Author:
• 月曜日, 2月 28th, 2011

旅は、日常を離れて、思考のスタイルを見事に変えてくれる。感性としての(私)を解き放って、時空へと旅立つのだ。

アラカワへの旅には、5つの段階・方法がある。(読む)(観る)(触れる)(体験する)(生きる)である。このステップを踏まないと、アラカワの姿は見えてこない。「君たちには、まだ、何もわかっていない、何も見えていない、何も考えていない。」アラカワの強烈な声が、耳に吹きつけてくる。

8時38分、私は、移動する箱の人となった。出発である。さっき、道路を歩いていたのに、もう、電車に乗って、窓の外を眺めている、この、時間という魔の不思議さ。電車の時間と私の時間が、重なる瞬間のとまどいと、軽い眩暈と快感。

旅の入口を、通過してしまって、もう、日常は、遠去かり、(私)の今・ここは、旅へと放たれた。全身に、素速くはしる、旅への、期待。純粋経験を求める、子供時代の感覚が甦える。

JR東京駅まで、50分。千葉、船橋、市川、錦糸町と、駅名を確認しながら、青空を、眺める。秋の、空の、青が、遠くへと投げかけた視線に、静かに応えてくれる、旅という時間である。

錦糸町駅を過ぎると、不意に、青空が消え、次の瞬間に、電車の車輌の窓に闇が巣喰い、青白い灯が、室内を照らしだすのだ。突然の、軽い、眼のまばたきは、電車の地下への侵入の際、いつも起こるものとはいえ、身体が、身構えて、硬くなり、しばらく経つと、東京駅に着いた。

新幹線での時間とはいったいなんだろう。いつも座席に坐ると、旅の途中であるのに、宙吊りになった時間、外(景色)と内(私)を流れる時間の分裂・遍在を感じて、どうやって、この流れる時間をやり過ごそうかと、考えてしまう。
①新聞・雑誌を読む ②風景を眺める ③ビールをのむ ④眠る ⑤考える ⑥話をする
今日は、アラカワへの旅であるから、アラカワの言葉、声をめぐって、あれやこれやと考えて、私の思考の波調を、アラカワへと放つことで、時間の流れに乗ってみる。

「天命反転」、「私は死なない」が、(私)の、思考の中心に、居坐った。「生きる—死ぬ」というパッケージに、数百万年、身を晒らし続けて、敗北し放しのニンゲンたち。もう、何十億人が、敗れ去っただろう。誰も、帰って来なかった。行きっぱなしの、片道切符の旅である。時間だけが生きているから、時間の勝ち、ニンゲンの敗け。

「死の美学」がある。無常であること。ニンゲン、大事を為すために生れてきた。大事は、人それどれに、異なる。いかに、大事を為すか、(私)の大事がわかれば、一切を棄てて、そのことの達成のみに全力を尽くして、死ぬ。後の事、他の事は、考えない。

「天命」=法に則った、生き死にである。毎秒、毎日、毎年、生きるということだけをしていること。過去も未来も、ないと、思い知って、今・ここだけに流れる時間の性質に、従い、考えること。

それでも、世の中を渡ると云い、世間で生きると云い、会社で働くと云い、ニンゲン(私)は、「人間原理」とも呼ぶべき、約束、規則、法律、憲法にぎっしりと囲続されていて、「身体」という条件を背負っていて、食べる、眠る、働く、考えるで、精いっぱいで、一日は、アッという間に、流れ去ってしまう。冷汗、溜息、悪戦苦闘。日常とは、永遠に、そういう、一日の連続である。四苦八苦の世界。で、「天命反転」という、人類最大の、大問題に、正面から立ち向かう、アラワカと呼ばれる男が出現する。人類史、数千年、歴史の中に何人かの挑戦者がいた。

釈迦という名前で、イエス・キリストという名前で、ソクラテスという名前で、孔子という名前で、空海という名前で、ニーチェという名前で。

どうしても、「生きる—死ぬ」という、最大のテーマに衝突してしまうと、狂と紙一重の地点まで、踏み込んでしまう、ニンゲンである。「天命反転」を思い浮かべると、必ず、(私)の頭には、「輪廻転生」「復活」「永劫回帰」「無知の知」「即身成仏」が自然に、声として、流れてくるのだ。一歩、間違えてしまうと「オウム」の麻原彰晃になってしまう、危険がある。

