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• 火曜日, 2月 19th, 2013

人間が、生きている限り、苦しみ、悲しみ、痛みはなくならない。(生・老・病・死)の四苦からの超越を説いた、釈尊の言葉は、人間が(生きる−死ぬ)というコンセプトを、存在の条件とする限りにおいて、(真実)であろう。

科学、医学、経済、文明の発達も、四苦を減らすことはあっても、完全に、なくすことは出来ない。

宗教が、21世紀になっても、その存在理由がなくならないのは、苦の世界を救うというところにあるのだろう。

3.11東日本大震災(原発事故)は、生きる人間の根源を揺さぶって、問い直しを求める、天災、人災であった。

日本人はもちろん、世界中の人々が、(生きる−死ぬ)という人間の、悲しいコンセプトに、思いを馳せた、日々であった。

「安全・安心」というコトバが死んだ。科学者、政治家、知識人、文学者のコトバが、死んで、役に立たない。

死者にあてがうコトバがない。被災者のコトバを受け入れる、いい耳がない。

いったい、宗教者は、現在、どんなコトバを発しているのだろう?何を、実践しているのだろう?

ある日、突然、空海さんのコトバを読みたくなった、空海さんの声に耳を傾けたくなった。秘められた教えと実践の道があるはずだ。

初めて、高野山を参詣した。五月の、薫風が吹き、山桜の名残があって、新緑が芽を出しはじめた季節であった。

山上の宗教都市であった。千二百余年の、歴史を刻む、高野山を、時空を越えて、歩いてみた。

僧になる為の、僧の、修学、実践の、根本道場である。京の俗と高野の聖と、政治、宗教、学問、社会実践、教育、芸術と、日本の誇る天才の名にふさわしい、空海が行き来し、歩き、三密修行を実践した地である。

高野山の歴史を展望するためには、幾多の課題を追ってみなければならない。

宗教と政治権力(天皇・貴族・武士)宗教と経済(荘園、寺田)宗教と学問(中国、インドの歴史)入定信仰(奥の院)弘法大師信仰、檀家制度、宗教抗争(浄土真宗)分派抗争(御室派、根来派)神仏混淆(神道)高野山信仰(浄土観)(聖地化)(曼荼羅)四国遍路(高野聖)そして、明治時代の神仏分離と廃仏毀釈。

空海に、鎮護国家を求める天皇から、弘法大師の教えを、全国行脚して唱教する、高野聖まで、高野山を、支え続けた人々に限りがない。

①政治権力と宗教
聖徳太子と豪族の蘇我氏は、仏教の導入に力を尽くした。
空海は、唐から、帰国して、嵯峨天皇に、唐の詩書、梵字書、古人の筆蹟を、淳和帝には、唐製の狸毛の筆を献上している。三筆と呼ばれた、能書家の嵯峨天皇は、空海のよき理解者、支援者であった。空海は、高雄山寺から、東寺を、そして、高野山に、根本道場を開く、赦しを得ることになる。

「上求菩提・下化衆生」、天皇とも庶民とも共に歩む「済世利民」の空海の思想が、実によく出ている。聖地、高野山では、密教・真言宗の三密・実践修行をして、俗地、京の街では、天皇、貴族とも、仏教、密教を語らうという、柔軟な姿勢である。

『源氏物語』を書いた紫式部のスポンサーでもあり、光源氏のモデルとも言われている、関白・藤原道長と藤原頼道も(摂関)高野山への参詣、寄進等、支援を惜しまなかった。

道長の参詣と頼道の登山は、後に、摂関家や上皇たちの参詣を促し、地方豪族たちの、高野山への関心を高め、荘園、寺田の寄進はもとより、寺院の建立、修復と、全国への、真言宗の普及に、大きな役割を果たした。

政治権力と宗教権力の二人三脚の好例である。

その一方で、戦国時代、下克上の世になると、宗教は、武士の政治権力と正面衝突をする。信長の比叡山焼き打ち、秀吉の、根来の焼き打ち、真宗(浄土)の連如が武装化した、一向一揆、そして、武力を用いず、法をもって、宗教に対した、徳川幕府の、キリシタン禁の条例、寺院諸法度の、壇那寺、檀家制度の導入、明治政府の、天皇を中心とする体制から来た、神仏分離令、廃仏毀釈と、政治と宗教の問題は、現代に至っても、世界中で解決に至らず、戦争、紛争が続いている。

