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• 金曜日, 2月 19th, 2016

(1)中世の思想の、核となる、鍵ワードは”あはれ”と”無常”である。

世界に誇る、中古の、恋愛小説『源氏物語』(あはれ)軍記物語『平家物語』(無常)はもちろん、日本初の、批評の書『徒然草』も、”あはれ”と”無常”が、主題である。

”無常”は、仏教用語である。
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
一切は、ただ、過ぎていく。常なるものは何も無い。無常迅速に変化していく、人も自然も。(発心へ)(出家へ)
”あはれ”は、和語である。

日本人の心性から出たコトバである。
人に、物に、自然に、感動・感嘆するコトバだ。趣きがある。感心する。情がある。悲しい(哀しい)と含む意味は、複雑で、漢字・漢文から来たものではない。

(2)中世という時代
1. 政治
天皇、貴族、武士による、政権闘争、三巴の時代である。天皇中心の政治が終って、貴族が、摂関(藤原道長)が実権を握り、貴族文化(平成時代)の”雅び”が華ひらくが、武士の抬頭によって、鎌倉に、幕府が開かれ、二重権力の治世となる。

保元の乱、平治の乱、源平の合戦、そして南北朝の権力闘争と、軍事力を誇る、武士が天皇・貴族にかわって、政の権力を握った。

2. 宗教(仏教)
仏教の伝来(552年)以来、鎮護国家と済民利他が、仏教の目的であった。しかし、奈良仏教は、学問仏教と呼ばれるように、仏典、漢文を読める、天皇、豪族、学僧、渡来人(僧)たちのものであった。

平安時代は、貴族仏教、権力と仏教が、結びつき、浄土信仰が盛んになる。

厭離穢土 欣求浄土
西方極楽浄土を希求する貴族たちの間に、浄土宗(念仏)が拡がった。

戦乱に次ぐ戦乱、平氏の敗残兵が、数百人高野山へ。疫病、大火、地震、飢餓(『方丈記』)で、現世は、地獄と化して、民、百姓衆生の間から、自然に、仏を求める声があがった。鈴木大拙は、「日本的霊性」が誕生して、はじめて、日本人が、心から、仏教を願ったと分析している。

法然、親鸞の、浄土宗、浄土真宗は、ただ、”南無阿弥陀仏”の六文字の名号を唱えれば、浄土に往生できるという、(他力本願)革命的な、念仏宗教で、民、百姓、衆生の圧倒的な支持を得た。親鸞も、また、戦乱で、父母を亡くして、お寺に入り、僧となった。しかし後に、寺を出て、非僧非俗の身で、念仏による布教を行なった。世は、正に、乱世であった。

3. 日本文
一万年も続いた縄文時代は、土器、土偶を作り、見事な、紋様と彫刻を生み出したが、残念ながら、(文字)の発明には至らなかった。

中国から、漢字が伝わるまで、日本人は、文字を持たず、話し言葉の世界だけで生きていた。

中国語(漢字)を日本語(話し言葉)で読むという、大実験は、世界の、どの民族も、為し得なかった、快挙であった。(万葉仮名)

漢字を、その本来の、意味を無視して、日本語(和語)で読む。(『万葉集』)『古事記』

漢字から、片仮名、平仮名を発明して、漢字読み下し文、漢字片仮名交り文、そして、終に、漢字ひらがな交り文=「日本文」が登場した。中世の、最大の、文化的事件である。

東洋一の漢字学者、白川静は、「日本文」こそ、日本人が発明した、最高の文化であると、力説している。

「日本文」は、漢、和、仏を、自由自在に、盛り込む、正に、思考の器である。

漢字の意味と力強さ、繊細で、複雑な、ひらがなの自由さ、そして、仏教思想の核となる仏語。

『徒然草』も『源氏物語』も、「日本文」の発明なしには、出現しなかっただろう。

(3)兼好の(卜部兼好-本名)批評精神、思考の自由さ、博識は、どこから来たのか?

卜部家は、代々、朝廷に仕える神秖官である。兄は、天台宗の大僧正・慈遍、次兄も、民部大輔・兼雄、兼好(三男)も、蔵人、左兵衛佐として、働いている。(生活人)

有識故実は、もちろん、『識語』(漢)、『摩訶止観』(仏)、『源氏物語』『枕草子』『今古集』(和)、先達の、西行法師、鴨長明の和歌や散文まで、読破している、大知識人である。

生死の年月日は、不明であるが、1283年~1352年、七十歳の頃、没したか?

