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• 火曜日, 9月 11th, 2018

爆発的なエネルギーの放出と異能の発揮の秘密は、いったい何処にあるのだろう?

四つの(傷)
ニンゲンは(傷)つく動物である。意識があるから。ていねいに、生きても生きても、他人に足を踏まれたり、他人の足を踏んだりして生きる、世間、実生活という世界がある限り、(傷)つかないヒトは誰もおるまい。
しかし、(傷)から考える、そして、負を正に変えて、エネルギーとするのもニンゲンである。
見城徹も、四つの(傷)をかかえて生きている。

1. 地上に放り出されて(私)に気付いた時、見城は、自分の(身体が小さいこと)と自分の(顔が世界でいちばん醜い)ことに、深く傷ついてしまう。そして、タコと呼ばれ、いじめられっ児となる。
2. 父は、アルコール依存症で、子供の教育・子育てには、まったく無関心で、家は、いつも暗く、ココロが傷ついた。
3. 学校(小学5・6年)の女性教師のコトバに深く傷つけられた。学校に連れてきた女教師の子の前で「触らないで、あなたには触ってほしくないのよ」と叫ばれる。差別である。コトバの暴力である。通知表の「行動記録」は、見城を誤解したため「ほとんどC(最低評価)」であった。
4. 全共闘運動に本気で没頭する。高橋和巳、吉本隆明の「思想」に共鳴し、「革命」をめざすも、警察に逮捕されると、就職ができなくなる、土木作業で、大学の学費を稼いでくれている母を悲しませる、と、挫折して、サラリーマン(編集者)になる。思想よりも実生活を選んだことが、深い(傷)となる。

(快楽)は一瞬であるが、(傷)は消えることがない。
おそろしいことに、(傷)は、ヒトを潰し、叩き割り、破壊してしまう。
ある身体障害者の言葉。
「ボクは、生まれてから、怨みだけで生きている。」
マルメラードフは呟く「もう何処にも行くところがない」と。(ドストエフスキーの小説に登場する酔っぱらいの言葉。)
見城徹の、家庭を放棄した、酔っぱらいの父は、いったい、何に傷ついて、死人のように生きたのだろう???

ニンゲンが本気でものを考えるのは、存在の不思議と発生した(傷)からだけだ。無垢な魂はどこにもない。
自分のココロの声に従って、自然に、正しく、ていねいに生きても(傷)は発生する。ニンゲンは(生・老・病・死)の四苦を生きる存在である。千年たっても、そのスタイルは変えられない。(四苦)から(傷)が発生する。絶えるということがない。

「言葉」の発見、コトバの力「読書」
「本」は、現実空間から、別の場所へ、別の時間へ、別の人物へと連れていってくれる(コトバという)乗物である。新しい世界が開けるのだ。
物語は、傷ついた魂にも、やさしく、親身に、語りかけてくれる。マンガにはじまり、少年少女小説。(第一の「読書」)
見城少年も「ここではない『ほかの場所』を求めて」読書に熱中する。高校生になると「本」のコトバの力を得て、能弁になり、クラスのリーダーになり、成績もトップクラスに躍りでる。見事な変身である。
夏目漱石の『こころ』に、傷ついたニンゲンを発見する。主人公の心性に、自分の心性を重ね合わせる。他者の発見であり、自立のはじまりである。思考の開始である。見城はコトバと共に、歩きはじめる。(第二の「読書」)

あるべき人間観と世界観を刻みつけるのも「本」読書による言葉である。十代から二十代の、多感な、青春の真っ盛りに、コトバは、突然やってくる。
全共闘運動が全国に、燎原の火となって燃え広がった。見城も、本気で「革命」によって、世界を変える志に燃えた。
その中心に、高橋和巳と吉本隆明の声と行動と思想があった。
孤立無援の状態から、ニンゲンの自立を求めて、書き、闘った作家・高橋和巳を読まなかった運動家はおるまい。『わが解体』を書き、ガンで若くして死んでいった高橋和巳。そして、思想の中心には、吉本隆明がいた。『共同幻想論』『マチウ書試論』『言語にとって美とは何か』、日本の抒情詩を、「思想詩『固有時との対話』」に変えてしまった、吉本の「本」は、学生のバイブルであった。(第三の「読書」)
吉本も、また、敗戦で深く傷つき、友人の妻を奪って、結婚し、傷つき、労働運動で傷つき、その傷の追求の果てに、関係の絶対性を見い出し、詩を書き、評論を書き、(傷)を思想に転換させた。いわば、(傷)をアウフーベン(止揚)した思想家である。
運動の前線に立っていた見城徹も、当然のように、二人の思想家の「本」を熟読し、そのヴィジョンに共鳴し、自らの理想を描き、あるべき世界、「革命」によって出現する世界の実現を夢見て、行動する青年であった。
ところが、見城は、運動の前線から撤退して、ただの生活する人、サラリーマン(編集者)になってしまった。挫折である。深い、深い、(傷)が発生した。
思想は、実践してこそ、思想である。