幸いにも、日本では、政教分離の、政策がとられているが。

②教学の伝承と宗門、宗派の対立
鴨長明の『方丈記』に依ると、源平の合戦で、武家政権が誕生した後も、王権と武士の二大権力の戦い、武士同志の戦いが尽きず、その上に、大火事、大風、大地震、大津波、疫病、飢饉で、人々は、この世を、地獄である、と、虚無、無常観、末法思想が人心を染めあげていた。

地の底から、庶民、武士の間から、新仏教が噴出をした。この世が地獄なら、せめて、来世では、極楽浄土に往生したい、念仏を唱えるだけで(法然)弥陀の本願を信心するだけで(親鸞)、浄土に往生できるという、一宗一尊の、浄土宗、浄土真宗の出現である。あるいは、浄土などない、この世がすべてである、南無妙法蓮華経と唱えて、叫び続け、この現世を仏国土にする(日蓮)日蓮宗。そして、戦いが仕事である武士は、生死を日常として生きており、(無)の境地を求める、禅宗へと、精神統一を企った。

台蜜・天台宗は、教相、事相においても、純蜜・真言宗に遅れをとった。最澄と空海の密教理解の差であろう。

しかし、最澄の弟子、円仁は、入唐して、新たに、蘇悉地経を加え、円珍、安然と、天台宗を、法華・華厳、念仏、止観を中心とする綜合的仏教へと発展させた。

その天台宗から、鎌倉新仏教の教祖たち、法然、親鸞、日蓮、道元が輩出された。

一方で、真言宗は、空海の十代弟子たちが健闘するも、新しいものを生み出すこともなく、暗黒の時代が続いた。

口舌の徒の新仏教に対して、密教は、口伝・面授、師資相承の、秘められた仏教である。

密教は、浄土をよく考えてこなかった。なにしろ、「即身成仏」である。

荒廃した、高野山を救ったのは、真言宗の中興の祖、覚鑁・興教大師であった。

高野山に、伝法院を建立。根来に、神宮寺(後の根来寺)を建立。密教院の完成。

教学の再興、事相の振興。何よりも、密教と念仏を融合させて、真言念仏とした。唱える仏教の流行に、敏であった。また、高野山の金剛峯寺の座主を、東寺の座主から切り離した。高野山は、東寺の末寺であった。

しかし、覚鑁は、後に、千三百人の弟子を連ねて、高野山を降り、根来派(新義派)を結成することになる。

③お寺という学校の力
空海は、誰もが、平等に学べる学校『綜芸種智院』を創設した。貴族、豪族の子弟しか学べない大学、国学しかない時代である。千年早い、理想の学校であった。

寺院は、僧になる為の教学、修行、学問と実践の場である。キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは、高野山を、日本の六大大学として、考えている。三千五百人の学生がいる、大学の町である。

中世から近世にかけて、貴族、武士、庶民と、学問、教育の必要が高まっていく。

足利学校や金沢文庫、武士たちも、学問を身につけ、教養を高め、武士道を極めた。江戸時代には、武士たちの、藩校が出現し、庶民の為の、寺子屋が誕生した。読み、書き、そろばんは、商いの栄えた江戸には、必要不可欠なものであった。商家の娘の嫁入りの道具に、兼好の『徒然草』が流行った時代である。

京、大阪、江戸で、木版印刷が盛んになった。寺子屋の教科書、往来物は、その種類が四千冊を越えた。江戸の識字率は、当時、世界一であった。高野山でも、木版印刷の技術が導入された。写本をした、本を製作できなかった時代が、長く続いたが、近世は、印刷の技術を得ることで、大量の「本」の出版を可能にした。役者絵、瓦版、教科書、経典、養生訓、出版事業は、知識の伝達を、一気に全国へと拡大した。その中心に、僧がいて、お寺があった。

④高野聖の力
僧にも、階級、階位がある。検校、阿闍梨、山籠、入寺、三昧、久住者、衆分(鎌倉時代−金剛峯寺の例)

僧は、大別して、学侶、行人、聖となる。仏教、密教の研究をする、実践をする、学侶。供花、点灯、寺の管理に従事する、行人。そして、全国を行脚して、密教、真言を唱導する聖。勧進は、大きな目的のひとつである。しかし、高野山を、入定信仰を、(弘法大師は現在でも、奥の院に生きていて、我々衆生を救ってくれる。何しろ、弥勒菩薩が下生して、人間を救ってくれるまで、五十六億七千万年もあるのだ)大師信仰を拡めたのは、高野聖である。三密行は知らずとも、四国八十八ヶ所を巡礼すれば、お大師さんに会える、遍路も、高野聖と同じ、歩く信仰である。

