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• 水曜日, 4月 08th, 2009

正に、帯文のように雑誌のような「本」で、しかも昇華された思惟が真に溢れて熟読しております。

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• 水曜日, 4月 08th, 2009

いろいろなスタイルの文章を読ませて頂いて、言葉は豊かなメッセージを持っているのだなと感じ入りました。
詩「いるからあるへ」は最も感銘を覚えたページです。

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• 水曜日, 4月 08th, 2009

各ジャンルにわたり、それぞれにおいて本物の文章と無類の言葉の力に接し、感銘を深めました。

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• 水曜日, 4月 08th, 2009

読みやすい文章で、紀行文もエッセイもあっという間に読んでしまいました。
重田ワールドのこれからが楽しみです。
2~3年後に、直木賞にエントリーされる作品が誕生することを待っています。

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• 水曜日, 4月 08th, 2009

ウォーキングのセミナー・講演で人気を拍しているKIMIKOさんが、彼女のホームページにて絶賛!!

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• 水曜日, 4月 08th, 2009

流麗な文章でとても読みやすかった。
2章では、在校生のような身になり、話に引き込まれました。
故郷のこと、言葉のこと、文学のこと、健康のこと、自己実現のこと、将来のこと
これだけしっかりと語れる卒業生をもつことは、海南高校のまさに財産です。

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• 木曜日, 12月 04th, 2008


あとがきより

私も還暦を過ぎた。

長篇小説『風の貌』を、新文学の旗手として出版していただいたのが、25歳の時だから、眼のくらむような時間が流れていたことになる。

ある個人的な理由で、筆を断ち、長い間、文学から遠く離れて生活をしてきた。

靴底を減らして歩くセールスマンとして14年間、汗を流し、柄にもなく、会社を設立して、創業社長として22年間、働いてきた。全国を歩いて数万人の人に会った。幸運にも、会社は成長し、進化し、若い力も育ってきた。

会社の設立には、大きな決心が要った。

実は、もっとむずかしいのは、会社を続けること、成長・発展させることだった。(自立・共生・あんしん)というコンセプトを基にして、高いヴィジョンを掲げた。随分と胆力が要った。

そして、一番むずかしいのは、自分で創った会社を辞めることだった。断腸の思いだった。大変な覚悟が要った。(時が移り、人が変わるのは、自然の理だ。)

しかし、ものは考えようだ。自由に使える時間ができる。いつか来た道に戻って、本格的に、腰を据えて、執筆活動に全力投球をする。テーマも材料も、ノオトと頭の中にぎっしりとつまっている。作家として生きる。生涯現役だ。

人生80年時代である。昔、菊池寛が、小説は30歳を過ぎるまで書くなと言った。感性だけでも、小説は書けるが、生きて、人間を知り、思想を持ち、生活を知らないと、人の心を打つ作品ができる訳がないと言いたかったのだろうと思う。(当時は、人生50年)

新しいステージで活動するには、還暦でも決して遅くはあるまいと、勝手に、自分自身を鼓舞している。何しろ100歳以上が1万人を超えた世の中である。

さて、本書は、私の5冊目の本である。今までの本は、すべて、小説集だった。今回は、紀行文、エッセイ(ブログ)、講演、対談、小説、詩、書評と、頼まれるままに書いたり、話したりしたものをまとめてみた。まるで、1冊の雑誌である。入り口は、どこにでもある。高校生から高齢者まで、誰にでも読める(章)がある。働きながら、その度、発想一発とエネルギーで書いたものがほとんどた。しかしいつも、自分の心には、正直に耳を傾けて、書いてきた。好きな分野だけでも読んでいただきたい。出口も自由だから。是非、本の中を歩いてほしい。

私が仲間たちと、20代に出した文芸雑誌のタイトルが「歩行」、会社の事業の中心が「ウォーキング=歩行」。インターネットのブログが「言葉の歩行」、ライフワークの長篇小説のタイトルが「百年の歩行」。考えてみれば、私の人生を貫いているキーワードは「歩行」だ。(核)が歩くことである。正に、歩け、歩け、歩き続けろ!!である。

今回も、たくさんの人にお世話になった。対談・座談会で秋山駿さんに、装丁では、辛い体調を押して、力強い本の貌を作っていただいた秋山法子さん、図書新聞社長の井出彰さん、製作・校正の高橋和敏さん、深く感謝致します。

