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• 水曜日, 2月 23rd, 2011

もう、何年前になるだろうか。

「建築する身体」という一冊の本を購った。長い間、少年期から、ずっと考え続けていた、私のテーマが、その本の中に、すっぽりとあった。

荒川修作との出会いである。

続いて、「死ぬのは法律違反です」という、アフォリズム風な、奇妙なタイトルの本を購った。世の中には、似たようなことを考える人がいるものだと思った。読了した時、アラワカへの旅をはじめてみようと考えた。

誰もが、正面から、考えない、しかし、人類最大のテーマ「死」があった。なんとなく、わかったつもりになっている「死」、「死」を考えるよりも、日々を生きるのに忙しい現代の人々。

神話が、宗教が、哲学が数千年、問い続けてきた、「生命とニンゲンの死」が、科学の出現で、終止符を打たれたかに見える、現在、誰もが、「死」は、百パーセント来るものと信じて、疑わず、疑わぬどころか、隠して、病院の介護施設の中へと閉じ込めて、葬式の時に、チラリと、頭の中で発火する、他人事の、自分には関係のない、恐怖として、扱いはじめた。

本来、一切を問い、描かねばならぬ、小説、哲学、芸術も、身辺の雑記や感想や、情況や、事象のみしか扱わなくなっている。

そんな、精神の弛んだ現在に、アラカワは、唯一、本気で、正面から、人類の最大のテーマに挑戦する人であった。先を急ぐまい。アラカワ。荒川修作とは、いったい、何者であろうか?

「私は死なない」と断言し「死ぬのは法律違反です」と書き、「天命反転」というヴィジョンを揚げ続けた人である。それらの言説を聞き、眼にしただけで、常識の人、科学の人たちは、奇人だ、変人だ、気が狂っている、狂信者だと横を向いて、遠去かってしまうだろう。

アラカワは、画家として出発している。青年期には、ダダイズム、シュールレアリズム、フォービズムの風を受けている。ダイアグラム的な作品を発表し、詩人瀧口修造に注目された。ネオ、ダダイズムの旗を揚げ、「箱にセメントをつめた作品」(棺のような)を発表している。その頃、ノイローゼにかかって、精神のリールが切れそうに、泣き、叫んでいる。

そして、渡米。生涯の、共同制作者、詩人のマドリン・ギンズと邂逅した。ギンズ婦人は、ランボー・マラルメと、天才詩人たちを愛し、アラカワ+ギンズの著作のほとんどを、彼女自身の手で書くことになる。

アメリカを、ヨーロッパを、世界を唸らせた「意味のメカニズム」が発表された。絵、文書、図面、グラフなどが、画面を占領する、未知の、大作である。いったい、これは、何か?

いや、いや、先を急ぐまい。

私は、はじめらかの、アラカワのファンではない。終りからはじめているのだ。ゆっくりと、手探りで、深く、広い、未だ開発されていない、未読のエリアへ、アラカワの耕やした、見たこともない時空へ、歩を進めよう。

画家、芸術家、建築家、哲学者、教祖、エコロジスト、天才、多面的な顔を持つアラカワへと、ゆっくりと、旅をしよう。

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