバのない世界では、存在がコトバそのものになる。

3130. 釈尊は、コトバなき世界を語れ、といわれて、断るが(無記)、結局、方便として、語ってしまう。で、弟子たちは、「如是我聞」と釈尊のコトバを、文字として残した。

3131. 宇宙はなぜ誕生したのか?宇宙自身を愉しむため。(哄笑)

3132. ニンゲンはなぜ誕生したのか?宇宙そのものを、見て、触って、考えて、その存在を確かめるため。(目的?)

3133. 見る者、考える者が存在しなければ、宇宙は存在しないも同然だ。(無・意味)

3134. 生きるとは?宇宙を呼吸することである。土・水・火・風・空とともに。

3135. 手が現れ、眼が現れ、脳が現れ、一切の誕生は、宇宙が必要としたためであるか?

3136. 沈黙の中にも、一番深いコトバがある。

3137. 直ぐに見えるものは、実は、危険だ。本当は、何も見ていないのも同然だから。見えないものは、もっと危険だ。実は、本当に見るべきものは、その中にこそ、あるのだから。

3138. 否定に、否定を重ね続ける人の深層には、大肯定を望むココロがある。(大欲へ)

3139. 内発するコトバが現成する時、本当の文章が顕現する。(存在の貌が見えるのだ)

3140. 書くこと(エクリチュール)は魔の行為でもある。

3141. 秘中の秘。秘密にして、隠しているのではない。現れ、出ることが、秘なのだ。

3142. 虚と実を、ひと跨ぎしてしまう、その力よ、コトバよ。

3143. 少年A(神戸の殺人者・酒鬼薔薇聖斗)からは、ドストエフスキーの『白痴』のムイシュキンが、出てきてほしかった。(15年たったら、無残な、告白者か!!)

3144. 見えないものは信じない。現実を視るという人へ。(眼の中の眼)(私)も(宇宙)も見えないもので出来ている。(現実)は、とりあえずの姿・形。

3145. 意識(ココロ)も思考も、見えぬものである。しかも、絶えず、流れて、運動している。

3146. 想いが、思考が(ビジョン)形になる。現実を作り出している。

3147. コトバに、息を吹き込んである、そんな文章には、なかなか、出会えないが。(光部美千代の晩年の俳句)

3148. ヒトは、現身で、飛び越えられぬからこそ、せめて、コトバで、跳び超える。文学には、そのダイナミズムがある。だから普遍になる。

3149. 「時間の瀑布」を感じている真昼日である。宇宙に舞う無数の光子とともに、流れる、流れる、時間が瀑布となって。

3150. ニンゲンは、(考える)という次元を三つ以上ステップすることはできない存在である。四つ目の位相に、ニンゲンが到達する時、もはや、それを、ニンゲンとは呼ばない。

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• 火曜日, 4月 14th, 2015

3001. アフォリズムは、量子のコトバである。詩は、原子のコトバである。小説は、元素のコトバである。

3002. アフォリズムは、時空を跳ぶ。詩は、時空で踊る。小説は、時空を歩く。

3003. アフォリズムから、詩が誕生する時もある。アフォリズムから、小説が誕生する時もある。詩から小説が誕生する時もある。しかし、決して、その逆は、起こらない。

3004. 一人のニンゲン(作家)が、同時に、アフォリズム、詩、小説を書いている。どうか、(私)のコトバを読んで比較してもらいたい。コトバは、結局、存在である、と、わかってもらえるだろう。

3005. 見えなかったモノ、見えなかったコト、見えなかった場所、見えなかった時間、見えなかったヒト、見えなかったカミ、が見えて来て、新しく存在する。もうひとつの宇宙、アフォリズムでありたい。

3006. 宇宙のはじめてのコトバ。量子が量子に私語するその呟きである。音もなく、形もなく、虚空に流れ渡る量子のコトバ。

3007. アラヤ識の深淵から種子としてのコトバがニンゲンにも伝わってくる。

3008. 場を超えて、時を超えて、コトバは、瞬時に交接するのだ。

3009. コトバが先に来て、(現実)がコトバのまま起きる。この不思議を、(私)は、何度、経験したことだろうか。

3010. 即視感でもなく、啓示でもなく、コトとモノの関係が、あたかも、仏教の、縁起のように結びついているのだ。生きているのは、誰だ?何だ?

3011. 人の中に人が棲む。”結ばれ”の究極の形である。

3012. 人が人のように語る。木は木のように語る。鯨は鯨のように語る。石は石のように語る。(語る)方法はちがっても存在が現成することに変わりはない。

3013. 時空に、転写された(私)が在る!!

3014. 四次元に投げ込まれたまま、生きている(私)だ。

3015. 蝉が殻を脱ぎすてる。蛇が皮を脱ぎすてる。ニンゲンの(私)も、一日、一日、(私)を脱ぎ棄てて、生きている。透明で、眼に見えぬ殻と皮ではあるが。

3016. (私)のアイデンティティを、君は、何に、何処に求めている?少年の(私)、青年の(私)、中年の(私)、老年の(私)・・・今だ・・・何時の今か?

3017. (私)という時の流れとともに行く者の、今を、認識するのは、辛いものだ。

3018. 歩くことが考えることであり、歩くことが生きることであり、歩くことがニンゲンであることであり、歩くことが存在そのものであり、歩くことが宇宙である。そんな時空を、私は、歩き続けたい。

3019. コトバは、宇宙エネルギーである。

3020. 原エクリチュールは、波動のコトバに至る。

3021. 波動を声と文字という型に。その原型は「阿」字である。

3022. 超球の時空には、コトバは、一瞬にして、あらゆる場に顕現し、現成し、遍在する。

3023. カミの声も、仏の声も、真言も、コトバへの転調で人の耳にとどく。何人が、その声を聴いたか?

3024. 形も色も質量も、無礙となり、「事」も「理」も1へと至る。

3025. ニンゲンの意識の眼は粗い。ニンゲンの思考の形式は、(考える)その外へ出ることはない。(見えないもの、考えられぬもの)

3026. で、ダーク・マターは眼に見えぬ。量子は考えられぬ。どちらも、宇宙のエレメントである。

3027. 存在から無へ。無から存在へ。無限に流動する宇宙エネルギーだ。

3028. 身体といい、精神といい、(私)は、私という魂に、いったい何をしてあげられるのだろうか?

3029. 瞬間が、一秒で、コトを決する時がある。(私)の一切を開いておけ!!

3030. 見るだけで、聴くだけで、触るだけで、ヒトを変えてしまう力が存在する。

3031. 今日も、木は、垂直に立って木をしている。(私)は、歩いて、ニンゲンをしよう。

3032. いい学校へ行きたい。いい会社へ行きたい。いい仕事をしたい。いい生活がしたい。いい老後を送りたい。いい死にかたをした。さて、ニンゲンは、いったい、何を目的に、生きてきたのか?

3033. 太陽ひとつ、爆発をする。銀河ひとつ、爆発をする。なんの不思議もない宇宙である。3.11は、宇宙の一瞬のまばたきか。それでも、ニンゲンは、絶句し、卒倒するのに。

3034. 最近では、生きる、というよりも、時空に折り込まれているような気がする。

3035. 場は、一切を吸収する。光も影も。

3036. (私)の自由などちっぽけなものだ。宇宙に浮遊してみると、不自由だらけだ。

3037. いのちという繊維を織って、織って、もう境目というものが、見分けられない。

3038. 光に共鳴する日には、いのちが弾ける。闇に共鳴する日には、いのちがくぐもる。

3039. 今、ここに(私)を結んできたが、生の真っ盛りが見当たらない。うろたえるな、ソレがお前だ。

3040. 気配がするので、振りむくと、木がいた。

3041. コトバに乗っ取られた男がいた。(私)が生きているのか、コトバが生きているのか、まるで、21世紀のドン・キホーテである。

3042. どうだい?ボチボチだよ。何かあるか?いいや、特別に。

3043. 妙な者だ。電話を掛けてきて、何も言わない。あれは、生者だったのか?あれは死者だったのか?

3044. 時間が色づくっていうのは、本当だったね。

3045. とりとめのない、単調な、一日、一日、気配まで、薄くなって。鏡は正直だ。

3046. 性欲も、物欲も、欲という欲が痩せ細っていく。さて、光って、散るか。

3047. そろそろ来るか?何が?待っているものが、無限遠点から。

3048. 指を折ってみる。何を数えておるのか、子供みたいに。節くれた指で。

3049. 今日も太鼓が鳴っている。生命の行進のために、虚空で。耳を起てろ。

3050. 死と再生の儀式にはシンバルだ。

3051. (私)は、あなたの手を握ったのに、あなたは、ただの(手)になってしまった。

3052. 声をかける度に、あなたは、いなくなってしまう。

3053. いつまでたっても、あなたの顔を上手に見たことがない。(私)の、見方のせいか?

