Archive for ◊ 6月, 2018 ◊

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• 月曜日, 6月 11th, 2018

1.「苦海浄土」(河出書房新社刊)石牟礼道子著
2.「評伝 石牟礼道子-渚に立つひと」(新潮社刊)米本浩二著
3.「天災から日本史を読みなおす」(中公新書刊)磯田道史著
4.「刺青・性・死」(逆光の日本美)(講談社学術文庫刊)松田修著
5.「夫・車谷長吉」(文藝春秋社刊)高橋順子著
6.「仏教思想のゼロポイント」(悟りとは何か)(新潮社刊)魚川祐司著
7.「小説における反復」(作品社刊)坂井真弥著
8. 詩集「グッドモーニング」(新潮文庫刊)最果タヒ著
9. 詩集「空が分裂する」(新潮文庫刊)最果タヒ著
10. 詩集「死んでしまう系のぼくらに」(リトルモア刊)最果タヒ著
11. 詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(リトルモア刊)最果タヒ著
12.「開高健の文学世界」(アルファベータブック刊)吉岡栄一著
13.「芥川追想」(岩波文庫刊)石割透著
14.「輝ける闇」(新潮社刊)開高健著
15.「夏の闇」(新潮社刊)開高健著
16.「花終る闇」(新潮社刊)開高健著
17.「日の名残り」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
18.「遠い山なみの光」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
19.「浮世の画家」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
20.「わたしを離さないで」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
21.「忘れられた巨人」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
22.「浮虜記」(新潮文庫刊)大岡昇平著
23.「野火」(新潮文庫刊)大岡昇平著
24. 詩集「絶景ノート」(思潮社刊)岡本啓著
25.「永山則夫の罪と罰」(コールサック社刊)井口時男著
26. 詩集「愛の縫い目はここ」(リトルモア刊)最果タヒ著
27.「数学する身体」(新潮社刊)森田真生著
28.「文部科学省は解体せよ」(扶桑社刊)有元秀文著
29.「わたしたちが孤児だったころ」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
30.「夜想曲集」(ハヤカワ文庫刊)カズオ・イシグロ著
31~37.「須賀敦子全集」第2巻~第8巻(河出文庫)
38.「千年後の百人一首」(リトルモア刊)最果タヒ+清川あさみ著
39.「道の向こうの道」(新潮社刊)森内俊雄著

「読書」にもいろいあって、体力と時間とココロの用意がなければ、読めない「本」がある。作者自身が、生命がけで、ココロを叩き割られながら、書いている「本」がそれである。
意識が、はじき飛ばされてしまい、ココロは作品の色に染めぬかれて(出口なし)の状態になる。長い間『苦海浄土』を避けてきた。

①②偶然、米本浩二著『評伝 石牟礼道子-渚に立つひと』を読んだ。石牟礼道子その人を追った労作であった。その「本」に導かれて、『苦海浄土』に挑戦している。超大作である。一息ついては、休み、休んでは読み、石牟礼道子の世界に入っている。まだ、先は、長い。

③『天災から日本史を読みなおす』司馬遼太郎の次に、(歴史)を読み込んでいると言われている人、磯田道史。磯田の祖母が、徳島県牟岐町の出身と知る。徳島出身の私も(三つ隣の町)地震・津波に悩まされてきた昔話をよく聴いた。磯田の読み込みが面白い。

④『刺青・性・死』谷崎潤一郎の小説『刺青』は、美人の肌に刺青を刻む男の話である。彫師は、日本では、異端の仕事である?刺青は芸術か?美は異端の美か?私の甥(弟の長男)が、彫師になった。「刺青」とは何か?その歴史を知りたかった。

⑤『夫・車谷長吉』車谷の『四国八十八ヶ所感情巡礼』を「図書新聞」で書評をした。車谷本人が会社を尋ねて来たという。お礼のためか?さて、本書は、詩人でもある妻、高橋順子が夫・車谷を回想したものである。小説家と詩人の夫婦。そのなれそめから、夫の病い、お遍路、不意の死までを、ていねいに語っている。
島尾敏雄、ミホ夫妻にどこか似ている。夫が病気に、妻が病気にのちがいはあるが。

