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• 月曜日, 9月 28th, 2015

ー生きる知慧としての仏教ー

仏教の知慧が、21世紀の現代を生きる、一人の人間によって、これほど、深く、身をもって体験され、語られた「本」に出会ったのは、はじめてである。
「般若心経」が、実に、見事に、自らの体験の中で、噛みくだかれ、血となり、肉となり、自らのコトバとなって、語られた実例を知らない。
ベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハン師である。(気付きの呼吸法・瞑想)
『死もなく、怖れもなく』は、単なる「仏教」「般若心経」の解説書ではない。
ベトナムの戦火の中で、立ちあがり、平和と終戦を希求し、行動し、国を追われても、フランスでアメリカで、釈尊の教えを実践し、活動している、禅僧である。
21世紀の科学の時代にあっても、宗教的実践、宗教的事実をもって、地球的(水平)広さで生き、人類的(垂直)深さで生き、(現実)の中に、超越を置く第三の生き方を探求する。
ティク・ナット・ハン師の生きる姿は、感動と共感を呼ぶ、数少ない、宗教者の、現身である。(法身でもあるか?)
3.11で、地震、津波、原発の三重苦に、人間が壊れてしまい、どのように、再生、復活できるか、誰にも、ヴィジョンが示しきれない時空があった。(コトバは死んでいた)
僧や神父や牧師などの、宗教者も、現場に駆けつけて、語り、聴き、唱え、祈った。
ある、大寺院の僧が、東北の海にむかって、念仏を唱えていた。
「般若心経」を、黒板に書き、住民に、説明し、語りかけていた。
僧の顔は、絶望で、青白く、その声は、おそらく、住民の耳にとどいてはいなかった。
大自然は、放射能は、宇宙は、宗教者に、背をむけた、非・意味であった。
地震、津波、原発の前には、あらゆるコトバ、経典も、無力であった。
しかし、戦争の中から、立ちあがった、ティク・ナット・ハン師のコトバは、「生・老・病・死」に対して、釈尊のコトバを、そのまま、身をもって、生き、確かなものとして、人々に訴える力をもっている。
科学的(真)があれば、宗教的(真)もある。
世界を歩く、時代を歩く、水平に、垂直に、超越的に生きる、ティク・ナット・ハン師のコトバに、お礼を!!(歩く瞑想)
ティク・ナット・ハン師の中に釈尊が生きている。
垂直に、超越的に。
コトバが生きている、ニンゲンの中に。(相依相関(インタービーイングの思想))

Category: 書評
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