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• 水曜日, 1月 24th, 2018

3301. (無)から来た(私)という骰子を今日も振り続けている。あれかこれか。あれでもない、これでもない。

3302. もう(私)は私自身を一日も考え続ける力をなくしている。いや一時間も。いやいや、ものの三分も。意識は切れ切れで、欠伸までしている。

3303. 舗石の上を歩いている、意識の上を歩いている。区別などない。

3304. 非想非非想天の歩行。至るところなどない位相への希求。

3305. 日常の中でも”踏みはずし”をしてしまう。やれやれ、硬い地面がない。一切が流れて、崩れて、深淵へ。

3306. 一度は、必ず、時代と切り結ばねばならない時が来る。手持ちのカードをすべて切ってでも。

3307. 四方八方へと歩いていた(私)も、終に(私)自身の記憶の暗箱の一番深いところへ、歩を進める時が来た。(私)という他者にむかって。

3308. コトバを無限遠点へと放つ覚悟でアーラヤ識から湧きあがるコトバの種子を待っている。コトバの振幅の強度を。

3309. 眼には見えないが、(気配)が漂うことがある。形・色・匂い・音もないのに(気配)がある。わかる。春の(気配)、死者の(気配)、戦争の(気配)、殺気の(気配)。不思議な現象である。量子の、ダーク・マターの(気配)は感じられないものか?

3310. ニンゲンの大半の行為は(真似)である。食事も野球も読書も仕事も恋愛も。自分だけのオリジナルは、ほとんど存在しない。(私という存在も)コトバだって、誰のものでもない、(真似)の反復である。(生も死も)それでも、ニンゲンは(私)だけのオリジナルを希求する!!(死なない(私)などを)(不死の人)

3311. 散文が、いつのまにか、詩になり、アフォリズムになり、意識の流れになる、そんな作品「本」は可能であろうか。コトバという宇宙。そして(真言)へ。

3312. 病気をすると、(コレが私ダ)という思い込みが崩れてしまう。(病気という私)を受け入れられぬ。本来、(私)という病気をしている私であるのだ。生・老・病・死は、変容する(私の貌)だ。

3313. (健康)=いいもの、(病気)わるいもの、という概念を捨てる。(健康)は(私)であったり、(病気)が(私)であったりするから。つまり、(生)という(私)、(死)という(私)を同時に生きている。

3314. コトバで考える人、数字で考える人、音で考える人、色と形で考える人、筋肉で考える人、さまざまな手法がある。(宇宙)が来る、ニンゲンは、来るものを表現する。

3315. (青空)を、ヒトは、どのように感覚しているのだろうか?おそらく、一人一人にそれぞれの(青空)がある。他人の(青空)の感覚の仕方は、(青空)のわかり方は、自分には、わからない。

3316. 物質の時代は終った。見えないものの時代が来た。

3317. あれかこれか、AかBか、おそらく、どちらが正しいかではない。ニンゲンにとって、必要なものは何か?なのだ。真偽は問わないのだ。

3318. ニンゲンは、いくつもの誤ちを選択してきた。しかし、修正し、改善し、もう二度と、と考える。それでも、正しく、選択できるかどうかは、わからない。世界の紛争と戦争とテロの実体を眺めてみると、背筋に悪寒が走る。

3319. 戦争を起こさない、戦争を止める、人類共通の(法)が見つからない。

3320. 木は、木を記憶しなければ木そのものになれない。(木の記憶)

3321. もちろん、ニンゲンも、ニンゲン自体を記憶していて、ニンゲンになる。原理から言えば”光”も同じことであろう。

3322. ビッグ・バンも、ひとつの記憶であろうか?宇宙自体の。

3323. 存在はもちろん、空間も、あるいは、非在さえ、見えないもの、ある巨大なものの記憶にあるか?