3054. 空振りの人生も、それなりに、1日の積み重ねの結果であれば、分身に文句は言うまい。(私)は、存在したのだ。

3056. (私)のためだけに生きるから愚痴がでる。(私)を棄てて、他人のために生きてみれば、(声)が返ってくる。生きることは(声)の交感である。

3057. 我執、我欲、我が張りすぎるのも、生きものの本能である。決して、悪いとは言わないが、(無私)がいいに決まっている。

3058. ある歳を過ぎると、ニンゲンは、内的に、内的になっていく。行動で表現していたものが(仕事)消えてしまうと、外の場で発揮していた(私)が、突然、いなくなるからだ。

3059. 闘う相手、敵がいるうちは元気だが、(私)自身との闘いとなると、大抵の人が、音をあげてしまう。

3060. 心の、深部へ、古層へと、降りていく作業は、何がでてきても、決して、驚かないこと。

3061. 「本能」は、生物たちの礎である。しかるに、ニンゲンは、壊れた「本能」で生きている。「本能」よりも「知」を優先させて、生きている。(生)の昂揚は、「本能」から来るものだ。衰弱した(知)は、健全な「本能」に、劣るものだ。

3062. 胃が、腸が、噛みくだき、吸収する器官が健康でなければ、健全な(知)も育つまい。「本能」を軽蔑する(知)は愚劣である。

3063. 終末論は、ニンゲンを死の淵に追いやる。そして、脅かして、跪ずかせるのだ。(宗教に、神に)どこか、おかしいだろう。(私)の死は、終末の世でなくても、いつでもやってくる。

3064. 宗教は、道徳は、倫理は、ニンゲンのどこから発生したのか、もう一度、胸に手を当てて、考えてみよう。

3065. 貧血を起こしている政治家の言葉は、耳にとどく前に、萎えて、消えてしまう。心の、魂の、言葉を語れよ。

3066. 多数決という方法は、口惜しい。必ずしも、(真)ではないという理由で。

3067. 99対1であっても、(我行かん)と、(私)の信念を貫く人もいる。

3068. 隠れた人は、よく生きた。願わくば、(私)も、普通の、任意の点として、生きたい。

3069. 経済、貿易、数字とお金の話ばかりだ。至高のニンゲンのヴィジョンの影すらない。

3070. 眼に見える身体だけがニンゲンなら、こんな楽なことはない。見えないものまでかかえているから(考える)のだ。

3071. 人生、生きるに足るものを、持たなければ生きる意味は半分以下になる。もったいない。

3072. 独りで穴を掘っている。思考が入る穴。(私)がすっぽりと入る穴。

3073. 本能による子育て、教育による子育て、ニンゲンほど手のかかる生きものはいない。

3074. 水のPH。生命の閾。ニンゲンは水を真似て、生きるはずだ。

3075. 一切を見たい、一切を知りたいと、誰もが考えるものだが、生きるとは、いつも、途上であるから、一切は、わからない。で、(私)という物語を仮想して、二重に、生きてみる。

3076. 死ぬという可能性は、誰にもある訳だが、死の不可能性も、誰にでもある。

3077. (生の強度)を高めてみる。どういうことか?何か、素晴らしい仕事をする、そんなものではない。より、多くのことを、壊れる寸前まで、わが身に、引き受けてみることだ。

3078. 宇宙大の、責苦に耐えられる者は、もう人ではない。名付け得ぬものである。

3079. とにもかくにも、生きてきたことであった。すでに、始まっている物語に参加して。見様見真似の、拙い、方法で。

3080. 人間は、二度放り出される。ニンゲンとして生れる時、訳もわからず、ニンゲンとして死ぬ時。

3081. 景色の意味は?ニンゲンは、すべてを読み解けるだろうか?

3082. 「空耳」という言葉がある。なんの音もないのに、音が聴こえてしまう。では「空眼」というものがあってもよい。何もないのに、見えてしまう。あるいは、平凡な山、林、森であるのに、そこに、ひとつのパターンや核を見てしまう。明察か幻視か。

3083. コトバが来る。啓示として、宗教者は体験をする。しかし、(私)のアフォリズムは、宗教体験ではない。それでも宇宙から来る。

3084. 「里道」が発光している。

3085. シグナルを読める人、読めない人。風景は、単なる景色ではない。

3086. 君の書くコトバには、君の指紋が貼りついている。実に、鋭い指摘である。

3087. いったい、指紋を消した文章など存在するのだろうか?

3088. 「完全言語」は、すでにあったか、(神の言)あるいは、来たるべきコトバの謂である。

3089. 生きれば生きるほど「すでに、知っていた」と感じてしまうのは、あらゆるものが、(私)の内部にあったということだ。

3090. (私)の中にないものなど、人は、生きられない。(私)の中にあるからこそ、知ったり、わかったり、納得したりするのだ。

3091. (私)の中にないものなど、ニンゲンは、承知できない。(私)が壊れてしまう。

3092. 意識が寄り道をしてしまう。奇妙な気分だ。

3093. 一日に、何度か、身体をひねる。自然に。ひねらなければ、わからないことがあるのだろう。(知を超える身体のコトバだ)

3094. (私)は、可能性へむけて、語っておるのか?いいや、わかっていることを語っても、仕方がない。不可能だから語りたいのだ。絶対に、コトバにならないと知りながら。

3095. 最近は、コトバが、何を語っているのかよりも、コトバの身振りが気になってしまう。

3096. やはり、コトバは呼ばれてくるので、一人一人の独想など何ものでもない。

3097. 書いていると、書かされている自分に気がつくはずだ。(啓示)

3098. (私)の中に、無数の(私)がいる力。

3099. 呼吸する、かのように、生きる!!

