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• 火曜日, 2月 19th, 2013

人間が、生きている限り、苦しみ、悲しみ、痛みはなくならない。(生・老・病・死)の四苦からの超越を説いた、釈尊の言葉は、人間が(生きる−死ぬ)というコンセプトを、存在の条件とする限りにおいて、(真実)であろう。

科学、医学、経済、文明の発達も、四苦を減らすことはあっても、完全に、なくすことは出来ない。

宗教が、21世紀になっても、その存在理由がなくならないのは、苦の世界を救うというところにあるのだろう。

3.11東日本大震災(原発事故)は、生きる人間の根源を揺さぶって、問い直しを求める、天災、人災であった。

日本人はもちろん、世界中の人々が、(生きる−死ぬ)という人間の、悲しいコンセプトに、思いを馳せた、日々であった。

「安全・安心」というコトバが死んだ。科学者、政治家、知識人、文学者のコトバが、死んで、役に立たない。

死者にあてがうコトバがない。被災者のコトバを受け入れる、いい耳がない。

いったい、宗教者は、現在、どんなコトバを発しているのだろう?何を、実践しているのだろう?

ある日、突然、空海さんのコトバを読みたくなった、空海さんの声に耳を傾けたくなった。秘められた教えと実践の道があるはずだ。

初めて、高野山を参詣した。五月の、薫風が吹き、山桜の名残があって、新緑が芽を出しはじめた季節であった。

山上の宗教都市であった。千二百余年の、歴史を刻む、高野山を、時空を越えて、歩いてみた。

僧になる為の、僧の、修学、実践の、根本道場である。京の俗と高野の聖と、政治、宗教、学問、社会実践、教育、芸術と、日本の誇る天才の名にふさわしい、空海が行き来し、歩き、三密修行を実践した地である。

高野山の歴史を展望するためには、幾多の課題を追ってみなければならない。

宗教と政治権力(天皇・貴族・武士)宗教と経済(荘園、寺田)宗教と学問(中国、インドの歴史)入定信仰(奥の院)弘法大師信仰、檀家制度、宗教抗争(浄土真宗)分派抗争(御室派、根来派)神仏混淆(神道)高野山信仰(浄土観)(聖地化)(曼荼羅)四国遍路(高野聖)そして、明治時代の神仏分離と廃仏毀釈。

空海に、鎮護国家を求める天皇から、弘法大師の教えを、全国行脚して唱教する、高野聖まで、高野山を、支え続けた人々に限りがない。

①政治権力と宗教
聖徳太子と豪族の蘇我氏は、仏教の導入に力を尽くした。
空海は、唐から、帰国して、嵯峨天皇に、唐の詩書、梵字書、古人の筆蹟を、淳和帝には、唐製の狸毛の筆を献上している。三筆と呼ばれた、能書家の嵯峨天皇は、空海のよき理解者、支援者であった。空海は、高雄山寺から、東寺を、そして、高野山に、根本道場を開く、赦しを得ることになる。

「上求菩提・下化衆生」、天皇とも庶民とも共に歩む「済世利民」の空海の思想が、実によく出ている。聖地、高野山では、密教・真言宗の三密・実践修行をして、俗地、京の街では、天皇、貴族とも、仏教、密教を語らうという、柔軟な姿勢である。

『源氏物語』を書いた紫式部のスポンサーでもあり、光源氏のモデルとも言われている、関白・藤原道長と藤原頼道も(摂関)高野山への参詣、寄進等、支援を惜しまなかった。

道長の参詣と頼道の登山は、後に、摂関家や上皇たちの参詣を促し、地方豪族たちの、高野山への関心を高め、荘園、寺田の寄進はもとより、寺院の建立、修復と、全国への、真言宗の普及に、大きな役割を果たした。

政治権力と宗教権力の二人三脚の好例である。

その一方で、戦国時代、下克上の世になると、宗教は、武士の政治権力と正面衝突をする。信長の比叡山焼き打ち、秀吉の、根来の焼き打ち、真宗(浄土)の連如が武装化した、一向一揆、そして、武力を用いず、法をもって、宗教に対した、徳川幕府の、キリシタン禁の条例、寺院諸法度の、壇那寺、檀家制度の導入、明治政府の、天皇を中心とする体制から来た、神仏分離令、廃仏毀釈と、政治と宗教の問題は、現代に至っても、世界中で解決に至らず、戦争、紛争が続いている。

