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• 金曜日, 12月 06th, 2024

世の中には実にたくさんの、多種多様な仕事がある。遊びでもない。趣味でもない。道楽でもない。ニンゲンにとって、仕事とはいったい何であろうか。そして、人は、たくさんの仕事の中から、ひとつの仕事を選ぶ。なぜ?
久米勲は、編集者という仕事を選び、生涯一編集者として生き抜いた男である。
作家でもない、記者でもない、編集者とはいったい何者であろうか?どんなことをする人であろうか。
本書の底辺には、そんな思いが流れている。そして、読み終えると、そんな疑問が溶解する「本」である。

さて、久米勲は、大学への進学を決める際、社会に出て、役に立つ、実学(?)=法学部や商学部に入ってほしいという父の思いを裏切って、文学部へと進学を決め、早稲田大学で国文学を修学した。
時代は、政治と文学の熱気で燃えあがり、新しい雑誌や新聞や書評誌や思想書が、次から次へと発刊されて、時代を背負う作家たちが続々と登場する、「本」が売れに売れる、黄金時代であった。
学生の就職希望は、マスコミに集中しておそろしい競争率・倍率であった。
久米は、文芸の出版社、河出書房新社に見事に合格して、雑誌「文芸」や文学関係の「本」の編集者としてスタートする。(河出書房新社は、二度倒産している。)(昭和32年と昭和43年)
先輩には、鬼編集長として、作家たちに畏れられた、坂本一亀がいる。三島由紀夫の「仮面の告白」を手がけ、「悲の器」を書いた新鋭の高橋和巳を発見して、育てあげた。(音楽家、坂本龍一の父)
「文芸」「海燕」の名編集長、寺田博もいた。作家、吉本ばなな、小川洋子などの発掘者である。
久米は、先輩たちの仕事ぶりを、背中を見ながら、編集者としての腕を鍛えていった。
新人、無名の作家たちの、生原稿を、何百と読み込んで、活字になった文章と同じように評価できる眼力を身につける。
そして、企画、立案から、作家たちへの原稿の依頼、原稿の修正、入校、割りつけ、ゲラ刷りの校正、帯文のキャッチコピー、「本」のタイトル、装幀まで、一切の実務を修得した。
担当した作家たちは?大家の川端康成、流行作家の吉行淳之介、五木寛之、野坂昭如、瀬戸内晴美、山崎正和、新人の中上健次、河野多恵子と錚々たる人々である。

作家たちとの交流、付き合い方、原稿のもらい方、距離のとり方、素顔の作家たちの日常・仕事の現場。特に、作家の家での会食は、長く付きあってきた編集者の特権であろう。吉行家の「ヒジキ」山本家の「春雨サラダ」瀬戸内家の「キィウィと玄米」五木家の「ステーキ」。どんな仕事でも、お客さんと一緒に、食事ができるようになれば、一人前である。第一に、信用を得たという証拠である。久米は、後に、エッセイとして、その現場を活写している。

作家は、原稿を書く人、いわば、卵を産むニワトリ。編集者は、生原稿を読んで、「本」=商品になるかどうかを見決めて、立派な「本」にして、読者の手許に届ける、「本」づくりのプロ(いわば、作家が産んだ卵をヒナとして誕生させて、一人前の成鳥になるように育てあげる人。)
決して、自分では、モノを書かない。目利き、眼力の人、作家にとって、はじめての読者であり、批評家である。
東西古今の名作を読み尽くして、いい文章とダメな文章(作品)を見極める力を備えた人が、名編集者となる。作家にアドバイスをして、修正したり、書き直しを命じたり、余分なところを削ったりさせる力を持っている。(ドストエフスキーの原稿には、無数の修正があるー編集者の)

