Archive for ◊ 10月, 2009 ◊

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• 金曜日, 10月 30th, 2009
201. 一万回も歩いてきた道が、ある日、見覚えのない道となって、私の心の水準器を狂わせてしまった。不意に、今・ここがわからなくなるそんな瞬間を体験した。
202. 「始まり」のはじまりを読み解く手法が要る。
203. 人と人が切り結ぶところに、恋愛も、闘いも、仕事も、喜びと悲しみを伴って発生する。
204. 自殺は、二度死ぬことだ。放っておいても人は死ぬ。自然という不条理である。(私)を棄ててしまう、その極点が自殺である。本当は、人は、自分に、何かいいことをしてやりたいのだ。
205. 仕事では、現場が一番面白い。現場では、いつも、コト、モノ、ヒトが動いている。
206. 政治とは、混乱する現場に、行動でもって、具体的に、設計図を作って、整理をして、生活のための補助線を引く力業のことだ。
207. 仕事は、人と人が、人と物が、人と事が交わるところに発生する。その交流の中にこそ、労働の喜びと悲しみがある。
208. 交換の中の火花こそ感動と悲嘆の源である。闘いであれ、愛であれ。
209. 思考の劇は、生きている人々、死んでしまった人々との魂の交感があるから愉しいのだ。
210. 人と人の声が響き合うように、人と風景も響き合う。風景にも、もうひとつの声がある。
211. 人間としての総体は、その人の歩いた距離と時間に正比例する。どこまで、どのように歩いたかが問題である。思考の歩行だ。その形がニンゲンを決定する。
212. 現象の海に”私”は浮いている。ほとんど一本の木と同じだ。
213. 深夜の思考と、昼中の思考では紡ぎ出される言葉までちがう。
214. 「宇宙」の耳というものがある。人間の耳は、空気の振動で、音を知る。「宇宙の耳」は、あらゆる宇宙線の中に流れるものにも、音を聴いてしまう。
215. 在るがままに在れ。
     変わり続けろ。
     時空を超えろ。
     そして、存在が思考を生むなら思考も存在を生め!!
216. (生きる−死ぬ)という公式を破壊してみる。
217. 「生は死であり、死は生である」 この言葉はいったい、何を語っているのか。いったい、誰の声か。矛盾の矛盾をも超えてしまう存在の形。
218. いったい無限の原子たちは、無限の宇宙で何をしようとしているのか?祝祭か?
219. 空間と言い、真空と言い、虚と言い、空と言い、何もないことは、考えられぬことであるから、触れることも、知ることもない”無”という王である。事象の地平線の彼方では、言葉も存在も、沈黙して、その海を消してしまう。
”無知=知” 知っても知っても、知らぬことがある。
220. 在るということ自体が啓示である。
221. ”モノ”に驚き、人に驚き、心に驚く。
222. 人間の、(今・ここ)を生きるという現象が存在の形式を決定して、いわゆる人間原理を生んでしまう。
223. 原子の大群が浮遊する宇宙という大海原を見わたせる巨大な眼があれば、原子の波の存在の形がわかる。巨大な眼は、理論や原理ではなくて、蛸が触れるように物を理解してしまう。正しく、”無限”を見る眼の誕生だ。
224. 人間が、宇宙を統一する大理論を構築したとしても、それは、人間が発見した”原理”であって、宇宙そのものではない。
225. 重力・引力を発見した人間。しかし、重力も、引力も、実は、無い。それは、人間が、作り出したものの名前である。
226. 身体のもつ精密さと思考のもつ精密さは、まったく質の異なるものである。
227. 知識も、行動も、無限の前では何の役にもたたない。秋風の吹く空の下、点になって歩いている。「無限の前で腕を振った」中也さん。今では、あなたの腕がよく見えますよ。
228. 熱病に憑かれたようにして「事」を為さねば、決して「大事」は成就しない。狂うことと紙一重の熱情がなければ「志」は遂げられぬ。
229. まだある、何かがある、空白がある、余白がある、未知の領域が残されている。(私)が歩める場所と時間が、微かに、残されている、意識がそう思うことで、正気が保たれている。すべてがないと思えば、気がくるってしまうだけだ。だから無限に触れるのは、一瞬で良い。(今・ここ)に在る(私)を解き放つのも意識である。
230. 有限者は、いつも、永遠の前に、敗北する。しかし、永遠との、一瞬の合体は恍惚である。
231. 宇宙全体を知悉したい、それは、生命のもつ、意識の最後の夢である。断念に断念を重ねて、望みは絶たれ、それでも、生命は、延々と環になって、その形を追い続けている。
232. 生命の、星々の、銀河の、宇宙の死滅する日には、いったい、何処へ行って、誰を救うのだろう。もう、どこにも、ニンゲンはいないのに。
233. (私)が、まだ誕生していなかった長い長い宇宙の時間、どこにも(私)の断片もなかった時、その宇宙へ(未出現)の可能性を思う時、(私)の出現は、ほとんど、奇蹟に近い。理由もなく、目的もなく、顕現してしまった(私)という存在の不思議に、震撼させられるのだ。同時に、(私)の死後長く長く続く永延の時間に、もう、二度と、(私)が現れることがない、そのことが、気絶しそうなくらいに、畏怖すべき事件に思えるのだ。どちらも、完全な(無)に近い。
有限者である(私)は、本当は、そのことを上手く自分に言いきかせることができない。日常の、生活の、あれやこれやの苦痛や責苦は、その二つの思いに比べれば、まったく、カスリ傷のようなものだ。
空恐ろしいのは、ニンゲンに関係なく、時間も、宇宙も、存在し続けるということだ。宇宙には、原子には、素粒子には、生と死の区別さえもなく、ただ、運動するエネルギーがあるだけである。人間には、耐えられない、事象というものがある。絶句するばかりだ。沈黙の中へ。
234. 過去、現在、未来という時間はない。人間が、仮に、そう呼んでいるだけだ。
235. 時間が生起する。どこに?(今・ここ)に。曲った時空に貼りついている(私)が見える。
236. 同時に偏在して存在するものがひとつの物であることは可能か?
