Archive for ◊ 3月, 2022 ◊

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• 火曜日, 3月 22nd, 2022

1.「われもまた天に」(新潮社刊)古井由吉著
2.「ホモ・デウス」上・下巻(河出書房新社刊)ユヴァル・ノア・ハラリ著
3.「竹内浩三詩文集」(風媒社刊)-戦争に断ち切らけた青春- -小林察編-
4.「組曲わすれこうじ」(新潮社刊)黒田夏子著
5.「伊東静雄詩集」(岩波文庫刊)杉本秀太郎編
6.「いのちの初夜」(角川文庫刊)北條民雄著
7.「霧の彼方 須賀敦子」(集英社刊)若松英輔著
8.「かか」(河出書房新潮社刊)宇佐見りん著
9.「推し、燃ゆ」(河出書房新潮社刊)宇佐見りん著
10.「須賀敦子の旅路」(文春文庫刊)大竹昭子著
11.「わたしの芭蕉」(講談社刊)加賀乙彦著)
12. 詩集「夜景座生まれ」(新潮社刊)最果タヒ著
13.「永瀬清子詩集」(思潮社刊)
14.「短章集-蝶のめいてい・流れる髪」(思潮社刊)永瀬清子著
15.「短章集-焔に薪を。彩りの雲」(思潮社刊)永瀬清子著
16.「追跡 藤村操-日光投瀑死事件」(発行 ブイツーソリューション刊)猪股忠著
17.「水のように」(朝日新聞出版刊)浪花千栄子著
18.「未来タル」詩の礫 十年記(徳間書店刊)和合亮一著
19.「計算する生命」(新潮社刊)森田真生著
20.「私のエッセイズム」(河出書房刊)古井由吉著 エッセイ撰 堀江敏幸監修
21.「古井由吉論-文学の衝撃力」(アーツアンドクラフツ刊)富岡幸一郎著
22. 句集「句集 若狭」(角川書店刊)遠藤若狭男著
23.「大洋を行く宣教」(イーグレス刊)篠原敦子著
24.「麒麟模様の馬を見た」(メディア・ケアプラス刊)三橋昭著
25. 詩集「おだやかな洪水」(土曜美術社出版販売刊)加藤思何理著
26.「音楽の危機」(中公新書刊)岡田暁生著
27.「最澄と徳一」(岩波新書刊)師茂樹著
28.「海をあげる」(筑摩書房刊)上間陽子著
29.「二千億の果実」(河出書房新社刊)宮内勝典著
30.「ヒトの壁」(新潮新書刊)養老孟司著
31.「言語と呪術」(慶応義塾大学出版会刊)井筒俊彦著

眼。近視である。眼鏡をかけても、視力は、0.6。乱視である。月は、いつも二重に見える。蚊が点となって飛ぶ。飛蚊症である。光が飛んで、空間に波が立って、歪む。閃輝暗点である。眼が霞む。老化か?目薬を刺して。1時の読書が、限度となった。テレビを観る、新聞を読むのも、小さな字は辛い。
眼科へ行ってみた。(緑内障)だと告げられる!!少しショック。眼圧が高いのだ。左眼は1割しか見えていない。幸い右眼は、8割くらい見える。脳がバランスをとって、モノを見ている。このままだと、左眼が失明する。で、どうするのか?
手術でも治らない。(白内障なら完治できる)結局、目薬を差して、現状を保つしか術がない。やれやれ、唯一の楽しみ(読書)の継続が危なくなった!!
しかし、考え方次第である。左の眼が失明しても、まだ、右眼が残っている。歩けるだけで、セイカツが保てるのだ。

さて、50年も続けてきた「読書」がピンチに陥った。もう、余分なものは読めない。大事な「本」だけ読みたい。
足の衰えは、歩けば防ぐことができるが、眼は、使いすぎないように、ぼんやりと、緑の樹木、風景、空を見て休めるしか術がない。
(読む)は(書く)である。(書く)は(読む)である。銅貨の表と裏の関係にある。思考を紡ぎ、世界を書いている。「文」を書くと、必ず、頭の中で、ひとつの世界を読み取っている。言葉で書きながら、言葉を読みながら、「コトバ」に至る!!

