言葉の触手がのびる 来たるべき書物のための言葉
詩はひとつの言語宇宙である。マラルメや石原吉郎の詩を読んだ時の驚愕を、時代の詩集に求めているが、なかなか新しい言語宇宙に会うことがない。詩句が爆発して、全身を揺さぶるスリルは、小説やエッセイにはないものである。
さて、はじめて、芳賀章内さんの詩集を熟読してみて、私なりに、詩や言葉について、改めて、考えさせられるところがあった。その感想を自由に語ってみたい。
(現代詩)は、大きく、二つのパターンに分かれていると思う。ひとつは、石垣りんのように、日常生活を、簡単な言葉で紡ぎだし、そこに、生きている生の重みを表現するタイプ。
もうひとつは、吉増剛造のように、言葉の意味を無限に拡大して、言葉の宇宙を作りあげ、存在の迷宮へ(もの自体)=(カント)の不思議そのものを詠いあげるタイプ。
はじめて読む、芳賀章内の詩は、もちろん、後者のタイプである。
現代詩は、むずかしいと言われている。現代詩は解らないという声が多い。原因はいろいろある。しかし、本当のむずかしさは、表現の手法や、新らしい喩や、テーマにあるのではない。(わかる)という、人間がもっている力にある。(わかる)は、本当に、不思議な人間のもっている力だ。
考えてみよう。1.5億光年先にある星を眼でみる。しかし(星そのもの)を見ることはできない。あるいは、1.5メール先にある木を眼で見る。同じように(木そのもの)を見ることはできない。これが(わかる)人と(わからない)人に分かれるもとなのだ。
決して(もの自体)は据えられない。
芳賀章内の詩句を見てみよう。
「直線の都市」「円いけもの」「緑の思考」「透明に逃げる」「呪文は丸い声をあげるだろう」。著者は、タイトルは私の心性だとあとがきで語っている。
これからの詩句がわかるかどうかが、芳賀の詩を評価できるかどうかの試金石となる。この言葉の使用は、決して心性ではなく、ロートレアモンなどが創出した、ひとつの手法のヴァリエーションである。
作者は、長年身につけた、詩法で、無意識のうちに、使用しているのだと思う。
心のうちに、あるイメージがあり、そのイメージにそって、言葉を組み立てているのだろう。そうすると、読者は、作者の内にあるものに触れないと、書かれた詩語から、それを想像することは、至難の技になる。ここに、芳賀の詩の困難と不幸と楽しみがある。
「風のような直喩の存在でありたいと」
芳賀は文明、都市、人類、宇宙、あらゆるものに触手をのばそうとしているかにみえる。
「音は声のはじまり
声は音のはじまり」
とも表現する。本当はここから出発し、言語宇宙が築かれねばならぬ。
空海・弘法大師の宇宙はこうだ。
自然・生きもの→響き・音→声→ものの名前→真言→曼荼羅→法然の文字
空海は、風にそよぐ草・風に鳴る竹・咽喉からでる響きから、誰が作ったものでもない、自然に発生した文字(法語)にまで至ってしまった。言語の天才、空海だから可能だった。
芳賀章内の詩風は、来たるべき書物、たったひとつの大文字の「詩集」を作るためにあるのだろうと思う。詩語のもつ爆発力を頼りに、ひたすら、大きな困難とともに歩まねばならぬ。その為には、ひとつの言葉に無数の意味が宿るが、空海のように、自然も生きものも、たったひとつの言葉の顕れであると呟いてみるしかないのか。私の現代詩観だ。