Author:
• 金曜日, 7月 22nd, 2011

3・11以後の読書は、心を一番深いところまで沈めても、なお、耐えられる言葉で書かれたものしか、読めなくなった。

声が、文章が、形もなく、崩れ去ってしまって、いっこうに、手ごたえというものがなくなってしまう。もう、これ以上はすすめない、思考が、ステップできない地点まで、到達している文章が、やっと、作品として成立している。活字の向う側の暗闇に立っている作者の姿が見える。沈黙のまま、放心して、まるで、3・11の大地震、大津波、原発事故の被害者のように。

そんな文章が、そんな作品が、存在するのだろうか?

ある。秋山駿の「『生』の日ばかり」は、言葉の意味がなくなってしまう、ステップに、ステップを重ねた思考が、突然、身動きできなくなる、そんな意識のゼロ・ポイントまで到達した作品である。

本書は、「群像」での連載開始から読み続けている。(現在も、連載中)一区切りをつける為か、「単行本」になった。

「内部の人間」秋山駿が、80歳になって、なお、健筆で、若い頃からの、思索シリーズ、「ノートの思想」が展開されている。驚くべき持続力である。

「石ころ」を拾った青年が、「石ころ」を眺めて、「私とは何か?」「無限とは何か?」その一切を考え尽くしてやろうという野望を抱いて、もう、60年が過ぎようとしている。正しく、ニンゲンの果てしない営為である。

「内部の人間」の意識が、突然、コペルニクス的な転回を見せたのが、この、「『生』の日ばかり」である。秋山駿の読者なら、声を呑んで驚いただろう。

何が?

なんと「内部の人間」が、「外部の人間」に変身するのだ。他者の存在が、このような形で「ノート」に登場したことがあっただろうか?

誰?

「同行二人」の女(ひと)である。本文の、文章と思考が、声が変調する場面がある。

「もう打つ手がない」そんな、医者も見放すような、難病が、妻の法子さんを襲った。帯状疱疹である。四六時中、一秒ごとに(痛)みが走る。歩くことも、食べることも、トイレに行くことも、寝返りを打つことも、まるで、苦業僧にならねば不可能なのだ。読者は思わず、「本」から眼を離して、宙を見るだろう。放心するだろう。

「内部の人間」には、共にくらしてきた、「同行二人」の妻に対して、無力である。いや「文学」が無力となる。なんのために、「文学」をしてきたのか?すべての場面に、言葉が要る、在る、と考えてきた秋山駿が、自らの来歴を振りかえって、妻にかける声、言葉を探そうとする。言葉がないのだ。誰も、二人で、共同で、生活してきたその中で、(共同の言葉)を、考えてこなかったのだ。

つまり、意識のゼロ・ポイントである。もう、言葉も、思考も、用をなさない地点に、ニンゲンが直面して、黙ってしまう。ちょうど3・11の被害者のように。

もう一歩、歩をすすめると「宗教」となる。もちろん、秋山駿は、「文学」の人であるから、(知)から(信)へと超越する「宗教」へとは、行かない。しかし、(私)の中の「神」の存在は考察する。私の中の「無限」については、考える。

自らも、胃ガンの手術を受け、足を痛めて、公園の散歩もままならぬ身である。齢を重ねるニンゲンの日々を綴るノートは、正に、超高齢者社会へと突入した、日本人の生きざまを、正確に写し取っている。老いて、なお、わが道を行く姿を思い描いていると、私の眼には、正宗白鳥が映った。そして、秋山駿の姿が重なった。

考える、精神ばかりを迫ってきた文学者の言葉が、身体、肉体というものの深さの前で、沈黙してしまう。60兆の細胞の(私)、30億年、生命をリレーしてきた身体という不思議の(私)。在ることは迷宮だ。

毎日、毎時間、毎秒、痛いだけの日々を生きるニンゲンに、何か、意味はあるのだろうか?(誰が答えられる?)泣くしかない、それでは、まるで、病苦を詠んだ、正岡子規だ。祈りは?祈りはどこへ行った?

不思議なことに、痛みの頂点で、薬も効かないのに、法子さんが、秋山駿の手を握っていると、痛みがやわらいぐという。手の力である。お腹が痛い子供が、母の手で、撫でてもらうと、痛みがひいた、あれと同じことが起こっているのか?

眼は、眼で、覗き込むと、お互いの考えていることがすべてわかる。声は、病院から、家に電話をした法子さんの声「駿の声が聞けてよかった」まるで、光太郎と智恵子である。

秋山駿、法子さん、一蓮托生の人生である。「同行二人」は、歩く遍路と空海の意味であるが、秋山駿の「同行二人」は、私と妻の意味である。

「東日本大震災・原発事故」は、畏ろしきもの、人知の及ばぬものをニンゲンに突きつけた。一瞬の、不運、不幸、不遇、偶然という魔の恐怖であった。

私たちが、生きることは、宇宙にとってなんなのだと、宇宙そのものに、ニンゲンの意味を問いたくなる日々である。

まだ、まだ続く「『生』の日ばかり」ではあるが、単行本になった分だけ感想を記してみた。秋山駿の生きた言葉に、お礼である。

7月18日記

Category: 書評
You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.
Leave a Reply