3100. あるとないが、交わって、螺旋状に、宙空に伸びていく、透明な、垂直の縄となって。

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• 水曜日, 7月 16th, 2014
2951. 「内部の人間」トハ、イッタイ、何者デアロウカ。
内部の意識が無限速度で廻り続けて、あたかも、普通に生きる、生のリアリティと均衡し、あるいは、超えてしまっている人間のことである。(考える)ということを考える、球体の中に棲んでしまった人種(タイプ)だ。秋山駿は、(私)とは何かと問い続けて、「内部の人間」を生きた人である。
2952. 「内部の人間」トハ、誰カ?
北村透谷、中原中也、そして、秋山駿、李珍宇(小松川女子高生殺しの少年)。ラスコールニコフ(『罪と罰』)イポリット少年(『白痴』)地下生活者の役人(『地下生活者の手記』)そして、ドストエフスキーである。
2953. 「内部の人間」とは何者か、と考え始めると、もう、あなたは、「内部の人間」の入口にいる。
2954. 「内部の人間」も、ニンゲンである限り、外部世界・世間・社会に生きねばならぬ。そこで、矛盾が発生する。内部に生きることが、唯一の、絶対の存在の意味をもってしまう「内部の人間」が、果たして、意味を見い出せない外部世界に、どうやって、棲めるのか?生き延びられるのか?
2955. 秋山駿は「内部の人間」の声を「ノート」に記した。生きるために。決して日記ではない。考える・思索ノートである。(『内部の人間』)(処女作)から(『「生」の日ばかり』)(遺作)まで、類い稀な、思想のコトバである。
2956. 石塊(イシコロ)トハ何カ。
ある日、道端に転がっている石塊を拾ってきて、机の上に置いた。どこにでも転がっている、平凡な、普通の石塊である。秋山駿と石塊の対話がはじまる。見る、眺める、触る、噛む、割る、石塊とは何か、十日、百日、千日・・・。石塊は、私とは何者かという問いと同質であり、その存在が、秋山駿の存在を、照らし出した。(私は、一個の、石塊である、と)平凡な、普通の石塊は、秋山駿の中で、(普遍)へと達してしまった。秋山青年の知的クーデターの始まりであった。
2957. 石塊、砂粒、舗石、秋山駿の心性は、無機質の、単純で単調な、簡単なものへとむかっていく。断片、破片、切れ切れの存在へ。秋山駿は、決して、ココロの病者ではない。類似している心性・感情はあるが、分裂している訳ではない。「ノート」が(私)というものを、統一している。(『砂粒の私記』)(『舗石の思想』・・・中期の傑作)
2958. 石塊の行処?
ある日、義母が家を出るというので、秋山青年は、何もあげるものがなくて、一番大事にしていた、石塊をもって走り、義母に手渡した。自分の耳を切って、貧しい女に、手渡ししたゴッホの心性に酷似している。
2959. 秋山駿は、決して、抽象的な人間ではない。実に、具体的な人間である。文学のための文学を嫌った。あくまで、具体的なモノ、ニンゲン、セイカツから、考えることを始めた。存在そのものを考えはじめると、いつのまにか、その思考が、抽象的に見えるだけだ。
2960. 秋山駿のノートのコトバに触れると読者は、火傷をする。なぜか?すべてのコトバが、実際の、生きる為のコトバである、存在自体を考え尽くすコトバだから。強度の強い文体は、必死に生きる、考える、秋山駿の生の姿に比例している。
1000日たった。拾ってきた石塊は、もはや、以前の石塊ではなかった。純粋直観で見た石塊は、石塊そのものであった。ノートのコトバで考えた、石塊の物語である。
2961. 「内部の人間」のコトバと「社会」の言葉。「何をしている?」「考えるということを考えている。」「内部の人間」のコトバである。内部的意識が、語る。存在そのものが語る。私とは何か?と考える私・・・以下同様。それでは、社会に生きてゆけない。社会の言葉は、挨拶にはじまって、約束、契約の言葉である。記号である。ふたつのコトバは交わらない。衝突するのだ。秋山駿は、内部のコトバで生きる人だから、社会の言葉は、耳で聴いて、「なるほど」と返事をして、ココロの中を素通りさせてしまう。
2962. 秋山駿の「なるほど」と「うん」と「どうも」
他人の話を聞き終ると、「なるほど」と秋山駿は言う。決して、わかったという意味ではない。君は、そう思い、考えているのか、という了解の合図である。自分の話が終ると、必ず「うん」と最後に言う。まるで、正確かどうかを、再確認するかのように。他人に、贈り物をもらった時には、「どうも、な」と言う。社会の挨拶や、紋切り型のお礼が嫌手なのだ。ものをもらうと、必ず、持ち重りがする人であった。
2963. 「犯罪」と「内部の人間」
「理由なき動機なき犯行」(殺人)と新聞やテレビで報じられた、小松川女子高生殺しの少年による事件を、社会に抗って、「内部の人間」による犯罪であると断じたのは、秋山駿である。自分と同じ心性と思考を持っている少年に、同類の匂いを嗅ぎつけたのだ。二人の道は別れる。少年(李珍宇)は、内部の意識から一歩を踏みだしてしまう。その意識の延長を、犯行という現実に、接木をした。秋山駿は、ノートという、コトバの世界を創りあげた。そして、石塊になって、社会へ出た。社会で働いた。無用の者として、生きた。「内部の人間」のコトバを、生涯、手離さなかった。
2964. 「内部の人間」には、モノやコトとの自然な「結ぼれ」がない。決して、ココロが分裂している病者ではない。(酷似しているが、まちがってはいけない)ノートのコトバと社会の言葉が離反してしまうのだ。で、(私)のノートの声を殺して、複雑な手続きをとって、はじめて外部世界と関係を結ぶ。世間へ、社会へ、会社へと出ていくのだ。
2965. ニンゲンは、いったい、何を、礎にして、生きているのだろうか?
憲法、民法、戒、道徳、常識、倫理、あるいは、60兆の細胞の声・・・。秋山駿には、(「生」の綱領)がある。一個の石塊から、敗戦の焼け跡から、自らが発見し、創造した、生活とココロの掟である。「内部の人間」が生きるための、厳粛な規則であった。(自分の土地はもたない。自分の家はもたない。自分の子供はもたない。・・・以下、生活の細部に至って、規則がある)そして、83歳の生涯において、(「生」の網領)を実践した。
2966. ほんの、ちょっとしたことが、普通にできない(行為とコトバ)。
心の風景にあるのは、石ころ、砂粒、舗石、モノの断片、切れ切れのコトバ等々。心の病者と「内部の人間」秋山駿の心性は酷似している。しかし、秋山駿は、決して、病者ではない。(私)を統一しようとする、強い意思とノートのコトバをもっているから。ヒトとモノとの”結ぼれ”を喪失している、病者と秋山駿。病者は(私)を喪失しているが、秋山駿は、「石塊としての私」をもっている。石塊が歩くのだ。その実践の形が(私)を形成し、秋山駿となる。
2967. 「石塊とは何かという物語」
秋山駿は、道端に転がっている石塊を拾ってきた。どこにでもある、平凡な、なんの特徴もない、普通の石塊。そして、机の上に置いて、考えた。
①石塊がある。②私は石塊を見る。③私は石塊を考える。④撫でる、割る、砕く、噛む・・・石塊は石塊のままだ。⑤石塊は私に語っている。(石塊のコトバで)⑥石塊が私を見る!!※10日、100日、約1000日・・・石塊との対話が続いた!!⑦私は石塊になる(純粋直観)。⑧石塊!!石塊が現成する。⑨私!!私が現成する。
(私)はノートを棄て、石塊となって会社へ、社会へと歩きはじめる。
2968. 秋山駿の、あの「内部の人間」のノートの思想(コトバ)は、いったい、何処から来たのだろう?
①耳の手術(個の発見)(宇宙の中にただ一人の私)②石塊との対話(意識の発見)③戦後の焼け跡(現実の発見)が三つの原体験である。
2969. では、コトバは、何処から起ちあがったのか?
①中也のコトバは、秋山駿にとってココロの水準器であった。②ヴァレリーのコトバは、秋山駿にとって(知)のクーデターであった。③デカルトのコトバは、秋山駿にとって最も(信)のおける方法であった。④ドストエフスキーのコトバは、秋山駿にとって、魂の交憾であった。⑤小林秀雄のコトバは、秋山駿にとって、文章で、モノを”考える人”の手本であった。⑥ランボーのコトバは、秋山駿にとって、見者の予言であった。
2970. 日本の評論の祖・小林秀雄は、自らの生の評評化を断念して、天才たちの形姿を追った。ゴッホの絵、モーツァルトの音楽、ドストエフスキーの小説等。一方、秋山駿は、自らの生をどこにでもある平凡な、普通の一個の石塊と化し、団地の生活を、世間の声を、犯罪者の物語を、「内部の人間」のノートの思想として、生涯探求し続けた。
2971. 小説ではない。哲学でもない。評論ですらない。もちろん、日記ではない。ノートの思想(コトバ)は、「生」の現場から考える、「内部の人間」秋山駿の裸の形姿である。30年、40年(文学)から遠く離れて実人生を生きてきた(私)も、どういう訳か、秋山駿のノートの思想(コトバ)だけは、読み続けてきた。信頼に足る人間の声、形姿を、自分の眼と耳で追っていたかった。
