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• 火曜日, 11月 04th, 2008

魂の交感劇 二つの宇宙の衝突が生んだもの

人間が50余年も、心の中に封印してきた、私だけの秘密を解き放とうとする行為に、魅力のないはずがない。これは事件だ。

私は、秋山駿が人間として、考えるということを中心にして、思索活動を続けてきたことに、30年間、注目してきた。

日本の文芸評論という枠を越えた、小説でもあり、評論でもあり、思想書でもある「ノオト」という新しいスタイルで、『内部の人間』『歩行と貝殻』『内的生活』『地下室の手記』『砂粒の私記』そして『舗石の思想』まで、読み続け、魅了された読者の一人だ。

考えることがそのまま生きることであり、書くことは呼吸と同じであり、私という無限の謎にたちむかう秋山駿の姿勢は、読む者の頭を手術し、心臓と感情をいつも泡だたせるものだった。

秋山駿の中心には、私という存在があり、考えるという事件があり、内部の人間という秘密がある。

処女作『内部の人間』(南北社版)には、理由なき殺人と言われた、小松川女子高生殺しの青年を論じて、それは、内部の人間が犯した犯罪だと断じた。

内部の人間とはいったい何者か?それはどんな人間なのか?なぜ、内部の人間がいるのか?読者は、その謎解きを求める。もちろん、秋山駿自身が、内部の人間である。自分の中に、その断片がない人間に、アイツは内部の人間だと言える訳がない。

いったい、その原型は、どこにあるのか、何時から、内部の人間が出現してきたのか、秋山駿の読者は、すべてを知りたいのだ。

私は、以前から、秋山駿の父は、ドストエフスキーだと思っていた。もちろん、思想の上での父親である。そして、兄弟はラスコールニコフだと考えてきた。

今回、大作『神経と夢想』を3ヶ月かけてじっくりと読んだ。長い間待っていた、内部の人間とは何者かという謎が解けた。老婆殺しの青年、ラスコールニコフが、内部の人間の原型だった。感動が来た。秋山駿という内部の人間が、小説の中の人間、ラスコールニコフに衝突する。ドストエフスキーの魂と秋山駿の魂が激しい交換劇を演じるのだ。読むという行為が、一番深いところでは、生きるという原点に達してしまう。これは驚きだ。

本書は、ドストエフスキーが創出した小説という宇宙を読みながら、秋山駿という宇宙が出現してしまうという構造になっている。秋山は、論ずるでもなく、思想を抽出するのでもなく「描写」にあらわれる人間のすべてに触れながら、そこからでてくる感慨を、自らの言葉にのせていくのだ。

小説の最高の読み方である。

秋山駿は、歩行の人である。任意の点から任意の点まで行く、現代の歩行に、現代人の生のスタイルを観る。
秋山駿は、2×2=4という、厳密だが、普通の生活を尊重して、自らの生の綱領を決めている。
だから、道ばたに転がっている、普通の石塊に、存在のすえてを見、そこに無限を見ようとして、対話をする。

秋山駿は、生きるために、必要なものだけを尊重する。余分なもの、装飾は、すべて破棄する。

つまり、『罪と罰』を読みながら、秋山駿は、自らを語ってみせるのだ。秋山駿の思索シリーズの原型は、もちろんドストエフスキー『地下生活者の手記』にある。

現在、この大作において、秋山駿の文体は大きく変わった。なぜか?秋山駿が、自らの死を意識したからだと思う。

するとどうなる?
今までノートシリーズで、考えるということを追求する、余分なもの、あいまいなものを赦さないという姿勢が変化して、存在するあらゆるものが、”私”を通過していくのを赦すというふうになるのだ。それでこそ、最高の作家ドストエフスキーとの魂の交流ができたのだ。

大作『神経と夢想』を読みながら、同時に、文庫本になった『舗石の思想』を再読した。文章の色調が一変する。呼吸が苦しくなる。(現実)が秋山駿という強いヤスリにかけられて、無残に崩れてしまうのだ。

『神経と夢想』が開かれた文体なら、『舗石の夢想』は、ひたすら中心だけを求める探求者の文体なのだ。

若い人たちは、一度、秋山駿のノオトに触れて、火傷をするがいいだろう。なぜなら、そこには、言葉が、世界を変えたり、思考が私を変える、深い、存在の謎があるからだ。

Category: 作品, 書評
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