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• 木曜日, 3月 16th, 2017

はじまりは、(私)が存在するという不思議と驚きと発見からだった。コトバが来た。コトバの水脈を追って、ココロの一番深い井戸へと、十二年かかって、降りて行って、第四詩集が、結実し、川となった。その名前は「真珠川」である。

詩集を手にとって初読(直観で)一日置いて再読(思考が廻る)ふたたび、寝かせて(心読する)。コトバに身をゆだねて。コトバに染められたところで、気に入った数篇を、朗読してみた。声に出して。

「本」は、何ヶ月も、何年もかけて、書かれたものだから、一日、二日で、読みあげて、終ってしまうのでは、あまりにも、もったいない。いや、読み込める訳がない。覚えて、記憶に刻んで、そのコトバとともに、歩けるようになってこそ。

風景が、単なる(描写)であったものが、(生きもの自体)へと、変化するあたりに、北原の心境の深化があって、最後の一行で、世界を、読者のものへと投げかける、転換の妙が、作品を、外部の世界にむけて、開かれたものとする、力が備わってきた。
「朝の鍵盤を押すと、あなたがあふれる」(「もえあがる樹のように」より)
「夜ごとからだと交換したことばを入れておくから」(「金柑の実」より)
「継ぐ息の波紋が返信する」(「交信」より)

見えないものを、見えるものたちで、ていねいに、ていねいに、書き込むことによって、表出する。(ソレが、見えるかどうかが、作者の腕、わかるわからない読者の、境目)
確かに、三つの世界が見えてきた。
①「水の音楽」が流れはじめた
②「あなた(カミ?)の声が響きはじめた。
③「血族」たちの(父・母・おじいちゃんなど)姿が見えはじめた。
もう、北原の紡いだコトバと一緒になって三つの世界を歩いて、苦楽を、共にしている。ようやく、詩を、そのコトバを、超えたころのものを、視はじめている。

ある夜、偶然、ラジオの深夜放送で、ヴァイオリン奏者・千住真理子のコトバと音楽を聴いた。
練習、訓練を、積み重ねれば、たいていの音楽は、弾ける。しかし、「バッハの音楽だけは、禅僧のようにならなければ、弾けない」
闇の中で、同志を発見したような、喜びが全身に走った。
”無”と”無限”の結婚が、バッハの音楽だと、長い間、考えていた私は、無伴奏パルテイターとシャコンヌのことを想った。
千住真理子は、生演奏で、バッハを弾いてくれた。禅僧になって作曲したバッハ、禅僧になって、バッハ音楽を弾いた千住真理子、当然、聴く私も、禅僧になっていた。
不思議なことに、三人は、一人になっていた(3→1)
深甚微妙な、バッハによる無限音楽があった。無限宇宙そのものであった。

北原千代も、教会で(?)オルガンを弾くひとだと知った。
やはり、あの「あなた」は、カミであろう。「あなた(カミ?)へと歩く人」から「あなた(カミ?)を歩く人」へ、北原の詩も、変容するような、予感がするのだ。
千住真理子の演奏は、北原の詩法に、ひとつの、ヒントを、与えそうな気がする。
「Barroco」に秘められたものは、深甚微妙な、バッハかもしれない。

(2017年3月14日)

(注:『Barroco』の本来の意味は「いびつな真珠」である。)

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