Archive for ◊ 9月, 2015 ◊

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• 月曜日, 9月 28th, 2015
3151. 時空の無限放射の中に居る(私)。視点を変えると、(私)は、時空へと無限放射されている。

3152. 時間は(私)に無常を告げる。空間は(私)に無我を告げる。さて、あなたは(定点)をどこに置くか?

3153. (死)はない。(死)という概念がある。(無)はない。(無)という概念がある。(生)も(死)も(悟り)も(涅槃・ニルヴァーナ)も概念であるから、コトバを捨てる。思考を捨てる。(私)を捨てる。至高へと、跳ぶ。宇宙である!!

3154. 食べものとは何だろう?食べることはどういうことだろう?と問う人がいたから、テーブルの上にあるミカンを差し出した「食べて下さい」と。

3155. 道はあるか?と問うてはならぬ。道は空である。ホラ、歩いてみなさい。

3156. 道は、顕れることも消えることもない。ただ、足が知っている。(歩く)者がいる。

3157. ニンゲンは、存在し合って、生きている。人間、動物、鉱物と、あらゆるものと共生している。(相依相関)

3158. 宇宙は、存在と非在のシイフォニィである。

3159. 仏教の真理、有から無にはならない。従って、生も死もない。(宗教的事実)

3160. 科学の真理、無から有は生まれる。従って、あらゆる有は無に至る。生も死もある。(科学的事実)

3161. さて(真理)はひとつか?あれも、これも、量子のように(真理)か?決定不能、絶対の死、宙吊りにされた(真理)

3162. 科学の眼では、見えないもの(量子、ニュートリノ)も見える。宗教の眼では、見えないもの(死者、ココロ)も見える。

3163. 色と形を見る眼の顕現は、不思議のひとつである。色や形がなくても、見えてしまう魂の眼は、もっと不思議である。

3164. イエス・キリストが復活するように、宇宙のすべての生命、存在も復活する。宇宙の眼で見れば。

3165. 復活といい、輪廻といい、結局、宇宙の貌の見方に過ぎない。ニンゲンによる。

3166. 見えるものも、見えないものも、結局、コトバが名付けてしまう。

3167. ビッグ・バンの風を眺めながら、地球の風に吹かれている。

3168. 60兆の細胞の揺らぎから、たったひとつの意思が、起ちあがってくる。

3169. コトバは、知慧の実だから、毎日毎日食べ続けなければならない。「仏典」であれ「聖書」であれ「コーラン」であれ。声をあげて、読む、唱える!!

3170. 見ているのは、誰か?(私)と呼ばれている者か?いいや、見ているものは、40億年、生命を運んでいる、リレーされている者。つまり、たったひとつの単細胞が見ているのだ。(私)という形を借りて。

3171. 宇宙は、悠久の時を刻んで、終に(見る)を(考える)を顕現させてしまった!!

3172. (私)がモノをわかるのは、モノを考えられるのは、(個)としての(私)の力だけではない。単細胞から父母に至った膨大な(祖ー先人)たちの力が、億年単位で受け継がれて進化してきたものが(私)の中で、(わかる)とか(考える)として花開いているものでもある。

3173. (私)が考えるーは、実に、細胞たちの、無限増殖への力が、時間を垂直に生き、空間を水平に生き、変化、変身し続けている波動にすぎない。思考の内容ではなく、思考そのものが、生命の顕現である。

3174. ニンゲンの思考の外にあるもの。ニンゲンのコトバの外にあるもの。それを(涅槃・ニルヴァーナ)と、コトバで呼んでいる。だから(涅槃)が何であるか、説明も証明もできない。(無記)

3175. 瞑想で、(非想非非想天)・(第四禅)に至ることは可能であるが、現実に帰っても、コトバでは説明できない。(意識も、無意識もない世界だから)

3176. 歩けば、行くことは、誰にでもできるが、帰ることはむつかしい。(教わるか、他人の助けが必要である)

3177. (私)の一切を解き放つ、宇宙にむけて。それが自由である。究極の。

3178. (私)とあなたは、別のものだ。(A) (私)とあなたは、一緒だ。(B) 深く洞察して、目覚めなければ(A)から(B)へは、跳べない。

3179. 木は木、草は草(A) 木は(私)、草は(私)(B)

3180. 存在の根は、ひとつである。ただ、顕現の仕方がちがう。

3181. 緑+赤+青は、白か黒となる。(光と色)

3182. 何かを為すことが、生きることだと思っていた(私)から、何もしないことが、生きることだと思える(私)へ。

3183. (私)の自然な顕現の発見。朝に。

3184. 目的地には、すでに、もう、たどり着いている。歩いて(私)の中へ。

3185. ぼんやりと生きた(私)あわただしく生きた(私)・今は、閑かに、覚めて生きる。

3186. (考える)をやめて、呼吸になる!!

