Archive for ◊ 9月, 2010 ◊

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• 木曜日, 9月 30th, 2010
1201. 禅は、ベイトソンの「ダブルバインド」に通底している。
1202. ニンゲンは、どの道、破れ去るものだと看破した人は、一瞬の、一日の時間を生きられる。輝やいて。
1203. 頂点にのぼりつめた人には先がない。敗れ去った人には、見果てぬ夢がある。
1204. 毎年、猛々しく緑を誇っていた夏草が、今年は、枯れてしまった。今日は9月1日。真夏日の光が充ちている。
1205. 死んで仏になる。死んで鬼になる。鬼眼とは死者の眼のことだ。
1206. 生かしもし、殺しもする声が同時に来る。いったい、何が、何をしておるのだ。
1207. 無相であって実相。イデアの見える人、見えない人。
1208. ただ、破顔の人を見た。意味を求めてはならぬ。
1209. (私)の中にあるから、外で発見される。
1210. 読むことは、読むことではない。読むことは、考えることである。
1211. アフォリズムは、言葉の原子核だ。
1212.宇宙での、絶対的な、生の一回性の現象である(私)がいる。いつも、出発は、そこからだ。
1213. 肉は悲しと、ニンゲンの身を嘆いてみたとて何になろう。存在の、変容の、夢くらいは語ってみようよ。
1214. 荘子の、存在への畏怖と、ニンゲンへの哄笑は、もっと、もっと、学ばねばならぬ。
1215. 壊れかけたニンゲンが叫び声をあげている。視ろ、その人を。何か言ってみろ、叫び声と同じくらい重い、言葉で。
1216. 近頃は、ニンゲンのもつ自由度ということばかり考えている。
1217. ゴルフには、百点満点というものがない。まるで、人生と同じだ。
1218. 強さに加えて、やさしさの裏打ちがあれば。
1219. 極悪人は、決して、他人の立場に立たない。
1220. 評価の極意は(無私)
      創造の極意は(憑依)
1221. ツイッター(呟き)ではありません。アフォリズム(イデア)です。
1222. モノが裸になっているのに、その丸だしのモノが見えない人がいる。
1223. 伝え得ぬものを伝える人は、いったい、どうして、ソレを伝えているのか。
1224. アフォリズムも、そろそろ、現象から、イデアへと踏み出すべき時である。
1225. 心の高さだけは、いつまでも求め続けたい。
1226. 欲しいものがない子供たち。そんな国が、どうして、貧しいのか。
1227. 沈む国、傾いた国、さて、そんな国で、どのように生きていくか。
1228. ビジョンをもたない権力者ほど始末にわるいものはない。
1229. 無能は、ほぼ罪に等しい。人の上に立つ限りは。
1230. 政治家は、その国の、国民のレベルで育つものだ。
1231. 白紙の風景。何もないことの快感。解放と呼吸。
1232. 夢が告知する、明日の姿。で(現実)を修正する。
1233. (私)は、まだ、(私)の使用法をよく知らない。ニンゲンの眠っている能力を、使い方を開発しよう。
1234. 気がつくと、与えられていた(私)の条件の中で生きている、条件を破ってでも、生きてみる。
1235. 原子の幽霊たちが宇宙を漂流していおる。
1236. ニンゲンの手に負えないものがいっぱいある。大火事、大地震、大洪水、大津波、大噴火、阿呆ども。
1237. 「神は死んだ」と言うから、誤解が生じる。「神は爆発した」と言えば、どうか?
1238. (私)の生涯は、ひと踊りである。(A)
      (私)の生涯は、暇つぶしである(B)
1239. 開けておけ、(私)を。
1240. (私)を閉じる人は歩いていない。
1241. 力は、いくらでも眠っている、(私)の中に。
1242. 身体の、数兆の細胞が眼をあけている。覗いてるのは、億という時間だ。
1243. 30万人目の(私)である。15万人の父。15万人の母。200万年間に、15万回の接合。本能、恐るべし。
1244. ニンゲンは、生命波である。実の波が生、虚の波が死である。もう、30億年も続いている生命波のひとつが(私)である。
1245. 眼の見方に慣れすぎると、見るという多様性を損なってしまう。
1246. 暑い、暑いと唸っていると、夜の闇の中に、虫の声が響きはじめた。今日は8月13日。
1247. 爆発しては、鎮まり、鎮まっては、爆発する。静かな時間は、少ないものだ。
1248. どんなに小さくても、
      どんなに貧しくても、
      どんなに歪んでいても、
      (私)のスポットは必ず要る。
      零の場には、人は立てない。
1249. 超えてはならないのが境界であるが、必ず、破壊して、跨いて、戻れなくなる人がいる。
1250. 高次の心には、夢が来る、幻が来る、死者の声が来る、魂が来る。宇宙と共振れしている無意識が。
1251. 一番はじめの、ニンゲンまで逆のぼってみよう。(私)の元型。
1252. 少年時に、無意識に書いたものが、暗号としての、曼荼羅であったとは。
1253. 分類にも、解明にも、探求にも、飽きた精神が、今は、ただ生きている。暇な時間を食べながら。
1254. 場に呼ばれている。歩くと、風景に巻き込まれて、折りたたまれる。
1255. 最近の政治家は、(国益=正義)を錦の御旗にする。なぜ、ニンゲンはと語れないのだろうか。視線が低すぎる。