「本」の読み方には、二つの方法がある。
ひとつは、「本」を、ひとつの世界・宇宙と考えるもの。作家本人とは別の生きもので、作品の中に、書かれたものしか、読まない。作品は、作家にも見えない、「本」はわからないものが含まれている。書かれた文章がすべてである。(ロランバルトのテキスト・クリティック。蓮見重彦の「本」の読み方や論じ方)(表層批評)
もうひとつは、作品は、やはり、作家が産んだもの。作家の子供が作品。あらゆる言葉・文章・発想は、作家の中から生れたもの。従って、作家個人の性質、育った環境、家、家族、その職種、一切を調べて、作品を解釈する方法。実証主義。評論家、平野謙がその代表。国文学者たちも。平野は「島崎藤村」を書いた時、その調査と探求は、まるで、探偵だと畏れられた。
さて、本書を書いた、編集者・久米勲の「本」の読み方は?どちらであろうか?本書を読んで、読者に、判断していただきたい。

作家と二人三脚で「本づくり」の共同作業をしてきた編集者は、決して、モノを書く人ではない。作家たちは、光を、スポットライトを浴びるが、「本」を制作した編集者は、裏方であり、黒子であり、縁の下の力もちであり、光に対して、影の存在である。
しかし、時には、新聞社や出版社から、依頼されて、モノを書くこともある。
実は「本書」も、久米が依頼されて書いた書評や解説や文学論やエッセイに加えて書き下ろしたもので構成されている。
特に、作家たちが死んだ場合、作家との交流があって、現場と素顔を知っている編集者の記録や告白は、随分と貴重な資料となる。
「あとがき」で、久米は、こんなことを書いている。「編集者として、ぼくは良い時代を過ごして来たようだ。そのことを残しておくのも悪くはないかも・・・(略)二人の孫に、お爺ちゃんはこんなことを考え、こんなことをしてきたんだと、伝えておこうと」
記録もひとつの文学である。日記も。回顧録も。久米の編集者としての存在証明が本書である。孫たちにというところが、実に、あたたかいメッセージである。老いた時、誰でも、一度は、「人生の検証」をするものだ。

編集者として、一番の喜びは、何であったのか?
新人の発見、新しい文学者の発掘であろう。
「やちまた」足立巻一著
盲目の人・本居宣長の長男のことを書いた評伝。同人誌「天秤」に掲った、「やちまた」の冒頭を読んだ時、編集者としてのひらめきが来た。名作だと。久米は、「やちまた」の出版を決意。「やちまた」は、芸術選奨文学大臣賞を受けた。久米の編集者人生で一番のよろこびであった。

「正統なる頽廃」(大笹吉雄第一評論集を刊行。)
「花顔の人 花柳章太郎」 大佛次郎賞受賞
大学の同級生・演劇評論家の誕生。まるで我ことのように喜んだ!!
河出書房新社が倒産!!(2度目)
社員が、約600名(関連会社を含め)
久米勲も、何度目かの、希望退職者の募集に応じた。三人の仲間で、編集会社「木挽社」を設立。本づくりの職人として、生きる!!
そして、フリーの編集者に。
企画・立案から、出版社との交渉。苦労の絶えない、辛い時代を生きることになるが。「新潮日本文学アルバム」は、好評で全100巻に。
その頃の心情。
「机の周りに写真を散らかし、一日十時間、いや、二十時間にもわたって割付け(レイアウト)をしていると、俺は生涯こうして机の前にこの写真たちと坐りつづけなくてはいけないのか、と暗然とすることしばし」
それでも「本」の完成した顔を見ると、よろこびで、心が熱くなる編集者魂。

お礼と感謝を!!
本書には、私に、文学のインパクトを与えてくれた、三人の、作家、評論家、研究者が登場する。直接、言葉を交わした人たち。
中上健次、竹西寛子、保昌正夫。
本書に名前と記事を発見したとき、50年前の三人の声と言葉と立ち姿が一気に記憶の中から湧きあがって、心が揺れて、この記事を読んだだけで、充分に、読書の意味があったと、なつかしいやら、うれしいやら、思わず、「儀式」と「管絃祭」と「岬」と「枯木灘」と「早稲田文学」を本棚から取り出して、読み出した。
久米勲さん、ありがとう。
三人の声が、心の中に甦って、鳴り響いております。「本の力」です。