そして、長い間、封印してきた、ものを書くという行為に、作家として生きる私に、いいわと背中を押してくれた妻もと子にも感謝を。

私のライフワーク、長篇小説「百年の歩行」の完成にむけて、もう、歩みはじめている。ドストエフスキーを胸にかかえて。

2008年11月  著者

書籍について———————————————————————-

歩いて、笑って、考える」(株式会社図書新聞) 定価1,800円(+税)
12月10日発売 全国の書店にてお求め下さい

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• 木曜日, 12月 04th, 2008

知識や観念の言葉ではなく、自分の言葉で

【井出】ここに重田君や私が、秋山駿の影響を受けてやり始めた同人雑誌『歩行』を持ってきています。創刊号が1987年12月、2号目が次の次の年の2月発行になっています。30年近い前ですが、2号で資金がなくなってしまった。

【秋山】おお、なつかしいね。みんな若かったな。酒もよく飲んだし。

【井出】あの頃書かれた小説を読み直してみると、もちろん若さのせいで気負いもあるけど、ひどく観念的、抽象的な世界を書いている、いや、観念的、抽象的な言葉で書いている。けど、今回、例えば狭い世界にいろいろ違う考えの人間が生きている。知らないうちに足を踏まれたり、自分もまた踏んだりしている、仕方がないんだ、という箇所がある。ちょうど僕もそんな場面に現実にぶつかって悩んでいたところで、涙が出るほど慰められた。小説的小説は見つけることの出来ない一行だよね。

【秋山】そうか。そうだよ。そういう処。本当は戦後文学の流れというものが1日1日、日常を生きている、人生の中軸に向かってよく考えて生きている人だというような流れになると思ったんだがね。君は埴谷雄高や三島由紀夫の小説をよく読んでいたが、今の君よりは年齢の下の人達の小説は読むのかい。

【重田】そんなに読みません。読めないっていうのか。どこか作家という職業に余りにも流されていて、僕らのように実際に物を売ったり、歩き廻っていたりする人間には、ここは嘘だろう、そんなところは違うよ、ということが多すぎてつまり距離がありすぎて読めなくなってしまうんです。もう少し、そういう現実の声が響いてくるようだともっと読めるんですけど。

【秋山】なるほど、作家という職業だね。今はね。普通の人が生きている中軸に向けての直接性がないんだよ。これはね、基本的には私小説、本当の意味での私小説だからね。

【重田】かつて、山口瞳がいて、秋山さんもその解説に書かれていましたが、生きている風景をきっちりと書いてくれる、こういう作家が何でその後出てこないんだろう、というような気持ちがあります。だから、どんどん小説を離れて、では何を読むかということを多田富雄の『免疫の意味論』みたいなものをどんどん読んでゆく。面白いんです。

本来の私小説の姿を、技巧や手口でなく

【秋山】あれは面白かったね。なるほど、しかしやっぱりこの作品は私小説なんだよ。主人公が実際に生き、生活している。それを書いているという意味でね。本来、私小説というものはこういうものだったんだよ。ところが、少しずつ私小説が変質していった。ある時から私小説が変わったんだね。当初私小説が抱えていたものは、人生如何に生くべきか、自分とは何か、というようなことをきちんと考えていたんだよ。当時それは新しい試みだったんだね。けど、その新しさが勝ちすぎてその部分のスタイルのみで日常を書くようになってしまった。さらにそれでは足りないということで、今は小説の手口、技巧、つまりこの小説とは違う意味での観念的なものや幻想的なものを入れるようになってきているけど、それでは違うんだよね。
この小説で日常や生活が書かれているんだけど、どういうふうに書かれているかというと、誇張していうと日常批判、生活批判なんだよね。批判なんだよ。本当は私小説というものはそういうものだったんだよ。

【重田】さっき山口瞳の風景描画のことを言ったんですけど、逆に自分の世代やその下の人達の作品を読んでいると、文章の中に思考する力というか、ものごとを追及してゆく粘り強いパワーのようなものが感じられないんです。感覚では分かるんですけど、魅力ある力を感じない。

【秋山】それはね、知識と観念というものはすごいもので、日常生活の細部に至るまで知識と観念で説明出来てしまう。観念の言葉で言える、知識の言葉でいえる、精神医学の言葉がそうじゃないか。しかし、それでは文学は駄目なんだよ。文学はそれでは死んじゃうんだよ。自分が生きている、坐り込んでいる地面から立ち上がるそのときの考えをある形にするということが文学なんだからね。そのとき自分で言葉を見つけようとする、その姿が今は非常に少なくなってきている。

【重田】でもやっぱり昔の癖もあるんですが、哲学で考えてしまう。

【秋山】それは駄目だよ。哲学は必要なものだけどね。哲学にあたるものを日常の言葉で考えてゆく、それが文学なんだよ。本来の私小説が担っていたものは、だから批判なんだよ。日常批判、生活批判なんだよ。そういう要素が現代文学には薄れてきてしまっている。

