Archive for the Category ◊ 詩 ◊

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• 木曜日, 9月 19th, 2019

(無)から来た
(私)という骰子を
今日も振り続けている
あれかこれか 左か右か真ん中か
あれでもない これでもない

鳥は 鳥の意識で
(夢=現実)を見る
何を?
見えるものから 見えないものへ

魚は 魚の意識で
(夢=現実)を見る
何を?
見えないものから 見えるものへ

時空の無限放射の中に居る(私)
視点を変えると
(私)は時空へと無限放射されている

ニンゲンは もちろん
ニンゲンの意識で
(夢=現実)を見る
何を?
在るように在るから 想うように在るへ

もう(私)は 私自身を
一日も考える力をなくしている
いや 一時間も いやいやものの三分も
見ろ!!欠伸までしている 混沌の中で

ニンゲンは 本当のものを見ると
気が狂ってしまうから
まあまあ ボチボチ
日々流されて生きている

宇宙の歯車が
時代の歯車が
また ひと廻りして
ひと呼吸遅れて
振り出しに戻った(私)も
ゆっくりと 自然に
(私)の歯車を廻してみる
(私)のリズムで (私)の流儀で

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• 火曜日, 4月 02nd, 2019

(私)の内なるステージには
朝 目覚めると同時に
いつも 私が起っている 自然に
だから 自由に
何処へでも歩いて行ける
なんの不思議もなく

ある日 午後二時 歩いていると
(私)の内なるステージに、 突然
他人が起っていた
私は 右か 左か決められず
石ころに躓いて 転んでしまった

ある夏の日の夕方
(私)の内なるステージに
次から次へと 他人が起った
24人の他人がいた
私は方向を見失って 途方にくれた
他人は、各々、勝手に 四方八方へ
と歩きはじめていた

ある夜 午後八時
部屋の真中に坐って
ラジオを聴いていた
突然、(私)の内なるステージに
風が吹いて
私はただのがらんどうになっていた

ある深夜 午前一時
(私)の内なるステージ自体が
突然 消えて 蒸発していた
私の場所も位置も形もなくて
ただ 器官なき身体となった私が
時空のゆらぎの波に洗われていた

花もない
種子もない
朝は辛い

(平成30年12月12日完)

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• 水曜日, 8月 08th, 2018

他人(ヒト)は青空をどのように見ているのだろうか?実は誰にもわからない ただ自分の見方・見え方があるだけだ

ゴッホの絵画の 空 顔 風景には渦巻きがある 渦の生成の秘密はいったいどこに あるのだろうか

空は廻る 水は廻る 空気は廻る 生命は廻る あらゆる物質(素粒子も)は廻る スピンするゴッホの絵画宇宙である

ゴッホは空を幻視する 渦だ と 顔を幻視する 生命は 渦だ と ヒマワリを幻視する 渦だ と 宇宙渦をゴッホは透視した

私の青空には独楽が廻っている
無数の光子がスピンしている
決して絵画のような美しい青空ではない
畏怖する美の独楽である

存在と非在の根の根を
ゴッホは渦と見た
私は独楽と見た
渦と独楽は兄弟だ

3・11の大津波の渦
原発の原子の独楽
大地震の揺れる渦
見えない海辺の量子の独楽

色彩と線と形でゴッホが見たものは
精神のリールが切れる瞬間の
分裂した 魂の宇宙である

一切が起ちあがり
一切が消失する地点で
私は無限回転する独楽を見る
見えない 透明なコトバで
宇宙を一筆書きしてみせる

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• 木曜日, 5月 10th, 2018

死者の魂に呼ばれて
風景そのものに呼ばれて
時空を超える旅に出る
今日ノ花ヲ今日摘ム

ある日 突然 何かが発火して
記憶の暗箱の一番奥に眠っていた
ひとつの風景が起ちあがってきた
百年という時間を生きた
祖母キヨの故郷 阿波海南大里の寒竹迷路

木立と竹林の中に
曲がりくねった24本の細道が走っている
国道55号から海辺の松林まで
家々は閑かに 生垣の中に沈んで見えない

いくつもの入口と出口がある
歩いてみると 振り返ると
もう 道は高い生垣の中に消え
眼をあけて前方を見ると
道は緑の生垣に隠れて見えない

今 歩いている ”今” も
何時の ”今” かわからなくなる
方向感覚が狂い 時間感覚が狂い
一本道も 三叉路も 四ツ辻も
イヌマキ 寒竹 常緑樹の緑の壁で見えない
前も後も 右も左も 道があって道はない