南無大師遍照金剛の中に、空海はいる。

高野山が、浄土になり、八葉の曼荼羅になり、聖地と化した、その底辺には、名もない高野聖たちの精進があったことは、まちがいないだろう。文化は交通でもあるから。

(高野山大学大学院レポート)

政治と宗教の問題は、古くて新しい。政治権力のめざすものと、宗教のめざすものが、(法、教義)あるいは、世界観、宇宙観が異なる為である。抗争、紛争、戦争と、宗教と政治は、東西古今で、衝突してきた。

しかし、宗教が国家権力と二人三脚で歩む場合もあった。願護国家という役割を負って。

空海は、聖と俗を、見事に使いわけた。空海の入定後も、天皇、皇族、貴族(藤原家)武士(平家、源氏)に支えられた、高野山である。(ただし、秀吉には攻められている。)

橋を架け、井戸を掘り、道路を整備し、貧しい人、病者たちに、宿や小屋を作ってあげ、お金やお米をあげるなどの、慈善事業、福祉事業に精を出し、全国を遊行して、勧進をして、信仰をひろめた、無名の高野聖たちの存在も、大きな力となって、高野山を支えてきた。

現在では、政教分離政策がとられている日本である。

しかし、世界各地で、宗教と政治の対立、宗派の対立、紛争が、民族紛争の原因ともなっている、事実がある。

21世紀は、共生、共存の世界が実現される時代であってほしいものだ。

曼荼羅の思想、コスモロジーが、役に立つ時代であるかもしれない。

何時、地表に立っている人間は、宇宙的観点を確立できるのだろうか?

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• 火曜日, 2月 19th, 2013

「日本で、天才といえば”空海”でしょう。」
日本人初のノーベル賞を受賞した、物理学者、湯川秀樹の言葉である。

高野山は、空海が、真言密教の、根本道場として開いた寺院であり、宗教都市である。

完璧と思える、密教思想の構築はもちろん、満濃ヶ池の土木工事、自由平等を旨とした、綜芸種智院という学校の設立、梵字悉雲と辞典の編集、芸術としての書、自心の源底にまで至った、言語の天才、その詩心、天皇から衆生に至るまで、幅の広い交流、空海は、正に、天才の名にふさわしい、人物である。その死後も、弘法大師として、千年にわたる時空を超えて、人々の心の中を歩いている。

空海・弘法大師・そして、高野山は、分野を超えた(文化)として、日本全国に、今も深く、根付いている。

とても、一人の人間が為し得た、仕事・事業とは思えない、空海の業績である。今回は文学という文化に限定して、高野山、空海、弘法大師をめぐる思想を表出した、文学作品を、考察してみようと思う。

西行(1118~1190)『山家集』

ねがはくは花のしたにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃(春歌)

歌聖と呼ばれる西行ほど、花(桜)の歌を多く歌った人はいまい。桜が恋人である。歌は、桜へのラブ・レターである。

西行・本名は佐藤義清。僧名は円位。西行は号である。白河天皇の時代、院の警固をする北面の武士であった。藤原の血を引く家系。

二十三歳で、突然、出家する。理由は不明。

惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
身を捨ててこそ身をも助けめ

出家。遁世時の覚悟の歌である。武士を捨て、妻子を捨て、家を捨て、仏門に入ることが、自らを救うことになる、心境の歌だ。

東北行脚の後、三十二歳頃から、西行は、高野山に、庵を構えて、約三十年余り棲んでいる。仏門での毎日の修行かと思うと、そうではない。吉野へ、京へ、熊野へ、四国へ、九州へと、旅をしては、歌を詠んでいる。神護寺の文覚に、仏門に専念しないで、数奇心で、歌ばかり詠んでいる、とんでもない僧だと非難される。しかし、実際に会ってみると、好人物で、人間としての品位、教養があって叱れない、というエピソードがある。

『山家集』には、恋の歌、花(桜)の歌が、圧倒的に多い。その中には、高野を詠んだ歌、高野から、友、知人に送った歌もある。

僧であるから、当然、「釋教歌」もある。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天と六道を読んだ歌もある。