1256. (私)は幽霊である。考える幽霊である。
1257. 西、東、北、南と空を見る。空の貌はひとつだと思っていたが、見る方角によって、みんなちがう。
1258. どうせ、ひと踊りして、消えていく身だから、踊りくらいは、自由にさせてくれ。
1259. モノを持つということが、どういうことであるのか、だいたいわかってきたのに、TVのコマーシャルは、もっと買え、もっと消費しろと、PRばかりだ。
1260. 呼吸もキレギレ。思考もキレギレ。モノとコトもすべてが、キレギレに、存在している。
1261. また来た!!何が?声になりたい声が。
1262. 言葉の外にある、と言葉でいう不自由さ。
1263. 普通に生きている、とニンゲンが思っている次元よりも、おそらく、心は、はるかな高次元へと行ける。
1264. 存在・物質の核となるところで、心は、その原子と結婚して、共揺れできる、ダンスができる。
1265. 若い頃、ある日、突然、会社へ行く意味(理由)を見失って、ふらふらと、一日、新宿の街を歩いていた。眩暈のする歩行だった。
1266. 真剣勝負の、対話、文章を教えてくれたのは、秋山駿であった。考えること、書くこと、生きることは、等価であると。ゆえに、(文章は、私である)と。
1267. 成長するに従って、ニンゲンの視界はひろがって、神の視点に立つことは出来ないが、心を高次の状態へと導くことは可能だろう。
1268. 重力と引力に抗って、抗って、生きている。光を求めて、闇に魅かれて。
1269. (私)をどこまでも堀り続けると「宇宙」になる。遠くまで行かなくとも、一番遠いところまで行ける。
1270. 夫婦喧嘩の9割までがお金をめぐるものだった。貧乏は、罪と悪を産む。そして、不幸を呼ぶ。
1271. 60億人のニンゲンが、勝手に、地球を汚染している。もう、地球は、悲鳴をあげているのだ。愚か者は、誰だ!!
1272. やはり、文章にも、器量がある。
1273. 日々の生活は、平凡である。しかし、一歩、生活の中に足を踏み入れると、誰の(現実)も、コトとモノが氾濫して際限がない。平凡も、どうやら、一筋縄ではいかぬ。
1274. 知っているのは、生きている(私)の、身のまわりのことだけだ。(私)は、毎日、アレやコレやを切り貼りしている。
1275. 吸う、吐く、呼吸も思考も同じことだ。空気が情報に変わるだけで。
1276. 夏の、熱い中に、(私)が溶けだしている。水を失なって。
1277. スポットに入ると、もう、そこは、無限思考の世界である。外部世界が消えて。
1278. 何時間でも、何日でも、黙って(私)と、踊っている。沈黙の対話。
1279. 時空に刻むしかない。何を?ニンゲンという存在を。
1280. (私)は、いつも宇宙の通行者であった。
1281. 風景も場も、時間を呼吸している。
1282. (私)という形が続く限り、(私)を使用する。たとえ、時間潰しでも。
1283. 暑さのあまり、精も根も尽き果てる。眠っても、眠っても、起きても、起きても、真夏日の、朝である。夏草も枯れて。
1284. 書くことで(私)が変わらねば、その作品は、必要ではない。墓地。死者たちへの回路。
1285. (おいしい)には、いつも、死の匂いが貼りついている。
1286. (食べる⇔食べられる)【表】
      (殺す⇔殺される)【裏】
      生きものたち(ニンゲンも)は、【表】と【裏】を生存の原理として、生きている。
1287. (食べる)のに、善も悪もない。ただ、食べたいだけ。(本能)
1288. 生きものを食べるのは(悪)である。(とニンゲンは思っている、感じている)良心。
1289. 生きものを食べるのは(善)である。(とニンゲンは、自己満足している)生命として。
1290. 馬はサクラとして食べ、鳥はカシワとして食べる。
1291. ニンゲンは、生命波である。波は、無限に連続して、生起しては、消える。そのひとつの波が(私)という生命波である。見える波(生)見えない波(死)が交互にねじれて、存在の地平線に押し寄せている。
1292. (私)に至るまでには、10万人の父、10万人の母がいる。生命の系統樹。つまり、生命波。
1293. 言葉が(現実)にとどかない。しかし、絶句、沈黙している場合ではない。そういう時が、必ず、ある。見たこともない、誰も知らない、(彼岸)の言葉でも語りたくなるのは、そんな時だ。
1294. 閑かだ、暇もある。たっぷりと文学ができる。一切の文句はなし。
1295. 外へも出られず、内にも居られず。
1296. 「人生の決算書」。そんなものを書く年齢になったのかと、深い溜息。
1297. 99パーセントのニンゲンが「人間原理」の範疇で生きているだろう。「宇宙原理」をも、生きてしまいたい、不可能へと挑戦したい人は1パーセントに充たぬだろう。
1298. セイカツ第一と唱えながら、生きてしまうニンゲンである。(私)は、そのまま、仕事という名前になる。
1299. 「時空」の、在る無しは、「私」の生と死と同じレベルの不思議である。
1300. 「良い」それで良しという哲学があれば、すべての問題が、その「良い」という形のもとで解決される。
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• 木曜日, 9月 30th, 2010

