Archive for ◊ 3月, 2016 ◊

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• 金曜日, 3月 18th, 2016

1. 小説「ブッダ」(いにしえの道 白い雲)(春秋社刊) テイク・ナット・ハン著
2. 句集「流砂」(ふらんす堂刊) 光部美千代著
3. 「ブッダの幸せの瞑想」(サンガ刊)  テイク・ナット・ハン著
4. 「死もなく、怖れもなく」 (春秋社刊) テイク・ナット・ハン著
5. 「幽霊の真理」(水声社刊) 荒川修作・小林康夫 対談集
6. 「絶歌」(大田出版刊) 元少年A著
7. 「空海はいかにして空海となったか」(角川選書刊) 竹内孝善著
8. 「江分利満氏の優雅な生活」(新潮文庫刊) 山口瞳著 (再読)
9. 「説話集の世界①②巻」(古代・中世)(勉強社刊)
10. 「中世説話の世界を読む」(岩波書店刊) 小峯利明著
11. 「日本古典文学と仏教」(筑摩書房刊) 石田瑞磨著
12. 「電車道」(新潮社刊) 磯崎憲一郎著
13. 「東京発遠野物語行」(論創社刊) 井出彰著
14. 「井筒俊彦全集」(第11巻-意味の構造)(慶応義塾大学出版会刊)
15. 「仏教文学概説」(和泉書院刊) 黒田彰・黒田彰子著
16. 「新約聖書」(作品社刊) 訳と注 田川建三訳著
17. 「倫理とは何か」(ちくま学芸文庫刊) 永井均著
18. 「科学者は戦争で何をしたか」(集英社新書刊) 盛川敏英著
19. 「犬の力を知っていますか?」(毎日新聞出版) 池田晶子著
20. 「生きて帰ってきた男」(岩波新書刊) 小熊英二著
21. 「天来の独楽」 (深夜叢書刊) 井口時男句集
22. 「詩の読み方」(笠間書院刊) 小川和佑近現代詩史
23. 「空海」(新潮社刊) 高村薫著
24. 「イエス伝」(中央公論新社刊) 若松英輔著
25. 「1★9★3★7(イクミナ)」(金曜日刊) 辺見庸著
26. 「生きた 臥た 書いた」(弦書房刊) 前山光則著
27. 「証言と抒情」~詩人石原吉郎と私たち~(白水社刊) 野村喜和夫著

還暦を過ぎると、急に、眼が弱くなって、文字を追う読書が辛くなる。なにもかも読む訳にはいかない。よく生きた人の、その人自身のコトバとなっている「本」だけに絞り込んで、読書をする。
若い時の読書は、知への衝動であるが、老いた時の読書は”愉楽”である。

1. 「ブッダ」
仏教の開祖、ブッダの生涯を語る物語である。
研究者、学者、作家、おびただしい「本」が、ブッダについて、書かれている。どの本も、一長一短があって、なかなか、完璧なブッダ伝はない。
①資料文献を読み込んでいる
②仏教の実践者である(信心)
③詩心(文体)をもっている
結局、①②③を兼ね備えた人がいなかった。で、どこかに、不満が残る。テイク・ナット・ハン師は、①②③を身につけた人である。物語の瑞々しさ、仏教思想、修行法まで、一切が、表現の中にある。宗教がテーマの最高の小説であった。

2. 句集「流砂」
古武士のような、評論家・井口時男のエッセイで、光部美千代という俳人を知った。俳句が、ここまで、ニンゲンそのものを表現できるのか?と感嘆した。
特に、病死する直前の、俳句は、無限遠点から、降りてきたコトバが、生きものとなって、光部美千代の内部で、ふるえていた!!

5. 「幽霊の真理」
天才であった荒川修作が逝って、もう、何年になるのだろうか?対談者の小林康夫は、アラカワの謎へ、呼び水となるコトバを投げる。実にスリリングな対談集(天命反転)

6. 「絶歌」
元少年Aの「本」
人は、コトバで生きる。少年Aは、誰にも見せず、自らのコトバを、ノオトに書き記すべきであった。存在そのものを支えるノオトのコトバで。(ラスコールニコフの老いたコトバで、ムイシュキンのコトバで)(失望した)

12. 「電車道」
一行よ、起ちあがれ!!迷宮へと歩行する磯崎の小説は、一行一行が、発見であり、スリルあふれる小説世界であった。
しかし、今回の小説は、(説明)の文章が、リアリティを剥ぎ落としていた。残念。設計図なしに、建築をする磯崎の手法が、今回は、空廻りしている。
なぜだろう?百年の時間の流れが、感じられない。