また「聞書宗」の中に、「地獄絵を見て」として

見るも憂しいかにすべき我心
かかる報いの罪やありける

『万葉集』は、万葉仮名で書かれた、風景や心情を、直接的に読んだ歌であるが、『古今集』から『新古今集』の時代になると、幽玄有心を、技巧を、喩を重んじた、(知)的な歌の姿へと変わっていく。その中で、西行は、只一人、自然に、感情のあふれるままに、あるいは、考えるままに、歌を詠んだ。藤原俊成、定家の歌と比べてみると、喩に頼らない分だけ、力強い。純粋で、行動的で、感情的で、僧と歌人の間で、揺れ、悩み、そして、歌に「寂」の気配が、漂っている。

三夕の歌、寂蓮法師、藤原定家、そして、西行の歌を比べてみると、実に、よく、理解できる。

心なき身にもあはれは知られけり
鴫立つ沢の秋の夕暮

恋の歌、花(桜)の歌から、離別歌、哀傷歌、釋教歌、聞書集と進んでくると、西行の歌にも、仏教の、密教の色彩が滲み出てくる。

明恵上人の伝記に、西行の歌論が記されている。かつては、数奇者で、「虚空如ナル心」で歌を詠んでいたが、今は、詠む歌は、真言で、和歌は如来の真の形体であって、歌によって、悟りを得た、と。気性の激しさと純粋とが入り混じった心をもっていた西行も、武士の剛気と歌人の寂と僧の悟りへと、足を踏み入れて、河内国、葛城山の麓、弘川寺にて、寂した。七十三年の人生であった。

風になびく富士の煙の空にきえて
行くゑも知らぬわが思ひかな

空海、高野山、遍路をめぐる、小説。
名作、四作を選ぶなら、迷わず①泉鏡花『高野聖』②田宮虎彦『足摺岬』③井伏鱒二『へんろ宿』④司馬遼太郎『空海の風景』を挙げる。

『空海の風景』(上・下巻)は、幕末の士々たちを描いて、国民的作家となった、司馬遼太郎が、構想十年、三年の月日をかけて、執筆した、司馬文学の金字塔である。空海の眠っている奥の院へ足を運ぶ度に、参道の右手に立っている、高野山を描いた、司馬の一文が、碑となっている姿に眼を止める。仏教(密教)に無縁の人、空海を知らぬ人、どれだけ多くの人々が、司馬遼太郎の「空海の風景」を読んで眼を開かれたことかと感嘆する。

司馬は、空海の誕生の地、屏風ヶ浦から、入定する高野山まで、空海の足跡を追って、すべてのゆかりの地を、歩いている。空海の著作はもちろん、研究書、関係資料を、数百冊読破している。そして、密教の研究者、僧たちに、疑問のすべてを問い糺している。新聞記者の手法である。いかにも、記者出身である、司馬のスタイルだ。そして、自らの考え、感想を呟く。それが司馬史観と呼ばれている。

司馬は、神的な視点に立って語る。人間・空海の実像に迫るために。もちろん、司馬は、宗教・仏教・密教は、語るものではなく、信仰し、実践するものであると知悉している。だから、真言宗の、経典の核には踏み込まない。密教の、専門家、僧たちの批判も、承知の上である。だから、空海の残したもの、歩いた場所に、「空海の姿」を発見するのだ。ゆえに「空海の風景」である。仏教用語を、極力排した、大衆が読める「空海」である。

泉鏡花(明治六年~昭和十四年)は、幻想的な、迷宮を描く、特異な作家であり、『高野聖』は、彼の出世作・代表作である。旅の途上で出会った、高野聖に、その体験談を聴くというスタイルの小説である。深山幽谷で妖しい美女、白痴の子、怪物や血を吸う蛭に会う話である。全国を行脚して、真言を唱導し、各地の面白い、奇妙な咄を、語り歩く、高野聖の姿が、リアルに浮かびあがってくる名作である。

鏡花は、文体を生命とした作家である。物語の概説では、鏡花の小説は、わからない。後に、三島由紀夫、川端康成が絶賛した、鏡花の文体である。一行一行読みながら、主人公と作家と共に歩く。その時、読むがそのまま生きるになる。文体だけが、時代を超えてその内包する思想を伝える器である。

