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• 金曜日, 5月 01st, 2009

風景は、人の言葉以上に、多くのことを語る場合があるものだ。42年振りに、海陽町の山の奥にある轟の滝を訪ねてみた。

海南の大里の松原を1時間ばかり散策した。海岸線に2キロばかり、幅50メートルもある美しい松林がある。太平洋の荒波と激しい風が防ぐために、植林された松林である。松は、手入れも良くて、大木が天を突いている。下草が刈り込まれている為に、林の中を自由に歩くことができる。松林の中央に、道が走っていて、小さな車が通りぬけられる。

コンクリートの堤防を越えると、広い砂浜が、海に添って、延々と続いている。陸地から、肌理の細かい砂、小さな丸の小石、そして、波打ち際には、角のとれた、少し大きな石が、波の力で、海の底から打ちあげられている。

季節は2月だ。太平洋の暖かい潮流のせいか、あまり寒さは感じない。幼年期に、祖母に連れられて、松原の奥にある、神社の祭りに来たことがある。馬が走り、ダンジリが走り、松林の中へと逃げ込んだ記憶がある。海南高校を卒業した時、歩いて、10分ばかりのところにあるので、海を眺めに来たこともある。

夜、大人になって、海辺から、満天の星を眺めた記憶もある。

海は、水平線で、空と海がせめぎあって、直線ではなく、細かな突起があって、凹凸している。眼のとどくところまで、無数の波が生起しては、崩れ、崩れては起きあがり、岸にむけて、ゆっくりと押し寄せてくる。同じ形の波はひとつもない。凝っと、波の波動を見ていると飽きることがない。

音。波の音、潮騒が、リズムを刻んで、風にのって、耳の中心へと届く。耳、いや、記憶の、心の、もっとも深いところへ、太古の声を運んでくる。

30億年の昔に発生した生命の声だ。人間は、母の体内で、単細胞から、魚、爬虫類、そして、哺乳類・人間へと進化を、たった10ヶ月で再現するという。海は、人間の体内で、延々と生き続けている。身体の7割が水で、しかも、成分は海水に似ている。

海からの声に、心地良さ、郷愁を感じるのは、あたり前の、現象かも知れぬ。30億年の生命のリレーがあって、人間が登場したのかと思えば、自殺など、もったいない。自分の不遇や不幸を嘆いて、自己否定する間があれば、もっと、もっと、30億年という時間の果てにあらわれた「私」を使って、追求して、「死」が来る時まで、一滴残らず「私」という不思議を生き尽くせばよい。

放心する。海にむけて、五感を全開にする。時間が垂直に降ってくる。「私」と刺し貫いて、30億年という時間が流れる。気絶しそうなくらいの悠久の時の透明な貌が海のすがたと波の音に透視できる。

眺めていると、切がない。いつまでも、海に対峙している訳にもいかず、歩きはじめた。

何が起こったのか、何が発火したのか、轟の滝を見たくなった。海部川の源流、一滴の水が動きはじめるところ、海へと至る水のはじまりの場所、いつのまにか、そこへむけて車を走らせていた。

海部川には、大きな橋が二本架かっている。冬場だから、水嵩は少なく、白い砂利石が、流れの両側に山積している。随分と石の多い川だ。つまり、それだけ大量の石を運んでくる水量があるということだ。

田園には、ビニールハウスがあり、農家があり、想像以上に幅広い川原には、丸く、白い石がごろごろ転がっていて、川上にむかうに従って、その石が、形を大きくしていった。道は、舗装こそ終わっているが、山際に添って、川の岸辺を、奥へ、奥へと延びていて、だんだんと幅が狭くなる。

車が擦れちがうことも出来ないほど狭く、曲がりくねって、道の下は、崖、危険、注意、緊張が全身を走る。窓を開けると、もう、町の空気とは別の、山の、気の流れ、樹皮の香りが、鼻孔に入ってくる。ピュアーな空気だ。人家も、ほとんど見えなくなった。川には、石よりも、岩が増えてきた。もう、30~40分は走っただろうか。山容が、川の両側にせりだしてきて、空が山で区切られて、視界が狭まった。

