Archive for ◊ 7月, 2010 ◊

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• 水曜日, 7月 14th, 2010
1001. ニンゲンというサナギは、(私)になって、脱皮し、透明な蝶となって、宇宙へと飛んでいくとでもいうのだろうか?(原子の夢)
1002. (私)を生きるという不思議と不自由さからは、誰も自由になれない。
1003. 生きるというスタイルも、考えるというスタイルも、時代とともに移り変わる。当然である。しかし(私)を生きる以外に、ニンゲンには方法がない。
1004. (私)の壊れていく音だけが確かな日々である。
1005. 分解されなければ再生もあるまい。
1006. 毎日毎日(私)を洗濯しているが、なかなか垢は落ちないものだ。
1007. フォームを固定しようと思うが、形は、いつも、流されてしまう。
1008. 「同行二人。」歩くのは一人ではない。いつも、あの人と一緒。
1009. 頭の中の宇宙は、ニンゲンを破滅させるに充分な爆弾でもある。
1010. そうか、零(ゼロ)から1を証明したニンゲンがいたか!!ないからあるへ。あるからいるへ。
1011. 無限に触れてしまうと、いつも(私)は闇の中で痙攣する一匹の虫になる。暗愚。
1012. ニンゲンが発したはじめの言葉は、いったい何だったのだろう。「はじめに言葉ありき。」で、その言葉は?
1013. (死)の可能性よりも、(死)の不可能性の方が、完全なものかもしれない。
1014. ニンゲンは、「人類」を発見したが、人類としては、生きて来なかった。
1015. 呼吸をする。あらゆるものが、呼吸から来る。
1016. やはり、体験だ。数式で表現された宇宙を、ニンゲンは、体験できない。誰にも。(私)を通過する宇宙は、体験できる。誰も。
1017. 一番の科学は、本当に、数学だろうか?数学もまた、数学の中で、自己崩壊しはじめた。
1018. 言語がニンゲンを表現するのか、言語が表現したものがニンゲンなのか?
1019. (決定)の不能は、天才の頭脳を破壊する。
1020. まったくの、無関係のものたちが呼応する不思議。
1021. 「Aでもあり、Bでもある」には、ニンゲンは耐えられない。
1022. 中国の色、インドの色、ヨーロッパの色、アメリカの色、取り除いたあとに、残った日本の色とは、何だろう。日本の原色。
1023. 混沌は混沌のままに。決して、そこから、原理や論理をとり出さない。必ず、ちがったモノになる。
1024. ホッと一息、我を忘れて。遊魂へ。
1025. 無常。あわれ。悲しみ。心は、いつも、同じところへと帰っていく。千年経っても。
1026. アフォリズムは、思考よりも、自由で、しなやかで、未分化で、言葉は、ほぼ、モノそのものであるから、面白い。
1027. 心が強い時は、一人で大丈夫。心が弱い時には、他人を呼んで。
1028. アッ!!黒い煙になった父。焼場の、茶褐色の煙突から、父がモクモクと出て来て空に消えた。
1029. 豚が、牛が、馬が、魚が、鳥が、ある日、突然、意識と心をもって「もう、これからは、私たちを食べないでくれ」とニンゲンに言った。
1030. (私)は(考える)と思っている。ニンゲンは、ソレがどこから来たものか、知ることがあるのだろうか?
1031. ニンゲンは、生きに生きて、四苦八苦して、なぜ、まだそのうえに、(浄土)まで求めるのだろうか?
1032. バッハの無伴奏パルティーターを聴いていると、いつも、無限に触れる。まるで、永遠に交わらぬはずの平行線が、ひとつの音の中でスパークして、火花が砕け散るみたいで。
1033. 生きている。死んでいる。いったい、どういうことであろうか。祖母は、毎朝、死者たちに、仏さまに、ご飯を捧げ続ける。
1034. 循環する水は、何千回も、何万回もニンゲンを通過している。
1035. 孤立無援で生きた池田晶子の、魂の声が、死者となっても、鳴り響いている。
1036. アフォリズムは、未成熟の、未分化の、未結晶の、存在の声を放射する。
1037. ニンゲンは、平気で、嘘も、間違いも生きてしまう。学習しながらも。