幸いにも、日本では、政教分離の、政策がとられているが。

②教学の伝承と宗門、宗派の対立
鴨長明の『方丈記』に依ると、源平の合戦で、武家政権が誕生した後も、王権と武士の二大権力の戦い、武士同志の戦いが尽きず、その上に、大火事、大風、大地震、大津波、疫病、飢饉で、人々は、この世を、地獄である、と、虚無、無常観、末法思想が人心を染めあげていた。

地の底から、庶民、武士の間から、新仏教が噴出をした。この世が地獄なら、せめて、来世では、極楽浄土に往生したい、念仏を唱えるだけで(法然)弥陀の本願を信心するだけで(親鸞)、浄土に往生できるという、一宗一尊の、浄土宗、浄土真宗の出現である。あるいは、浄土などない、この世がすべてである、南無妙法蓮華経と唱えて、叫び続け、この現世を仏国土にする(日蓮)日蓮宗。そして、戦いが仕事である武士は、生死を日常として生きており、(無)の境地を求める、禅宗へと、精神統一を企った。

台蜜・天台宗は、教相、事相においても、純蜜・真言宗に遅れをとった。最澄と空海の密教理解の差であろう。

しかし、最澄の弟子、円仁は、入唐して、新たに、蘇悉地経を加え、円珍、安然と、天台宗を、法華・華厳、念仏、止観を中心とする綜合的仏教へと発展させた。

その天台宗から、鎌倉新仏教の教祖たち、法然、親鸞、日蓮、道元が輩出された。

一方で、真言宗は、空海の十代弟子たちが健闘するも、新しいものを生み出すこともなく、暗黒の時代が続いた。

口舌の徒の新仏教に対して、密教は、口伝・面授、師資相承の、秘められた仏教である。

密教は、浄土をよく考えてこなかった。なにしろ、「即身成仏」である。

荒廃した、高野山を救ったのは、真言宗の中興の祖、覚鑁・興教大師であった。

高野山に、伝法院を建立。根来に、神宮寺(後の根来寺)を建立。密教院の完成。

教学の再興、事相の振興。何よりも、密教と念仏を融合させて、真言念仏とした。唱える仏教の流行に、敏であった。また、高野山の金剛峯寺の座主を、東寺の座主から切り離した。高野山は、東寺の末寺であった。

しかし、覚鑁は、後に、千三百人の弟子を連ねて、高野山を降り、根来派(新義派)を結成することになる。

③お寺という学校の力
空海は、誰もが、平等に学べる学校『綜芸種智院』を創設した。貴族、豪族の子弟しか学べない大学、国学しかない時代である。千年早い、理想の学校であった。

寺院は、僧になる為の教学、修行、学問と実践の場である。キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは、高野山を、日本の六大大学として、考えている。三千五百人の学生がいる、大学の町である。

中世から近世にかけて、貴族、武士、庶民と、学問、教育の必要が高まっていく。

足利学校や金沢文庫、武士たちも、学問を身につけ、教養を高め、武士道を極めた。江戸時代には、武士たちの、藩校が出現し、庶民の為の、寺子屋が誕生した。読み、書き、そろばんは、商いの栄えた江戸には、必要不可欠なものであった。商家の娘の嫁入りの道具に、兼好の『徒然草』が流行った時代である。

京、大阪、江戸で、木版印刷が盛んになった。寺子屋の教科書、往来物は、その種類が四千冊を越えた。江戸の識字率は、当時、世界一であった。高野山でも、木版印刷の技術が導入された。写本をした、本を製作できなかった時代が、長く続いたが、近世は、印刷の技術を得ることで、大量の「本」の出版を可能にした。役者絵、瓦版、教科書、経典、養生訓、出版事業は、知識の伝達を、一気に全国へと拡大した。その中心に、僧がいて、お寺があった。

④高野聖の力
僧にも、階級、階位がある。検校、阿闍梨、山籠、入寺、三昧、久住者、衆分(鎌倉時代−金剛峯寺の例)