13. 「東京発遠野物語行」
(遠野物語)の研究者。評論ではない。(遠野)とは何か?何処か?作者・井出彰の内部にあるニンゲンにとっての(遠野)が描かれた「本」。

18. 「科学者は戦争で何をしたか」
ノーベル賞を受賞した、科学者益川敏英の、3・11「原発事故」に対する、怒りと警告の書である。
ニンゲンは、科学で、宇宙をどうにかできるのか?政治化へ、軍事化へと、利用され続ける「科学」である。「ニンゲンと科学」を、再考するメッセージが熱い。
科学者の良心が書かせた「本」。

19. 「犬の力を知っていますか?」
池田晶子の「本」は、ほとんど読んできた。いつも、池田の、思索するコトバの波に乗って、時熟する読書の時を楽しんできた。
今回の新刊も、かつて、読んだエッセイばかりであったが、読む度に、作者の声=コトバが、私の中に、響きわたる。
もう、池田晶子が死んで、10年にもなろうとしている。

21. 「天来の独楽」
不思議な縁で、井口時男の評論(秋山駿)を読んだ。そして、俳句を読みに至った。「評論」の文章よりも、俳句の方に、井口時男の肉声を感じた。論理を超えたところにあるコトバが、私の直感を刺したのだろう。
大病の後、光部美千代と共に生きた、俳句の時が、井口時男の中に、甦ってきたのか?
モノそのものになる俳句 コトバそのものになる俳句 ヒトが俳句になる!!
ごろた石のぬくみなつかし河原菊
追悼秋山駿の句がうれしい!!

22. 「詩の読み方」
小川和佑は、私の「小説」の発見者である。はじめて、公的な、書評誌で、私の「風の貌」を読み解いてくれた人である。詩と小説が、両方ともわかる評論家であった。
本書は、ご子息の靖彦君が亡父の生誕八十五年の日に、編んだもの。萩原朔太郎にはじまって、堀辰雄、立原道造、伊東静雄・・・吉本隆明まで14人の近・現代詩人の詩が読み解かれている。

23. 「空海」
宗教に縁がなかった高村薫がはじめて、宗教と宗教者・空海に立ちむかった。
なぜか?(しかも、秘められた宗教-密教に、空海に)
高村は、神戸、淡路大震災を体験している。そして、3・11の、大地震、大津波、原発事故の後、ニンゲンの”知”や”科学”や”論理”の破壊と限界を経験し、それらを超えたものを、考えはじめる。
そこに”密教”があり”空海”がいた。
名著「空海の風景」の著者、司馬遼太郎は、空海の著作はもちろん、研究書、評論とおびただしい文献を読み込んでニンゲン空海の姿を、浮かびあがらせた。
(理)の人である。
高村は、空海の神秘体験(室戸岬の洞窟にて、瞑想する空海の口に、明星と飛び込んできた-宗教体験(入我我入)から、空海へと歩きはじめる(事)の人である。
宗教は、教学(経典)と事相(修行体験)から成る。論理、理性・悟性・思考を超えた世界へ。
高村は「空海」の世界と「弘法大師」の世界へ。ふたりの空海の発見へ。法身・大日如来の語る、コトバの世界へと、歩いていく。
「本書」は、科学的(真)から宗教的(真)へと、跳ぶ、作家高村薫の、大きな挑戦の書であった。いわば、良心の書である。書き終えたところから、高村は、実践の場、秘められた、密教そのものへむかわねばなるまい。

24. 「イエス伝」
幼き日より、イエスのコトバと共に生きてきた若松は、教会の外へ信仰心のない人へ、イエスのコトバを開いていく。
『井筒俊彦・叡知の哲学』を書きあげた若松にとって、イエスのコトバ、マホメットのコトバ、ブッダのコトバは「存在はコトバである」という井筒の哲学へと、昇華されていくのだろう。ここには、21世紀の人間が、宗教に立ちむかう、ひとつの姿勢が、提示されている。

26. 「生きた 臥た 書いた」
淵上毛錢の詩と生涯を、前山光則が書き切った。詩、小説等は、読者がいて、評者がいて、研究者がいて、何よりも「伝記作家」がいなければ、生き延びることができない。
ほとんど無名の「淵上毛錢」という詩人は、生誕百年にして、前山光則という作家の手によって、新らしい生命を吹き込まれ、甦った。
私自身、前山のエッセイ等で、詩人の存在を知った。詩のコトバは、簡単で、平易で、誰にでも読めるものだが、広くて、深くて、実に、あじわいがある。病人で夭折した詩人であるが、結婚して、子供が出来て、病いの中にも、生命力、ユーモア(機知)があり、深き笑いの中に、なんとも言えない、ニンゲンの形姿が浮かびあがってくる「本」である。