【重田】秋山さんはヴァレリーについてずいぶん研究されてきていますが、ヴァレリーは証券会社に勤めていて、10年、20年文学から離れていたということがありますよね。

【秋山】そうそう。そうだったね。

【重田】ランボーなどはすべて文学を捨てて、砂漠へ行ってしまう、ということなんですよね。

【秋山】そうだね。この間、栗津則雄氏と小林秀雄について対談することがあって、小林秀雄の「Xへの手紙」、ヴァレリーの「テスト氏」について語り合ったんだけど、私は昔、文学というものは、ああいう散文的なものにいずれはなる、今日的な文学というものは消えてなくなるんだと思っていた。ところが現実は違ったね。今の小説はどちらかといえばイギリス風なものだと思える。まあ、時代の変化ということもあるんだろうけど、昔正宗白鳥なんかが格闘した部分というようなものがだんだんなくなってきている。日常の細部というようなもの、哲学者が考えないようなことを作家が考え、自分の言葉を見つけながら形にしていった。

【重田】最近、大学の先生が書く小説がいろいろな賞をもらったり話題になったりしていますが、ああいう人の小説も僕の中には入ってこないです。

【秋山】優秀な人が優秀な小説を書いているね。でもね、少し矛盾した言い方になるけど、ああいう小説、日本の文学の流れの中にあったことはあったんだよ。明治の終りころから大正期、昭和のはじめくらいまでかもしれないけど、ロマンティシズム。プルーストとか日本で最初に翻訳されたときの文体に似ている。文体ということは人間の摑み方だね。あの当時の翻訳の文章というのが、それに当たるような気がする。久世光彦さんなんか、手法は違うけど、そういう香りがする。私には分らないけど何処かで現代を表す、もう1つの文体なのかもしれない。

【井出】現代文学ということでいえば、先日亡くなったばかりの山田風太郎の存在があって、組み合わせの面白さ、偶然の面白さを考えてみるということもある。例えば実際ではなかったことだけど、ある種の同時代にこの人とあの人が会ったら、森鴎外と志賀直哉が偶然に出会ったらというような小説が出はじめている。関川夏央とか高橋源一郎とか、そういう人が。

生まれ持った言葉、文学はその発見の旅

【重田】確かにIT時代の機能を使った面白さには刺激的なものがありますね。石川啄木が渋谷のAVショップの店員という設定とか、奇想天外の時代を現代にタイムスリップさせた面白さは刺激的ですよね。

【秋山】うーん。しかしそれはそれでいい、しかし刺激的であっても君にとっては駄目だと思う。せっかく実際に歩くセールスマンをやってきた、考える日常生活をやってきて、そこで愚鈍に積み上げてきたものがあるんだから。
やっぱりね、でも人は生まれ持った言葉、そういうのがあって、人はそれを知らず育てているんだよ。君の故郷、四国だっけ。

【重田】ええ、小さな町ですが、三方山に囲まれ、海に向かった町、鉄道も通っていなかった町です。

【秋山】今はだいぶ違うだろうけど、君が生まれた頃、それは閉ざされた世界だよね。

【重田】そこで親父が満州から帰ってきて土建業をはじめた。家族は父母の兄弟など10人くらいの大家族でした。そこの長男なんです。

【秋山】えー、はじめて聞いたよ。そんな処なのか。しかし、それは面白い。それをきちんと書けばいい。もっと具体的に。

【重田】でも大変なんですよ。やれ事故があった、誰々が怪我をした。年中もめ事ばかりで。

【秋山】だから、そこを書かなきゃいけない。それが君の言葉が生まれ育った処なんだから。中上健次みたいな世界だよね。

【重田】ええ、『岬』なんて作品と酷く似てるんです。環境的には。けど、僕のほうは現実の土建屋ですから、こんな揉め事、こんな事というとき、具体的にはこんな派生的な面倒なことが続いて起こるなんてことが手に取るように分かってくる。

【秋山】そこが面白いよ。そこを今から書きはじめなければいけない。さっき空海のこと書きたいなんて言っていたけど、それはその後、すっと年をとってからでいいよ。確かにそういう処から知識とか思想とかに憧れて東京に出てきたんだろうけど、文学をやる限り、そういう観念、知識、そういうものを自分の言葉で創り直してゆかなければいけない。そのためには君の、そういう世界をもっと直接的に視つめなければいけないよ。今日、いろいろな形式、内容の小説があるけど、やっぱり本当に自分を視つめ、自分の力強い言葉で書かれた小説というのが必要なんだと思うね。