僧は、大別して、学侶、行人、聖となる。仏教、密教の研究をする、実践をする、学侶。供花、点灯、寺の管理に従事する、行人。そして、全国を行脚して、密教、真言を唱導する聖。勧進は、大きな目的のひとつである。しかし、高野山を、入定信仰を、(弘法大師は現在でも、奥の院に生きていて、我々衆生を救ってくれる。何しろ、弥勒菩薩が下生して、人間を救ってくれるまで、五十六億七千万年もあるのだ)大師信仰を拡めたのは、高野聖である。三密行は知らずとも、四国八十八ヶ所を巡礼すれば、お大師さんに会える、遍路も、高野聖と同じ、歩く信仰である。

南無大師遍照金剛の中に、空海はいる。

高野山が、浄土になり、八葉の曼荼羅になり、聖地と化した、その底辺には、名もない高野聖たちの精進があったことは、まちがいないだろう。文化は交通でもあるから。

(高野山大学大学院レポート)

政治と宗教の問題は、古くて新しい。政治権力のめざすものと、宗教のめざすものが、(法、教義)あるいは、世界観、宇宙観が異なる為である。抗争、紛争、戦争と、宗教と政治は、東西古今で、衝突してきた。

しかし、宗教が国家権力と二人三脚で歩む場合もあった。願護国家という役割を負って。

空海は、聖と俗を、見事に使いわけた。空海の入定後も、天皇、皇族、貴族(藤原家)武士(平家、源氏)に支えられた、高野山である。(ただし、秀吉には攻められている。)

橋を架け、井戸を掘り、道路を整備し、貧しい人、病者たちに、宿や小屋を作ってあげ、お金やお米をあげるなどの、慈善事業、福祉事業に精を出し、全国を遊行して、勧進をして、信仰をひろめた、無名の高野聖たちの存在も、大きな力となって、高野山を支えてきた。

現在では、政教分離政策がとられている日本である。

しかし、世界各地で、宗教と政治の対立、宗派の対立、紛争が、民族紛争の原因ともなっている、事実がある。

21世紀は、共生、共存の世界が実現される時代であってほしいものだ。

曼荼羅の思想、コスモロジーが、役に立つ時代であるかもしれない。

何時、地表に立っている人間は、宇宙的観点を確立できるのだろうか?

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• 火曜日, 2月 19th, 2013

「日本で、天才といえば”空海”でしょう。」
日本人初のノーベル賞を受賞した、物理学者、湯川秀樹の言葉である。

高野山は、空海が、真言密教の、根本道場として開いた寺院であり、宗教都市である。

完璧と思える、密教思想の構築はもちろん、満濃ヶ池の土木工事、自由平等を旨とした、綜芸種智院という学校の設立、梵字悉雲と辞典の編集、芸術としての書、自心の源底にまで至った、言語の天才、その詩心、天皇から衆生に至るまで、幅の広い交流、空海は、正に、天才の名にふさわしい、人物である。その死後も、弘法大師として、千年にわたる時空を超えて、人々の心の中を歩いている。

空海・弘法大師・そして、高野山は、分野を超えた(文化)として、日本全国に、今も深く、根付いている。

とても、一人の人間が為し得た、仕事・事業とは思えない、空海の業績である。今回は文学という文化に限定して、高野山、空海、弘法大師をめぐる思想を表出した、文学作品を、考察してみようと思う。

西行(1118~1190)『山家集』

ねがはくは花のしたにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃(春歌)

歌聖と呼ばれる西行ほど、花(桜)の歌を多く歌った人はいまい。桜が恋人である。歌は、桜へのラブ・レターである。

西行・本名は佐藤義清。僧名は円位。西行は号である。白河天皇の時代、院の警固をする北面の武士であった。藤原の血を引く家系。

二十三歳で、突然、出家する。理由は不明。

惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
身を捨ててこそ身をも助けめ

出家。遁世時の覚悟の歌である。武士を捨て、妻子を捨て、家を捨て、仏門に入ることが、自らを救うことになる、心境の歌だ。

東北行脚の後、三十二歳頃から、西行は、高野山に、庵を構えて、約三十年余り棲んでいる。仏門での毎日の修行かと思うと、そうではない。吉野へ、京へ、熊野へ、四国へ、九州へと、旅をしては、歌を詠んでいる。神護寺の文覚に、仏門に専念しないで、数奇心で、歌ばかり詠んでいる、とんでもない僧だと非難される。しかし、実際に会ってみると、好人物で、人間としての品位、教養があって叱れない、というエピソードがある。