1.「われもまた天に」
おそらく、日本文学が、最高の「文体」を持つに至った、作家が、古井由吉であった。その古井由吉が死んで、もう、3回忌になる。雑誌「新潮」が、「古井由吉の文」(三回忌に寄せて)と題して、アンケート特集を組んでいる。
蓮見重彦、平野啓一郎、又吉直樹など、作家・評論家たち18人が、古井の「文章」を引用して、論じている。その中でも、珍しく、古井由吉の妻、睿子さんが、エッセイを載せている。
思想は「文体」の中にしかない。実証したのは、古井由吉の残した小説群だ。「われもまた天に」は、未完の「遺稿」を含む、短篇小説、4作である。どの文章を読んでも、古井由吉という判が押してある。思考の、感覚の、意識の、言葉の触手が時空を超えて、四方八方にのびて、ひとつの小宇宙を創っている。誰も、真似のできない文体である。
終には、「徒然草」や「枕草子」の世界に地続きになって、(私)など、消えてしまう。畏ろしい文体の世界である。

2.「ホモ・デウス」
世界に衝撃を与えた前作「サピエンス全史」に続く大作である。
地球という小さな小さな惑星の上で自然に進化して、四つの革命を成し遂げたホモ・サピエンス。認知革命・思考革命・科学革命・人類の統一。そしていよいよ、宇宙へ。ホモ・デウスの時代へ。
(意味)(意義)というものがなくなる時代。テクノロジーの発達。量子力学。AI。遺伝子操作。進化にもニンゲンの手が入る。(カミ)の領域へ。もう、ニンゲンから超ニンゲンへ。ホモ・テデウス(カミ)の領域へ突き進むしかない。(科学)は?宇宙に立つむかえるのか?(宇宙)に、ニンゲンは(意味)を発見できるのか?
大きな、大きな問いの「本」である。

3.「竹内浩三詩文集」~戦争に断ち切らけた青春~
未だに、人類は「戦争」(殺し合い)を克服できる知恵をもてないでいる。普通の人間が、ある日、突然戦場へと送られてしまう。(日常)が壊れてしまう。セイカツが、破壊される。好きな仕事(映画)を断念する。竹内浩三が残した「詩」や「日記」。痛切である。
「死者のうた」「骨のうたう」は、「病死やあわれ兵隊の死ぬるやあわれ とおい他国ひよんと死ぬるや だまって だれもいないところで ひよんと死ぬるや-(略)なんいもないところで 骨は なんにもなしになった(国のため 大君のため 死んでしまうや その心や)
絶唱である。24歳で戦死!!無名の戦士の、普通のヒトの魂の叫び声が聞こえてくる(詩)と日記。

4.「組曲わすれこうじ」
史上最高齢で、芥川賞を受賞した出世作「abさんご」から、7年を経てようやく、第二作品集「組曲わすれこうじ」が出版された。76歳での受賞が、話題を読んで、12万部が売れた。ただし、独特の文体に苦戦して、最後まで読み終えた読者は、1割もいただろうか?
「読書会」で、テキストとして、取り上げて全員で読んでみた。不評であった。難解だ。何を言いたいのか、わからない。作者のマスタベーションではないのかと 酷評が多かった。読む(黙読)ではなくて、声に出して朗読して下さい。とアドバイスをした。「平家物語」のように。
登場人物の名前がない。会話文がない。物の名前がない。句読点がない。漢字がひらがなになっている。横書きである。過去・現在・未来がない。いや、ひとつの文章の中にある。
17の章、組曲からできている短篇集である。約200ページの薄い「本」である。黒田は、この作品に7年の歳月をかけている。読者が、1日や2日で読み解ける訳がない。ほとんど、(詩)と言ってもいい作品だ。
内的リズム、意識の流れに触れると黒田の世界=宇宙が現れてくる。最高の魅力。黒田は、この文体でしか書けない。世界に、立ちむかっている。1000人?いや100人?限られた読者にしか、読めない、味わえない(小説)である。この小説の一番の読者。一番深く、詳しく、ていねいに、読み解ける人は批評家(蓮見重彦)である。