五歳の少年は泣きベソをかいた
「お祖母ちゃん 手エー放さんといて ボク迷児になるさかいな」
十歳の少年が言い放った
「お祖母ちゃん 大里の道はおもしろい ボク 友達と ”お鉄砲屋敷” 探険してくるわい」
六十歳で歩いてみると 曲がりくねった24本の里道は 閉じてはいない 開かれている
見えない道へと
大里では ”私の時間” が自然に ”時熟” していた 道も生きている 四百年の時空を超えて

※(長篇大河小説『百年の歩行』全30章の中の第1章を「詩」にしてみました。平成30年刊行予定)

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• 木曜日, 8月 03rd, 2017

”無”と”無限”が結婚する。

長い間、バッハの音楽を聴くたびに、そんな思いを強くした。オルガン音楽は、無限螺旋階段を、昇ったり、降りたりした。ヴァイオリンによる、無伴奏パルティターやシャコンヌは、気が狂いそうな無限深淵へと、聴く者を連れていって、虚空へと放りだしてしまう。

ある深夜のことだった。ラジオの、深夜放送に、ゲストとして、ヴァイオリン奏者の、千住真理子が登場した。二年間、出演したが、今夜が、最後だから、と挨拶をして、今夜は特別に、生放送で、バッハを弾くという。
「バッハは、禅僧にならなければ弾けません」私は、そのコトバに、同志を見た。

ニンゲンの運命のベェートーベンでもなく、疾走する悲しみのモーツアルトでもなく、大地の歌のマーラーでもなく、光の煌めくドビュッシーでもなく、バッハは、神的なのだ。

バッハが流れた。千住真理子が翔んだ。バッハは、禅僧になって作曲した(無相)。千住真理子は、禅僧になって、ヴァイオリンを弾いた(無我)。私も、自然に、禅僧になって、バッハ音楽を、聴く人になっていた。(無心)。

闇の底に横たわっている、手と足が消えた。眼と鼻が消えた。舌と肌が消えた。胴体と内臓が消えた。頭と意識が消えた。耳だけが、宙に浮いていた。バッハが流れる。バッハの時が流れる。いつのまにか、最後に残った、私の耳まで消えていた。私は、私の外部へと誘い出されていた。

何処へ。果てへ。深淵へ。無限へ。はじまりもなく、終りもなく。快楽は大欲であった。私は、バッハの音になっていた。バッハと、千住真理子と、私が、ひとつの音となって、生きていた。至高者になっていた。

そして、終に、

非想非非想天へと、超出していた。そこには、異次元の時空があった。バッハ音楽(うちゅう)である。

”無”と”無限”が結婚している。

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• 月曜日, 5月 08th, 2017


見ているのは、誰?何?
眼が
脳が
(私)が
いいや
あるいは?もし?


聞いているのは、誰?何?
耳が
脳が
(私)が
いいや
あるいは?もし?

コトバ
話しているのは、誰?何?
口が
脳が
(私)が
いいや
あるいは?もし?

イデア
考えているのは、誰?何?
意識が
脳が
(私)が
いいや
あるいは?もし?