【井出】本当はもっともっと論じてもらいたいことが沢山あります。特に文壇というのか、商業的な文芸雑誌に載らないとなかなか文学として認められないという現状があります。そこには一定の基準というか規範のようなものが流布されています。そういう中で、同人雑誌をコツコツ発刊している人。そうでなくとも生活に時間を苛まれながら1人で一生懸命小説を書き続けている意味、中央の言葉だけが蔓延する中で、本当に自分の中軸に向かって発してゆく文学は存在するのか。友人ということもあるのですが、重田氏の作品を通して、幾分かの問いは発せられたのではないかと思います。

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• 木曜日, 11月 20th, 2008

縁と機 日に日を重ね、夜に夜を継ぎ、車谷と順子さんは、光の中を、雪の中を、雨の中を、・・・・・

人は、いつでも歩いている。生きる為に、生活する為に、人は歩いて移動しなければならない。実に、簡単な原理だ。毎日、特別な理由を考えなくても、学校へ、会社へと歩いている。

しかし、その日常を離れた旅ともなると、目的や理由があって、計画と決意が必要になる。さらに、それが四国八十八箇所を巡る旅ともなると、もっと深い、縁や機がなければ、おいそれとは、実現がむつかしい。どだい、まとまった時間がいる、体力がいる、強い意志がいる、そして若干のお金が必要になる。

本書は、自他ともに認める「私小説」の第一人者である、車谷長吉が、四国路を、遍路として歩いた、日記風な紀行文である。処女作「塩壺の匙」、出世作「赤目四十八瀧心中未遂」は、現代では稀有な、本音を語る作家車谷の生きざまとその思想が、泡のような現代社会に対して、牙をむいた秀作である。反骨の人であり、決して、安全地帯に身を置いて、ものを書かない作家である。(私)という現象=(事実)にこだわって、余分なものを剥ぎ落として、人間の真形を追う車谷の形姿が、見事に、作品に結実している。

何時、僧になるのかと思わせる車谷が、四国八十八ヶ所に、遍路として、旅立つのだから、その理由・縁と機を知りたいと思うのは当然だろう。何にしろ、旅は、(事実)という現実に満ちている。車谷の五感が、思考が、四国の風景に、人に、邂逅して、未知なるものに遭遇して、どんな声や言葉を放ってくれるのかと、読者は、期待してしまう。

意外にも、車谷の感情巡礼は、奥さんの順子さんの発案によるものだった。詩人でもある順子さんは、父の故郷・愛媛県、西条に生まれ、千葉県の飯岡へと移転して、育っている。数十年振りに、父と自らの出自を確かめる為の旅だったのだ。車谷は、奥さんにひかれる牛のように、旅へと出発したのだ。

もちろん、車谷にも、それなりの内的な理由がある。長年、(私小説)を書き、小説に登場した、友人、知人、親族を傷つけたという(傷)、自らの業の深さ(私小説を書くという仕事)からくる(傷)、精神を病み、薬を呑みながら、少しでも、罪滅ぼしができればと、虫のいい考えを抱きながら、歩き続ける。

四国八十八ヶ所は、誰が歩いても、開かれていて、物語が誕生するという、不思議な時空であり、装置でもある。大昔から、空海とともに、大勢の人が歩き続けている。失業した人、離婚した人、事故にあった人、大病をした人、心を病んだ人、いや、現在では、若い人が、何気なく、ふらりと旅に出る場合もあるようだ。

徳島県で生まれて、18歳まで育った私は、幼年・少年時代に、たくさんのお遍路さんに会った。昔は、お遍路さんは一軒一軒歩いて廻りながら、お接待を受けた。念仏を唱えて、季節のくだもの、柿、ミカン、梨、栗、お芋、小銭のお布施をもらって、野宿をしながら、どこかへと歩いていくのが、遍路さんだった。彼方から来て、何者なのかわからぬまま、何処かへと立ち去る、まれびとが遍路さんだった。情報や知識を運んでくる人、村人の悩みや相談にのる人、私たち少年は、内なる眼で、その正体を探ろうとしていた。

四国八十八ヶ所は、年間、30万人が訪ねている。バス、タクシー、車、中にはヘリコプターで廻る人もいる。何を求めて、廻るにせよ、とにかく、歩くのが一番である。ただし、1400キロ歩く為には、約二ヶ月の日数がかかる。歩行は、思考の誕生の源だ。

四国には、四つの道がある。空海さんたちが歩いた古道。坂本龍馬たちが歩いた土佐街道などの、いわゆる旧道。そして、現代の県道、アスファルトの道。最後が紀貫之、長宗我部元親たちが渡った海の道である。