5.「伊東静雄詩集」杉本秀太郎編、注解。
若い頃から、何度も何度も、伊東静雄の「詩」を読んできた。リズム、文体、思想の三位一体を可能にした「詩」。
伊東の立ち姿が好きであった。激しさと静かさが同時に内包されている「詩」。三島由紀夫が絶賛したのもよくわかる。しかし、今回、杉本秀太郎の(注解)(解説)を読んで、驚愕した。
こんな読み方もあるのか?萩原朔太郎は、いったい何を読んでいたのか?(私も)

6.「いのちの初夜」
再読。いや、もう、何回も読んでいる。詩人・石原吉郎は、生涯、この作品を読み続けた。なぜ?何に魅かれて。
(極限)ということ。人間存在が、吐き出す(極限)での言葉の力。その生命力。絶望の底の底でつかんだもの。そんなニンゲンの(声)に、石原吉郎は魅力されたのか?と。

7.「霧の彼方 須賀敦子」
作者・若松英輔は、評論家・詩人・クリスチャン。若松には、井筒俊彦論がある。
書くこと。考えること。祈ること。-若松は、その三点で井筒から大きな大きな影響を受けている。須賀敦子もクリスチャンである。若松は、信仰とは何か?コトバとは何か?書くとは何か?と問うことで(須賀敦子)の評伝を書いている。
約470ページの大作である。若松の著書「イエス伝」とともに読み直してみた。若松は、妻をなくしている。須賀は夫をなくしている。(死)がひとつのバネになって(書く人間)への舵を切った二人。その(虚無)の底から、コトバが立ちのぼってくる。ニンゲンは、一度死んで、その中から、再生して、コトバへとむかう。悲嘆を知った人のコトバは、響き合って、あたらしい力となる。不思議だ。

8.9.「かか」「推し、燃ゆ」
書評欄を見てほしい。

10.「須賀敦子の旅路」
須賀敦子はイタリア(主にミラノ)で、学び、働き、結婚し、帰国した。(夫に死なれて)
大竹は、イタリアでの須賀の足跡を追って、追体験しながら、イタリアを訪れたことがない人々(読者)にもわかるように、ていねいに、(須賀敦子)の姿を活写している。写真もなかなか良い。初期の頃の、須賀敦子論であろう。

11.「わたしの芭蕉」
加賀乙彦は、精神科医・小説家。日本のドストエフスキーではないかと思えるほどの、長篇小説家である。
「帰らざる夏」「宣告」「湿原」「永遠の都」「雲の都」など、大河小説家。長篇、大河小説の文章と、俳句~日本で、世界で?一番短い文章作品の関係は?加賀乙彦が、芭蕉の俳句に魅せあられているとは、知らなかった。
思考とうねる文体と構造力。加賀の長篇小説は、体力がないと読めない。100メートル走とマラソンがちがうように短篇と長篇の文体、リズム、呼吸もちがう。
(美しい日本語)を俳句に求める加賀。単なる作家の楽しみではない。研究者も驚くほどの、(俳句)の言葉の分析。味わい方。言葉を鍛えて、俳句そのものを楽しむ、そんな一面があるのか。加賀乙彦の言葉の底力の源泉が俳句とは!!

12.「夜景座生まれ」
「人間原理」から遠く離れて、「宇宙原理」を求めて、言葉からコトバへと(詩)を書く最果タヒの言葉の自由度には、いつも、感服する。しかし、若い若いと思っていた最果タヒも「詩歴」を見ると、もう、35歳。新しい言葉、感性、想像力、発想だけに頼っていては、あぶない年齢に入った。インターネットで詩?を書きはじめて、17年になる。8冊の詩集を出版。最果タヒという音源からは、いつも自由な言葉が流れてくる。どこまで、このスタイルが続くのだろう。おそらく、(宇宙)へと旅立ちたいのだろう。(真実)も(絶対)も消えた時代の詩人。