3324. ヒトの名前が、風景が、現象や事象が、習い覚えた(知)が(私)の記憶の中から消えていく日々。記憶の暗箱の底に沈んで出て来ないのだ。つまりは、ニンゲンを終ろうとしている。

3325. 歩いた分だけ、ココロに皺ができた。苦・悲・喜・楽…刻まれた皺の数を読む。

3326. 人を変えるものが、思想と呼ばれるなら、コトバは、その中心に置かねばならない。

3327. 父母というニンゲンの系統樹を超えて、光であったころの(私)を幻視する。宇宙に遍在する無数の(私)がいた。

3328. (私)は固定された「物質」であるはずがない。変容するネットワークの塊である。

3329. 地上に、水の中に、土の中に、空気の中に、天に、宇宙に無数の(生命)が存在する。ホレ、(生命)を定義してみろ!!

3330. (私)はひとつの宇宙であった。(私)が無数に増えると、いつのまにか宇宙も無限個になった。

3331. 生きても、生きても、何もわからない。巨きな手で目隠しをされているみたいで。

3332. セイカツをすることがニンゲンの一生であるなら、(私)は、はじめから欠伸をしていた。いや、他人の真似をしていた。本当は、(私)=(宇宙)を知悉したいだけだったから。

3333. 闇から闇へと行く身であってもせめて(私)という花火として光りたい。

3334. 光の無限放射に触れていると(私)が呼応して、私自身も、時空へ無限放射されて、(私)が誕生する前の、億年の記憶に触れているような、とても、とても、なつかしい感覚に襲われるのだ。(私)は、太古の大昔にも、確かに存在した!!と。(私)が光であった頃。

3335. 脳の記憶は、実に、浅く、短い。存在自体の記憶は、もちろん宇宙大である。真夏の砂浜で、太陽の光を浴びながら、青空に対峙していると、光の記憶まで透視できる。

3336. (現在)の(私)は、唯一、絶対ではない。(私)は宇宙に遍在している。もちろん、時空を超えて。わかるかな?

3337. (宇宙)をニンゲンの手で創り出してしまう~余りにも、巨きすぎて、まるで夢幻かと思える計画に、挑戦している科学者がいる、と知って、驚嘆したが、道具を作り出したニンゲンの、最終の夢は、時空をも、創出することにちがいない。

3338. (現実)は、ただ、そこに、眼の前に在るものではない。無数のニンゲンが、支えて、支えて、無数の手が支え続けて創りあげたものである。

3339. 手の歪みは、そのまま(現実)の歪みとなる。歪みを作るのも、修正するのもニンゲンの手である。

3340. 読むたびに、ひとつのコトバが、無限に変化する、そんな量子的なコトバが、ニンゲンには可能であろうか?

3341. AがBに、BがCに…1が2に、2が3に…自由自在に変化してしまうコトバに、現在のニンゲンの頭脳(思考)は耐え切れぬであろう。しかし、宇宙は、宇宙のコトバはおそらく、そのような存在としてあるのだろう(畏怖)

3342. 意味の深みへ、形の深みへ、音の深みへ、どこまでも深化していくコトバには眩暈しかない、ニンゲンである。

3343. この(私)に、何を与えてあげれば、ニンゲンらしい(生)となるのか?ニンゲンらしい(死)となるのか?

3344. 光と水と土を得て、充分に(木)として立っている。簡単な生の形は、美しい。

3345. 文明という着物でニンゲンは膨らみきっている。大地震、大津波、大雨、原発では、素の、裸になってしまったニンゲンが、また…さまざまな着物を着る。

3346. 身体が重い。気が滅入る。アンニュイ。メランコリィ。ウツへ。虚へ。空へ。無へ。何もしたくない病の根源には、もちろん(死)がある。存在の、耐えがたい、軽みの時代に。

3347. 宇宙の誕生のメカニズムは、いつの日か、科学者が解き明かしてくれるだろう。しかし、なぜ、宇宙が誕生しなければならなかったのかは、科学では、解けない。哲学、宗教、文学の存在価値は、その問いに答えることにある。