『山家集』には、恋の歌、花(桜)の歌が、圧倒的に多い。その中には、高野を詠んだ歌、高野から、友、知人に送った歌もある。

僧であるから、当然、「釋教歌」もある。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天と六道を読んだ歌もある。

また「聞書宗」の中に、「地獄絵を見て」として

見るも憂しいかにすべき我心
かかる報いの罪やありける

『万葉集』は、万葉仮名で書かれた、風景や心情を、直接的に読んだ歌であるが、『古今集』から『新古今集』の時代になると、幽玄有心を、技巧を、喩を重んじた、(知)的な歌の姿へと変わっていく。その中で、西行は、只一人、自然に、感情のあふれるままに、あるいは、考えるままに、歌を詠んだ。藤原俊成、定家の歌と比べてみると、喩に頼らない分だけ、力強い。純粋で、行動的で、感情的で、僧と歌人の間で、揺れ、悩み、そして、歌に「寂」の気配が、漂っている。

三夕の歌、寂蓮法師、藤原定家、そして、西行の歌を比べてみると、実に、よく、理解できる。

心なき身にもあはれは知られけり
鴫立つ沢の秋の夕暮

恋の歌、花(桜)の歌から、離別歌、哀傷歌、釋教歌、聞書集と進んでくると、西行の歌にも、仏教の、密教の色彩が滲み出てくる。

明恵上人の伝記に、西行の歌論が記されている。かつては、数奇者で、「虚空如ナル心」で歌を詠んでいたが、今は、詠む歌は、真言で、和歌は如来の真の形体であって、歌によって、悟りを得た、と。気性の激しさと純粋とが入り混じった心をもっていた西行も、武士の剛気と歌人の寂と僧の悟りへと、足を踏み入れて、河内国、葛城山の麓、弘川寺にて、寂した。七十三年の人生であった。

風になびく富士の煙の空にきえて
行くゑも知らぬわが思ひかな

空海、高野山、遍路をめぐる、小説。
名作、四作を選ぶなら、迷わず①泉鏡花『高野聖』②田宮虎彦『足摺岬』③井伏鱒二『へんろ宿』④司馬遼太郎『空海の風景』を挙げる。

『空海の風景』(上・下巻)は、幕末の士々たちを描いて、国民的作家となった、司馬遼太郎が、構想十年、三年の月日をかけて、執筆した、司馬文学の金字塔である。空海の眠っている奥の院へ足を運ぶ度に、参道の右手に立っている、高野山を描いた、司馬の一文が、碑となっている姿に眼を止める。仏教(密教)に無縁の人、空海を知らぬ人、どれだけ多くの人々が、司馬遼太郎の「空海の風景」を読んで眼を開かれたことかと感嘆する。

司馬は、空海の誕生の地、屏風ヶ浦から、入定する高野山まで、空海の足跡を追って、すべてのゆかりの地を、歩いている。空海の著作はもちろん、研究書、関係資料を、数百冊読破している。そして、密教の研究者、僧たちに、疑問のすべてを問い糺している。新聞記者の手法である。いかにも、記者出身である、司馬のスタイルだ。そして、自らの考え、感想を呟く。それが司馬史観と呼ばれている。

司馬は、神的な視点に立って語る。人間・空海の実像に迫るために。もちろん、司馬は、宗教・仏教・密教は、語るものではなく、信仰し、実践するものであると知悉している。だから、真言宗の、経典の核には踏み込まない。密教の、専門家、僧たちの批判も、承知の上である。だから、空海の残したもの、歩いた場所に、「空海の姿」を発見するのだ。ゆえに「空海の風景」である。仏教用語を、極力排した、大衆が読める「空海」である。