237. 原子が無限運動をするものならば思考も、また、無限運動をする。
238. 光の化石が物であるならば、物が光になるもの当然だ。
239. もちろん、人間も光になる。宇宙のコーラスに参加できる。
240. 生命も、物質も、光も、あらゆるものがコズミックダンズを踊っているだけである。それを宇宙と呼ぶ。
241. (私)の中には、一匹の魚、一頭の恐竜が棲んでいる。数億年の時間の記憶に、火が点いてくれると、(私)の正体が見えてくるのだが・・・。
242. いくら、丁寧に、詳しく説明してみても、直観の”わかる”という力には及ばない。
243. 人間は、本来が、ぐうたらである。その証拠に、充分な食べものと、雨風をしのぐ家と、ゆっくりと眠れる場所さえあれば、終日、ごろごろしてしまう。
244. しかし、実は、あらゆる条件が整っても、満足しないタイプがいる。(私)とは何かと考えはじめる者、宇宙とは何かと想像する者、そして(私)というニンゲンの存在の形式に我慢がならぬ者だ。
245. あらゆる(知)を学習したい人⇒学者へ
     あらゆる(こと)を考えたい人⇒哲学者へ
     あらゆる(存在)を発見したい人⇒物理学者
     あらゆる(存在)を変化させたい人⇒発明家
     あらゆる(法)(原理)を統一したい人⇒宇宙論者
     何もしたくない人⇒(?)
     作家とは、いったい何をしたい人のことだろう?
246. ニンゲンも、物質と同じように、原子の離合集散である。原子から見れば、石と同じく、ニンゲンも生も死もなく、ただ原子という波の運動が永久に続いているだけの現象である。
247. しかし、確かに、生きている(私)から見れば、生も死もあり、100パーセント死が来る。(死)は、未知のものであるから、人間はその不条理と否々ながらも、握手しなければならない。
248. 原子が、集合して物質を作り、生物を作り、脳を作り、意識を作ったのだから、逆に、ニンゲンも、物質を生命を創出できない訳がない。
249. 「在る」は、必ず「続く」という持続の意識に支えられている。「無い」は、中断であり、切断であり、消滅であり、蒸発である。意識は、それを容認しない。ゆえに「死」は、不条理であり、自然ではない。
250. 「死」と対峙することはできない。「死」は必ずやってくるが、どこにも「私」の「死」がないから、考えることさえできない。「死」が来た時には、ニンゲンは、痙攣して気絶して、悲鳴をあげて、意識を失っている。完全な沈黙である。
251. 天才も凡人もない。ただ、ニンゲンが生きているだけだ。宇宙の、小さな、惑星の上で一匹の生きものがいるだけだ。快楽も苦痛も、たったひと時のこと。
252. すべての(知)を得るということは、ニンゲンにとっては、不可能だ。百年ばかりの生命が百四十億年の寿命の宇宙を知悉できる訳がない。結局、(知)は学ぶという連続した運動であるからいつまでたっても、知らないことは、知らないと知るしかないのだ。
253. 世界を、宇宙を知る(知)などない。宇宙の法則を発見しても、宇宙自体は、また、別のものだ。
254. 科学と文学のちがいは、何だろう。科学は、理論と数式で、物質を、遺伝子を証明する。仮説(実験)、証明。しかし、そこには、ニンゲンがいない。文学は、ニンゲンという宇宙を表現する。人間原理から誕生する。
255. なぜ生れてきたのだろうと悩む人がいる。なぜ、宇宙に、生れてきたのだろうと悩む人がいる。(悩み)の質がちがうのだ。ニンゲンの世を悩む人と存在する宇宙を悩む人。(社会)と(存在)
256. ニンゲンは、完全なる無意味には耐えられない生きものだ。だから、宇宙の原理に合致する”本当のこと”には我慢がならないのだ。幻想でもいいから、ニンゲンは(人間原理)にそって生きたいのだ。
257. 人間は、宇宙に何を残せるのだろう。存在に対して、どんなサインが有効なのか、文学か、電波か、数式か遺伝子の設計図か・・・。