27. 「証言と抒情」
詩人、野村喜和夫による「石原吉郎論」である。最後最大の詩人(コトバの力)である、と、私は、信じている。
レヴィナスの思想「イリヤ」とパウル・ツェランの詩を石原吉郎の「詩」に対峙させることで、シベリアのラーゲリーから、海を渡って帰国した、単独者の思想を論じている。
ニンゲンというモノが壊れてしまう体験をした石原が、対話の為に、他人と通じる為に、詩というコトバを、書きはじめる。(ニンゲンの形を求めて)
「位置」が「事実」が「条件」が「納得」が、こんなにも、固有の、石原吉郎だけのコトバになった例を知らない。コトバは誰にもどこへもとどかなかったのではない!!読む人の、心臓に、刺さっている。

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• 火曜日, 3月 15th, 2016
ニンゲンが壊れる!!コトバが壊れる!!

ニンゲンは(善)も(悪)もなんでもやってしまう動物であった。
狂気であれ、正気であれ(兵士)となったニンゲンの振舞いは、正視に耐えぬ残虐・無残なヒレツカンのものであるが、平時(平和)に生きている(私)も、戦時(戦争)の場に生きてみれば、理性も倫理も常識も戒律も役立たずとなって、殺人者、強姦者、盗人になってしまうのであろうか?
辺見庸は、戦争の記録、戦争文学等の、文献、資料を読み込むことで、自らをも、戦場に起たせる-試みを「本書」において、実行した。つまり「1937(イクミナ)年」日本が「戦争」に突入した時点に、起ってみるのだ。

辺見庸の『もの食う人びと』を読んで、もう、何年になるだろうか?
(世界の食の現実)を、告発した、(事実)に(事実)を重ね続ける作品であった。
辺見庸の文体は、今までに、四回変わっている。
①新聞記者のコトバ(事実)
②小説家のコトバ(想像)
③エッセイストのコトバ(論理)
④詩人のコトバ(象徴)
そして、今回の『1★9★3★7(イクミナ)』で、五回目の変身である。
私は、この文体を
⑤量子的コトバ(文体)と呼びたい。
辺見庸の文体が変わった。五回目である。
(事実)を書く、新聞記者のコトバから出発した文章が、終に(事実)は、実は、多面的である、という文体に至ってしまった。
だから、(事実)は(じじつ)となり重要な単語は、ことごとく漢字から、ひらがなへと、移行している。書く人の手と、読み人の眼、それぞれに、コトバが変容してしまう。
だから、ひとつの(事実)を探求する「本書」が、(量子論的事実)の迷宮へと、至ってしまう。ニンゲンには、余りにも負担が大きく、重すぎる「問い」の方法へと、辺見庸は、超出してしまったのだ。
武田泰淳『審判』 堀田善衛『時間』のコトバと、戦争というニンゲンに刻まれたコトバの位相を、限りなく、問い続ける辺見であるが、ニンゲンは、グロテクスなまでに、奇妙な、愚、狂、悲、哀、乱の断面を覗かせる。
息が苦しい。出口がない。「問い」は増殖を止めない。もちろん、単純な、明解な答えなど存在するわけもない。
迷宮の文体である。決して、愚鈍というわけではない。(事実)を決定できず、問いという蛇は、何匹も現れて自分の尾っぽを、呑み込んでいるのだ。
文体が変わるとは、思考が変わることであり、ニンゲンの生き方が変わることであり、生きている、意識やココロの位相が、別のものになってしまうことである。
辺見の(父)を追う文体は、実に、辛い。いや(父=兵士)を見る、考える眼が辛い。
戦争で、ニンゲンの良きものを失ってしまって、ユーレイのように戦後を生きた(父=元兵士)を探る眼が辛い。
当然、その剣は、辺見自身をも斬り刻むことになる。この文体=思考に、耐えられるニンゲンがいるだろうか?死者の墓をあばくのは、ニンゲンの礼節が許さぬが、辺見は、「記憶の墓」をあばき続ける!!
辺見は、噴怒してるのだ。(事実)を消したり、(事実)を歪めたり、(事実)を塗り変えたり、(事実)を無視したり、更に、(虚の城)を築こうとしたり、コトバの意味を抜き取ってしまったり、孔子の「正名論」を否定してしまう「政治家」たちへの、怒りの、コトバの礫である。
辺見は、自分自身を、戦場に起たせて、眼になって、耳になって、思考になって、倫理の水準器となって、日本人を戦争を、糾断する!!
現在、辺見庸は、倒れるところまで歩いていく者である。(覚悟)
辺見さん亡命しないで下さい。ニンゲンは、もう、どこにも行くところがないのですから。コトバで在り続けて下さい。

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