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• 月曜日, 8月 17th, 2015

1~8
「井筒俊彦全集」(慶應義塾大学出版会刊)
・第二巻「神秘哲学」
・第三巻「ロシア的人間」
・第五巻「存在顕現の形而上学」
・第六巻「意識と本質」
・第七巻「イスラーム文化」
・第八巻「意味の深みへ」
・第九巻「コスモスとアンチコスモス」
・第十巻「意識の形而上学」
9~15
「大乗仏典」(中公文庫)
・第一巻「般若部経典」
・第二巻「八千頌般若経」 1巻
・第三巻「八千頌般若経」 2巻
・第八巻「十地経」
・第十二巻「如来蔵系経典」
・第十四巻「龍樹論集」
・第十五巻「世親論集」
16. 「『ボヴァリー夫人』論」(筑摩書房) 蓮實重彦著 804ページ、定価6400円 2000枚書き下ろし
17. 「折口信夫」(講談社刊) 安藤礼二著 533ページ、定価3700円
18. 「若山牧水への旅」(弦書房刊) 前山光則著
19. 「古事記」(河出書房新社刊) 「日本文学全集01」 池澤夏樹訳
20. 「危機と闘争」(作品社刊) 井口時男著
21. 「暴力的な現在」(作品社刊) 井口時男著
22. 「親鸞」既往は咎めず(松柏社刊) 佐藤洋二郎著
23. 「『サル化』する人間社会」(集英社刊) 山極寿一著
24. 「まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育」(合同出版刊) 有元秀文著
25. 「あずらちゃん大ピンチ!」(創英社刊) 中津川丹著
26. 「宇治拾遺物語」(新潮日本古典集成) 大島建彦校注
27. 「発心集」(上・下)(角川ソフィア文庫刊) 鴨長明著
28. 「無名抄」(角川ソフィア文庫刊) 鴨長明著
29. 「日本霊異記」東洋文庫97(平凡社刊)
30. 「密教と説話文学」(高野山大学刊) 下西忠著
31. 「テイク・ナット・ハンとマインドフルネス」特集(サンガ刊)
32. 「沈黙を聴く」(幻戯書房刊) 秋山駿著
33. 「法然と親鸞の信仰」(上・下)(講談社学芸文庫刊) 倉田百三著(再読)

還暦を過ぎて、一人の思想家の全集を、隅から隅まで読む経験は、私にとって、ニンゲンの生涯を、一切を考えつくすという、体験でもある。
井筒俊彦が、単なる、言語学の専門の学者であるならば、そんな勇気は、湧きあがらなかっただろう。
「存在はコトバである」との断言の下には、(存在=言語=信仰)が、一人のニンゲンの中に、同時に、あって、古今東西の人類の(知)を自由自在に疾走する文章は、日本の思想家が達した、最高の(知慧)でもある。
二~三ヶ月に一度、配本される『井筒俊彦』全集は、現在十一巻。あと二回で、終わってしまう。
大きな、大きな、楽しみを与えてくれる「読書」である。

『空海』を読みたいと、はじめた、仏教の修学であるが、空海の著作には、その多くが、経典からの引用や原典に基いた思想が占めている。古代の漢文、中国の詩歌、現代人には、歯がたたぬ白文と、容易に、読み解ける著作ではない。
第一に、「大乗仏典」の知識がなければ、解釈すらできぬ。という訳で、「大乗仏典」を読みはじめた。
三島由紀夫や吉本隆明が『大乗仏典』を、読まねば、と、膨大な、仏典を購入しようとした、意欲と意味が、今更ながら、なるほどと、頷ける。
「インド仏教」「チベット仏教」「中国仏教」そして、日本の古代から中世、近世の仏教、学びはじめると、切りがない。

「『ボヴァリー夫人』論」と『折口信夫』は、大著である。
昔、蓮見重彦の『凡庸なる芸術家の肖像』(マクシム・デュ・カン論)を読んだ。辞典のように厚い本だった。二十枚ほどの、感想、手紙を書いたが、結局、出さずに終った!!
大きな感動の波が来た。しかし、なにしろ、読むのには、一年ほどかかりそうだ。
安藤礼二の『折口信夫』も、大著。気にいった章から、自由に読みはじめた。折口が書いたこと、考えたこと、生きたこと、あらゆるものに触手をのばして、おそらく、「折口」論の決定版をめざしたものであろう。