「読書」は、読んで、認識して、実践してこそ「読書」であるという見城徹の原点は?
①サルトルのアンガージュマン(参加)の思想。
②思想(芸術)と実生活の論争。
トルストイの作品と実生活ートルストイの家出をめぐる、小林秀雄と正宗白鳥の論争。思想は、実生活で実現してこそ思想と主張する小林。芸術と実生活は別ものと主張する白鳥。
③認識と行動をめぐる、三島由紀夫と埴谷雄高の対談。認識者の限界を知り、行動(自衛隊に入隊)する三島、作家、思想家は、ヴィジョンを揚げるだけでよいという埴谷。
④「革命」とは?「革命の実践」とは?
国のかたちを変えること。人間の意識を変えること。日米安保の破棄・自立する日本へ。ベトナム戦争、日本の基地化反対。天皇制の反対、否定。ヴィジョンは実践するもの。

ドストエフスキー読む前と、読んだ後では、ニンゲンがまったく変わってしまう。(おそらく、カミ・ホトケのコトバ以外で、ニンゲンが書いた一番深いコトバである)一瞬で人を見抜く、どこまでも透視するドストエフスキーの眼。
私は、ドストエフスキーを読んでいるか、いないかで、その人を見極めるクセがある。
本書で見城徹が、ドストエフスキーを熟読していると知って、突然、安心し、信用できる男だと、今までの、世間に広がるイメージを消し去った。(見城徹は、日本のドストエフスキーを探すために、編集者という黒子に徹しているのだ!!)ドストエフスキーを中心にして、現代作家たちの作品を読めば、その良し悪しやレベルは、すぐにわかってしまう。
ミリオンセラーを23作も世に出した、その眼力が、どこから来たものか、やっと、わかってきた。
ドストエフスキーも(傷)を生きる人であった。実生活のドストエフスキーの(傷)は、四大長篇(『罪と罰』『悪霊』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』)を生んだ母体である。
ドストエフスキーの(傷)には驚嘆するばかりだ。
●皇帝暗殺未遂事件の疑惑で、シベリアへ流刑(死刑寸前)●人妻を奪って妻とした●賭けごとに狂った●借金まみれとなった●てんかん発作の持病があった●生まれた子供たちが次から次へと死んでしまった●父(地主)が農奴たちに撲殺された。
なんという(傷)の連鎖であろうか。(傷)に耐えて(傷)を乗り越えて、人類最高の作品を書きあげた神経は常人のものではない。作品も人生も超一流。超不思議。(第四の「読書」)

見城徹の人生の綱領が三つある。
もちろん、(生)の現場から、(傷)から、「読書」から得たものである。
1. 自己検証
2. 自己嫌悪
3. 自己否定(全共闘の合言葉だった?)
(詳しくは、本書を読んで、考えてもらいたい)

流行作家・大家・五木寛之、石原慎太郎との、(仕事)はじめのエピソードも、実に面白い。五木寛之の新刊が出る度に、一週間以内に、感想を書いて、郵便で送った話。石原慎太郎のデビュー作『太陽の季節』は、すべて、暗記していて、語ってみせる話など。どれだけのサラリーマン編集者が、これだけの日々の努力をしているだろうか?
同世代の作家たち、中上健次、高橋三千綱、村上龍たちとの交流、新人の発掘、見城徹の仕事の流儀が活写されている。(三つのカードのエピソードも面白い)
編集者から会社の設立。「幻冬舎」の見事な成功。すべてが「言葉」の力による。経営は、胆力のいる仕事である。限度というものがない。お金はおそろしい生きものである。
しかし、日本のドストエフスキーを探す(?)という夢があれば、どこまででも、行けるだろう。三つの人生の綱領を守って。

思想でも人は死ねるー(天皇を中心とする考え『文化防衛論』)三島由紀夫の、割腹自殺は、大きな、大きな、衝撃であり、高橋和巳、吉本隆明の立場に立つ者にも、人の生き死に、如何に生き、如何に死ぬべき、ニンゲンであるかを、深く胸に刻まれる事件であった。
68歳になった見城徹は、「葬式もやってもわらなくてもいいし、墓もいらない。むしろ遺骨は、清水とハワイの海に撒いてほしいくらいだ。・・・死後は風や波になりたい」と言う。(風や波)は、また、コトバである。言葉ではない。「存在はコトバである」(井筒俊彦)「自心の源底に至った」空海の真言、コトバを、井筒が分析した。見城徹も、死後は、コトバとなって、コズミックダンスを踊る、風や波となるのであろうか?(傷)を発条にして、ヒトの声を聞き続けている見城徹は”いい耳”を持った編集者・経営者の旅を続けるのだろう。コトバそのものになっても。
もう一仕事、頑張って下さい。お元気で。

H30.8.28

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