13.14.15「永瀬清子詩集」「短章集-蝶のめいてい・流れる髪」「短章集-焔に薪を。彩りの雲」
はじめて、永瀬清子の詩を読む。明治の女(39年)である。私の祖母の代の詩人である。今から116年も昔に生まれて、詩を書いた。いや、単に、詩を書いただけの詩人ではない。農業にも従事した。事務の勤め人もやった。主婦であり、子育てをするよき母親でもあった。岡山県の地方に棲み続けた。原水爆に反対する行動の詩人でもあった。
「あけがたにくる人よ」「美しい国」「グレンデルカの母親」「女の戦い」「外はいつしか」
これらの詩は、令和の時代に生きる私たちの耳にも、心にも、充分にとどくものである。封建の匂いが残る時代に、これらの詩は、ニンゲンの力を放っている。
私が永瀬の詩や作品に強く魅かれたのは、実は、二冊の「短章集」があったからだ。単なる短い詩という訳ではない。見事なアフォリズムである。永瀬の思想の核がこの短章集の中にある。宮沢賢治への熱い思いも入っている。「詩について」や「詩についての三章」は、永瀬の力強い宣言である。詩人であると同時に、地に足のついた生活人でもあった。アフォリズム畏るべし!!

16.「追跡 藤村操-日光投瀑死事件」
「明治の青春」は、山形県出身の藤原正を中心にして、斎藤茂吉、阿部次郎、藤村操、安倍能成、岩波茂雄、魚住影雄の七人を論じた、600ページを越える大作・労作であった。著者・猪股忠は、その七人を、一冊一冊、ていねいな「単行本」にして、出版し続けている。早稲田で国文学を学び、小説や評論を書いていた。山形の高校の教師で生計を立てながら、郷土の先輩たち・文学者たちの著作を読み、資料を集め、若き日の面影を、ていねいに活写している。
高校教師を定年となった今、著述に打ち込めるのも、第二の人生としては、実に、有意義な、生きざまである。七人の文学者を、七冊の「本」で表現する試みは、ひとつのライフ・ワークであろう。友人として拍手を送りたい。

17.「水のように」
大阪の友人・建築家の歌一洋君から一冊の「本」が送られてきた。歌一洋君は、四国八十八ヶ所に「へんろ小屋」を創り続けている。(ライフワーク)徳島海南高校の同級生である。建築・設計では、さまざまな賞を受賞している、関西では、有名人(?)である。
「水のように」は、浪花千栄子の著作・自伝である。NHK連続テレビ小説『おちよやん』のモデルとなった女優が、浪花千栄子である。昔、小学校の頃、毎夕、ラジオドラマを楽しみにして聴いていた。「おとうさんはお人好し」アチャコ(夫)と浪花千栄子(妻)が繰りひろげるホームドラマであった。幸せな女優生活に至るまで、貧乏の底の底で生きてきた少女時代、結婚、夫の浮気と実生活でも苦労も見事に活写された自伝であった。
歌一洋君が、なぜ?この本を私に?「本」の巻末に、解説があった。古川綾子(上方芸能研究者)さんが、ていねいな解説を書いている。実は、古川さんは、歌一洋君のあたらしい”妻”であった。なるほど、なぜ、この「本」を、私に送ってきたのか、ようやく、その意味がわかった。謎が解けた。歌一洋君、お幸せに。

18.「未来タル」
東日本大震災から10年になる。(大地震、大津波、原発事故)
ニンゲンの意識が、ゼロ・ポイントに陥る、大惨事であった。コトバも死んでいた。和合は、「詩の礫」と題した、ツイッター詩を、同時進行で書き、詩集として発表した。大きな反響を呼んだ詩であった。(肯定する者、否定する者、両論あったが)
詩が生きていた。いわゆる(現代詩)など、和合にとって、どうでもよかったのだろう。衝動に迫れれて、手が動いた。
あれから10年!!
本書「未来タル」は、詩、十年記、そして、若松英輔、後藤正文との対話による。何もかもが具体的である。頭で考えたものは何もない。身体で体験して、心が感じたままが(詩)(文章)になっている。
和合は、悲と苦の中で、覚醒した。観念的なもの、抽象的なものには何もない。ただ、眼に見えない放射能とココロはある。