前山光則。文学の仲間?友達。熊本で高校の教師をしながら、島尾敏雄から山頭火、そして、今回は若山牧水を論じている。牧水の旅の跡を追って、歩き、追体験し、丁寧に、牧水を書きあげている。
若い頃から、地味だが、質実に、生活し、書き、考え、(文学)を手離さずに、生きてきた姿勢には、思わず、拍手を送りたくなる。世の中を下支えしているニンゲンである。

秋山駿の論考では、井口時男が第一人者であろう。
その井口の、中上健次、大江健三郎、村上春樹等の現代を代表する作家への評論である。
古武士のような、「生きること」と「書くこと」への姿勢を追求する考察には、「文学をする」井口の理由と存在が、同時に、開示されていて、好感を持った。

『親鸞』
三人の「親鸞」を読んだ。五木寛之の大河小説の親鸞。津本陽の宗教小説の親鸞。そして、佐藤洋二郎の私的親鸞。
五木寛之は、約40年にわたって「仏教」を修学している。その礎の上に立った、小説である。とにかく、面白い。技が光っている。スリルがある。人間・親鸞が実に魅力がある。風俗・風景・人物たちが、実に、生き生きとして、中世を活動している。
一番、信仰が深い(?)と思われる小説が、津本陽の小説であった。宗教の探求がある。
<宗教と文学>は、決定的に異なる。信仰の深さが、文学の深さではない。仏教は、文学を否定する。その仏教者を、主人公にする小説。『源氏物語』にも、浄土宗・仏教の匂いはあるが、宗教の探求の書ではない。

佐藤洋二郎も、宗教者を主人公とする小説を書く齢になったか、と感慨が深かった。腕力で文章を綴る、若き日の佐藤洋二郎を知っているから、今回の小説は注目した。
しかし、「親鸞」は、現れなかった。作者の思いと親鸞の思いが、入り混じっていて、親鸞その人ではなく、佐藤版・親鸞のように、読めてしまった。
(文学)と(宗教)考えることと信ずることの、明確な、意識化が未分化であった。

「サル化」する人間社会を読むと、人間も、特別な、生きものではない。「進化」の大きな、大きな力を、読みとれて、一呼吸。

「あずらちゃん大ピンチ!」
自分史である。三歳から十二歳まで。世界には、「トム・ソーヤの冒険」や「ハックルベリー・フィン」など、少年文学がある。日本にも、そういう小説が、現れないものか?
中津川丹は、はじめての、自分史で、日本の「トム・ソーヤの冒険」を書いた。小説にする必要がないほど、実生活自体が、数奇な運命に充ちている。
文体も的確で、リアリティがある。(蝶)を追う少年が、そのまま大人になった。戦争で父を失い、戦後を、祖父母と共に、生きる少年の、心情が、見事に結晶している。
小学校の国語の、副読本にしたい作品。NHKは、ドラマ化しないか?

日本の、中世の、書物を読む。小説、説話、日記、物語、随筆。日本文が、だんだんと、根付いて来て、日本文で思考する。作家、僧たちが現れてくる。中世の混沌と闇と光。

現代に、この人だと思える、僧、牧師、神父、宗教者はいないものかと、思っていた。
ベトナム出身の、テイク・ナット・ハン師(禅僧)が私のココロを捉えた。
やはり、寺院や教会の中ではなく、戦場から、実生活の、体験の中から、真の、宗教者は立ちあがるものだ。コトバと行動が、一人の人間の中で、直立している!!

時は、無常迅速に流れる。秋山駿がなくなって、もう、二年になろうとしている。
「沈黙を聴く」は、秋山駿が残した、最後の「本」である。死者と対話できる「本」だ。夢と現の間で、秋山駿と対話をした。
「秋山さん、音信を下さいよ」と念じていたら、深夜に「お別れの会」で流れた(ヴァイオリンの生演奏で)「中国地方の子守唄」が、ラジオから聴こえてきた。
死者との交信は、このように、実現される!!

Category: 読書日記
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