泉鏡花(明治六年~昭和十四年)は、幻想的な、迷宮を描く、特異な作家であり、『高野聖』は、彼の出世作・代表作である。旅の途上で出会った、高野聖に、その体験談を聴くというスタイルの小説である。深山幽谷で妖しい美女、白痴の子、怪物や血を吸う蛭に会う話である。全国を行脚して、真言を唱導し、各地の面白い、奇妙な咄を、語り歩く、高野聖の姿が、リアルに浮かびあがってくる名作である。

鏡花は、文体を生命とした作家である。物語の概説では、鏡花の小説は、わからない。後に、三島由紀夫、川端康成が絶賛した、鏡花の文体である。一行一行読みながら、主人公と作家と共に歩く。その時、読むがそのまま生きるになる。文体だけが、時代を超えてその内包する思想を伝える器である。

『足摺岬』は、田宮虎彦の代表作・短篇である。田宮は、魂の彷徨を描く作家である。暗い情念、宿命、貧、病が主題である。苦悩する作家とも呼べる。

物語は、青春の悩悶をかかえた男が、四国八十八ヶ所の、三十八番札所金剛福寺を訪れるところから始まる。自殺を企てようとする青年である。足摺岬は、断崖絶壁がある自殺の名所と呼ばれている。遍路宿で、さまざまな宿命を背負った遍路の話を聞き、魂が浄化されていく。宿の娘に、遍路たちに、生命を救われる。そして、戦後、ふたたび、足摺岬を訪れる。貧乏で、生命の恩人の妻を死なせ、後悔と失意の人生である。四国八十八ヶ所が魂の復活と再生の場である。田宮本人は自殺。

『へんろ宿』は、掌篇小説ではあるが、井伏鱒二の名作のひとつである。土佐の、旅先での、「へんろ宿」の一日を、描いている。何処から来て、棲みついたのか、誰の子供かわらない小学生、冷えたセンベイ蒲団、辺境の、遍路たちの、奇妙な生態を、冷静な筆で書き切っている。

遍路・空海との同行二人の、四国八十八ヶ所巡礼も、現在では、ひとつの、文化として定着をした。宗派、人種、信仰の有無を問わぬ四国遍路は、江戸時代から、平成まで、脈々と受け継がれて、伝統文化の域に達している。

紀行文、手記、インターネットの感想など夥しい情報が発信されている。

『娘巡礼記』高群逸枝著は、近代、現代の、第一号であろう。大正七年、熊本の家を出て、仕事を中断し、新しい何かを求めて、二十四歳の娘が、四国遍路に挑戦する。その手記が、地元の新聞に、掲載されて、大きな評判を呼んだ。当時は、橋も、道路も、整備されていない時代である。四国の古道、街道を歩いて廻る一人旅である。遍路たちとの邂逅、地元の生活者との出会い、風雨との戦いと、涙と汗が光る、紀行文学である。

月岡祐記子『平成娘巡礼記』は、高群の現代版である。平成の若い娘の感性が瑞々しい。

『四国遍路』辰濃利男著は、長年、新聞記者として取材し、自らも、遍路として歩いた体験を、知的に、総合的に、分析、現代遍路のお手本となるテキスト。

『マンダラ紀行』は、「月山」で芥川賞を受賞した、作家、森敦が、四国八十八ヶ所と曼荼羅の秘密を、メビウスの輪の理論を用いて、分析、解読している。直木賞作家・私小説家の、車谷長吉の『四国八十八ヶ所感情巡礼』は、妻と二人の道中記である。

(高野山大学大学院レポート)

「平家物語」「方丈記」「徒然草」「山家集」「源氏物語」と、日本文学の核となるべき、歴史物語、評論集、小説も、すべて、「仏教」なしには成立しない作品である。

漢字が中国から日本にもたらされた時、日本には、文字がなかった。話し言葉の、和語があっただけである。漢字とともに伝来した仏教は、中国の史書五経とともに、学問に欠かせぬ存在であった。

漢字ひらがな混りの、日本文が成立した後にも、仏教用語は、しっかりと、漢字の意味に寄り添って、思想と化している。日本人の風土に、感性に溶け込んでいるのだ。

空海は、真言宗の開祖である。その一方で、書は、三筆の一人であり、サンスクリット語の修学、辞典の編集、小説風な劇曲も書き(三教指帰)詩心にあふれた、手紙や文章を残している。いわば、総合的な芸術家でもあった。(性霊集)