①『内部の人間』(処女作)②『歩行と貝殻』③『地下室の手記』④『内的生活』⑤『舗石の思想』(最高傑作)⑥『砂粒の私記』⑦『「生」の日ばかり』(絶筆・遺稿集)
秋山駿のコトバは、時代の水準器であった。時代の流れに、社会の変化に、世間の声に、棹を差す、石塊のコトバである。
2972. ①私は石塊を見る②石塊は私を見る③石塊は石塊を見る④私は私を見る
そして「石塊!!」が現成する。「私!!」が現成する。井筒俊彦風に言ってみると。
秋山駿の中でも、1000日の間に、禅など知らずとも、似たような、ココロとコトバの転成が生じていたにちがいない。
秋山駿が使う(普通)は、普通の人が使う普通ではない。(普通)である秋山駿の、平凡な、どこにでもある石塊は、人々が見る、平凡な、どこにでもある石塊ではない。(普通)も石塊も、約1000日の対話を経て、ふたたび、顕現したものである。(石塊!!の現成!!)
2973. (私)の中心(内部)に私がいない。他人(医師)の声が(私)の中心にいる。(私)は、声に占領されている。(私)は、ノミとツチの音に占領されている。声が、音が、(私)の内部から聴こえる。
手術台では、あらゆるものが、手のとどかぬところに、存在した。ヒトもモノも。
(私)自身が私から遠い存在になった。(私)の喪失である。
まるで、蛸のように、裏返しにされて、自分もしらない(私)の秘密を、他人に覗かれる、「恥」の感覚が誕生した。「ホラ、これが脳膜だよ」
幼年期の、耳の手術が、秋山駿の原点・「内部の人間」の心性が誕生した瞬間である。そして、「片耳の男」となった、秋山駿は、大人になっても、自分が話し終ると、必ず「うん」と言うようになった。自分の声かどうか、正しいコトバかどうか、再確認をしているふうだった。
2974. 秋山駿のノートのコトバの中に立つ。いやノートのコトバを共に歩く。どこまで歩いても終らない、コトバの歩行がある。モノやヒトの形そのものが、ゆっくりと、低く、呟く声のもとに、顕現する。単色の、存在そのものの世界が無限に続いている。途轍もないものが、秋山駿という(私)を生きている。
2975. ノートのコトバがわかるためには、ノートのコトバの外へ出なければならない。そして、ふたたび、ノートのコトバの世界へと戻らねばならない。
①私は「内部の人間」である。②私は「内部の人間」ではない。③やはり、私は「内部の人間」であった、と。
2976. 秋山駿は、存在という神との対話を稀求した人だ。ノートのコトバは唯一その為にあった。他人との対話の為のコトバではない。コトバが、至高のも のに至らなければ、ノートのコトバに意味はない。普通は普遍。普遍は普通。石塊は、秋山駿にとって、神(存在)である。あらゆるものに開かれている。
2977. 対話、対談は、いつも、真剣勝負である。火花が散る。白熱すると、秋山駿は、白眼をむくのだ。何処か遠いところを見て、自分の蔵の中 にある、自分のコトバを取り出してくる。相手にも、同じ、真剣を求める。教養や知識や他人のコトバは許さない。必ず、自らの生の現場から掬いあげた コトバでないと、容赦しない。一言に賭ける、秋山駿のコトバは、他人を殺してしまう力をもっていた。
(「お別れ会」の時、法子奥さんが、死ぬ時には、白眼をむかずに、穏やかな死に顔でしたと語ってくれた)
2978. 文芸評論家としての地歩を築くと、(文学)の仕事が増えると、「内部の人間」としての(存在)のノートのコトバが減ってい く。すると秋山駿の本来の、力が衰弱する。ピンチである。コトバを売ることに、嫌悪が生じる。更に、ノートのコトバまで、社会に放出すると、大きな、矛盾 が生じてくるのだ。(生)のリアリティが変質する。(私)のコトバが、社会で、交換される。(私)の危機である。社会化された、秋山駿!!もう一度、否、 何 度も何度も、秋山駿は、コトバの原初に帰ろうとする。石塊を発見したあの、コトバの地点に。
2979. 三島由紀夫と秋山駿
突然、三島由紀夫から電話がかかってきた。法子夫人は、新宿で酒を呑んでいる主人に、連絡をした。「三島由紀夫という、小説家から電話があった」と。
なぜか?
三島由紀夫は、秋山駿に、同志を見た。代表作『金閣寺』の放火の主人公は、「内部の人間」である。犯罪を鋭く分析する、秋山駿に、シンパシーを感じたの だ。そしてその作品に最高の評価を下した。三島由紀夫は、秋山駿のエッセイ「簡単な生活」を、海外で紹介する、(翻訳の)労をとった。後に、『太陽と鉄』 小説でもエッセイでもないこの作品を、秋山駿は、三島のコトバの核だと、後に、評論する。三島由紀夫が、割腹自殺を企った後、秋山駿は、十五年勤めたス ポーツ新聞社を辞めて、筆一本の生活に入る。生命がけで事を為す、三島の姿勢に、共鳴し、鼓舞されたのだ。
「イッタイ、君ハ、何ヲシテイル?「内部の人間」の声ヲ貫ケ—俺ノ事件ヲ考エテクレ!!」
2980. 秋山駿は、労働争議の渦中の人となった。「内部の人間」も労働しなければ食ってはいけぬ。どだい、「内部の人間」として、 「生の綱領」を守って、社会に生きること自体が、大きな矛盾であった。会社の論理とも労働組合の論理とも、折り合いがつかない、衝突する。結局、15年間 勤めた、スポーツ新聞社を退社する。「何時来るかと待っていたよ」「君の笑顔を15年間、一度も、見たことがない!!」そう言われて、会社を去った。社会 の言葉と「内部の人間」のノートのコトバが、正面衝突をした結果であった。
2981. 野に遊ぶ、川に遊ぶ。
石ころだらけの川原に立って、石塊である秋山駿が、釣竿を振る。奇妙な光景であった。誰が言いだしたのか、『歩行』(文芸同人誌)の仲間たちと秋山駿で、 埼玉の川へ釣りに出かけた。屋根裏の哲学者のように、団地の一室で、原稿書きに明け暮れる「内部の人間」を、一瞬、野に解き放ってやろうよという目的だっ た。魚が釣れた。破顔の秋山駿が水の中に立っていた。後にも先にも、こんな場面はなかっただろう。「俺も、こんな面白いこと、やっていたいよ、うん」。 (思い出)
2982. ノートのコトバには、ノートのコトバで応えて。公的な、社会に流通する言葉で、秋山駿を語っても(論じても)文芸評論家・秋山駿の半身しか捉えられない。「内部の人間」の姿は隠れてしまう。
2983. 「内部の人間」秋山駿は、独身者ではない。
①男と女。駿と法子(夫と妻)
②20代は、「ともに、大地を掘る」共同生活者であった。30代は、「大地」が消えて、ひばりが丘の団地の「空虚」が現れた。サラリーマンの生活。
③40代は、文芸評論家とブック・デザイナーの「二人三脚」・共働きであった。
④70代は、共に病んで、老いて、「同行二人」の旅人(人生)となった。(「同行二人」は、本来は四国八十八ヶ所巡礼するお遍路さんと空海のことである。)
⑤80代は、ただの石塊である、秋山駿・「内部の人間」は、石の地蔵菩薩になっていた。(芸術院会員・勲四位)
2984. 「手の力(コトバ)」と「声という力(コトバ)」
意識が、ゼロ・ポイントに達してしまうと、もう、コトバがない。法子さんの痛みは、もう五年になる。朝、昼、晩、夜中、痛みは続く。毎日毎日苦痛の真只中 にいる法子さんに、掛けるコトバがない、秋山駿。そんな時、二人が、手を重ね合わせるだけで、一時、痛みがやわらぐのだ。耐えられるのだ。「手の力(コト バ)」である。”結ぼれ”の究極の形であろう。
病院から、法子さんが自宅に電話を入れる。「駿の声が聴けて好かった。元気?」声という力(コトバ)である。響きの波の中に二人がいる。
2985. 魂が魂を呼ぶ
延命治療を拒み、点滴も鎮痛剤も拒否した秋山駿は、10月2日、死んだ。(享年83歳)その日は、奇しくも、若くして死んだ母の命日であった。(法子さん談)(「お別れの会」にて)
2986. 秋山駿のノートのコトバは、単独者の為のものである。
最晩年に、秋山駿は、二人のコトバというものを、考えてこなかった、と悔いている。病者と、弱者と、貧者と、共に考えるコトバ。お互いの、ココロの一番深いところで、魂を交感できるコトバ。誰が、そんなコトバを、発しているか?
2987. 「内部の人間」秋山駿の咎と罪とは何か?
「生の綱領」を原理、原則として生きる限り、妻には、嫁の役割り、母の役割り、女の本質の役割りを与えられぬ。「内部の人間」の生涯に、巻き込んでしまった、妻への、お詫びがある。
2988. 「内部の人間」は、結局、「内部の人間」へと帰ってくる!!
会社員も、大学講師も、文芸評論家も、社会の役割りであった。至高の、意識のリアリティがある場が、(私)を「内部の人間」へと連れ戻すのだ。少年の、ノートの声が響きわたる時空へと。
2989. 「内部の人間」秋山駿は、未曾有の東日本大震災3・11から、無数の石塊が、「内部の人間」たちが、生れ、起ちあがってく る光景を、予見したにちがいない。敗戦の、焼け跡から、ただの石塊として起ちあがった自分の姿を、3・11の、あの、荒寥たる、無機質の光景に重ねなが ら。