⑥『仏教の思想のゼロポイント』魚川祐司は、僧侶ではない。従って、どの宗派にも属していない。東大で、インド哲学・仏教学を専攻している。ミャンマーに渡って、5年間、テーラーワーダ仏教の教理と実践を修学している。
<釈尊>によりそって、日本仏教は、なぜ悟れないのか、と考察している。立場が、自由だから、<釈尊>のコトバにそって、語ってくれる。日本の仏教とは?と疑問をかかえる人はたくさんいる。<釈尊に帰れ!!>という書でもある。

⑦『小説における反復』「文芸賞」を受賞した作家の、最後の小説である。偶然作者の知人から頼まれて、感想を5枚ほど書いて、本人に送った。ていねいな礼状が届いた。数か月後に、坂井さんは逝ってしまった。
日々の、仕事、ニンゲンの「反復」する行為がテーマであった。横光利一、椎名鱗三、黒井千次等の「仕事」を継ぐ労作であった。
(後日、知人から、重田さん、いいコトバをありがとう、坂井の冥途へのいい土産になりましたと電話あり)

⑧⑨⑩⑪㉖㊳ 天才ランボーの詩、天才ル・クレジオの小説を思わせる詩人の登場である。<詩>が読まれない、日本の現代。コトバが、数万人の人に読まれている詩人である。そのコトバの自由度が、とても高く広い。ひとつの才能である。特に『千年後の百人一首』には驚愕した。単なる「百人一首」の解釈や注釈ではない。古代の、時代の(情景)や(意(ココロ))を最果の光のコトバが、現代の風景の中に顕現させるのだ。(和歌)の五七五七七が、自由な散文詩となっている。見事である。古代のコトバによる情景もココロも捨てずに、しかも、革新されたコトバで新しいリアリティをもって、世界を出現させる。正に(最果タヒワールド)である。
清川あさみの百の絵が、実に素晴らしい。コトバと絵のコラボレーションが、一体化している。

⑫⑭⑮⑯「稲門会」の読書会。開高健の世界を読む。テキスト『輝ける闇』
行動の人、食の人、釣りの人、そして何よりも「文体」を生命とした作家である。<純文学>の作家でも、「文体」らしきものを持たない者が多い現在、開高健を再読すると、眼が洗われる。一言半句に、開高健の審美眼がキラリと光る。しかし、同時に「文体」を持つ者は、追いつめられて、文章が書けなくなる。「闇」の三部作の『花終る闇』では矢は尽き、刃は折れて、苦闘する開高の姿が見えてくる。

⑰⑱⑲⑳㉑㉙㉚ カズオ・イシグロの世界へ。5歳で長崎からイギリスへ。主題は<記憶>である。
一作一作、場所も時代も変えているが、<文体>は変わらない。5年に一作しか書かない。(日本では、食べていけないだろうが)全世界で、読まれている。
<記憶>ニンゲンのアイデンティティを追求する姿勢が、読者の共感を呼ぶのだろう。<物語>モノカタリの人である。実によく取材し、観察し、熟考し、リアルを感じさせる<文体>を創出している。
<日本>と<イギリス>「と」がポイントである。「と」の深淵。

㉒㉓ 市民の「読書会」のテキストである。(春と秋に、市民の方たちにむけた「読書会」があって、私は、講師をしている)
『浮虜記』と『野火』第一次戦後派、ニンゲンの根源的テーマを小説にした。野間宏、武田泰淳、堀田善衛、椎名鱗三、埴谷雄高、梅崎春生・・・等々。
(戦争という事実)と(小説の創造力)

㉔『絶景ノート』中原中也賞とH氏賞をW受賞した詩人の第二詩集である。おそらく、現代詩の最前線の、若手の詩集であろう。
<旅>が舞台である。<日常>からのタビ。熊野へ。タイ・ミャンマー・ラオス・カンボジア・ベトナム。五感が捉える、風景、ヒト、コト、モノ、時間、空間、コトバが疾走する!!
疾走?少しだけ、吉増剛造さんのコトバの影響があり、しかし、そこから、自らの新しい地平へと、伸びるコトバがあって、確かに「ノート」のコトバになっている。「ノート」のコトバは秋山駿。着地できる「日常」はあるのだろうか?コトバは「日常」を生きられるのだろうか?