空海をめぐって、遍路、高野聖をめぐって、研究や論文はおびただしい。

語学の天才、詩人、書家、作家と、多面的な空海である。

で、空海のゆかりの地(神護寺、東寺、高野山、室戸岬、善通寺等々)をめぐって、巡礼して、書かれた、文学作品も限りがない。

泉鏡花、司馬遼太郎、井伏鱒二、田宮虎彦と、一流の作家たちが、それぞれの、空海や遍路や高野聖を、作品化している。

「仏教」と「文学」は、読めば読み解くほどに、深い縁で、結ばれている。

現在では、外国人や、宗教に無縁と思われた若者たちまでが、四国八十八ヶ所巡礼の旅に出て、その感想や日記が、インターネットで、ブログとして、流れている。おそらく、気が付くと、空海の思想に触れているのだ。

自然に、自らの姿を最確認して、マンダラの宇宙へと、入っているのだろう。

(宗教)と(文学)は、また、永遠のテーマでもある。

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• 金曜日, 2月 08th, 2013

1. 「はじめての宗教論」(NHK出版)右巻 佐藤優著
2. 「一神教の誕生」(講談社現代新書) 加藤純隆著・加藤精一訳
3. 「困ってるひと」(ポプラ社) 大野更紗著
4. 「あなただけの般若心経」(小学館) 阿部慈園著
5. 「梵字でみる密教」(大法輪閣刊) 児玉義隆著
6. 「梵字の書法」(大法輪閣刊) 児玉義隆著
7. 「密教概論」(大法輪閣刊) 高神覚昇著
8. 「インド密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
9. 「チベット密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
10. 「中国密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
11. 「日本密教」(春秋社刊) 立川武蔵・頼富本宏編
12. 「巡礼高野山」(新潮社) 永坂嘉光・山陰加春夫・中上紀共著
13. 「和歌山・高野山と紀ノ川」(吉川弘文館) 藤本清二郎・山陰加春夫共著
14. 「カフカ式練習帳」(文藝春秋社刊) 保坂和志著
15. 「病牀六尺」(岩波文庫刊) 正岡子規著
16. 「日本社会と天皇制」(岩波ブックレットNo108) 細野善彦著
17. 「般若心経秘鍵」(角川ソフィア文庫) 空海著
18. 「秘蔵宝鑰」(角川ソフィア文庫) 空海著
19. 「いのちつながる」(高野山真言宗総本山 金剛峯寺開創法会) 松長有慶講演集
20. 「論文・プレゼンの科学」(アドスリー刊) 河田聡著
21. 「傷ついた日本人へ」(新潮新書) ダライ・ラマ14世著
22. 「街場の文体論」(ミシマ社) 内田樹著
23. 「この人を見よ」(幻戯書房刊) 後藤明生著
24. 「生き抜くための数学入門」(イースト・プレス社刊) 新井紀子著
25. 「コンピューターが仕事を奪う」(日本経済新聞出版社) 新井紀子著
26. 「金閣寺」(新潮社文庫) 三島由紀夫著
27. 「屍者の帝国」(河出書房新社) 伊藤計劃・円城塔共著
28. 「謎のトマ」(中央公論新社) モーリス・ブランショ著 篠沢秀夫訳
29. 「慈雲尊者全集」(思文閣刊) 慈雲著
30. 「街場の現代思想」(文芸春秋文庫) 内田樹著
31. 「こんな日本でよかったね」(文芸春秋文庫) 内田樹著
32. 「知に働けば蔵が立つ」(文芸春秋文庫) 内田樹著
33. 「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文芸春秋文庫) 内田樹著
34. 「私家的・ユダヤ文化論」(文春新書) 内田樹著
35. 「レヴイナスと愛の現象学」(文春文庫) 内田樹著
36. 「他者と死者」(文春文庫) 内田樹著
37. 「日本辺境論」(新潮新書) 内田樹著
38. 「東と西」~横光利一の旅愁~(講談社刊) 関川夏史著
39. 詩集「トットリッチ」(土曜美術社出版販売刊) 岡田ユアン著
40. 小説「6DAYS」(日本文学館刊) 吉澤久著
41. 「昭和のエートス」(文春文庫) 内田樹著

