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• 水曜日, 2月 23rd, 2011

「神的批評」 大澤信亮著を読む (新潮社刊)

●ニンゲンに何ができる?
●ニンゲンは何処まで行ける?

若い評論家の処女作「神的批評」単著を心読しながら、私の中に、鳴り響いていたのは、そんな、「本」から立ちのぼってくる声による「問い」であった。

読者としての、私の感想を書いてみる。本書は、四部構成である。
①「宮澤賢治の暴力」
②「柄谷行人論」
③「私小説的労働と協働—柳田國男と神の言説」
④「批評と殺生—北大路魯山人」

倫理と理論と言葉と美を「問う」評論集である。

①「書くニンゲンと生きるニンゲン」

なぜ、大澤信亮は、たった百枚の「宮澤賢治の暴力」を書くのに、十年もの歳月を費したのだろうか?

そこに、大澤が、ものを書く、生きる姿勢が現れている。単なる研究としての文章を拒否し、生きている自分が、宮澤賢治を論じるために、必要な資格(?)を得るべき、セイカツの現場に、身を横たえていなければ(文章)を書く意味がないと考えている。生きるという現場から起ちあがって来ない文章、発言、思想には、ほとんど意味がない、その覚悟と実践が、たった百枚の作品に、十年という歳月をかけた理由である。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の発言から出発した論考は、作品と実生活を追うことで、「宮澤賢治の暴力」を裸にする試みである。

生きること、食べること、書くことに、「暴力」を発見していく生存のスタイルは、暗く、厳しい。

②大澤が、心の師と仰ぎ、書くものに、生きる姿勢に、深い共感を覚えてきた”柄谷行人”を論じている。論理の人、柄谷行人。(本当は感性の人か?)なぜ、ある時を境にして、柄谷行人の書くものは失速したのか、リアリティを失ったのかが、丁寧に、作品を読み込むことで、師への刃となっている。

「(意識)と(自然)」に身を横たえて、ひき裂かれたまま生きているニンゲン漱石を語ることで出発した、柄谷行人も、また、同じように、(私の意識と私という存在)のひび割れをもったまま(文学)を語り続けた。そこに、リアリティが生れていたと私は思う。

大澤は、(学問)へと傾斜して、(文学)を棄てた柄谷を、見ているのではないか。ひび割れた存在として、身を横たえていた柄谷が、片眼を閉じてしまったと考えているのか?大澤の「問い」が、どこまで、柄谷の言説にとどいているのか、私には、判断がつきかねるが。

③論理を追いすぎる人は、「詩」「小説」を読みまちがいがちだ。「私小説」は、柳田國男の論考とは、別の力を持っている。大澤の、賢治の詩の読み方、花袋の小説の読み方には、疑問がある。小説は、進化もしないし、なんの役にも立たない。ただし、生きているニンゲンの形姿がある。感動がある。

今回の芥川賞作家、「私小説」作家の西村賢太のリアリティと、知的な文体で固めた、貴族的な、朝吹真理子の小説を比べてみればすぐわかることだ。小説は、繊細な生きものである。大思想を展開した、堂々たる生活人で、民俗学を樹立した柳田國男を論じるには、大澤のもっているフィールドが狭すぎるために、この作品は、大澤の想いだけが、骨のように、白々と、露わになっている。今後の、大きな課題であろう。核と直観を肉付けしてほしい。

④「生きることは食べることであり、食べることが殺すことであるならば、私たちにどんな希いが許されているだろうか、何も許されていない。この結論は絶対に思えた。」

「批評と殺生—北大路魯山人」は、こう始まっている。

衣・食・住は、ニンゲンが生存する条件である。「徒然草」を書いた、兼好法師は、その3つに医(医者)を加えている。3つを支えているのが仕事(労働)である。

大澤は、ニンゲンの生命の源(食)を、根源から、「問い」直している。

日本の、(食)をめぐる論争も、加熱している。何年か前には、芥川賞作家、辺見庸の「もの食う人びと」が、話題になり、ベストセラーになった。いわく、世界には、十億人単位で、食べものが手に入らない、飢えた人々がいる。その貧困は、目をおおうばかりで、豊かな、富める者は、手を差しのべなければならぬ、という論調であった。仕事がない、お金がない、食べるものがない、教育が受けられない、犯罪と病いがはびこっている、負の連鎖である。