1. 「数学史」(岩波書店刊) 佐々木力著 定価15,000円(919ページ)
2. 「世界史の構造」(岩波書店刊) 柄谷行人著
3. 「1968」上・下巻(新曜社刊) 小熊英二著 定価6,800円
4. 「養老天命反転地」(毎日新聞社刊) 荒川修作 マナドリン・ギンズ:建築的実験
5. 「「悪」と戦う」(河出書房新社刊) 高橋源一郎著
6. 「見えない音・聴こえない絵」(新潮社刊) 大竹伸朗著
7. 「既にそこにあるもの」(ちくま文庫刊) 大竹伸朗著
8. 「アンフィニッシュト」(文春文庫刊) 古処誠二著
9. 「文土の魂・文土の生魑魅」(新潮文庫刊) 車谷長吉著
10. 「ヒトはどうして死ぬのか」死の遺伝子の謎(幻冬舎新書刊) 田沼靖一著
11. 「私の作家評伝」(潮文庫刊) 小島信夫著(782ページ)
12. 「荘子」中国古典選12(朝日新聞社文庫刊) 福永光司

人間の使用する(表現)にはいろいろある。
言葉(文字)(声)、数、数式、絵、写真、彫刻、舞踏、建築、映画、音楽・・・。
言葉は「自然言語」である。日常生活から、文学、哲学、芸術に至るまで、(言語)なしには考えられない。
しかし、「自然言語」では、決して、表現できぬものがある。クオーク、素粒子から宇宙の法則まで、数、数式による表現が、もっとも適している。
(数学)は、中学、高校時代から、嫌手である。
なぜ?(数)を(私)=(存在)に対して、上手く、結びつけて、(考える)ことができなかったのだ。
しかし、「零の発見」や「超数学」を読んでみると、これが、なかなか、面白かった。
「フェルマーの最終定理」は、読んでいて、ニンゲンの、精神の歩みにゾクゾクした。
で、(数学)が、中学生くらいしかわからないのに、「プリンキピアマテマテイカ序論」(A・N ホワイトヘッド B・ラッセル)などを嚙ってみた。
「数」について、「数学」について、少しは、勉強してみたいと思って、もう、60歳を過ぎているのに、「数学史」を購入した。世界の、古代から現代に至るニンゲンが、「数」について、どこまで考えたのか、知りたくなったのだ。
まったく、我ながら、おかしくて、仕方がない。
嫌手の(数学)が、どうやら、面白くなってきた。晩学のすすめではないが、「数」と「人間」が頭の中で、ぴったりと結びついてきたのだ。
しかし、数学者たちは、(数)でものを考えるのだろうか?あるいは、考えるのは、やはり言葉で、(表現)が(数)ということになるのだろうか?

「1968」は、「全共闘」運動をめぐる研究書である。私自身、団塊の世代と呼ばれている年代に属している。正に、「全共闘」そのものであるから「1968」年が、研究される「歴史」になってしまったのかと、感慨が深い。
私自身に関係の深い、母校「早大闘争」第6章を読んでみた。青春の真っ盛りの、蒼白く、やせた、学生たち、(私)、仲間たちの群像が、事件や事故や現象となって、追体験できた。もう、40年ほどの時が流れた。
私のライフワーク「百年の歩行」の第二部で、「全共闘」は扱わざるを得なくなるだろう。
「1968年」は、その為の、資料である。
何にしろ、上巻が1091ページ、下巻が1011ページである。単行本にすると、一冊500~600枚として全10巻になる書物である。大変な労作である。
”歴史は、私の中にあり” 誰もが、そう思っているだろう。

夏の盛りに、岐阜県養老町を訪問した。もちろん、荒川修作の作った、「養老天命転地」を体験するための旅であった。死者との対話。(後で、エッセイ、紀行文を書きます。)

画家、大竹伸朗のエッセイ集を読む。現代の表現者、画家は、「荒川修作」の存在を、どのように、考えているのだろうか?

小島信夫「私の作家評伝」 昔の本を、本棚からとりだして読みはじめたら、面白くて、面白くて、728ページ、一気に読んでしまった。

「孔子」や「荘子」や「老子」の、つまりは、東洋の知を、もう一度、ゆっくりと考えてみたい。

そうか、「文学」を棄てた柄谷行人は、やはり「世界史の構造」へと至るのか!!
孔子や荘子の生きざまと、発言と、論理と柄谷行人を読みくらべてみると、ニンゲンの時間の幅が見えてくる。
人は、どれだけ、遠くまで来たのか!!