アートマン
存在しているのは、誰?何?
原子が
脳が
(私)が
いいや
ただ、超球宇宙を
透視もゆるさぬ
銀河級の
巨大な量子の鳥が
翔んでいるだけ

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• 木曜日, 8月 04th, 2016

海に渇いていた
で 海に行った
海を 眺めても眺めても眺めても
もう
海は 海ではなかった

森に渇いていた
で 森に行った
森を 歩いても歩いても歩いても
もう
森は 森ではなかった

ヒトに渇いていた
で ヒトに会った
ヒトと 話しても話しても話しても
もう
ヒトはヒトではなかった

美・金閣寺に渇いていた
で 金閣寺に行った
金閣寺に 祈っても祈っても祈っても
もう
金閣寺は 金閣寺ではなかった

に渇いていた
で 猛烈に生きてみた
を 生きても生きても生きても
もう
は 生ではなかった

に渇いていた
で 死んでみようと思った
を 死んでも死んでも死んでも
もう
は 死ではなかった

コトバに渇いていた
で コトバを書いてみた
コトバを 書いても書いても書いても
もう
コトバは コトバではなかった

(2016年4月6日)

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• 木曜日, 4月 28th, 2016

1. ニンゲンの死は、悲しみであろうか(人間原理の)不思議であろうか(宇宙原理の)

2. 「家(うち)には、持たせるもんが、なんちぁないさかいなあ」女は、嫁入りの朝、母親から、新しい風呂敷包みを、ひとつだけ手渡された。(内には、尋常高等小学校の成績書が一枚入っていた。オール甲で、一番だった)

3. 「実に見事な身体だ。惚れ惚れするな。兵士になる為に、生まれてきた男だ。」男は、徴兵検査の日、試験官たちに、全身を撫で廻された。とびっきりの甲種合格で、砲兵として、中国大陸へと送り込まれた。

4. 父が死んだ。二人目の父も死んだ。老いた母と六人の弟妹が残された。男は、十二歳で自転車に乗って、土方に出た。愚痴も文句も悲しむ暇さえなかった。毎日毎日一日千回、ツルハシを振りあげ、スコップで土を掬い、砂利をモッコで運び、玄能で石を割った。大男の肉体は筋肉繊維で弾んだ。

5. 「熱(あず)っても、熱(あず)っても、百姓は楽にならん」軍隊は、戦場は、男の第二の学校であった。(敵を殺すこと、人を組織すること、火薬を扱うこと)男は、軍隊の経験をもとにして、建設会社を設立した。弟二人を従えて。日本列島改造のうねりが足元にあった。道を開き、堤防を築き、橋を架ける、生涯だった。

6. 男は、背が高くて、賢い娘を、嫁に探していた。

7. 女は、男からの縁談を断り、断って、逃げて、逃げて、逃げ廻ったが、母と叔母の執拗な説得に根負けして、隣村へと、橋を渡った。(頑強で、男前、悪い男ではないと)

8. 「同じ人間でも学がないと辛い」子守り、お手伝い、店番、女中、と。そして、土方の親方の女房となった。子供たちは、大学まで行かせてほしいと、女は男に約束させた。

9. 「死者は玄関からは出さん」樒の葉で水を含ませ、棺には、金剛杖、草履、お米、お金、孫たちの写真、俳句の雑誌を入れた。叔母が庭先で、お茶椀を割って、引導を渡した。

10. 死顔に、こんなにも美しい”微笑(ほほえみ)”が浮かびあがるものであろうか?一切の”苦”が洗い流されていた。「今度は、あんたらの番やな」

11. 小さな村のお寺の庭も道も橋上も、弔い人であふれていた。約二百人。人好きで、話好きで、機知(ユーモア)のある人柄が、縁の結びの多さをあらわしていた。「やよいさん、ええとこ行きよ」一人の老婆が、白い菊を、棺に入れて、呟いた。(本当に、お世話になりました)

12. 男は、私の父、女は、私の母、地球で、縁あって、生命のバトンを、受け取った。誕生も、生も、死も、宇宙の(量子の)不思議な縁である。最後のコトバは、さようなら、ではなく、ありがとう。

(2015年10月3日母永眠 享年92歳)