巨岩が犇きあう光景が眼の前に展がったところで、車の走る道は終わった。車の外に出ると、森から、何やら、爽快な、山の気を含んだ風が吹いてきた。何トンあるかわからない巨岩が、川を占領していた。濡れた岩には緑色の苔が生えている。凭れ合い、支え合い、傾き、岩の形はさまざまだが、巨大な岩石の塊りは、時間の相を刻んで見えた。透明な水は、岩と岩をくぐりぬけて、静かに、静かに流れていた。

轟神社にお拝りをした。

冬の日暮れは早く、まだ3時だというのに、今にも曇り空からは、雨の粒が落ちてきそうで、橋を渡ると、森は、灰暗く、苔の生えた石段を登る足許が心もとなかった。

森はマンダラだ。迷宮である。自然が長い時間をかけて造った宇宙(マンダラ)である。巨木が森のシンボルだ。森があるから、神社ができたのか、神神があるから森ができたのか。おそらく、前者だろう。神社は、人が、森の放出する、霊妙な気を吸って、そこに、社を作ったにちがいない。気の流れが、人の心を、畏怖、畏敬という、自然な状態に導いたものだろう。確かに、歩いてみると、森閑とした、音のない時空ではあるが、耳の底には、音以前の音が達しているのがわかる。人に迫ってくるその力を、神妙な気持で受けとめるしかない。心が洗われるとは、そういうことだ。一切の余分なものが、脳裡から消えて、森というマンダラに触れているのだ。

社は、厳として、森の中心に建っていた。寺の仏、神とはちがった、場が放する力、時空が放する力、山が放する力の集合体が、社として在った。神社に何があるか、誰が祀られているかは、問題ではなかった。森そのものが宇宙(マンダラ)であるから、人が、それに感応するのだから、崇めても、当然である。

社から坂道を下ると、滝が姿を顕わした。見事である。右から、左から、数十トンはあると思われる、黒褐色の巨岩が空中にせりだしていた。その割れ目の、中心から、水が、滝となって、流れ落ちていた。岩肌は、まるで生きもののようにぬるぬるしていた。夕闇の迫る、滝の前で、立ち尽くした。頭上から落ちてくる水は冬場のために、さほど多くはないが、滝壺に向けて、垂直に落ちてくる。岩が、樹木が、苔が、巨石が、圧倒的な質感をもっていて、表現以前、名辞以前の、世界を造り出していた。

正に、風景を超える風景だった。

(見る−見られる)という眼の力を超えている。どんな画家も、作家も、写真家も、この光景の力を、表現することはできまい。それは、向う側にある、大きな力が、自然に、わからせてくれる、「観照」という力だと思った。人間も、森の、滝の、マンダラの一部と化してしまっている為に、観察などというものは、何の役にも立たない。ただ、照り返されて、在る、その只中に、あらゆるものが、縁でもって結ばれているのだ。

風が吹く、その瞬間の、機の中にいて、縁によって、ひとつの宇宙の合唱に参加している、そういう光景が、ただ、在るだけだ。

私は、滝に、巨岩に、巨木に、森に、途轍もない時間の流れと存在の不思議を見ていた。

雨が降ってきた。

森と社と山の気を帯びたまま、私は、轟の滝を後にした。

平成21年2月

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• 金曜日, 5月 01st, 2009

木は立っている。
蛇は這っている。
魚は泳いでいる。
鳥は飛んでいる。
人間は歩いている。
石はそこに在る。

風が立ち
水が流れ
火が燃えあがり
土がある

ものが動き
ことが起こり
エネルギーの
交換がある。
「世界」という
事象はたった
それだけだ。

超球は廻り続け
時間が生起する宇宙(コスモス)だ。

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