1038. 心の中に、一人か二人、大切な人を棲ませておくと、心は充分に、豊かになる。
1039. はっきりと、(顔)という言葉と、実体があった時代は、もう帰って来ない。
1040. ニンゲンの意識というものの作用の仕方が、存在のあり方である。つまり、現象は、意識のかたちだ。
1041. 身ひとつ、なんとか起っていられるようにさえなれば、今度は、歩けない人の声に耳を傾けて。手を伸ばして。
1042. どうにもやり場のない思いは、「文学」にしかならない。哲学も、政治も、経済も役に立たない。
1043. 怒りが、怨みが、渦となって押し寄せる。ニンゲンの顔は、真っ暗である。それが、見える人、見えない人。痛い。
1044. 最近、微かに、遠くから、音楽のような音が流れてくる。首を振って、耳を澄ますと消えてしまう。幻聴?いや、ちがう。では、いったい、何だ?
1045. 思考の目が粗いときには、(考える)ことをやめて、ただ放心して歩く。
1046. 5歳までの子供は、動物であり、植物でもあり、水でもあり、空気でもあり、とにかく、ひたすら、ニンゲンへとむかっている不思議な存在である。自由自在に時空をとびまわっている。
1047. 心が、自然に、動くということは、とても、不思議なことである。
1048. 思考のチックが出はじめると、(私)の崩壊の予兆である。危ない。
1049. (種)の爆発から来た(私)は、いつまでも時空に、宙吊りである。
1050. 他人(ひと)が他人のうちに棲む。よくよく、考えてみれば、おかしなことだ。
1051. 雑踏に足をふみ入れると、確かに、人が波に見えてくる。眩暈がして。
1052. 会社は、誰のものか?という声があった。社長、株主、従業員。問い方が間違っている。会社を構成しているのは、誰か?と問えばいい。
1053. いつも、散歩をする道を、逆方向に廻ってみた。風景の貌が、まったくちがって、うろたえている眼があった。歩行の再発見。
1054. 偶然の宇宙の顕現、偶然の生命の顕現、それでは、ニンゲンの科学は、我慢ができまい。赦せまい。歯ぎしりをして。
1055. カンブリア紀の生命の大爆発で、光に会い、「眼」が出現した。(考える)は、いつ出発したのだろうか?
1056. 狂的なものがない思想は、思想の名に価しない。当然だ。(考える)ことは、兇器でもあるのだから。
1057. なぜ、ニンゲンは、〇(えん)を美しいと感じるのだろうか。始まりもなく、終りもなく、しかも、厳と存在している。完全な円は、ニンゲンの原型を象徴しているとでも言うのだろうか?
1058. ニンゲンは、そうやって、いつまでたっても、争いに明け暮れている。もう、21世紀だというのに。
1059. 「ささいなこと」を唇を突き出して言う。相手の顔が尖っているから、ついつい、語気を荒げて、応答してしまう。あ~あである。
1060. 神話の時代には、神話という宇宙を生きた生身のニンゲンがいた。
1061. 水の質量に圧倒される。世界へとつながる海だ。
1062. 愚痴を聴く。嘆きを聴く。啜り泣く声を聴く。不幸な人の隣にいると、どんな声でも聞き入れてあげなければならない、大きな器と丈夫な耳がいる。
1063. 怨念で生きている人もいる。辛い。その声は、心臓に棘となって突き刺さる。存在が割れてしまうほど。
1064. ニンゲンは「生存競争(パワーゲーム)」だけで、生きるものではない。弱者、病者、貧者を支援する心性もある。
1065. 生命の芯が細くなっている。はっきりと、眼に見えるから不思議だ。
1066. だんだんと、我慢性がなくなっている。結局、残るものだけが残る。
1067. 40年間、寝に帰るだけの(家)が、毎日毎日厳として眼の前に在る。外の(私)は、外が似合うのだ。
1068. 濁って、淀んで、混っているニンゲンだから、一瞬の、透明な清涼が身に沁みる。
1069. 一言で終る話を、蜒々と一時間も、話をする人を見ていると、もう、あきれるを通りこして、それも、ひとつの能力かと溜息がでる。
1070. 余分も、無駄も、すべてきれいに、洗い落として、さて、どうするものか?やはり、香りがない、味がない、無味乾燥だと文句を言ってしまう。
