Archive for 7月 4th, 2009

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• 土曜日, 7月 04th, 2009

現在、ドストエフスキーが何十万部も売れている。読まれている。いったい、なぜ、誰に?現代の日本人は、百年前のロシアの作家の作品に、何を求めているのだろうか。実に、難解で、やたらに長くて、気力・体力・時間がないと、おいそれとは読めない作品ばかりだ。四大長篇「罪と罰」「悪霊」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」は、人類史上でも、ベスト3に入る(本)だと思う。そこには、何があるのか、人間の深い、深い声が鳴り響いている。

「罪と罰」は、殺人者ラスコールニコフの物語である。なぜ人を殺したのか?いったい殺すという行為とは何なのか?殺された人はどうなるのか?殺した人は果たして生きられるのか?復活と再生はあるのか、そんな声が、作品の全篇を貫いて流れている。

さて、一方、現代は、メール・ブログと無数の電子の言葉が機械の中で飛び交っている時代ではあるが、本当に、人が必要とするたったひとつの質問にも答えてくれる人がいない。人間の声ではなく、記号ばかりが浮遊しているのだ。

なぜ、人は、人を殺してはいけないのか?

母が我が子を殺す、息子が父を殺す、夫が妻を殺す、無差別に、誰でもいいからと、銃で、ナイフで、他人を殺す、毒殺する、切り刻んで殺して棄てる、もう、なんでもありの地獄図が、日替りメニューのように発生している。人間が人間を放棄している。

そして、テレビや新聞が、無期懲役だ死刑だと大騒きをする。素人のコメンテーターが無知の知も知らずに、浅薄な発言をする。うんざりだ。

さて、そんな時、不意に、国は、権力は、裁判員制度を新しく導入すると言う。

なぜだ?理由は?誰が?どう変えるの?

疑問と質問と不信で口のなかが砂粒を呑み込んだみたいにざらざらする。

あぶない、変な予兆だ。いつも、国のやり方は、決まっている。官僚と専門家で、雛形を作って、誘導する。形だけはオープンにして。

国民が参加する。裁判員になる。無作為に抽出した人に、まるで、赤紙のように、あなたは裁判員候補だと送りつけ、理由なく拒否すれば、罰せられるのだ。

法や制度が、(現実)に合わなくなれば、改良するのは当然だ、現代の要求だ。しかし、今回の裁判印制度の導入、国のPR誌も見たことがない。全国各地での講習会も、聴いたことがない。プロの裁判員が足りない?先進国で遅れている?国民の生活の経験を生かしたい!!スピードアップしたい!!3~4回の審議で、素人が、どうやって、有罪・無罪を決められる。私個人は、人間を、人間の外側へと棄てる死刑に反対で、加担したくない。否。

「詩と思想」(7月号)

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• 土曜日, 7月 04th, 2009

「人間は、いつまでたっても、私という不思議を生きている、ひとつの現象だ。人の心はもっと不思議で、どのようにして作られ、どのようにして変容していくのか、自分自身でもわからない。」
著者は、私淑する秋山駿の著書への書評の冒頭にそう書き記している。本書には、紀行文やエッセイ、対談、講演、詩、小説などが詰め込まれていて、作者の姿のさまざまな側面を知ることができる。

ヘルスアップ事業を支えて全国津々浦々をたずね、車に依存している地方の老人達との交流や、母校での講演の記録などを読むと、作者が自ら足を運んで、じかに触れ合うことで、生きることの意味を、社会に対して、また作者自身に対して問い直すかのようだ。問いを投げかける根っこには強い信念がある。

形面上的な詩の言葉に、たとえば実験室のような閉じた空間で無心に精錬された言葉がありうるとしたら、本書を紡いでゆく言葉はその対極にある。作者という社会的な現象を、その、歩いて、笑って、考えたことがそのまま、粉飾されることなく、言葉になっている。

健康予防の側面から、機能としての生命をとらえる方法と、冒頭に引用したような心のありように踏み込んでゆく方法とを綯い交ぜて、現代を生きることの意味を探ろうとする。

大いに歩き、大いに笑うことを、どこかに置き忘れて生きてはしないか、と本書を読んで私は思った。歩いて考えてみよう、歩くことが生きることでありうるのだから。

 「詩と思想」(7月号)