19.「計算する生命」
中学・高校時代は「数学」が嫌手であった。「計算する」ことすら、嫌手であった。「虚数」がでてくると、ますます、「数学」がわからなくなった。
「零の発見」は、「数」の面白さを目覚めさせてくれた一冊である。「数学から超数学へ」(ゲーデルの証明)なども読んでみた。佐々木力の「数学史」(900ページの大作)は、何かわからないことがあると、ページをめくっている。ニンゲンと数の歴史がある。森田真生の「数学する身体」は、数学者・岡潔とアラン・チューリングを論じる非常に利戦的な「本」であった。(独立研究者)である森田真生は、ニンゲンを、(計算する生命)と捉えている。ココロや意識が、どのように、(数)と関係するのか、今後も、研究を見守っていきたい。第二の岡潔になれるのか?

20.「私のエッセイズム」
「表現は無力である」古井由吉は、その地点から「文章」を書きはじめている。モノもコトもヒトも、知れば知るほどその表現は、不可能に接近する。古井由吉の「小説」に親しんできた者にとって古井自身の「思考・認識・思想」は、どんなところから出発しているのか、知りたくなる。「小説」と「エッセイ」は、まったく異なる生きのもである。「目の前にある物事をもう一度自分の手ではじめから素描してみようというエッセイズムの行き方は、私の思考の出発点である。」(古井)
本者は、堀江敏幸が、数多い古井由吉のエッセイの中から、47作品を撰んで、監修した作品集である。言葉について、翻訳について、歌について、創作について、戦争につちえ、小説について、さまざまな分野の古井由吉の(声)が鳴り響く、心がゆたかになるエッセイ集である。作家の(秘密)の核がこの「本」にある。

21.「古井由吉論-文学の衝撃力」
作者・富岡幸一郎は、「戦後文学」を読むことで、評論家の道に入った人である。そして、内村鑑三やカール・バルトなどの神学者の著作を通じて、「キリスト教信仰」を得た人でもある。
さて、日本でもっとも難解な小説は、埴谷雄高の「死霊」であろう。自同律の不快という思想・形而上学的なテーマがとても難解である。
古井由吉の小説も、実に、難解である。何が?(文体)そのものが、読み解くのにむつかしいのだ。あくまで、扱っているテーマーが、難解だという訳ではない。粘着力の強い、独特の文体は、まだ、読者が接したことのない、未知の領域の、新しい発見の言葉から成っている。
まだ、古井文学全体の分析・注解を行った「本」はない。あらゆる作家・評論家が、古井由吉の(文体)に挑んでいるが、完全なる評論は出ていない。初期作品の分析は、柄谷行人の評論が秀でている。(文体)の分析・注解は、短篇集「水」を扱った蓮見重彦の評論が見事である。
さて、富岡幸一郎が、「古井由吉の文学」全体を論じている。同時に、二度にわたる古井自身へのインタヴューも収録している。「作家の誕生」「文体の脱構築へ」「黙示としての文学」「預言者としての小説家」の回章から成る評論集。
富岡は、古井文学の中に、旧約聖書の預言者のメッセージを読みとっている。思想(政治)や宗教とは縁が遠い古井文学に対して、富岡は、古井の言葉に預言者のメッセージを読みとる本書である。

