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• 木曜日, 7月 10th, 2025

重松清の「小説」を読んで、考えたこと。
第38回 四街道稲門会「読書会」(東西古今の名作を読む会)=講師・・・重田
テキスト「ビタミンF」(直木賞受賞作品)
その他「ナイフ」(坪田譲治賞)(初期の短篇集、小・中学生のいじめ)「流星ワゴン」(ファンタジー小説-現世と来世)「停年ゴジラ」(第二の人生の生き方)「とんび」(初の新聞小説-ベストセラー、映画化)(五木寛之の「青春の門」にあたる作品。とんびが鷹を生んだ物語。

作家にとって「文体」は人間の顔である。一人一人の顔がちがうように、作家(詩人)の「文体」は、みんな異なる。言葉自体は誰のものでもないのに、文章になると、言葉は、その作家のものになる。一言半句が、フレーズが、作家の思想と、世界を表現する「文体」に変わってしまう。「文体」が世界を創出する。作家に固有の世界・思想は「文体」によって決定する。
秀れた作品は、冒頭の数十行を読めば、誰のものか、わかってしまうから不思議だ。

①川端康成の「文体」
まるで、水晶のように透明な文体。(美)を描くために(「雪国」)
②芥川龍之介の「文体」
東西古今の文学作品、書物を読み込んだ(知)的な「文体」。神経の世界。「或阿呆の一生」
③谷崎潤一郎の「文体」
日本の和語による語りは、肌に吸いつくようなリアリティを持つ(「細雪」)
④三島由紀夫の「文体」
華麗な、大神社や塔を建築するような(知性)を放つ「文体」(「金閣寺」)
⑤太宰治の「文体」
ヒトの(読者の)耳もとで囁くような、親しみあふれる、告白の「文体」(「人間失格」)
⑥安部公房の「文体」
スピード感あふれる、マシーンのようおに正確な「文体」(「砂の女」)
⑦大江健三郎の「文体」
まるで翻訳文のようにグロテスクでしかも重厚なリアリティを持つ「文体」(「万延元年のフットボール」)
⑧椎名麟三の「文体」
・・・だ。・・・だ。・・・だ。という断定する「文体」は、実在的で、労働者の姿を捉える(「重き流れに」)
⑨泉鏡花の「文体」
迷宮に分け入っても分け入っても、不思議な謎と美を提供してくれる「文体」(「高野聖」)
⑩古井由吉の「文体」
明治、大正、昭和と、百年余年の近・現代文学の中で、おそらく、最高の「文体」である。作家も主人公も関係なく、ただ(文体)だけが、生きて、呼吸している!!(「杳子・妻隠」)

さて、重松清の「文体」は?
実は、重松には、いわゆる、文学的な「文体」はない。なぜか?

堂々たる流行作家である。
大衆小説作家である。(たくさんの人に読まれる小説という意味)
風俗小説家である。(現代の生きた現実を、切り取って、活写するという意味で)
重松にとって、いわゆる(純文学)は、ほとんど意味をもたない、と思われる。

自分の語りに、語る物語に、耳を傾けてくれる、読者がいればいい。(文学)であればいいのだ。

普通の人間が生きる普通の生活!!それが、重松の描く(現実の世界)である。
特別な人物、特異な世界、そんなものとは無縁だ。誰もが、コレは私だと思う。誰もが生きている(現実)誰もが謳歌する人生の出来事、どこにでもいる、平凡な普通の人間の物語である。
しかも、登場人物全員に、寄りそって多視点で描く手法。
一見して、誰にでも書ける「文体」。あらゆる出来事、に対応できる、自由な、普通の「文体」。(実は、誰にでも書けるものではない)(無技巧の技巧で成立している)

重松は、いわゆる「文学的表現」を慎重に排除している。文学臭さがまったくない。(まるで、ルポタージューのように)(トールマン・カポーティの「冷血」の「文体」を視よ!!ノンフィクション小説の最高傑作)

どこにでもいる、普通の人、市井の人、市民、庶民。そんな人間を描くために、重松は(私=作家)を完全に消しているのだ。だから(文体)がない!!見えない。

ただし、唯一、重松の「文体」を表わしているのが、地の文ではなく「会話」文だ。特に「方言」だ。あるいは訛りだ。
「とんび」の世間・世界を支えているのが「岡山弁=方言」である。「そこには、紋切り型ではあるが、見事な「文体」がある。生きている人間の声がある。「停年ゴジラ」にも、博多弁、広島弁、大阪弁と、方言が、力強いリアリティを放っている。

もうひとつ、重松の「文体」のない文体を考える時、彼の職歴に、その根があるのかもしれないと思うが・・・
編集者、フリーのライター、ゴースト・ライターとして、生活していた時期がある。
どれも(私)の表出を殺して、文章を書く仕事である。その習慣が、小説の世界にも、多少、影響を与えているのかもしれない。
現代社会を生きる、無名の人々を活写するためには「文体」のない文体が必要だった。

重松の作品「ビタミンF」を読書会のテキストとして、選択した。(直木賞をもらっていた作品だから)(中年男の生きざま)
しかし、本当は「とんび」をテキストに選ぶべきであった!(後悔)(半自伝小説!!)
読みながら、三カ所で落涙した。
私は、情の文学は、嫌手である。
山田洋次、浅田次郎、重松清等の”泣かせの文学”を、読まない、観ないようにしてきた。江戸の近松からはじまる”情の文学”を日本人は好きだ。小説・映画・芝居と、日本人は、泣きものが大好きである。
重松作品が、たくさんの読者に読まれる理由もわかる。いかにも、日本人的である。しかし、本音を言えば、私の”文学観”とは、正反対である。「読書会」に参加した、みなさんの意見を聞いてみたい。

「丁寧に”今”を生きる重松の人間としての姿勢!!」 2025年 6月30日

重松清の「小説」の特徴は?
1. テーマは、普通の生活の中にある誰でもが経験する出来事。(いじめ、離婚、失職、停年、父と子、中年という存在・・・)
2. 文章はやさしくて、一気に読める。(自分の身にも起こることだと)
3. 必ず泣かせる場面、フレーズがある。(情の文学)
4. 決して悲劇を書かない。(結末は悲しくない)
5. 普通の人間が登場する。私であり、あなたであり、読者の中にもいる人物。(共感、共鳴、共生の物語)
6. 作者の自己主張はない。多視点で描く。バランスよく描かれている。

Category: 書評
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