3187. 地球の核にむけて、閑かに坐っている。(私)を放って。

3188. 一日に一度は(私)の意識の眼を大きくあけてみる。一粒の砂粒から、木へ、地球へ、銀河へ、宇宙へ。そして、静かに、今、ここの(私)に戻る。

3189. (私)の定点を、歩く足元から銀河の宇宙の間に置く。

3190. (私)が一番長く付き合っているものはいったい、何であろうか?夜も昼も。呼吸である。せめて、一日に一度は、ゆっくりと、深く、息を吸って、意識をしよう。(私)は、今、ここにいる。(私)は呼吸である、と。

3191. (私)の細胞も、骨も、脳も入れ変わって、消えて、現れて、絶えず、別のものになっているのに、呼吸だけは変わることがない。(私)と共にいる。

3192. モノを食べるように、ニンゲンは、コトバも食べ続けている。目覚めるためには、真なるコトバが必要だ。

3193. (私)は「妙音菩薩(ガドガダシュヴァル)」になりたい。海の波音のように普遍なるコトバを書き、話し、唱える人に。

3194. 水平に、垂直に生きるためには、コトバそのものにならなければならぬ。

3195. 意識は、(気付き)の為に在る!!

3196. 齢を重ねて、老いても、一日は、いつも、新しい出発である。

3197. 魂を磨き続ければ、平凡な一日にも、新しい(私)は在る。洞察の力が加わって。

3198. ココロの雑草は、抜いても抜いても、生えてくる。生涯、雑草を抜き続けるのが、ニンゲンである。

3199. 宇宙は(無)から、顕現した!!この21世紀の、ニンゲンの、発見が(私)を震撼させた。(「無から有は生じない」-長い間ニンゲンが信じてきた論理・法が破壊された)あらゆるもの、時間、場、空間、生命、存在、非存在は、偶然から発生した驚愕)

3200. ニンゲンは、生きる為の定点(大地・地球、銀河)を、新しく求めなければならなくなった。

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• 月曜日, 9月 28th, 2015

ー生きる知慧としての仏教ー

仏教の知慧が、21世紀の現代を生きる、一人の人間によって、これほど、深く、身をもって体験され、語られた「本」に出会ったのは、はじめてである。
「般若心経」が、実に、見事に、自らの体験の中で、噛みくだかれ、血となり、肉となり、自らのコトバとなって、語られた実例を知らない。
ベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハン師である。(気付きの呼吸法・瞑想)
『死もなく、怖れもなく』は、単なる「仏教」「般若心経」の解説書ではない。
ベトナムの戦火の中で、立ちあがり、平和と終戦を希求し、行動し、国を追われても、フランスでアメリカで、釈尊の教えを実践し、活動している、禅僧である。
21世紀の科学の時代にあっても、宗教的実践、宗教的事実をもって、地球的(水平)広さで生き、人類的(垂直)深さで生き、(現実)の中に、超越を置く第三の生き方を探求する。
ティク・ナット・ハン師の生きる姿は、感動と共感を呼ぶ、数少ない、宗教者の、現身である。(法身でもあるか?)
3.11で、地震、津波、原発の三重苦に、人間が壊れてしまい、どのように、再生、復活できるか、誰にも、ヴィジョンが示しきれない時空があった。(コトバは死んでいた)
僧や神父や牧師などの、宗教者も、現場に駆けつけて、語り、聴き、唱え、祈った。
ある、大寺院の僧が、東北の海にむかって、念仏を唱えていた。
「般若心経」を、黒板に書き、住民に、説明し、語りかけていた。
僧の顔は、絶望で、青白く、その声は、おそらく、住民の耳にとどいてはいなかった。
大自然は、放射能は、宇宙は、宗教者に、背をむけた、非・意味であった。
地震、津波、原発の前には、あらゆるコトバ、経典も、無力であった。
しかし、戦争の中から、立ちあがった、ティク・ナット・ハン師のコトバは、「生・老・病・死」に対して、釈尊のコトバを、そのまま、身をもって、生き、確かなものとして、人々に訴える力をもっている。
科学的(真)があれば、宗教的(真)もある。
世界を歩く、時代を歩く、水平に、垂直に、超越的に生きる、ティク・ナット・ハン師のコトバに、お礼を!!(歩く瞑想)
ティク・ナット・ハン師の中に釈尊が生きている。
垂直に、超越的に。
コトバが生きている、ニンゲンの中に。(相依相関(インタービーイングの思想))

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