22.「句集 若狭」
旧友・遠藤若狭男(喬)・早大国語国文科のクラスメート・文学の友(「あくた」同人)が逝って、もう4年になる。
ときどき、思い出してみては、「神話」から5冊目の句集「旅鞄」を取り出して、俳句を読む、眺める、ある種の感慨にふける。
さて、ある日、遠藤君の奥さま(歌人)から第6句集が届けられた。大谷和子さんは(あとがき)で句集が、なぜ「遺句集」ではなくて第6句集のなのかを、述べている。(遠藤は第6句集の計画を立てていた)
また、収録作品が1285句と、今までの句集の3倍も多い理由についても。(どの句には、遠藤の生の一瞬がある)幸い、句集は、評判も良くて、「俳句四季」には、二つの書評が載った。「俳句」にも、「この道ゆけば」というエッセイを、菊田一平が書いている。歌人であり、俳句も作る和子夫人があればこその(第6句集)であった。
遠藤君、いい奥さんと一緒で良かったね。幸せ者だよ君は。
句集「若狭」には「微苦笑」と「言霊」という(俳句+散文)の章がある。敬愛する作家・三浦哲郎からのハガキや詩人・金子光晴との遭遇・三島由紀夫の思い出など、そして、高校時代の俳句雑誌への投稿、入選句の紹介などがあって、人間・遠藤若狭男を知る上で、貴重な文章となっている。
・ふるさとは歩くが楽し草ひばり
・青き踏むときをり死後のこと思ひ
・雪晴のこの道ゆけば若狭なる
・わが死後のわれかも知れず秋の風
・春雷や少年遠き海を愛す
・林檎青顆少女に少年のみ傷つく
「たかが俳句 されど俳句」俳句道に一生をかけた遠藤若狭男(喬)の(声)に終日耳を傾けて。どの句にも、遠藤の(人柄)が滲み出ていて、俳句を流れる時空に、我を忘れて、浮遊している。中原中也と同じくらい深い(抒情)の俳句、詩心。

23.「大洋を行く宣教」
孔子も、イエス・キリストも、ソクラテスも、釈尊も、自分の言葉を「本」として、書き残さなかった。「論語」「新約聖書」「ソクラテスの弁明」「ブッダの言葉」すべて、弟子や使徒たちが(師)の言葉を(傾聴)して、記憶によって、書き記した「本」である。
名著「遠野物語」も、民族学者、柳田国男が、地元の人から(傾聴)して、書き綴った「本」である。(傾聴)という力-声の力が、言葉(文学)の力となって「本」として残り、人類の(知)の財産となっている。
本書も、理由があって、キリスト者となった作者・篠原敦子が、先輩の、橋本千代子宣教師に(傾聴)して、書かれた「本」である。橋本夫婦は、宣教師として、文学をもたない、パプアニューギニア島の小さな村に渡って、現地の言葉を学び、新約聖書を、その言葉に「翻訳」をした。思えば、聖書や仏典も、さまざまな国の言葉に、翻訳されている。時代を超えて。地域・国を超えて。(言葉の力)が、いかに、人間を活性化するか。言葉にならぬ苦労の跡を、著者は、私を殺して、ひたすら、橋本千代子の言葉に耳を傾けて、一冊の「本」とした。共生・共感がなければ、容易に成し遂げられぬ(行為)を支えるのは(信仰)という力である。
25年の歳月をかけて、文字をもたない少数民族の言葉(話し言葉)を収得して、(文字)にするという行為は、(言葉の力)を信じたればこそ、実現できたものであろう。そして人には、それぞれの役割がある。翻訳する人もあれば、その行為を広く伝達する者もいる。本当に必要な仕事とは、地の塩のようなものであろう。篠原敦子も(傾聴)に徹していい仕事をした。

24.「麒麟模様の馬を見た」
毎晩、ラジオの「深夜放送」を聴きながら眠るのが習慣になっている。11時15分から朝の5時まで。眠くなった時、ラジオのスイッチを切る。ある日、ある夜、幻視を見て、そのまま幻視を絵に画くという人が登場した。興味があるので、翌日、書房に行って、取り寄せてもらった。
「幻視」や「幻聴」を見たり、聞いたりする人は、けっこういるものだ。芥川龍之介も、光の歯車が廻るのを視た。車谷長吉(直木賞作家)は、スリッパが空を飛ぶ風景を視た。
私も、光の渦が、空に飛ぶのをよく見る。(閃輝暗点)父が四国で死んた時、千葉に住んでいる私は、父の幻視を見た。暗闇の庭に父が立っていた。軍服を着て、両手を大きく空にあげて、口からは赤く長い舌が出てきて、舌には、何やら文字が書き刻まれていた。実に、自然な光景だった。(実は幻視だったか?)
幻視・幻聴は、普通の人間にとっては、一種の狂気である。昔は、精神分裂病といわれていたが、今では統合失調症と呼ばれている。あるはずのないものが見える。聴こえないはずのない音が聴こえる!!
作者の三橋昭さんは、見えないはずのものが見えて(幻視)それを絵に描いている人だ。レビー小体型認知症という病名である。猫、魚、花、蛙、ネズミ、馬とさまざまなものが見える。幻視と空想はちがう。幻視は、実にリアルである。
「本」を読みながら、人間の不思議を思った。幻視・幻聴、妄想、錯視、せん妄・・・
「人間の人体」は、まだまだわからない未知のものである。不思議は、普通の(私)に、日常にある。