その一方で、平和ボケした、わが日本人は、飽食、B級グルメで、TVも新聞も狂想曲を演じている。美味しい食べものを求めて。

また、国、厚労省では、日本人の栄養のバランスを考えて、全国で、栄養士による食事の摂り方を教育・指導している。学校で、会社で、病院で、介護施設で。

●一日30食品を食べましょう。(バランス)
●身土不二(季節に採れる地元の食べもの)
●一物全体食(頭から尻尾まで食べる)
●地産地消(地元の食材を地元で消費)

「料理」というニンゲンがあみだした「食文化」の教育が、大澤の言う「食べる暴力」や「殺して食べる」という事実をきれいに覆い隠している。

冒頭の大澤の決意文、覚悟を、これらの文章や意識の中に放ってみると、正に、異様というか、99対1の構図が出現する。

大澤の「生きることは・・・食べることは殺すことである」という、大澤にとっては、絶対の「法」が、99人対1であり、99人の人々の、耳に、とどくためには、どんな闘いが必要なのかが見えてくる。

辺見庸の、「食べることができない貧」の十数億人のニンゲンがいるという告発は、共感を呼ぶが、大澤の「問い」は、あまりにも過激で、根源的であるが由に、ニンゲンの生存の条件にも、支障を綻してしまう。

「言葉」の闘いである。

硬質な、論文調の、論理の大澤の言葉は、99人に届くまい。開かれた、明晰な、文章、人の耳にとどく言葉の開発が必要である。

「声」で語ってみる。イエス・キリストのように、釈迦のように、孔子のように、ソクラテスのように。百年、千年生き延びる「言葉」の獲得が必要だ。

「食事という暴力」を、ニンゲンの食習慣、食文化の中に、発見して、告発する大澤の声は、まだ「世界を変える具体的な実践」には至っていない。どだい、「世界を変える」という、言葉があまりにも、大きすぎる。せいぜい、(私)を変える、身の周りを変える、だ。ニンゲンに、何ができる、ニンゲンは何処まで行ける、逆に、私は、大澤の「協働」を、言葉と行動の一致を、非常に、危ないものと、感じてしまうのだ。

文壇、論壇のA氏やB氏が敵ではなくて、闘う相手は、99人の、大衆であり、国家の教育システムであり、ニンゲンの作った「料理」という食文化である。言葉の視線が、どこまで届くか、今後の、大澤の、思考の、文体の、開発に、期待したい。

大澤は、将来、イエス・キリストを描きたいという野望を持っているらしいが、目の前には大きな山がある。田川建三という山だ。「イエスという男」は、キリスト教を実践し、古語を学び、翻訳し、研究し尽くした男が書いた、イエスに関する最高の書物である。「イエスという男」を越えなければ、イエスを描いたということにならないから、高い、とてつもなく高い山であり、ハードルである。

三島由紀夫は、書くことの無力から、「行動」へと走ったが、埴谷雄高は、作家は、ただただ、ビジョンを啓示すればよいのだと反対をした。

大澤信亮の姿勢は、書くこと=生きることである。思考する人と、実践する人が、大澤の中に同居している。そして、ニンゲンが歩いて行ける、ギリギリの地点、ニンゲンが生きられる”閾”の限界で、「問い」続けるその姿勢には、頭が下がる。

同じく、若い評論家である安藤礼二は、「文学」には、何もできない、なんの効果もないと、自己限定し、深い諦念の中で、書く職人としての(私)を発揮している。

安藤礼二と大澤信亮。

最近、読んだ、若い評論家二人の「書く、生きる姿勢」は、好対照である。どちらが遠くまで行けるか、楽しみである。

来たるべき作家、評論家は、おそらく、「人間原理」(ニンゲンのすることのすべて)と「宇宙原理」(存在することのすべて)を、同時に追求する者たちであるだろう。生きる、死ぬ、在るという、簡単だが、根源的な「問い」から、意識、魂、宇宙へと、言葉のとどく限りの視線をのばしてほしい。

「問い」を生きる大澤信亮の単著「神的批評」を、十日ばかり読んでいたら、60歳を過ぎた身に、若き日のエネルギーが甦ってきた。感謝である。よく生きて下さい。神的な眼の視線がどこまでも延びるように。

Category: 書評
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