日に日を重ね、夜に夜を継ぎ、車谷と順子さんは、光の中を、雪の中を、雨の中を、声を掛け合い、離れたり付いたりしながら、俳句を作り、短歌を詠み、晩婚夫婦の、同行二人が続く。四つの道を歩き、車谷の(私)が光る。

車谷という人間が、ぶつぶつ呟き、批評し、回想し、思い出あり、毒舌あり、(事実)を追って、歩き続ける。機と縁の深さが、そのまま作品に現れる、四国八十八ヶ所恐るべし。車谷の眼には何が見えたのだろう。

「季節(とき)が流れる、お城が見える」(ランボー)

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• 火曜日, 11月 04th, 2008

昨年は作曲家・武満徹へのエッセイとか、感想・妻の語り下ろしの本などを目にした。没後10年になるという。もうそんなに時間が流れたのかと、私は辛い思いがした。

私は音楽の専門家ではない。学生時代にブラスバンドに参加したり、クラシックギターを弾いただけの経験しかない。素人だ。

しかし、無限に旋廻するバッハの音楽を聴いていると、音の運動に宇宙を感じるという至福の時を感じるものだ。

私に作曲家・武満徹を教えたのは、学生時代の友人Mである。私のアパートへ、一枚のレコードを持ち込んできた。
「面白い人がいるぞ。まあ、聴いてみろ、驚くから」
「ブマンテツ? って何者だ!」
「馬鹿! タケミツトオルっていう、天才だよ」

ステレオを買ったばかりの時だったので、いろんな友人が次から次へと、レコードを持ち込んできては、一緒に聴いた。

戦慄が全身に走った。今までに聴いたことのない音楽だった。バッハの無限旋廻ではないが、鋭い音の線が虚空に走った。どこにもない時空が出現して、その小宇宙が沈黙までも“音”に変える世界だった。

私は興奮した。“ノヴェンバー・ステップス”だった。私は武満徹の音の磁場にひきつけられて、快感で痙攣していた。

それからだ。曲はもちろん、武満徹の書いた評論、エッセイ、対談を貪り読んだ。

ここに、ひとりの“芸術家”がいる。詩人と呼べる人が中原中也で終わったのなら、作曲家で芸術家と呼べるのは、武満徹が最後の人ではないのか?

今では現代人にとって、芸術家という言葉は死語であろう。文豪・ドストエフスキーとか、谷崎潤一郎と呼んだのも、昔の話だろう。

私はいつか、武満さんに読んでもらえる“作品・小説”を書きたいと夢想していた。

まだ何者でもない、白面の一青年が、妙な考えに陥ったものだ。それも音の魔力か!

誰でも「本」を書き終えると、是非読んでもらいたい人が、何人かいるものだ。私にとって、武満さんはその一人だった。何しろ音以上に、言葉に対しても厳しい批評眼をもち、エッセイストとしても見事な文章を書いた人だ。ちょうど、天才画家・ゴッホの手紙のように。

拙書「ビッグ・バンの風に吹かれて」をお送りしたところ、丁寧なお礼と感想の入ったハガキが届いた。私は子供のように喜んだ。
「あなたの芸術を探求して下さい」と結んであった。「芸術?」 私のはただの作品・小説である。

調子に乗った私は「死の種子」(長編小説)を書き下ろした時、帯に一言いただけないかと、出版社を通じて頼んでみた。
「残念ながら、今は初のオペラの制作で時間がない。本が完成したら、送って下さい」と、断りのハガキが届いた。

私はただただ赤面し、恥ずかしかった。

“世界の武満”がオペラに挑戦する。一刻一刻が黄色のように大事な時間にちがいなかった。

その時、武満さんはガンとも闘っていた。“オペラ”は、ついに幻のものとなった。音が言霊に重なって、球体になるオペラを、是非聴いてみたかったが。

新聞で、武満さんの死を知った時、私は一晩「ノヴェンバー・ステップス」を聴きながら「音、沈黙と測りあえるほどに」エッセイ集を読み耽った。芸術家は作品の中にすべてがある。

それから、あれから、私はいったい何をしてきたのか。確かに「○△□」という小説集を出した。全身全霊を投入した作品だった。

しかし約束した“芸術”には程遠い。

現在「百年の歩行」というライフワークの想を練り、ノオトを執っている。私が音楽で魂を揺さぶられたように、言葉、文章で人の心を掴んで離さない作品の完成。私のヴィジョンは、いつ完成するのかわからないが、武満徹さんからいただいた二枚のハガキに応えられるものが出来ればと、新年から自分自身を鼓舞している。

自分の持ち時間だけは誰にも分からないが…。