25.「おだやかな洪水」
ユニークな資質・感性・想像力をもっている詩人。加藤思何理の8冊目の詩集である。日本の(私小説)(私詩)という風土から脱け出た、スケールの大きな詩人である。シュールで、アバンギャルドで、メタフィジックで、いつも、もうひとつの(世界=宇宙)を掲示してくれる、実に、スリリングな詩人。
本書は「神」から「眼」まで57作品と間奏・インタビュー(6本)a~fが、創作の秘密を解くために、挟まれている。(性)と(夢)は、加藤の創作の種子である、核である。
「ぼくの詩は、いわば一人称の視点で撮影されたサスペンスフルな映画みたいなものです。」
詩人の、一式真理の評
「父と母をめぐるフロイド的エロスの大三角。そして死者である母を、父と死の双方から(書く)ことによって取り戻そうとする試みがテーマだ」
日本からも、ポーやマラルメやボルヘスのような詩人が出現してほしいものだ。

26.「音楽の危機」
怨歌の藤圭子と同じくらいに、クラッシクのバッハが好きである。ギターを弾き、サクソフォンを吹いていた。日曜日の朝は、9時から約45分、ラジオで、クラッシクの番組を聴く。世界の武満徹に私の小説集(著書)をお送りして、二度、ハガキをもらったことがある。(私のお宝)
「音楽の危機」は、実に、刺激的な新書であった。新型コロナウイルスのパンデミックで、ほとんどの(生)の音楽が聴けなくなっった。著者は、音楽の消滅を危惧して、コロナ渦にあって、音楽の原点とは何だったのか?と思考する。本当に、音楽は終ってしまうのか?社会の人間にとって、音楽は必要か?音楽家の役割とは何か?距離とは?舞台とは?場とは?非常時下の音楽とは?終りのある音楽からサドンデスの音楽へ。未来の音楽は、どのようにあるべきか?
その論考は、単なる音楽の歴史や種類を論じるというよりも、(音)の原点にまで登りつめるものであった。音楽に関心のある人には、是非お読みいただきたい1冊である。

27.「最澄と徳一」
日本の仏教史において、最大の論争が「三一権実論争」である。天台宗の開祖、最澄と、東国の法相宗の徳一が5年にわたって論争を交わした。華厳と唯識の争いである。
声聞・縁覚・菩薩の三乗は、衆生を導く方便!!とする最澄。真実は”一乗”である。(三乗方便一乗真実)説の最澄。一切衆生悉皆成仏性である。
徳一は、三乗の差別は真実!!「五性各別」によって証明。(三乗真実一乗方便)
作者は、あらゆる資料を駆使して、この論争を読み解いていく。8年間、高野山大学大学院で修学した折、「テスト」に、この問題が提出された。空海も、徳一から論争を挑まれたが、空海の(答え)は、残念ながら残っていない。

28.「海をあげる」
著者の上間陽子は、第二の石牟礼道子になるかもしれない。本書を読み終った、私の感慨である。
上間は、沖縄県生まれ。現在、琉球大学教育学研究科の教授。普天間基地の近くに、夫、娘と共に住んでいる。東京で、沖縄で、未青年の少女たちの支援、調査に携わってきた。東京で、夫の不倫・離婚と辛い経験をして、沖縄に帰って再婚。そして、基地問題へと目覚めていく。少年、少女たちの声を(傾聴)して、沖縄の差別や貧困によりそって、壊れていくニンゲンを、やさしくていねいに、描きあげた。
「問題」は足許に眠っていた。石牟礼道子が、水俣の病者に、寄りそって、闘ったように、上間も、崩れていく、少年、少女たちに身をもって、支援の声をおくり続けている。感動ものの一冊である。