2990. ある時を境に、ノートのコトバの色調が変わる。法子さんの登場の頃。(考える)コトバが(魂)のコトバに、転調しはじめる。書くというよりも、何か、大きなものに、書かされている。
2991. 最後まで本当の(知)を中也のコトバに求めた秋山駿であった。「内部の人間」の声。
コトバは人を遠くまで運ぶものだ。中也のコトバは、秋山駿を、10代から83歳まで運んでくれた。
2942. 秋山駿は、開かれた人であった。誰でもが通れる門を構えていた。誰もに答えるコトバをもっていた。生きれば傷つく人間である。秋山駿は、正しく、傷から歩きはじめた。見れば、そのままの、秋山駿が立っている!!
2943. 倦まず、たゆまず、八十三歳まで(私)を探求した「内部の人間」秋山駿であった。内部のノートのコトバが外部に放たれ、内 部が外部に、歩いた外部が内部になって、さながらメビウスの輪のような存在に、コトバは達して、死んでいった。コトバは、存在へと開かれた。
2994. 内的心象は、いつのまにか、コトバという外的事象となって、勝手に自己回転して、秋山駿の手を離れていった。世間に、社会に「内部の人間」のノートのコトバが種子となって、その「子供たち」が花を咲かせるだろう。
2995. 秋山さん、今、超球宇宙の、どのあたりを歩いているのですか?誰に遠慮もなく、気兼もなく、歩行だけを楽しんでいますか?そちらでは、どんな歩き方で歩いていますか?きっと、小さな、小さな、地球という惑星の歩行とはちょっとちがうのでしょうね!!
2996. 足が不自由になった秋山駿は、杖をついていつもの公園を歩行する。もう(私)が歩いているのではない。(私)が(公園) が、木が草が、あらゆるものが、照らし出されて、在る!!秋山駿は、歩きながら、コズミック・ダンスを踊っているのだ。此岸は彼岸、彼岸は此岸。
2997. ノートのコトバが沈黙する。沈黙が増えると、ノートのコトバは魂のコトバへと変わっていった。(私が語る)が(私は語らされている)へ。
2998. 秋山駿は、普通の、平凡な、簡単な日常の中に、すべてがある、石塊の生に、普遍があると信じて、生きた人である。天才、偉人を描くのではなく、普通の人間の中に、無限があると描いた「私」哲学の人であった。(『信長』は例外)
2999. ニンゲンには、「生・老・病・死」があるから、誰でも、人生に、四度以上、悩みをかかえることになる。実際、二進も三進も いかぬ時があるものだ。(私)が、私自身の内部へとへたり込んで、一歩も進めぬ時があった。若い妻と私が、不幸に、不幸が重なって、どん底に生きている 時、 秋山駿から、一通の手紙をもらった。
『私が敬愛するデカルトという人が、「光があると思って生きれば、必ずそうなる」、信じて下さい。』と。
そのコトバを信じて、生きてみた。コトバは、力であった。
3000. 大事ナ人ガ死ンダ時ニハ、ニンゲンハ、イッタイ、何ヲスレバイイノダロウ?
釈尊は、死の直前に、愛弟子・アーナンダが、泣き、嘆き、悲しみ、取り乱している姿を見て、お前は、まだ悟っていないのか、そして、「法(経)を唱えよ、自らを灯明とせよ」と語った。同じことだろう。
秋山駿なら、自らの足で、生の現場を歩け、歩き続けろ、そして、私のノートの思想(コトバ)を読んでくれと語るだろう。
「私は歩行する!—おそれず、あなどらず、いつわらず、まどわず、自然に。」(『歩行と貝殻』
超球宇宙を歩く秋山駿の姿が見える!!
さようなら、私の秋山駿!!
【追記】
ただ、悲しい。私は、秋山駿のノートの声を読み(聴き)ながら、私の感想とお礼のコトバを書いてみた。願わくば、秋山駿の読者が、それぞれの秋山駿の姿 を、書いてもらいたいものだ。私の知らない、秋山駿を見たい。知りたい。もう一人の「内部の人間」が、その子供たちが、生きはじめているだろう。
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• 月曜日, 4月 07th, 2014
2901. ニンゲンは、何時頃から、何歳頃から、単なる声ではなくて、魂の声を聴き始めるのだろうか?一生、魂の声を聴かない(聴けない)人もいるのだろうか?
2902. (私)が生きているという、普通の実感から、何か、得体の知れない、途轍もないものが(私)を生きているという実感が生じるまで、随分と、時間がかかるものだ。(気付きのないまま、死んでしまう人もいるのだろうか?)
2903. 光とともに来るものがある。闇とともに来るものがある。一瞬のうちに、純粋直観でわかってしまう。コレだ!!と。(私)は宇宙だ!!と。
2904. (私)は宇宙エネルギーの一個の顕れである。それ以上でも、それ以下でもない。(私)は私自身であると同時に宇宙である。1であり、全体である。
2905. 空の色が、あまりにも青すぎて、青を超出して、青に見えなくなった。
2906. (私)が決定した(意思で)。本当に、そうであろうか?(私)を形成しているもの、囲続しているもの、それらの一切が(私)をして、決定せしめているのだ。60兆の細胞たちよ!!
2907. コトバで、(私)を追っても、追っても、引潮のように、遠くへ、退いてしまう。意識が無限速度に達した時、ええい、構うものか、跳べ、(無)へ。
2908. 幻でもよい、幻花でもよい、何かを見つづけなければ、生きてゆけない、3・11の被災者の日々である。
2909. 身体が衰弱し、ココロが折れて、次から次へと自死していく、3・11の被災者よ。現も夢もあるものか、生者は死者に、死者は生者に。
2910. ニンゲンは、色を、形を、見ているのではない。光の貌を見ているのだ。
2911. 似ている?何に?光に。あたり前だ。(私)も君も光から来たものだから。
2912. 歩いて、歩いていると、現成する(私)がある。
2913. 見る。転成する。ふたたび、見る。リアルに。すると、(私)が現成する。(井筒俊彦の声)
2914. 眼も狂う。視差ばかりではない。見るにも、次元があるからだ。
2915. 絶対リアルで見える人は、もう普通の”眼”には戻れない。
2916. 現。現れる。示現する。顕現する。現成する。見ろ。意味は、文字とともに、変わってしまう。
2917. ニンゲンの”無”と宇宙の”無”はまったく、異なるものである。
2918. 証拠は?科学の”無”と禅の”無”を比べてみよ。
2919. 宇宙樹(コズミック・ツリー)がある。信じられるか?見えるか?光に、闇に、見えたり、見えなかったり、無数の宇宙樹が存在している。
2920. 存在をコトバで開いてしまった、空海さんである。自心の源底に至って。さあ、行け、その位相へ。
2921. 人類が滅びると、竹と昆虫の世紀が来る。クマムシは、地上最強の生きものである。木でものない、草でもない、苔でもない、竹という植物の生命力。
2922. 文明が地球を汚染する。(文明=人間)地球のありとあらゆる資源を喰い尽くして、ニンゲンよ、自滅するのか!!
2923. 生命現象に、意味を与えたのはニンゲンだけであろうか?ただ、生きている、ただ存在している、ニンゲンは、そのことに、我慢がならぬ生きものである。
2924. (私)は私に我慢がならぬ。いったい、ニンゲンは、進化をして(変身して)何になりたいというのだ。
2925. 文字(文章)そのものが、声のように、波動をもつことは果たして、可能だろうか?いわば(波動の文字)
2926. 無から無へ(無→有→無)(私)も宇宙も同じ原理である。(21世紀の大発見であろう)
2927. (私)という物質は、もう一人の(私)という反物質と対である。つまり、存在している(私)は、常に存在しない(私)に支えられているのだ。誰が、どうやって、あの世や異次元を、反物質宇宙を、否定できよう。
2928. (私)が消えて、音になる。(私)が消えて、音楽がある。至高の体験であった。宇宙そのものと一緒になって、歌っている。参加している。そんな至福の少年時代があった。「昔の光、今何処!!」である。
2929. (私)の中心にも立てないのに、もう、人生の中央に放り出されていた。19歳。世間に、社会に、世界に、いったい、どうやって、生きていけばいいのか、白紙であった。
2930. 文字も、数も、コトバも、一切が教わったまま、実行された。(私)のものなど、どだい、何もなかったのだ。何時から、ヒトは、(私)のものと思いはじめたのだろう?
2931. 人類が死んで、動物が死んで、絶えて、「竹の世紀」が来る、誰のコトバだったのか、億年単位の時間の流れる音が聴こえて来るコトバだ。
2932. 「物になる」「竹になる」「魚になる」東洋の思考の形である。西洋の思考の形を超えている。
2933. なぜ、コトバは、絶対的な強度をもって人のココロを刺し貫くのだろう。
2934. 至高の時には(私)がいない。
2935. 12キロの道を歩いて、嫁に来た祖母は、鏡台が唯一の嫁入り道具であった。100歳まで、正座をして、朝・夕、鏡台にむかう女であった。
