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• 月曜日, 4月 01st, 2013
「間」と「黄昏」の文体が描きあげた人生のかたち

父と母と昭和への鎮魂の書である。
詩と散文が結婚した小説である。
「間」と「黄昏」の文体である。小説にとって、文体は生命である。黒田は、千年前の王朝文学(ひらがな文『枕草子』『源氏物語』)を、現代に甦えらせた。幽玄と寂の世界である。

死者と生者の間に、喪われた過去と現在の間に、夢と現の間に、昼と夜の間に、人と他人の間に、モノとモノの間に、たゆたい、ゆっくりと吹きぬけていく、透明な風がある。草の色が、部屋の匂いが、家具の形が、庭の木々が、あらゆるものが、溶けあって、解き放たれて、共振れし、「風の文体」の中に顕現する様は、軽い眩暈となって、一切の境界を消し去ってしまった。(漢字は名詞、ひらがなは、漢字と漢字の間にある。つなぐもの)

記憶も定かでない、死とは何かもわからない、幼い頃に、母を亡くし、三十八年して、父を亡くし、一人娘は、二十年で八か所も、住居を変え、食べるためのしごとを、八しゅるいも変えて、ほんらいのしごと(小説を書くこと)を続けて、生きている。戦前から戦後へ、昭和という時代の空気を吸って、いくつかの恋をしながら、一人で、生きている。記憶の暗箱から、不意に立ち現れる、生の断片がきらめき、夢の断片が浮かびあがり、昼でもない、夜でもない、黄昏の文体は、寂の中に生きる、人生のかたちを、描きあげた。

主人公の名前がない、父と母の名前がない、地名がない、固有名詞がない、モノの名前がない、会話がない、夢、現実、現在、過去の境界がない、何時も読んでいる小説の、日本の文章がない、ないないづくしの小説である。漢字がひらがなになっている。センテンスが長い、長い文章は、十六行にも及ぶ。まるで一筆書きの絵である。

むつかしい、わからない、たった百枚(?)の短篇なのに、何度か挑戦したが、中断して投げだしてしまうという声が、あちこちであがっている。なぜか?漢字ひらがな混りの、日本文に、眼と頭が慣れてしまっているのだ。

「abさんご」は眼で読む小説ではない。声で読む小説である。黙って、ひらながを眼で追って、頭の中で、声を出して、読む。必ず、最後まで、読み通すことが出来る。意味は、声の中にあって、何度か読めば、自然にわかってくる。(英語と同じ)

名前や名詞を使わない理由は、黒田が二十六歳の頃に書いた「タミエの花」に隠されている。タミエは、花の本当の名前を求めたのだ。もの自体の名前を探しているのだ。つまり、世間が、他人が、使っているコトバでは、本当の名前は呼べないのだ。まだ、名前のないものに、タミエの、固有の名前を付けたいのだ。黒田は、この作業を、五十年、続けることになる。

孔子は、「論語」で、「正名論」を語っている。弟子の子路に、乱れた国を治めるために、何が必要かと問われて、コトバを正しく使うことだと答えた。そのコトバとは、社会に流通する、誰もに、共通するものの謂である。黒田の求めたコトバは、それではない。マラルメが求めた、「絶対言語」である。虚無の底から、狂気の一歩、手前で、探しあてた「賽の一振り」である。

漢字には、字義と字相がある。意味だけを求めるなら、白川静の「辞通、辞訓、辞統」を調べればよい。黒田は、五十年かけて、「タミエの花」の名前を発見した。花の名前は「abさんご」であった。

黒田の小説の系譜。①泉鏡花「草迷宮」②中勘助「銀の匙」③小田仁二郎「触手」④谷崎潤一郎「鍵」⑤石川淳「白猫」⑥折口信夫「死者の書」⑦古井由吉「仮往生伝試文」

五十年、百年、生き残る、文体が生命の、作家、作品である。もう封印した母の名前が呼べるよ!!黒田さん。

(2月6日記)

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