258. 那須の野で秋の花を見た。原っぱに、一群れ、コスモスが咲いていて、透明な風に揺れていた。田の畔には、彼岸花が血のように紅い色を誇示していた。山々には、黄色、朱色がちらほらと、秋の始まりを告げていた。心にも、一瞬、柔らかな風が吹いた。その質感が、風景と私を、結びつけた。旅は心の休日であった。バスに揺られて。
259. 「無常」と言い、「あわれ」といい、現代のニンゲンにも、同じ心の状態が訪れるのに、その言葉は、死語になっている。
260. すべてを知りたい人がいる。ひとつのことを為し遂げたい人がいる。
261. 「エチカ」を書いた哲学者スピノザはレンズ磨きを生業とした職人だった。その思想は、透明で、文体は、思考に発条が利いていて、百年、千年たっても、決して古びないレンズのように輝いている。スピノザの宇宙は、現代でも刺激的だ。
262. 時間も空間も歪んでいるとアインシュタインは言う。時間の歪みは、直線的に流れるのではなく、遅くなったり早くなったりするとイメージができる。しかし、どうしても空間そのものが歪んでいるイメージが、私の平凡な頭には像を結ばない。同じように、宇宙が超球であるという、その超級もイメージができない。
時空は、地球という球体の表面で生きている人間にとって、ほとんど、固定されている。上も下もなく、左も右もなく、削除もなく、過去も現在も未来もなく、一を一と確定できず、ひとつの命題にふたつの解があり、光より速い存在を許さず、超球宇宙は、人間を畏怖させる。不可思議な宇宙に、知的生命体として生きている人間は、もっと不思議な存在である。
263. 旅をする度に、森で海で、山で、空気が実においしいと思う。近い将来には、本当の空気のおいしさを知らない人間が増えるだろう。本物の空気を奪い合う人間の姿を想うと、正直、ゾッとする。空気までが商品になる。美味い空気を吸うことが旅の大きな目的になる。そんな日が来るかも知れない。
264. 考えれば考えるほどに、確実なものが崩れていく。考えるということ自体は疑えないとデカルトは言ったが、その、(考える)とは何かが、揺らぎの波に晒されている。で、思考を止めて、外へ出る。そして、風に吹かれて、歩く。
265. 脳が脳を殺せと命令するか(脳の自殺) 私は(私)を殺せと命令するが
266. (私)は生命というスーパーシステムである。(多田富雄) なるほど、そうすると、(脳)は器官のひとつである。(私)は、決して(脳)ではない。(池田晶子) それは、そうだろう。
「(脳)の中すべての現象がある・感情・認識・意識)(茂木健一郎) 養老猛先生も、茂木健一郎先生も、唯脳論者であって、唯心論者ではない。
「脳」もまた、生命の進化が生んだものである。(三木成夫) 心臓の、肺の発生原理も面白い。腸も胃も、(私)を作っている器官だ。悲しみや喜びは、腸から発生する。心も。決して(脳)からは発生しない。腸管は考える。
「精神の中には、花も、犬も、事物もない」(ベイトソン) 精神は、システムであり、その役割りを(脳)が果たしている。知者たちの(考え)を追ってみると、人間という存在が、さまざまな不思議そのものを生きている現象であることがよくわかる。さて、「器官なき身体」を唱えた詩人もいたが・・・。名前は、アルトー。
267. 「脳」の中に(私)は在るか?」
     「ない」
     「では、「脳」は(私)ではない。」
困ったことに、この質問、疑問は、私自身が考えたのか、池田晶子が考えたのか、区別がつかない。彼女の著作を読んでいて、なるほど、それはそうだよ、私も同じことを考えていると思うことがよくある。だから、彼女の本、言葉は、よくわかる。
268. 「脳」が「脳」を考える時、(私)は、どこに在るのだろう?この問いも同様である。
269. 言葉は、誰のものでもない。思考も誰のものでもない。学習から、すべてがはじまる。「文体」といい(思想)といい、その人に、固有のものが、言葉から、思考から紡ぎ出される。
270. で、新しいものは、すべて、先人の「文体」や「思想」を学ぶところから出現することになる。何しろ、すべての人間は、赤ん坊からスタートするから。
271. 「無」になると他人は言うが、実際、「無」など誰も見たことがない。果たして「無」そのものは可能なのか?