㉕『永山則夫の罪と罰』井口の30年にわたる<永山則夫>へのこだわりを、どのように考えればいいのだろうか?30年間、井口が書いてきた永山則夫論の集大成。コトバとニンゲン論でもある。(犯罪)の秘処を探っていいるのではない。あくまで、永山則夫が書いたコトバを徹々的に文学的に、考察している。
なぜ?ヒトは、コトバで起ち、コトバで生きる動物である。コトバを知らず、私のコトバを持てない貧困のうちにある者は、どうやって、(私)を表現する?井口は、あきらかに、自分の中にいる、もう一人の永山則夫を、凝視している。”私”も永山則夫であったかもしれないと。

㉗ コトバに生きる人=文学者。色と線に生きる人=画家。数・数学に生きる人=数学者。
『数学する身体』コトバは不思議だ。数はもっと不思議だ。宇宙を表現する、数、数式、E=mc2。算数から超数学まで。

<数>が、古代から、ニンゲンを魅惑してきた。大学の先生ではなく(独立研究者)として生きる、数学者・森田真生。手本は(岡潔)である。農耕と数学と念仏三昧の日々を生きた天才である(岡潔)。存在、在ることの不思議と発見から<数学>がやってくる!!
(コトバ)と(数学)何にせよ、驚きのないところに発見はない。だから、野に(私)を放つ。普通の日常に(私)を放つ、ただ、宇宙に在る!!と。

㉘『文部科学省は解体せよ』タイトルは、実に、過激であるが、読んでみると、ていねいな<教育論>である。
文部省は、小学生から、英語を学ばせる計画である。有元は断言する。ニンゲンとして生きるためには、英語ではなく、母語=日本語で、深く、思考できるように育てることが第一だと。
中学校、高校でも、生きた英語を教えられる教師がいないのに、英語教育のいろはも教わっていない、小学校の先生方が、どうやって、生徒に(英語)を教えられるのか?有元は、高校教師を経て、文部省に入る。アメリカで開発された読書による国語の指導法「ブッククラブ」を調査・改良して、日本で普及されている。いわば(考えるニンゲン)づくりをめざしている。教育者なら、一度は、読んで、耳を傾けてもらいたい「本」である。

㉛~㊲ ココロが渇いている時、良質のコトバを読みたいと思う。ていねいに、ていねいに人生を生きた人の声を聴きたいと思う。なかなか、そんな極上のコトバには出会わないが。
『トリエステの坂道』に、偶然出会った。どのエッセイも、読後には必ず、涼風が身体の中を吹きぬけた。実に、見事な文体の結晶があった。思わず、「須賀敦子全集」を購入した。熟読した。唸った。いったい、須賀敦子とは何者だ・・・と。
ココロの皺が眼に見える。他人への眼差し、仕事への熱情、文学、詩へのオマージュ、底に流れる宗教者としての息づかい・・・。イタリアでの生活、翻訳、結婚、労働、夫との死別、日本への帰郷・・・。日記、手紙、詩、翻訳、そして、見事な随筆。
疲れた時、神経が尖った時、ココロが渇いた時、須賀のコトバを、聖水のように呑む。たった7~8年の作品であるが、(全集八巻)は、一人のニンゲンの発見に至る愉楽がある。

㊴『道の向こうの道』森内俊雄、実に、なつかしい名前である。私の学生時代、新進気鋭の小説家であった。実にユニークな感性、不思議な物語。
25歳の時、小説『風の貌』を上梓した私は、敬愛する森内俊雄に読んでもらいたくて、手紙を出した。新潮社の別館で、カンズメになって、小説を書かされていた。閑かな一軒家で、庭が見える部屋でお会いした。机の上には、原稿用紙とペンと十字架があった。何度も芥川賞の候補になったが、どういう訳か?受賞できなかった!!(李恢成は受賞したのに、ロシア文学の同級生)
その森内俊雄が、八十代をむかえた。”純文学”で、生涯を貫いた作家である。作品に登場する場所、地名、喫茶店、酒場、食堂、すべてがなつかしい。早稲田の先輩でもある。(詩人であった!!知らなかった)(俳句を詠むのは知っていたが)
内向の世代(古井由吉、後藤明生、宮原昭夫、阿部昭)の一人であった。
森内さん、何時か、お目にかかりたいですね。もう、書くものすべてが、作品です。お元気で。ご健筆を!!