2936. 母の嫁入り道具は、風呂敷につつんだ尋常高等小学校の、成績書ひとつであった。オール甲の成績で、母親が、これしか持って行かせるものがないと、手渡したものだった。父の希望は、背が高くて、賢い女、母の望みは、子供たちを、大学に、学問の道にすすませることであった。身を捨てて、身を粉にしても。
2937. 私の妻の嫁入り道具は、ピアノであった。音楽に生きる娘であった。借家には、私には、立派すぎるものであった。
2938. ニンゲンは、絶えず(私)をしている!!現でも夢の中でも、意識は、絶えず、(私)を捉えている!!気絶でもしない限りは。
2939. (私)をなくしてしまうほどに、歩いて、歩いて、歩き続けると、照らし出された世界に、光景の中にあるものは、色も形もない、魂という存在ひとつである。
2940. (私)が手を振るのではない。さよならと、手を振っているのは、風景そのものであった。
2941. 他界の気配を感じた時はそのまま、上手く、消え去りたいものだ。何も残さず。
2942. 存在の窓口に起っている。朝である。
2943. 来るものと来ないものの汀に起つ。
2944. 見えるものと見えないもの、眼の、境目に起っている。
2945. 関係の結び目、節が見える。
2946. 未生の(私)を問う(私)。
2947. 鳥の声を見て、花の色を聴く。なんの不思議ぞ。
2948. 動いているから鎮まる水。(私)身体の中で。
2949. 眼を閉じる。闇が来る。そして、光が来る。光が見える。意識が消える。やはり、(私)は、光の子だった!!
2950. (私)が消えて、事物が消えて、一切がコズミック・ダンスそのものになっている!!
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• 月曜日, 3月 03rd, 2014
2851. (私)が無限に手を振ると、100億光年の彼方では、ひとつの銀河が大爆発をする。(宇宙的バタフライ効果)なんの不思議があるものか!!東京で一匹の蝶が羽撃くとニューヨークでは大嵐だ(地球的バタフライ効果)
2852. ヒトは、ただの赤ん坊として生れてくる。そして、ただの老人として死んでいく。さて、いったい、何があったのか?諸行無常。なんの不思議もない。
2853. 重いがなければ軽いもない。苦がなければ楽もない。形のある、なしをニンゲンのココロは超えてしまう。
2854. ニンゲンが、宇宙と呼んできたものが、たったひとつの無限の宇宙が、無限個の宇宙のひとつであったと言われても、誰が、どのように、信じるのだろうか?(カミの力でも足りない)
2855. ソレは(私)の身体だから、わかっている!!とんでもない。ソレは(私)が知っている以上のものである。だから、(私)とは、他者である。
2856. (私)を使い切れずに、死んでいくニンゲン。なぜ?銀河系に匹適する脳を持ちながら、ニンゲンは(私)という宇宙のほんの一部を使用して、自らの人生としているのか?
2857. あらゆる状況、あらゆる環境に遭遇してこそ、ニンゲンの全的能力は、発揮される。危機こそ、その瞬間である。
2858. 平々凡々に生きるのも良し。ただし、平々凡々の(私)の使い方で終る。
2859. ドストエフスキーの実人生と小説と、どちらが、異様であろうか?経験のレベルに創作は比例している。
2860. ココロに宇宙を入れる。どこまで広がるか?どこまで認識できるか?どこまで耐えられるか?
2861. 私の眩暈は、3・11の大地震の揺り戻しであろうか?1000日も経ったのに!!心も身体も、(私)という存在自体があの日から、揺れっぱなしである。
2862. (私)の頭にもココロにも入り切らなかった未曾有の揺れは、今も、あの日から時空を超えて、続いているのだ。
2863. 3・11の死者たち、被災者たちに、ココロを寄せた、心やさしき者たちは、ウツ状態から抜け出せないでいる。
2864. 病いも悲嘆も、共振する波である。虚へ、空へ、無へと落ち込んだニンゲンは、容易に回復できないでいる。3・11は、原発は、負の核である。
2865. たった5ヶ月間の、歩行困難で、自然の歩行が思い出せない。
2866. 12月の、椿の蕾と一緒に刻を歩こう。3月には、自然に、深紅の花が咲く、と。
2867. 風景と溶け込んで歩いていた。今は、硬直して、風景に弾かれて、歩いている。
2868. 共感、共鳴、共生の姿勢を取り戻して、自然とともに、歩く日よ、来い。
2869. 左に、右に、風景が傾くから、(私)も、同じように、傾いて、歩いている。ぐったりと疲れ、立ち止って、深呼吸。
2870. 眩暈は、原因不明の病気(?)を次から次へと連れてくる。やれやれ、である。
2871. おそらく、読めない、書けない、起てない、歩けないは、来たるべき(死)へのレッスンとなるだろう。病気や眩暈には、とことん付き合ってやれ。
2872. あなたは、芭蕉派か西鶴派か?旅に病んで夢は枯野を駆け巡る(人生を旅して漂泊の旅を続けたが、病気になっても、私の見果てぬ夢は、枯野を、今も駆け巡っている)この世の月見過ごしにけり末二年(人間人生50年といわれるが、もう二年も、余分に生きてしまったよ、そろそろ向こうへ逝ってもいいだろう)
2873. 病いの時には、病んでいる。病いの感情、病いの思考を呼吸している。
2874. 一切において、文句というものを言わない。与えられた環境を生き切った父であった。
2875. モノ書きは、誰でも、感応する繊細な神経・心性を持っている。いわば、傷つきやすい種族である。
2876. 思考の強靭な糸も、自らの心性によって紡ぎだされる。
2877. 直観、ひらめき、イメージが育って思想になる。無・意識から、コトバが産出されるのだ。
2878. 思考の糸は、意識とともに廻りはじめたら、絶対速度に達してしまう。止まらないのだ。
2879. なんの為の人生?生れてから、どんどん、順に追っていくと、結局、死ぬため、となる。(ニンゲンとして死ぬ、より良く死ぬ?)で(私)の死は、わからない、となっている。
2880. さて?はて?やれやれの人生である。
2881. 覚りの境地は、誰も語れない。(私)ではない。ニンゲンではない。生命ですらない。「人間原理」の一切がない。「宇宙原理」との合体である。その時、もう、もとのニンゲンには戻れない。だから、語れない。ニンゲンのコトバではなく、仏のコトバとなる。
2882. コトバから抜け出せた人は、瞑想の世界で、ただ、生きている。覚りも何も語らない。「空」にいるだけだ。
2883. (私)は、今、ここをなくせない。(私)の外部に立たなければ。で、ニンゲンには、できない。いつまでも、いま、ここの(私)を生き続けている。
2884. (生きる)がむずかしいのは、いつまでたっても、(今)(此処)を生きるしか術がない存在のニンゲンであるからだ。そして、(今)(此処)は、いつも、見知らぬ、新しいものである。
2885. (私)の外部に立って(私)を生きる。つまり、覚りとでもいうのだろうか?異次元に立って、生きる、可能か?
2886. (私)は(私)だという、自己同一性の証明は得られるのか?時間の尺度(幅)を変えて考えてみる。昨日の(私)、10年前の(私)、百年前の(私)、千年前の(私)、魚であった二億年前の(私)。・・・三七億年前の単細胞の(私)・・・。その時、(私)は、どのように存在していたのか?(存在していなかったのか?)(私)はいったい、何だったのか?
2887. 宇宙という巨大時計の中に(私)を置いてみる。生命の種子の爆発する姿が見える。
2888. 無数の生命の連鎖の上に咲いた花(私)。ニンゲン種と呼ばれている。
2889. 単細胞の夢は、とても、一人のニンゲンが考えられるレベルのものではない。無数の地球の生命の群れを視よ。
2890. (見る)には、いくつもの段階がある。ステップできる人は、次から次へと、新しい位相で、モノを見ることが可能だ。もちろん、異次元まで見えてしまう。超球宇宙も、(見る)だろう。
2891. 瞑想。あらゆるものがやってくる。見える。眼がなくても、モンが見える。それは、ココロの顕れであろうか?あるいは、幻想であろうか?それとも、本物であろうか?
2892. 思考、想いが熱をもって、実際の身体を、火傷させる。
2893. 輪廻転生して永遠に生きる、それは、いやだ、絶対に、死に切りたいと思う人は仏教へ。永遠の生命を求める人は、キリスト教へ。
2894. ニンゲンという種が続く限り、(私)は、死ぬことができない。(私)は、時空を超えて、遍在する。
2895. 単細胞から多細胞への飛翔。(個)から(群れ)への飛翔。何が、いったい、そうさせたのか?億年単位で、その闇を考える。
2896. もういいだろう、と思う人。まだもっと、と思う人。(生きる)の意味の考え方がちがうのだ。
2897. ニンゲンは、なんでも、科学しなければ気がすまぬ動物らしい。科学も、また、ニンゲンが発見したひとつの方法であるのに。
2898. 一度、会いましょうよ。特別な話がなくても、顔を見て、お互いの眼を見て、声を聴いているだけで和やかな時が流れる。