三十一歳で、出家し、「遁世」し、世捨人の法師となる。沙弥戒を授け、僧となるも、具足戒は授けず、寺院にも宗派にも属していない。(自由な精神)

親鸞が、非僧非俗の者であるなら、兼好は、依・食・住と医を、生活の礎とする、生活人(俗)の眼と、無常、発心、出家-閑かで、簡素な、”寂”の世界で、仏とともに生きる僧(聖)の眼の、複眼を持ち合わせた、人生の達人である。(一町歩の田も持っている)

この立ち位置が、あらゆるものを、(天皇・僧・貴族・武士・百姓)相対比する兼好の持質である。

さて『徒然草』は、出家後、三十七歳から十一年ばかりの歳月をかけて、書かれた「批評」である。(決して、『枕草子』のような、随筆ではない)

序段十全二百四十三段。たった一行の、筒言から、原稿用紙六~七枚のものまである。内容は、人間が生きる、生活全般にわたっている。お金についても、酒、友、恋愛、手紙、祭、家、出世、老い、死、読書・・・もちろん中心は、無常、発心、出家のすすめ、人生の生き方(あはれ)にある。

『徒然草』の特徴は
1. 「無常観」(無常迅速)の表出
2. 「機知(ユーモア)」の出現(知的笑い)(ファルス)
3. 「批評(クリテイク)」精神
4. 「日本文」による思索
にある。
一言半句が、各段の中心となっている。

「あやしうこそ ものぐるほしけれ」(序段)

校注者、西尾実、奈良岡康作は「妙にバカバカしい気持がする」(岩波文庫版)と、現代語で、解釈している。

『徒然草』は、字義の解釈では読めない。兼好の心境そのものを読み込まねば、わからない。

出家した僧・兼好が、人間を、人生を、仏教を、探求するのである。必死で、書き綴る文章が、「バカバカしい気持」である訳がない。(つれづれ・・・は一種のポーズ、スタイル)

ここは、書くこと自体の、神妙な、ココロの状態、(事実と書かれているもの)その境界。(胡蝶の夢-荘子)の世界に似ているのだ。

(4)宗教者、僧に対する、兼好の眼は、実に、相対的で、厳しい。歌聖・西行や、『夢の記』を綴った明恵上人に対しても、批評(エセー)の眼は、冷静である。

なぜか?

末法の時代である。釈尊の死後、正法の時代、像法の時代、そして、法を滅び、悟る者もなく、乱れた世の中の到来である。

兼好も、僧たちの墜落に、厳しい、批判の眼を向けている。

さて、二百三十六段「丹波に出雲とえ小所あり」は、五十二段「仁和寺にある法師」と文章の構造は同じである。

誰かに聴いた、僧たちの話(行動、信心)に、最後の一行で、兼好が批評をするというスタイルである。(伝聞+批評)

丹波の国の出雲神社を読んだ瞬間に、読者は、出雲の国の大社を思い浮かべて、何か、悪いこと(本物と贋物?)を予感してしまう。

僧たちが連れそって、丹波の国の出雲神社を拝み、信を起こし、ふと気がつくと、聖海上人が「御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立」っているのに気が付き、これは、何か深い理由があるにちがいないと、感動する。神社の神官を呼んで、その理由を訊くと、なあに、子供たちが、いたずらをしただけですと、獅子と狛犬の向きを直した。(笑話)

兼好は「上人の感涙いたづらになりけり」と、皮肉とも滑稽ともつかぬ批評文を、最後に置く。(信を起こすとは何か?)

仁和寺(大寺院)の法師は、長年、思っていた、石清水八幡宮へ、歩いて、お拝りに行き、山の下にある、極楽寺・高良を拝んで帰ってきた。帰って、他の僧に、人々が、山の上へ上へと登っておったが、あれは、いったい、何なのだ?神にお参りするのが目的なのにと話をした。もちろん、本殿は、山の上にある。

兼好の言葉「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。」(祈りとは何か?)

教訓を越えた、痛烈な批評である。

師資相承の仏教である。「戒」律を守ってこその仏教である。伝統を重んじた兼好である。しかも、透徹した眼力は、乱れた世相の中にも、本物を視る。機知がある。批評がある。”無常”と”あはれ”を覚知した兼好の眼。

(高野山大学大学院レポート)

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