29.「二千億の果実」
宮内勝典は、日本人を超えてしまう、スケールの大きな作家である。「南風」で文藝賞を受賞。ハルピンで生まれ、鹿児島の高校を卒業。アメリカへ。世界の60カ国を歩く。1944年生まれであるから、もう、78歳になる。「グリニッジの光を離れて」や「ぼくは始祖鳥になりたい」など全人類を見渡すような、大きなテーマで、小説を書いてきた。
本書も、全人類二千億人の物語である。ホモ・サピエンスの誕生から、もう、ニンゲンが、二千億人の生まれたのだ。地球に生まれた、心をもって、生きた人間2000億人を描き尽くすという野望は無理としても、26作品から成るこの小説集には、さまざまな人間が登場する。天才アインシュタインや革命家チェ・ゲバラまで。千葉県の房総半島に棲んだ自身の物語「養老渓谷」もある。その構想力と、想像力に恥じない作品集である。
なお、ご子息は、SFや純文学小説を書いている、宮内悠介氏である。正に親子鷹。

30.「ヒトの壁」
「バカの壁」が450万部売れたそうである。NHKテレビでも、養老先生と愛猫まるの番組が放送されている。正に”時の人”である。解剖学者としての、専門家としての、著書「からだの見方」や「唯脳論」は、硬質で、一部の人が読むだけのものであった。なぜ「バカの壁」が一般の人々にも売れたのか?本人もよくわからないという。ひとつは、ライターが書いた「本」である。私は、そのやさしい語りが、一般受けしたのではないかと推察している。
さて「ヒトの壁」は、壁シリーズの4作目。養老先生も84歳になった。コロナ渦に考えてきたこと「人間論」が、本書のテーマである。心筋梗塞を病ったり、愛猫まるに死なれたり、「生老病死」に立ちむかう養老先生の思索の日々がある。
「万事テキトーに終ればいい」(本人の思い)鎌倉には、大好きな「虫」の館も完成した。(数億円の印税の力はすごい)
私は、解剖学者としては、養老先生の恩師・三木成夫の業績が偉大であると思う。「海・呼吸・古代形象」「人間生命の誕生」「生命形態の自然誌」「生命形態学序説」など、その発見と研究は、感動的である。ただし、一般の人々には、あまり知られていないが。隠れた名著である。三木成夫は、ほぼ、天才である。

31.「言語と呪術」
3~4年かけて、井筒俊彦全集13巻をていねいに読破した。大きな、大きなコトバの力をもらって、感動した。若い頃に読んでいれば、(私)自身の生き方も変わったかもしれないと思った。
「本」との出合いも、人との出合いも、人間の運命を大きく変えてしまう。もう、井筒俊彦も、すべて、読み終えたし、と思っていたら、実は、英語で書いた論文、研究書、著作がたくさんあった。カナダやテヘランの大学で、研究していた時、教授として、講義をしていた時、発表した著作である。
慶応大学出版会が「英文著作翻訳コレクション」として、全七巻を発行している。おおきな喜びであった。また、井筒俊彦の(声)が聴ける。吉川幸次郎の監修で読んでいた中国の古典「老子」と、井筒俊彦訳注の「老子道徳経」で読んでみた。今、また「言語と呪術」を読書中。
東洋哲学全体を視野に入れた井筒の研究は、英米人に、どのように読まれたのか?日本人が英文で書いたものを日本人が日本語に翻訳する!!いったい、何と言っただろうか。井筒の文体、言葉、鍵ワードを押さえての翻訳、訳者にも大きな困難とプレッシャーがあるだろう。一冊一冊が、大作であるから、また、数年間、楽しい読書ができる。至高の時。