『足摺岬』は、田宮虎彦の代表作・短篇である。田宮は、魂の彷徨を描く作家である。暗い情念、宿命、貧、病が主題である。苦悩する作家とも呼べる。

物語は、青春の悩悶をかかえた男が、四国八十八ヶ所の、三十八番札所金剛福寺を訪れるところから始まる。自殺を企てようとする青年である。足摺岬は、断崖絶壁がある自殺の名所と呼ばれている。遍路宿で、さまざまな宿命を背負った遍路の話を聞き、魂が浄化されていく。宿の娘に、遍路たちに、生命を救われる。そして、戦後、ふたたび、足摺岬を訪れる。貧乏で、生命の恩人の妻を死なせ、後悔と失意の人生である。四国八十八ヶ所が魂の復活と再生の場である。田宮本人は自殺。

『へんろ宿』は、掌篇小説ではあるが、井伏鱒二の名作のひとつである。土佐の、旅先での、「へんろ宿」の一日を、描いている。何処から来て、棲みついたのか、誰の子供かわらない小学生、冷えたセンベイ蒲団、辺境の、遍路たちの、奇妙な生態を、冷静な筆で書き切っている。

遍路・空海との同行二人の、四国八十八ヶ所巡礼も、現在では、ひとつの、文化として定着をした。宗派、人種、信仰の有無を問わぬ四国遍路は、江戸時代から、平成まで、脈々と受け継がれて、伝統文化の域に達している。

紀行文、手記、インターネットの感想など夥しい情報が発信されている。

『娘巡礼記』高群逸枝著は、近代、現代の、第一号であろう。大正七年、熊本の家を出て、仕事を中断し、新しい何かを求めて、二十四歳の娘が、四国遍路に挑戦する。その手記が、地元の新聞に、掲載されて、大きな評判を呼んだ。当時は、橋も、道路も、整備されていない時代である。四国の古道、街道を歩いて廻る一人旅である。遍路たちとの邂逅、地元の生活者との出会い、風雨との戦いと、涙と汗が光る、紀行文学である。

月岡祐記子『平成娘巡礼記』は、高群の現代版である。平成の若い娘の感性が瑞々しい。

『四国遍路』辰濃利男著は、長年、新聞記者として取材し、自らも、遍路として歩いた体験を、知的に、総合的に、分析、現代遍路のお手本となるテキスト。

『マンダラ紀行』は、「月山」で芥川賞を受賞した、作家、森敦が、四国八十八ヶ所と曼荼羅の秘密を、メビウスの輪の理論を用いて、分析、解読している。直木賞作家・私小説家の、車谷長吉の『四国八十八ヶ所感情巡礼』は、妻と二人の道中記である。

(高野山大学大学院レポート)

「平家物語」「方丈記」「徒然草」「山家集」「源氏物語」と、日本文学の核となるべき、歴史物語、評論集、小説も、すべて、「仏教」なしには成立しない作品である。

漢字が中国から日本にもたらされた時、日本には、文字がなかった。話し言葉の、和語があっただけである。漢字とともに伝来した仏教は、中国の史書五経とともに、学問に欠かせぬ存在であった。

漢字ひらがな混りの、日本文が成立した後にも、仏教用語は、しっかりと、漢字の意味に寄り添って、思想と化している。日本人の風土に、感性に溶け込んでいるのだ。

空海は、真言宗の開祖である。その一方で、書は、三筆の一人であり、サンスクリット語の修学、辞典の編集、小説風な劇曲も書き(三教指帰)詩心にあふれた、手紙や文章を残している。いわば、総合的な芸術家でもあった。(性霊集)

空海をめぐって、遍路、高野聖をめぐって、研究や論文はおびただしい。

語学の天才、詩人、書家、作家と、多面的な空海である。

で、空海のゆかりの地(神護寺、東寺、高野山、室戸岬、善通寺等々)をめぐって、巡礼して、書かれた、文学作品も限りがない。

泉鏡花、司馬遼太郎、井伏鱒二、田宮虎彦と、一流の作家たちが、それぞれの、空海や遍路や高野聖を、作品化している。

「仏教」と「文学」は、読めば読み解くほどに、深い縁で、結ばれている。

現在では、外国人や、宗教に無縁と思われた若者たちまでが、四国八十八ヶ所巡礼の旅に出て、その感想や日記が、インターネットで、ブログとして、流れている。おそらく、気が付くと、空海の思想に触れているのだ。

自然に、自らの姿を最確認して、マンダラの宇宙へと、入っているのだろう。

(宗教)と(文学)は、また、永遠のテーマでもある。