1071. 見たもの、考えたことは、すべて、ニンゲンの方法である。ニンゲン以外の者が、別の方法で見たり、考えたりすると、まったく、異ったものが出現するだろう。従って、在る、無いは、もちろん、確実で、絶対ではない。
1072. あ~あと宇宙は欠伸。ニンゲンは、必死で、その欠伸の意味を探ろうとするのだが。
1073. 光を、マイクロ波を、あらゆる宇宙線を、全身に浴びて、ニンゲンは応答しておるのだ。
1074. 何をしても、カラカラ、空虚である。存在のピンチだ。
1075. 声も文字もとどかない。五感も一切役に立たない。存在が、ただ、ごろんと転がっている。見放されて。時空の外へ。
1076. いったい、ニンゲンは、宇宙が、どのように始まって存在していれば、満足するのだろう?
1077. H2Oの冒険は、ニンゲンの冒険である。
1078. 巨きな、巨きなものから、ソレは送られてくる。(私)は、思考よりも精妙な気配で、気がついている。しかし、まだ、ソレに、確かな名前を付けられない。心は感じているが。
1079. 意識はあらゆるものを追う触手だ。コトとモノ、気分と気配まで一撃で捕える。
1080. 脳内物質が、コトを決めるというが、コトが起こるからソレが分泌される。で、コトを起こすのは(私)である。分泌されるソレが(私)を決める訳ではない。(薬とは何か?)
1081. 「キレイに洗濯して、元の職場に帰して下さい」と人事担当者は言った。その環境・条件のもとで、ウツになったのだから、人を、モノのように考えて、洗濯をして、元の会社に戻しても、無理だと医師は云う。田舎の実家で、農業の手伝いをする。そこでは、充分に、ニンゲンとして生きている。ニンゲンの閾。
1082. 知ることがなければ、見ることではない。
1083. 幼年時代を、少年時代を、思い出しているのではない。(今・ここ)という時間の中で、(私)は子供を生きているのだ。
1084. 夏の、緑の稲穂の下に、光っている水が見える。なんという輝きかただろう。「おーい、田に、水をやって来い」父の声。
1085. 風に揺れる稲穂を眺めていると、どういう訳か、(人)が遠くなってしまった。
1086. 「子供に、お金のこと言うても、しょうがないやろ」母の声に、父の顔が見える。放心。貧乏。
1087. 二歳、四歳、六歳、三人の孫と遊ぶ。三姉妹は、もう、完全に、固有の資質をそれぞれが発揮している。
1088. 夜の樹木には、深い孤独の気配が漂っていて、風が吹くと、樹木の声が闇の中に流れて消えていく。真夜中の、木との対話は、数億年の記憶に火を点ける。
1089. 何かをやっておるのか、させられているのか、見当がつかぬ領域に侵入する。迷っている。
1090. 生きている、生かされている。ソレが(私)だというので、生き続ける限り、自分で、面倒を見なければならぬ。深い、深い溜息をつきながら、やれやれ、と。
1091. 「聖書」をすべて読まなくても、「コーラン」をすべて読まなくても、「仏典」をすべて読まなくても、ニンゲンは、信仰心をもって、信者となる!「声」に導かれて。論理家には耐えられない。
1092. 哲学者・ヴィトゲンシュタインは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を50回通読したと云う。
1093. 「種」の爆発が「私」である。
1094. 裸でいる感覚は、いつも、無限の宇宙に晒らされて、孤独を生む。
1095. 小説は、人間原理(生命)と宇宙原理(存在)の二つが、同時に語られる時、最高のものとなるであろう。
1096. 死と発狂を恐れていては、「宇宙という書物」にはとりかかれない。
1097. 直観と洞察と持続。今、(私)に必要なものは、そのくらいだ。気配のゆらぎまで視る。
1098. 隠遁者も、宇宙からの音信は聴いている。
1099. 来る声すべてを響かせよう。(私)という球体で。
1100. 善・悪の区別は、誰にでもある。(良心)。人間原理だから。しかし、宇宙原理は、善と悪の彼岸にある。(心の消滅)
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• 火曜日, 7月 13th, 2010

