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• 金曜日, 7月 22nd, 2011

3.11で、ニンゲンの意識が、ゼロ・ポイントまで落ちることを、経験した今、小説を読むという行為は、どのように成立するのだろうか?

3万人を超える死者と、12万人を超える避難民、家を喪い、仕事を喪い、家族を喪い、故郷を喪い、昨日まで生きてきた、普通の日常を喪い、見慣れた風景まで喪ってしまった人々、言葉が役に立たず、(知)が通用せず、水と食料と、寝所と、衣服を求めて彷徨する魂たちを前にして、偶然、その地に居ないために、被害をまぬがれた日本人。原発で、放射能が撒き散らされた国土、汚染されて、何年、何十年と放射能におびえ続けることになった日本人。

そんな中で、小説を読む。3.11は、意識そのものが、変革を迫られる、大事件であった。

何度か、「物語」を読もうとして、ページから眼を離し、手を休め、宙空に視線を泳がせた。しかし、「地上の人々」の色調は、3・11以後の世界にも、溶け込むものだった。

奇妙な色調の小説である。三人の、ホームレスの話、都市へと出てきて、夢破れて、終に、人生の最下部とも思われる、ホームレスへと転落した三人の男の話である。生活を喪い、家族を喪い、故郷を喪い、仕事を喪い、その日その日を、ただ、生きている、ニンゲンの日常がある。

なぜ、作者は、このような、あらゆるものを喪ってしまったニンゲンたちに、身を寄せて、こんな小説を書いたのだろうか?

作者、井出彰の心性にも、崩壊感覚がある。どうも、自分は、まっとうな人生を生き切れないのでは、という不安、危惧がある。一番最小単位である、生きるための(私)にとって、何が一番確かなものか?社会的な立場、役割り、椅子、地位、すべてが、虚しく、崩れ落ちてしまう、そんな感性が、作者の心の底の底に流れている。

生きて、生活して、闘って、病んで、老いて、ただ死んでいくところのニンゲン。ニンゲンから、社会的な意味を抜き取ってしまうと(裸の私)だけが残る。社会が付加した意味という意味は、すべて剥がされて、崩れて、消えてしまう。

ほとんど(無常)の世界であるのに、妙に明るい。この明るさはなんだろう。「人間、暗いうちは滅びない」と太宰治は語った。であるならば、この明るさは、滅びの予兆であろうか?

3・11東日本大震災、原発事故の前に書かれた小説であるというのに、奇妙なことに滅びの色調は、その大事件に、同化してしまう。

ニンゲンにとって、生きるということは、この宇宙の中において、どんな意味をもつというのだろうか?

意味など一切ないのか?私たちは、ただ、人間が作りあげた「人間原理」の内でのみ生きている。自然である「宇宙原理」は人間のことなど、一切関係なく、ただ、流れている。

小説を読み終えた、私の感慨である。

Category: 書評
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