なかなか、確たる世界・思想・文体を持った作家には出会えないものだ。小説、評論、詩、その他、どんな分野でも、「思考する文体」でなければ、生きている人間を描き出せない。

昨年は、”内田樹”に入ってしまった。どんな人物かも知らず、なんの予備知識もないまま、偶然「街場の文体論」を読んだ。面白い人がいるものだと、手に入るものを、次から次へと読んでみた。

内田樹の”核”は何だろう?自然に、そんな疑問が沸いてきた。

「レヴイナス」と「ユダヤ教」が(核)であった。なるほど、人は、何かを、徹底すると、自信をもって、すべてを語れるものである。
井筒俊彦の「意識と本質」に出会って以来の、興奮であった。日々の感想を書いた作品とは別に、一度は、ゆっくりと論じてみたい”評論家”である。

①娘育て②食べるための大学教師③武術(合気道)生活の現場重視の人である。単なる学問の人でないのが、好感が持てる。思想は、そこからしか、立ちあがってこないから、”信”の置ける言説と生活の人である。

「読むこと」「書くこと」「生きること」の徹底・その三本の柱が、内田樹の強みである。

外務省の官僚で、ロシアで活躍した佐藤優の(核)が、キリスト教、神学にあるのも面白い事実であった。

「困っている人」の大野更紗は、貧しい人々を救うために、ボランティアとなって、東南アジアへ。ところが、本人自身が、”難病”を患ってしまう。つまり、人を助ける人が、他人の助けがなければ、生きられない身になる。

現代の、平成の若者らしく、文章は、乗りが良くて、”難病”も、笑いの渦となって、綴られる。この、陽の気質は、いったい何だろう。”文体”のせいか、本人の、生まれつきの心性が、陽である為か?

思わず、”難病”に苦しんだ、明治の子規の病床ものと読みくらべてみた。泣いて、唸って、怒って、”俳句”を詠む子規。病院の制度の壁に衝突して、たくましく生きる”陽”の大野更紗。
どちらも、”宗教”に走らないところが、急処であろうか?

「文体」、「文章の相」が、明治と平成では、こんなにも、ちがう。同じ”難病”であるのに、光景が別のものに思えてしまう不思議。

”慈雲尊者”の全集を読む。
江戸時代の真言の僧である。世相の乱れに、「十善戒」を説いて、宗派に別れた仏教を、批判し、”釈尊”に帰れと説いた。

貧しい武士の子が、”知”に目覚めて、出家し、四書五経から仏典、神道、そして、サンスクリット語まで修学し、”葛城神道”を、起こした。

先日、慈雲の墓参りに、南河内の山の中を訪れた。人間を離れた地に、現在も、修行道場があった。

「カフカ式練習帳」保坂和志は、小島信夫、後藤明生、田中小実昌、色川武大の系譜をひきつぐ、作家である。特別に何もなくても、語れてしまう。その語りの中に、”妙”があって、読者の、愉しみがある。

奇妙な、思考癖が、四人の共通点である。はじまりもなく、終りもなく、ただ、読む瞬間の文章の中に発生する、なんともいえないリアリティが、保坂の信条であろう。

川端と共に、新感学派のチャンピオンとして、活躍した横光利一(今、どれだけの人が読んでいるだろうか?)をその長篇小説「旅愁」を、関川は、ていねいに、読み解いている。労作である。

孤高の人、ブランショの「謎のトマ」全訳も、篠沢の執念で実った。感謝。

”読書会”をはじめた。大学OBの集りである。近いうちに、市民にも開放しようと考えている。井伏鱒二「黒い雨」正宗白鳥「入江のほとり」三島由紀夫「金閣寺」を読んできた。

”読書の愉しみ”を、一人でも多くの方に知ってもらえればと、始めた会である。東西古今の、現代の名作を、共に読み、語り合う”読書会”である。

大学院(還暦を過ぎて入学)のレポート・テスト・論文を書く為に、ついつい、宗教関係の読書が増えている。