3348. (私)は、どうして、顕現しなければならなかったのか?(私)を(宇宙)に置きかえても、同じことだ。

3349. ほとんどのニンゲンは、人の世を生きる。一生かけて。(人間原理)しかし、人の世を生きることに、合点がいかない種類がいる。「内部の人間」たちである。おそらく、(宇宙原理)そのものに触れているのだ。

3350. 悲しみは共有できる。不幸も共有できる。苦しみも共有できる。もちろん楽しみも共有できる。ただ、身体の痛みだけは共有できない。ああ、今日も、終日、歯が痛い。

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• 水曜日, 1月 24th, 2018

①『グッドモーニング』(新潮文庫刊)
②『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア刊)
③『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア刊)
④『愛の縫い目はここ』(リトルモア刊)
⑤『最果タヒによる最果タヒ』(青土社刊)

「コトバの自由度」について(見事な、シンタックスの結晶がある)

若い詩人「最果タヒ」の詩集と本を五冊ほど読んだ。コトバの自由度が広いので驚愕した。

10代の終りごろから、20代のはじめの頃に、ニンゲンの内部で、突然、コトバが爆発する時がある。内的意識がそのままコトバとなって、一人のニンゲンから湧きあがってくるのだ。”天才”と呼ばれることもあるひとつの現象である。
ランボーの詩、
ロートレアモンの詩、
ル・クレジオの初期の小説、
等にも、同じような、自由度を感じた。

より良く生き、よく熟考した人の深いコトバではない。(しかし、深い)(疾走する深さである)
まだ、世間、社会、世界の約束に縛られていない、コトバの自由度のままに、想像の世界に、舞い、踊る詩である。
体験をもとに、考え、構成し、想像する作家たちのものとは、まったく異なる。存在そのものに触れる詩である。コトバが存在である。

その最果タヒの「小説」=散文を読むと、その自由度が殺されている。一歩一歩、思考して、進む散文、小説は、さほど感心しなかった。なぜだろう?
小説には「物語」があり、「時間」があり、「舞台」があり、「他者」がいる。すると、あれほど、自由度を誇った最果タヒのコトバの力が減少する。
コトバの自由度は(少ない方から考えると)
①散文
②詩
③アフォリズム
の順番であろう。
<書く>という、自由度を、縛るものがあるほどに、コトバ自体もその自由度がなくなる。
不思議である。
最果タヒは、自然に、インターネットにむかって、書いていると、他人からそれは「詩」だと言われたという。詩、散文、小説という、ジャンルを考えることもなく(私)を、(私のコトバ)を放っていただけである。

50年も原稿用紙に、モノを書き続けている私にとって、パソコンもインターネットもメールも出来ない私にとって、「インターネットから生まれた詩人」は信じられない詩人、存在者である。

詩人、石原吉郎が、シベリアのラーゲリーから帰還して(断たれてしまったヒトやモノとの関係を)コトバによって回復しようとして失われてしまった「コトバ」を求めて、「詩」を書きはじめたエピソードとは(断念から)まったく異なる。

最果タヒは、人に、読者に(顔)を見せない詩人である。(中原中也の詩集に、中也の写真があるのを、ひどく嘆いていた!!)
一切のコトバが、最果タヒというペンネームのもとにある。<実像>と<コトバ>を完全に切り離したいのだろうか?(私)はコトバである、と。

なんでも語ってしまう。(語れてしまう)タブーがない。コトバが唯一の実在である。ニンゲン世界からも自由に在る。まるで、宇宙の、たったひとつの原子のように存在する。

コトバとして、生れてしまったものが(私)であり、それ以外は、ない。その統合が「最果タヒ」という名前である。とりあえずの。

ランボー、ル・クレジオの歩みを考えると、最果タヒの歩みも、困難に満ちたものになるのだろうか?今、注視したい詩人。

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