アラカワも、自らが、語っているように「分裂状態」に、身を横たえている。(私)の意識と存在の間に、引き裂かれて、在る人である。日本(東京)とアメリカ(ニューヨーク)に、日本語と英語に、身体も言語も、二重に(私)を生きている人であるから。深い亀裂がある。

いや、二重に、生きる身になったからこそ、人類最大の問題に目覚めたのだ。失語(言葉を失ない)と目覚め(生きる意識)の間を、右に左に、上に下にと揺れながら、アラカワは、すべてを、1から、創造してみせる、と、覚悟を決めて、生きている人である。誰も触れられない、「宇宙の法」を、反転させて、「人間原理」へと組み込もうとしているのだから、その発想、スケールは、ニンゲン離れをしている。本当は、宗教が、文学が、哲学が、芸術が、科学が、その役割を、果たすべきなのだ。逆に言うと、アラカワという存在は、それを、統合して、総合したものの名前であるかもしれない。

決して、妄想ではなく、迷信ではなく、分裂ではなく、狂気ではなく、アラカワは、正気に、踏みとどまって、思考の、創造の回路を、未知へと展開してみせる。
●「遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」
●「養老天命反転地」
●「三鷹天命反転住宅」
1981年、アラカワ+マドリン・ギンズに「天命反転」という、人類最大の問題へと立ち向かう構想が浮かびあがった。

「ナギ」という音を舌の上で、ゆっくりと転がしてみる。「凪」「薙」⇒「奈義」。水田の、渚の、海の、風のない、静かな光景が、脳裡にゆらめいて、そこから、ひそかに、立ちあがってくるものがある。光である。光の独楽である。

あるいは、山の、森の、竹林の、奥の、奥から、モーレツに吹いてくる風が、あらゆるものを薙ぎ倒して、一切のものを、運び去ってしまう。風の吹く、光景。

不思議な、二つに、引き裂かれた、イメージのする「ナギ」という音。その音が、名前となって「奈義」。古い、心の古層に、音もなく、気が流れて、勝手に、「奈義町」をイメージとして創りあげてしまった。

新幹線は、風景を殺してしまった。「便利さ」という怪物は、次から次へと、ニンゲンのいる風景を、消し去ってしまう。ニンゲンより秀れた知識をもったコンピューターは、終に、ニンゲンを追放するに至るだろう。

東京、名古屋、京都、新大阪、岡山と、4時間足らずの時間で、新幹線が疾走する、その間、(私)は、ひたすら、アラカワのこと、アラカワをめぐることを考え続けていた。(私)のしていたことは、箱の中で、(考える)時間を生きたことだった。それでも、旅である。確実に、(私)は、移動をした。身体と頭は、別々の時空を走りくねって、今・ここを、呼吸し続けている。

岡山県には、二つの貌がある。温暖で、風光明媚な、東洋の地中海とも呼ばれている瀬戸内海に代表される貌と、中国地方を貫く、大山を中心とする山脈に囲まれた町の貌である。

津山市と、隣接する奈義町は、山々に囲まれた街である。風景を消し去る新幹線を降りて、眼で、ゆっくりと、風景を食べられる、各駅停車の、電車へと、移動をした。

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.

One Response

  1. 1
    haha 

    津山出身の東京在住国立大学生です。私も荒川さん好きです。彼は人は本当は死なない、或いは死ねないんじゃないかって考えてたと聞いて、ぐっと興味がわきました。奈義には小さいころ何度も行きました。津山も奈義も、あなたとは違う見方、生まれてから18年間という永遠に近い時間の中で醸造される穏やかな嫌悪に浸されて眺めていましたが、この記事の風景にはある種の新鮮さを覚えました。異邦人の目、見て考える人の目を感じます。内にいると、それは津山の目になり、あなたのようにはなかなか書けないのです。。。

    いずれにせよ荒川さんは考えた人だった、と思います。生意気ながら、こいつは信用できる、と思いました。私の地元に、考える人を考えに来てくれる方がいたという事実は、なんだかうれしかったです。

Leave a Reply