還暦をむかえて、人生の、コペルニクス的な転回を計った。

22年間、わが子のように育てあげてきた(会社)をM&Aによって、他人に、譲渡した。自立、共生、あんしんというコンセプトで、全国で、ビジネスを展開してきた。家族の為、社員の為、顧客の為に、疾走する日々であった。

(私)自身の為に生きよう。残された時間を。そう覚悟を決めた。横へ、横へと生きてきた人生を、今後は、垂直に生きる。

つまり、ビジネスの世界から、文学の世界へと戻って生きる。いつか来た道へと。

25歳の時、長篇小説「風の貌」を上梓した。そして、私的な理由で、文学から離れ、筆を絶った。

長い、実に、長い、サラリーマンと経営者の生活が続いた。

その間、まだ「文学」は、埋火のように、私の中に存在し続けていたのだ。

「ビッグ・バンの風に吹かれて」
「死の種子」
「○△□」
と、小説を発表した。しかし、経営と執筆は、容易に、両立しない。使用する頭がちがうのだ。

還暦を過ぎて、今まで、頼まれて書いたものを、「歩いて、笑って、考える」という本にまとめあげた。

さて、本気で、ライフワークの完成に全力をあげる時だ。

(純文学)を志向してきた(私)にとっては、最高の表現に達したい、一歩でも半歩でも、ドストエフスキーに近づきたい、その思いは、昔も今も、変わらない。

様々な場面を生きていた分だけ、若い頃よりは、洞察も、少しは、深くなっているだろう。素材、材料も、山ほど溜った。

衰弱した、日記のような、文章しか書けぬ作家たちに、一撃を加えよう。

池田晶子が、孤立無援で「哲学的エッセイ」を創出したように、アフォリズムも、私のものになって、読者の中で、爆発してくれるといいのだが・・・。

同時に、プルーストの「失われた時を求めて」をめざしている、大河小説「百年の歩行」も、魂の声が響きわたるものにしたい。

池田晶子の魂の断片を噛った者として、それなりの、責任がある、勝手に、自分でそう思っている。さあ、ふたたびの、出発だ!!

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• 火曜日, 7月 13th, 2010

偶然に、始まってしまった文章である。(私)に、どこからともなく、声が垂直に降りて来て、ノオトに、それを書き記していたら、こんな形になった。本当は、私は、それを、なんと呼んでいいのか、わからない。毎日歩いている、歩いている時、それが(私)へとやってきて、いつの間にか、1000本になった。突然生れたものが成長をしたのだ。

詩でもない。俳句や短歌でもない。エッセイでもない。もちろん哲学でもない。小説でもない。散文というのでもない。

とりあえず、芥川や朔太郎たちが呼んだように、アフォリズムとすることにした。しかし、西洋の知を真似た、彼等の作品とはちがう、もっと別のものである。シュールレアリズム(自動筆記)に近いかもしれない。

時間が爆発する。
空間が爆発する。
意識が爆発する。
(私)が爆発する。

その中心から声が来る。爆発する形が、アフォリズムである。砕け散って、痙攣し、独楽となり、光となり、疾走し、浮遊し、あらゆるコトとモノたちが、再び、(私)を求めて統一される。

存在の声が、アフォリズムである。だから、なんでもありだ。ニンゲンをめぐる一切のものが、顕現し、消滅し、浮遊し、舞い、踊り、物自体がごろりと横になったり、透明なモノが飛んでいたり、叫び声があがり、啜り泣く声が漂い、お金という神さまが現れたり、あらゆる事象が(私)から発光するのだ。

自由自在である。

思考あり、感覚あり、直観あり、(私)に来るもの達が踊り狂う舞台である。

詩、小説、エッセイ、紀行文、書評、講演と、頼まれるままに、いろいろなスタイルで言葉とつきあってきた。

しかし、今回の、アフォリズムという形は、正に、(私)の中での発見であった。

小説を書くことが、本業であると信じてきたが、このアフォリズムというもの、なかなか、面白い。鋭く、短く、深く、瞬間で、爆発できる。

声が来る限り続けたい。2000本、3000本、いや、声が来なくなれば、中断である。

読者の方からは、アフォリズムは、エクリチュールの最高のものかもしれぬと感想をいただいた。面白いという声が圧倒的である。

アフォリズムは、現代という時代に、似合うかもしれない。

長篇小説「百年の歩行」ライフワーク、1000枚を書きながら、思わぬ副産物が現れたものである。

いったい、コレは何か?何が何をしておるのか?まだ、(私)にもわからない。