中上健次の思い出。
文学が熱を帯びて語られた時代。
東京、阿佐ヶ谷の居酒屋にて。
日本読書新聞の元編集長・井出彰、武田泰淳論を書いていた石川知正、出版社の編集長・横田明彦、そして私の四人。新鋭作家の中上健次に声を掛けて、一緒に、文学のリトル・マガジンを作らないか?と。中上は、「津島佑子(太宰の娘)を入れるなら、考えてもいいよ」と。
そして、「俺「文芸」に作品を載せてもらうのに、6回も7回も書き直しされてな、まるで、顔の皮をむしられる、屈辱だったな」「重田、お前、真似できないだろ」と。
もうひとつ、中上の重要な告白があった。「俺、本名、なかがみじゃないんだ、実はなかうえなんだ、わかるだろ、四国のお前なら。」被差別部落の出身だという意味だった。中上は、作家になるべき、資質や宿命を背負った、馬力のある男であった。そして、カラオケに行った。都はるみの「北の宿から」を歌った。低く、やさしい、よく響く声であった。
結局、中上は、芥川賞受賞で、急に忙しくなって、一緒に文芸誌をというプランは消えてしまった。中上は、全力疾走で、走って、突然、逝った。

保昌正夫先生の思い出。
声と眼に力が漲っていて、文学を全身で呼吸しているような、講師であった。
横光利一の研究者。横光・川端時代に、横光論を書く評論家であった。早大の国文科で、「現代文学」の講義を聴いた。
大学の先生というよりも文士そのもの。
私の提出したレポート「大江健三郎について」の視点、発想がユニークだから、評論してみないかと、誘われたが、結局、完成しなかった。
私たちの同人誌「あくた」(1~13号)を、ていねいに、読んでくれて、「早稲田文学」に小説を書いてみないかと、声を掛けてくれた。
当時の文学青年たちは、商業誌の前に「早稲田文学」に作品を載せることが夢だった。中上健次は「灰色のコカ・コーラ」を。立松和平は「途方にくれて」を書いていた同世代。
結局、私は、短篇小説、「投射器」(100枚)を、秋山駿の了解を得て、「早稲田文学」に掲載した。保昌正夫先生は、文学の恩人でもある。

竹西寛子先生の思い出。
大学の先生・講師というよりも、現役の作家であった。小説集「儀式」の著者。
中世文学、特に、和歌の読み方を講義してくれた。ていねいに、ていねいに、こんなに言葉を大事にする先生は他にいない。語りがそのまま、「本」になるような厳しさ、美しさ。
特に、和泉式部の和歌。
〇あひみての 後のこころにくらぶれば 昔はものを思わざりけり
〇もの思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれいづる魂かとぞ見ゆ
見事な解釈であった。リアルな言葉に触れて、ただ、うっとりしていた。
広島出身である。(原爆を体験)文学者として、宿命づけられた人。河出書房で編集者ー倒産を体験。筑摩書房に入社。
そして、フリーランスに。作家として独立。10年後には、名作「管絃祭」を書く。
漱石や鷗外の(知)による「本」よりも、人生を探求する、正宗白鳥の呟くような、自然の言葉のリアリティを好んだ人。
文体は静かだが、その底流には、激しい、真摯な声=レクイエムが流れていた。
原爆で死んだ、同級生たち(竹西は、その日、体調がわるくて、学校を休んでいて、助かった!!)への鎮魂歌である。

記憶は、長く生きてきた老人には宝である。藤圭子の歌声を聴けば、70年代の空気が蘇ってくる。(久米には、流行歌をテーマにした著書がある)「流行歌の情景」
記録もひとつの(文学)である。時代の声を、編集者の仕事を、(人生の検証)として、残した久米も80歳を過ぎたおじいちゃんになった。本書は、孫たちに贈るメッセージでもある。苦労も悲しみも喜びも「編集者」という仕事の中にあった。正に、回想記である。必ず、誰かに伝わるものである。「本」の力、「言葉」の力である。
私のひとつの「感想」である。
令和6年12月3日日記

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