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• 火曜日, 3月 15th, 2016
ニンゲンが壊れる!!コトバが壊れる!!

ニンゲンは(善)も(悪)もなんでもやってしまう動物であった。
狂気であれ、正気であれ(兵士)となったニンゲンの振舞いは、正視に耐えぬ残虐・無残なヒレツカンのものであるが、平時(平和)に生きている(私)も、戦時(戦争)の場に生きてみれば、理性も倫理も常識も戒律も役立たずとなって、殺人者、強姦者、盗人になってしまうのであろうか?
辺見庸は、戦争の記録、戦争文学等の、文献、資料を読み込むことで、自らをも、戦場に起たせる-試みを「本書」において、実行した。つまり「1937(イクミナ)年」日本が「戦争」に突入した時点に、起ってみるのだ。

辺見庸の『もの食う人びと』を読んで、もう、何年になるだろうか?
(世界の食の現実)を、告発した、(事実)に(事実)を重ね続ける作品であった。
辺見庸の文体は、今までに、四回変わっている。
①新聞記者のコトバ(事実)
②小説家のコトバ(想像)
③エッセイストのコトバ(論理)
④詩人のコトバ(象徴)
そして、今回の『1★9★3★7(イクミナ)』で、五回目の変身である。
私は、この文体を
⑤量子的コトバ(文体)と呼びたい。
辺見庸の文体が変わった。五回目である。
(事実)を書く、新聞記者のコトバから出発した文章が、終に(事実)は、実は、多面的である、という文体に至ってしまった。
だから、(事実)は(じじつ)となり重要な単語は、ことごとく漢字から、ひらがなへと、移行している。書く人の手と、読み人の眼、それぞれに、コトバが変容してしまう。
だから、ひとつの(事実)を探求する「本書」が、(量子論的事実)の迷宮へと、至ってしまう。ニンゲンには、余りにも負担が大きく、重すぎる「問い」の方法へと、辺見庸は、超出してしまったのだ。
武田泰淳『審判』 堀田善衛『時間』のコトバと、戦争というニンゲンに刻まれたコトバの位相を、限りなく、問い続ける辺見であるが、ニンゲンは、グロテクスなまでに、奇妙な、愚、狂、悲、哀、乱の断面を覗かせる。
息が苦しい。出口がない。「問い」は増殖を止めない。もちろん、単純な、明解な答えなど存在するわけもない。
迷宮の文体である。決して、愚鈍というわけではない。(事実)を決定できず、問いという蛇は、何匹も現れて自分の尾っぽを、呑み込んでいるのだ。
文体が変わるとは、思考が変わることであり、ニンゲンの生き方が変わることであり、生きている、意識やココロの位相が、別のものになってしまうことである。
辺見の(父)を追う文体は、実に、辛い。いや(父=兵士)を見る、考える眼が辛い。
戦争で、ニンゲンの良きものを失ってしまって、ユーレイのように戦後を生きた(父=元兵士)を探る眼が辛い。
当然、その剣は、辺見自身をも斬り刻むことになる。この文体=思考に、耐えられるニンゲンがいるだろうか?死者の墓をあばくのは、ニンゲンの礼節が許さぬが、辺見は、「記憶の墓」をあばき続ける!!
辺見は、噴怒してるのだ。(事実)を消したり、(事実)を歪めたり、(事実)を塗り変えたり、(事実)を無視したり、更に、(虚の城)を築こうとしたり、コトバの意味を抜き取ってしまったり、孔子の「正名論」を否定してしまう「政治家」たちへの、怒りの、コトバの礫である。
辺見は、自分自身を、戦場に起たせて、眼になって、耳になって、思考になって、倫理の水準器となって、日本人を戦争を、糾断する!!
現在、辺見庸は、倒れるところまで歩いていく者である。(覚悟)
辺見さん亡命しないで下さい。ニンゲンは、もう、どこにも行くところがないのですから。コトバで在り続けて下さい。

Category: 書評  | Leave a Comment