272. 人間、生きてみなければ、時間は流れない。
273. (私)がこの世にいなかった時、つまり、まだ、この宇宙に誕生していなかった時、(私)には、苦痛も、悩みもなかった。さて、(私)が死んで、この世を去ると、またしても、(私)がこの世からいなくなる。なぜ、そのことが、苦痛、恐怖であるのか?
274. イエス・キリストは、死後3日後に復活したと言う。ならば、死んだニンゲン全員も復活せねばならない。宗教とは、そういうものだろう。
275. 「ああ~とうとう、仏さんになってしもうた。」祖母の呟きを聴いて、仏さんになれば、何処へ行くのか?と訊いた。「墓の中や」と応えた。少年時代のことである。墓は、山の中腹にあった。
276. 宇宙の本当のことを知れば知るほど科学者の頭脳はニンゲンから遠く離れていくだろう。「人間原理」は、もっと輝かなければならない。分裂した心は、もう、もとに戻らないか?デーゲルのように。
277. 生命の歌を歌うこと。息を吸う。声を出す。歩く。その単純な行為こそ、ニンゲンのエネルギーであり、(私)の存在証明である。コスミック・ダンスを踊る、その躍動の中にこそ人間原理がある。
278. 「私とは何者か?」ではなくて、一度、問いかたを変えてみよう。「何が私を構成しているのか?」と。
279. 人間の身体は、穴だらけだ。その穴を囲うようにして肉がある。まるで、中空の管だ。
280. 腸管に心がある、そこから悲しみや喜びが発生すると語ったのは、確か解剖学者・生物形態学者の三木成夫だった。管から、動物も植物も進化したのだった。
281. 脳が考えていると、いったい、誰が証明したのだろう?やはり、考えているのは(私)である。
282. 「形」の中で、もっとも力強く、美しい生き生きとしたものが、渦巻きである。遺伝子から銀河宇宙までが、結晶。「渦」は不思議そのものだ。
283. 歩くことは交流することである。風景と人と物と、時空にあるすべてのものと切り結ぶ行為である。
284. (今・ここ)にしか時間は起たない。意識は、あちらへ、こちらへと浮遊するが、結局は、どこもが(私)へと結集する。
285. 果たして、私たち人間は、確かに、生き死にをしているのだろうか?(いったい、誰が、何をしているのだろう)
286. 最高の(知)を求めた、天才・空海さんが入定(死んだ)したのは62歳だった。宗教(仏教)と(知)が結婚していた時代の子だった。科学の時代になった現代でも(信仰)は、信じる力は、弱くなっても、なくなりはしない。62歳になった私も、空海さんの残した言葉と対話しながら、(信)にむかってみる。深化する言葉のモノローグこそ、空海さんへの旅だ。
287. 言葉の魔に魅入られて、文を書きまくろうが、言葉の限界を感じて、歯がみをして、言葉を棄てようが、問題は、いつまでたっても、一向に片付かない。世の中に片付くものなどあるのだろうか?
288. 人は、生きる為に食べるのか。人は食べる為に生きるのかを悩む人がいる。のん気な悩みだ。世界には、メシが食べられない人が30億人もいる。
289. 人類は、飢えと闘ってきた。現在でも、今日、明日の食料がない。世界の半数が、飢えと闘っている。ところが、日本は、豊かで、飽食の時代だという。そんな時代は長く続くまいと思っていたら、失業の時代、格差社会の時代になった。いつになったら、足るを知る、知足の時代が来るのだろう。
290. 絵にもならない、言葉にもならない、形にもならない、心の起ちあがりに風が吹いて。
291. 今日は、日がない一日、魂のお守りをしている。
292. モノばかりが氾濫しているから、眼を閉じている。
293. 柿の実の、見事に熟した姿に終日、見惚れている。夕陽が降り注いで、風が吹き、柿の実が揺れる。時も熟している。
294. 遠くから、大工の釘をうつ音が響いている。規則正しい音が空に流れて、静かだ。私は、ただ、感覚をしておる。
295. 魂は考えるものではなく、観照するものである。
296. 思考は現象の海から起ちあがる。
297. 実在と言い、実生活と言い、結局は(私)をめぐる考察である。
298. 宇宙時間の中に、二度と生れぬ(私)の戦慄がある。生の一回性の驚愕だ。
299. 一歩踏みだせば、あらゆる現象が起ちあがってきて、眩暈がする。
300. まあ一服しませんか?声には素直に応えたい。