2899. とびっきりのものを求めなくても、そこらにあるもので、充分に、楽しみが生れる。苦が生れることもあるが。
2900. なぜ、ニンゲンは、(生)の現場では足りずに、(天国)とか(地獄)とか(極楽)とか(浄土)とかを、創造してしまったのか?(今、ここを生きると言いながら)
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• 金曜日, 8月 30th, 2013
2801. 身体に芯棒がなければ歩けない。精神にも芯棒がなければ、考えられぬ。
2802. 塔に心柱があり、身体には背骨があり、精神には意識がある。
2803. 意識は、無限速度で刻を移動する(私)に絶えず、同伴をしておる。
2804. 存在の独楽が廻っているうちは、(私)は生きている。完全静止は(私)の終りである。宇宙も同じ原理だ。
2805. ”眩暈”は、起き上がることも、歩くことも、不可能にする。風景の固定は、自然な歩行の条件であった。
2806. 普通に歩くことが、どれだけ多くのエネルギーに支えられているのか、病気をして、”眩暈”にあって、やっと納得した。
2807. 「位置」は、眼と耳で決定される。姿勢を保つのも、足腰だけではなく、眼と耳の力が不可欠だった。
2808. 一兆億年後の、わが宇宙の死滅。ニンゲンは、そのことに、どんな感慨をもつだろうか?無限か永遠か!!
2809. 始まりも知らず、終りも知らず、存在の地平線の内で、今だけを生きている。
2810. 存在の地平の特異点はカミの手に似ている。
2811. 存在も非在も、あるものの見方にすぎない。(体、相、用)
2812. 無限速度でスピンする(私)。千の貌があっても不思議ではあるまい。
2813. 木が、石が、空が、定まって見えるか、ゆらぎの波と見えるか、眼という、能力にかかっている。
2814. 無から吹き上がってくる時空。”私”の顕現、(私)の発見。
2815. ゆらぎの、波の、偶然の、時と場に、存在というコトバが、結晶する。
2816. 宇宙にとって、ニンゲンという存在は何者でもなかった、何事でもなかった、そう断言できるか?
2817. 勝手に、(私)の全細胞が開いて、数十億年という時間を逆行して、単細胞に至ろうとする、そんな、存在自体のざわめきが聞こえる。
2818. 単細胞が見た夢の果てが(私)である、と言うのだろうか?
2819. 21世紀の最大の発見は、(無)から(有)が、つまり、時空が、コトとモノが発生したということであろう。
2820. 今朝も、(私)という存在に躓いて、ニンゲンを発見する、驚愕が、いつのまにか、普通のことになってしまった。
2821. 時空に放り出されてからというものは、もう、本能と知で、ただ、(生きる)をしてきただけだ。それが、何であろうと、同じことであるが。
2822. ニンゲンは、とりあえず、(社会的な役割り)を求めて、生きる、それを、仕事と呼んでいる。では、(宇宙的な役割り)とは、いったい、何であろうか?存在すること−そのものの意味だ!!
2823. (私)も、宇宙の一員であって、毎日、毎秒、コズミック・ダンスを踊っている。しかし、その行為が、何であるのか、まったく、わからない。
2824. つまり、死が、わからないように、生も、まったく、わからないのだ。
2825. 食べる、産むという、本能さえも、考えてみると、(私)には、よくわからない。
2826. 原子の、生命化が、なぜ、そうなるのか、根源的には、わからないように、だから、(私)は、他者を生きている。
2827. 空間に、昨日の、色と線と質感が戻ってきて、時間が流れている。実に、自然に。今日も、コトとモノのカオスの海を泳ぎ切ることができると、意識をした。
2828. 色の限界地点で、草木の緑がふるえている六月。色は、コトバに、存在そのものになって、歩いている(私)を襲う。不意に(私)は、無限時間の中を、おそろしい速度で通過している、と、宙吊りになったまま、思う。
2829. 緑の、色の、力に、時間も、空間も、ニンゲンも、共振れしている、六月である。
2830. 痙攣している六月。どもっている六月。浮遊している六月。光の中で、闇の中で、あたらしく、誕生するものがある。まだ、名前はないが。
2831. 痙攣する六月の歩行は、決して、知ることではなく、楽しむことである。何を?不可能を!!
2832. もう、生への燃え盛るような意思は起ちあがらないが、静かな、静かな、眼だけは在る。
2833. 起つ位置によって、人は、宗教を得、科学を得る。決して、否定しあう関係ではない。
2834. 事象を分析する科学。事象を生きる宗教!!
2835. 共存には寛容の精神がいる。
2836. 文学は、畏怖すべきもの、不可能との対話であり、そこに、ニンゲンがいる。
2837. 沈黙にも、おそろしい、エネルギーがある。決して、何も、考えていない、のではなく、ただ、存在の重みに、耐えているのだ。
2838. コトバよ、来い、あらゆるコトバよ来い、と叫んでも、来ないから、黙る。
2839. コトバを、存在に、存在を、祈りに変えてしまった、空海の真言の力よ。
2840. (科学)も(宗教)も、見えないものをみる。しかし、その、見えないものが、異なる。
2841. 3・11の現場を歩いたとき(私)=生命がひとつの痙攣になった。今日も、歩行のときに、ひとつの痙攣になった。
2842. 空海は、存在そのものを開いてしまう。だから、存在はコトバとなる。
2843. 空海とスピノザ。宗教者と哲学者である。自然を、存在を、宇宙にカミ・ホトケとして、開いてしまった二人である。
2844. コトバの位相。ニンゲンのコトバ、カミ・ホトケのコトバ。
2845. 宇宙に、(私)という身体を投げだす時、宇宙にそのまま流れる時空と合体できる。さて、跳べるか?
2846. 善も悪もない「自然」がある。原子の世界。「宇宙原理」である。善と悪がある「人間社会」である。原発の世界。「人間原理」である。
2847. 3・11の現場の光景は、ニンゲンが忘れていた、畏怖すべき「無」の力の顕現であった。そして、ニンゲンは、同時に、「悪」としての原発を確信した。
2848. さて、3・11の瞬間に、畏怖した「自然」の存在であったが、まだ、二年と三ヶ月しか経っていないのに、もう、ニンゲンの欲望だけが疾走している。暗愚のニンゲン。
2849. ニンゲンは、何を怖れているのだろうか?戦争、飢餓、貧乏、不幸、苦痛・・・ いやいや、唯一、(無)であろう。
2850. (無)に至る、存在の眩暈が、完全に終るならば。
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• 水曜日, 5月 01st, 2013
2701. 書いたのは誰か?と問い、言ったのは誰か?と問い、「コトバ」とは何か?を考えると、「言葉」と「ことば」と「コトバ」の多様なものが見えてくる。コトバは、単なる、文字、記号ではなくなってしまうのだ。
2702. 「文字」を使用する。「声」を使用する。「コトバ」を使用する。言ったのは?聞いたのは?書いたのは?いったい、誰であろうか?と考えてみる。
2703. 来るもの、エネルギーである声。いや、声に変換されるあるもの。
2704. 数というものが消失してしまう地点で、存在というのも消去してしまう地点で、一切が結ぼれて。
2705. ものを書かない(書けない)、ものを読まない(読めない)、燃え盛る(知)で生きてきた人が、もう、話をすることもなく、沈黙へと滑り落ちて、そして、ただ、存在している。さようならの、サインであろうか?
2706. あらゆる交流というものが絶たれて、音信が消えていく、静かに。
2707. 新緑を巡って歩いていると、植物たちの、静かな知慧を覚知する。
2708. 見るとは、光のあらわれかたであろう。
2709. 闇は見るを消し去ってしまう。
2710. 原子が、素粒子があるのではなく、あらわれかたを見ているばかりだ。
2711. 色も、また、光とともに、時とともに、移ろっていく日々である。
2712. 木々にも、それぞれ固有の揺れかたがある。風を受けて。
2713. 人も、また、それぞれに、固有の揺れかたがある。
2714. 死ぬことの不思議は、もちろんのことだが、生れてくることも、ひとつの奇蹟である。
2715. 来た者は、去る者となる。もうすぐ、確実に、その時が来る。
2716. あるものがある、ないものはない。もう、そろそろ、いいだろう。そのように、見定めても。
2717. コトバが静かになってきたら、(私)も静かになるだろう。
2718. 大きな、強い、激しいコトバばかりで生きてきた人も、静かなコトバには勝てない。いや、勝ち負けもない。
2719. お互いに「正しい」と主張し合って、相手を、批判、批難、攻撃して、結局、争いに、終止符を打てない愚。
2720. 宇宙に、咲いて、輝いて、散る。一瞬のニンゲン、その意識に覚醒すれば、争いも、消せるものを。