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• 火曜日, 8月 11th, 2015

如是我聞
(私)は太鼓の音(オト)を耳で聞いた と

無限遠点から
深層意識から
アーラヤ識から
細胞の遺伝子から
神社・仏閣から
祭りの路上から
3・11の東北から
今日も太鼓の音が流れている

空振りの一日も
足の裏がヒリヒリする一日も
不条理の棒を呑み込んだ一日も
太鼓の音さえ聞こえていれば
独りでも夜まで歩いていける
耳を立てて

如是我聞
(私)は太鼓の音(コトバ)を腸管で聞いた と

脳が聞く 耳が聞く 意識(ココロ)が聞く 太鼓の音(コトバ)よりも
腸管が聞く 太鼓の音(コトバ)が 深く やさしい 21世紀の脳の知が破綻した今 生命の原初から生きている腸管をこそ 信ずるべきだ
モノを包む 他者 (他物) を (私) に変換する腸管の力が光っている ココロまで生んでしまった腸管のパワーだ 腸管を開いて

如是我聞
(私)は太鼓の音(パルス)を手で聞いた と

(私) が無限に手を振ると
100億光年の彼方では
ひとつの銀河が大爆発をする
(宇宙的ハンド・パワー効果だ)
なんの不思議があるものか
東京で一匹の蝶が羽搏くと
ニューヨークでは大風が吹く
(地球的バタフライ効果だ)
手は いつまでも 振り続ける
歩いて 踊って 跳んで 一日が終わる
今日も 地球の 宇宙の太鼓の音(オト※コトバ・パルス)が
十一次元の時空に流れていた

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• 木曜日, 5月 28th, 2015

壁はどこまでも進化する。

「私は壁である」とニンゲン・私が言ったら「壁は私である」と壁が応えた。

壁の来歴ステップ1(少女M)
夏の日盛りに、隣りの席に坐っていた、可愛い女の子が、突然、死んだ。たった七歳だった。理由はわからない。何処へ行ったのか知る術もない。探すにも空席があるばかりだ。
コトバが出ない。足が動かない。ココロが叩き割られた。で、登校拒否になった。透明な壁を見た。ニンゲンには途轍もないことが起こってしまう。

壁の来歴ステップ2(朋輩K)
桜の花が風に揺れる時節に、中学校に入学した。隣の町から、土佐のイゴッソが越境入学をしてきた。
阿波の気質は温厚で、コトバはやわらかい。土佐の気質は豪放で、コトバは直截である。ある日、Kが言い放った。
「おんしの笑顔は、何か隠しとる、嘘言ったらあかんぜよ、朋輩になれん」
血の流れが止まった。笑顔が痙攣でひきつった。Kのコトバは、針だった。針を呑むと、イゴッソKとは、生涯の朋輩となった。コトバの壁が崩れた。

壁の来歴ステップ3(友人S)
高校生の時、Sの家を訪ねた。
家の西側に大きな石の壁があった。苔の生えた周辺に時間が刻まれていた。石の壁の中心だけが、何かで掃き清めたように光っていた。
Sは、軟式野球のボールをもっていきて、石の壁にむかって投げはじめた。野球の練習かと聴いたら、いいや、ちがうと答えた。理由を訊いたら、祖父、父、そして、自分と、三代にわたる”仕事”だと言う。石の壁に、ボールを投げるのが、なぜ、”仕事”だと、たびたび問いつめた。
祖父も父もSも、毎日、朝夕、ボールを投げ続けている。千回、万回、億回、兆回投げ続けると、いつか、必ず、ボールは、石の、向こう側へ突き抜ける時がある、その証明の為に、家族は、石の壁にむかっていると、Sは言った。君は、信じるかい?
いかにも、ニンゲンらしい行為である。伝統ある”仕事”を、Sは、生涯続けるだろう。
”不合理ゆえに我信ず”ではない。理論としては、正しすぎるくらい正しいのだ。

壁の、千のステップは、いつまでも、どこまでも続いている。ニンゲンが、眼耳鼻舌身意に頼って生きる限りは。

(平成27年2月16日)

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