2721. 風景を歩く、コトバは道の外にあるから。
2722. 一切は、変わる、歩く度に、移ろう、風景である。
2723. (私)も、また、ひとつの風景である。
2724. 苦が来る、楽が来る、道である。
2725. 小さな頂点へと、昇って、下りる、一日の波。
2726. 見ても見えず、聞いても聞こえず、語っても語られず、それでも(信)を実践するニンゲンであるか。
2727. 青葉若葉の季節となった。生命がぴちぴち反ねている。葬式も、日々、増えているが。
2728. 革命と隠遁。孔子と老子を惟う。可能性の人と不可能性の人であった。
2729. (私)を発見する。そこにだけ、ニンゲンがいる。
2730. 四月の風景は、歩く度に、音楽に転調する。
2731. 朝から大きな溜息をついて、眠るだけでは取れなくなった無数のシコリがあって。
2732. あれやこれやと点検しても、切りがなく、決断だけが鈍くなって、浮上する機会を逸してしまう。過齢であろうか。
2733. 何度でも、スタートを切れる年齢があった。もう、方向が見えていても、気が起ち上がらぬ。
2734. さようならと言ったり、言われたり。五文字の重さだけが、虚ろに響く。
2735. 本当のことは、言ってしまえば、ただのコトなり、言わなければ、秘密になる。
2736. 暗号化されたコードは、脳という器管にしかないのか?あるいは、腸官にも、胸腺にも遍在しているのか?
2737. 脳は、単に、来る音信を、受ける装置であって、やはり(私)が、コードそのものであるのだ。
2738. コトバ以前の声も、充分に、伝える音信である。
2739. 身振りが、コトバ以上に、ものを言うことがある。
2740. 食べれなくなる、歩けなくなる、話せなくなる、身につけた一切が消えていく。その時は、死ぬ時だ、自然に。
2741. あれだけ輝いていたニンゲンが、もう、光を放たない。何処へ行ったのかあれらの力は。
2742. 誤ちを犯しても犯しても、修正できる力がある。それが若さというものだ。
2743. 老いると、ひとつの誤ちが命取りになる。再生できない。風邪をひいたと。
2744. 「戒律」と「法」どちらも、ニンゲンが作ったものである。「法」は、ニンゲンが社会に生きる時、集団の秩序を乱さないための規則である。「戒律」は宗教者として、生きいくための規則である。
2745. ニンゲンの、最高の快楽は、宇宙を呼吸することである。
2746. 百兆年もすれば、我が地球も太陽も銀河も宇宙も、一切が消滅して、いつか来た(無)へと還ってしまう。もう、コズミック・ダンスを踊る舞台も生きものも、一切がない。
2747. 時空の蒸発した後は、虚時間の宇宙が、別の原理で始まっているか?
2748. どう考えても、おかしい、小さすぎる宇宙の年齢が百三十七億年というのは。二千億個の銀河集団にすぎないというのは。長い間、そう思っていた。ホーキンス博士が言ってくれた。宇宙は10の500乗個はある、と。ホッとした。無限個の宇宙!!ニンゲンの手が、宇宙にとどくのはおかしい!!
2749. 痙攣が来る度に、ひとつの思考が起ちあがる。
2750. (私)はコンタクトする。あらゆるものに。で、(私)の一日が出現する。
2751. 触るものが何であるのか、いつも、意識が、チェックをする。で、あれでもない、これでもないと、(私)は呟いている。
2752. これも良し、あれも良し、と思える日には、風景が(私)にやさしい。
2753. 歯痛が(私)の一日を変えてしまう。忌忌しいのは、いったい何だ!!
2754. 慣れることができない、習慣化できないから、”痛み”は、(私)を破壊する。いい(私)を消し去ってしまう。
2755. 生きる勝手が、まるで、わからなくなる、人生の途上で。ただ、歩け!!
2756. 学習した、習性と化していた、生きる規則が、まったく、役に立たなくなる、それは、恐怖であり、不可思議である。ただ、歩け!!
2757. 生きるスタイルと、存在のスタイルは、必ずしも、重ならない。裂け目がある。深淵に落ちないように。気をつけて。ただ、歩け!!
2758. 何度でも、何度でも、(私)に還ってくる、一日の朝が来るように。で、顔を確かめてみる。顔がどこかへ逃げていないか、と。
2759. (私)の中心にいるか、(私)の辺境にいるか、強気と弱気の現れである。ただ、歩け!!
2760. ”無”からの顕現。入口と出口の鍵である。
2761. 惑星の一回転を一日と呼ぶことに、慣れてしまったニンゲンである。銀河の一回転を、何と呼ぼうか?
2762. 宇宙と、ひとまわりしてきた者が呟いた。歩いてみれば、(私)は遍在していた。
2763. 在るとも無いとも断言できない、確率の中で、偶然、顕れてしまったニンゲンである。
2764. たった、(私)一人を始末できない。
2765. 身体の重さ、重力に合わせて、沈んでいく”私”。
2766. おーいと、遠くで呼ぶものがいる。無限遠点から来る音信!!解読できるのは、なぜか?
2767. まったく、ニンゲンは、何を考えだすかわかったものではない。超えてはならぬ一線を越えてしまうかもしれない。高次元へのジャンプである。
2768. 存在そのものの、在り様が、一瞬にして変わってしまう時、ニンゲンが猿を見ているように、何かが、ニンゲンを見ているだろう。
2769. 道具・機械は、ニンゲンの能力の延長であり、部分であったのに、何時の闇にか、その地位は、逆転してしまった。危機である。
2770. キューバ危機の、ケネディ大統領の選択は、正しい選択であったのだろうか?イラン戦争の、ブッシュ大統領の選択は、正しい選択であったのだろうか?殷の紂王は、亀の甲羅に、漢字を書いて、戦争、戦勝を占った。天の声を聴いた。三千数百年前のことである。ニンゲンは、進歩しているか?
2771. 光に反応することは、実に、シンプルな快楽である。特に、冬の、日溜りでは。
2772. 日々の、あれやこれやを、無用のものと見なして、取り去ってみると、いったい、何が残る?それが(私)だ。
2773. ニンゲンの必要は、そんなには、多くはない。他人が思っているほどには、多くはない。(私)を構成するのは、空気と、極く少量のもので、けっこうである。
2774. これ以上は、超えてはならぬ、と肉体が叫ぶ。痛みは、(私)の破壊への警鐘である。耳を傾けろ。
2775. 歩いているときには、思考を止めて存在の放つオーラーを浴び続ける。
2776. 宗教の宇宙は、ニンゲンと神・仏の宇宙である。科学の宇宙は、ニンゲンを無化して神も仏も非在と化す宇宙である。
2777. (無)から(有=時空=宇宙)が顕現した−その証拠は、終に、カミの存在をも、無化してしまった21世紀である。
2778. (無)から(有)は生じないと、信じていた時代が、妙になつかしい。
2779. ニンゲンはいつも、「正しい選択」を出来るとは限らない。だから、修正があり、やり直しがある。
2780. 風景も文体で変わってしまう。
2781. 機械を作ったニンゲンが機械に使われて一生が終る時代になった。
2782. 機械とニンゲン、能力の一点で、比較すると、”人間性”は奪われてしまう。
2783. 誤ちを犯すからニンゲンである。しかし、もう、二度と、取り返しのつかない誤ちが浮上してきた。
2784. 決定ができない。正しい、誤っている、と決められない時代である。さて、困った、ニンゲンに、選択する道はあるのか?
2785. Aでもない、Bでもない、ええい、Cにしておこうか。ニンゲンの手法。
2786. 速く、大量に、正しく、実行する機械。ニンゲンは、とぼとぼ、歩いている。右に左に揺れながら。
2787. 仕事は機械に、遊びはニンゲンに。機械は、決して、遊ばない。
2788. ニンゲンの仕事は、どんどんどんどん電脳機械に奪われて。インプットすれば、後は、遊んでアウトプットを待っている。ニンゲンの(考える)は、いったい、何処へ行ったのだろう?
2789. (考える)を考える機械が出現すれば、ニンゲンの特権が消えてしまう?
2790. 手に負えないのは、天変地異ばかりではない。原爆も原発も機械も、ニンゲンが、コントロールできなくなりつつある。
2791. アインシュタインの脳を、そのまま、コピーした機械は、ニンゲンか機械か?
2792. ニンゲンは、遺伝子による、子供の誕生以外に、もうひとつの”誕生”を創り出しつつある。
2793. ”無限”の前でも、”無”になれないのが、ニンゲンである。
2794. もう、日常には、(私)を刺戟するものがなくなった。さて、逝くか、クラインの壺と化して。
2795. 離合集散!!コレハ、ニンゲンノコトカ ソンザイノコトカ?
2796. マルデ、方角トイウモノガ、ナクナッテシマッタ。東西南北、前後左右上下。揺レテイル。揺ラギノ波ダケガ在ル。
2797. 歩行ノ消滅ハ、ニンゲンの消滅トナル。
2798. 明日、人類ガ滅ビルトモ、ニンゲンヨ、今日ハ歩ケ。
2799. 今日ノ花ヲ、今日摘ム。
2800. 吃ラナイト、考エラレナイ。ソレガ、考エル自然デアル。