Archive for ◊ 9月, 2013 ◊

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• 日曜日, 9月 22nd, 2013

1. 「abさんご」(文藝春秋刊) 黒田夏子著
2. 「道元」(創元社刊) 大谷哲夫著
3. 「書評紙と共に歩んだ五〇年」(論創社刊) 井出彰著
4. 「ざまくるう」(文芸社刊) 羽島あゆ子著
5. 「草窓のかたち」詩集(思潮社刊) 鈴木東海子著
6. 「原始仏教」(ちくま学芸文庫刊) 中村元著
7. 「新古今和歌集」上・下巻(角川ソフィア文庫刊) 久保田淳訳注
8. 「世界宗教史」全8巻(ちくま学芸文庫刊) ミルチア・エリアーデ著
9. 「哲学の起源」(岩波書店刊) 柄谷行人著
10. 「盤上の夜」(東京創元社刊) 宮内悠介著
11. 「読むことのアレゴリー」(岩波書店刊) ポール・ド・マン著 土田知則訳
12. 「ポール・ド・マン」(岩波書店刊) 土田知則著
13. 「空海の「ことば」の世界」(東方出版刊) 村上保壽著
14. 「哲学とは何か」(河出文庫刊) ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著
15. 「宗教と宗教の<あいだ>」(風媒社刊) 南山宗教文化研究所編
16. 「スピノザ」(平凡社刊) ジル・ドゥルーズ著
17. 「聖書考古学」(中公新書刊) 長谷川修一著
18. 「空海の智の構造」(東方出版刊) 村上保壽著
19. 「清沢満之集」(岩波文庫刊) 安冨信哉編
20. 「はじめたばかりの浄土真宗」(角川ソフィア文庫刊) 内田樹・釈徹宗共著
21. 「対象喪失」(中公新書刊) 小比木啓吾著
22. 「シシリー・リンダース」ホスピス運動の創始者(日本看護協会出版会刊) シャーリー・ドゥブレイ著
23. 「旅鞄」(角川書店刊) 遠藤若狭男句集
24. 「永遠の空腹」(コールサック社刊) 松木高直詩集
25. 「方丈記」(岩波文庫刊) 鴨長明
26. 「昭和三十年代演習」(岩波書店刊) 関川夏央著
27. 「徒然草」(岩波文庫刊) 吉田兼好著

今年の夏は、60余年生きてきた人生においても、記憶にないほどの、暑さであった。
夏の光と熱が、容赦なく、植物と動物に降り注いだ。
地球温暖化とは言え、真夏日が二ヶ月も続くと、食欲はもちろん、あらゆる生に対する意欲が落ちてしまう。
不眠の夜が続く。熱中症で死者まで出る。
いつもの、朝・夕の散歩まで中止してしまった。筋肉は衰え、ただ、室内で、読書の日々である。
『徒然草』『方丈記』『新古今和歌集』など、昔の人の、声や姿に想いを馳せる。
現代の、現実の、片がつかぬ、様々な問題から解き放たれて、中世に生きてみる。

7月下旬から6泊7日で、高野山大学大学院のスクーリングと熊野三山の旅に出た。熊野古道は、大木と石のある、坂道である。三山、特に、那智大社は、約600段もある石段を登って、降りるだけで、汗が吹き出し、途中で、何度も、立ち止まって、深呼吸をした。なぜ、古代から熊野か?と—考えながら。
真夏日の長旅は、身体にこたえた。帰って、3日目に、眩暈を起こした。
深夜、起ちあがろうとしたら、天井と床がぐるぐると廻った。手をついて、バランスをとるが、立ちあがれない。
そのまま、深夜、病院へ。幸いMRIを撮ったが、脳には異常がなかった。日を改めた、耳鼻科へ。眼が静止しない。勝手にぐるぐる動くのだ。風景が揺れる。歩けない。耳に耳石がある。耳石が三半規管に入ると、脳が異物に反応する。で、眩暈が生じる。
三半規管の故障ではないらしい。医者は、病名も言わず、眼や頭や身体を、よく動かすようにと言うだけだ。
1ヶ月、眩暈を止める薬を呑む。眩暈は、その後、起こらないが、歩く度に右に、左に、身体が揺れ、ふらふらする。
NHKで、”眩暈防止”の番組があった。
①枕を高くすること
②朝起きる時、右の耳を下にして10秒、上にして10秒、左の耳を下にして10秒数える。
家で出来る簡単なことだ。(医者いらず)
毎朝、実行する。薬がきいたのか、NHKの番組—の実戦が利いたのか、幸い、大きな眩暈は起きてない。
しかし、まだ、歩行はふらふらする。つくづく、人間は、心身で生きている動物であると感じ入った。

『abさんご』76歳、最高齢者の芥川賞、その文体、ひらがな文、登場人物、地名が一切ない、会話がない、横書き、夢と現が入り混じっている話題の小説であった。
「読書会」で、みなさんに読んでもらい、感想を聴いた。7~8割の人が、否定的だった。なぜ、このような、読みづらい文章で、書かなければならないのかというのが、その理由であった。
10年に1作品しか書かない。(なるほど、だから、この文章)同人雑誌で、頑張ってきた。”人生”を書くことに捧げた人の文章である。(書くこと=生きること=仕事)
私も、学生時代同人誌「あくた」を主催した。13号まで出した。約7年かけて。詩集を出した同人が3人、小説を出した同人が2人、評論を出した同人が1人、俳句集を出した同人が1人、総勢60人が参加した、昭和の、70年代の、「同人雑誌」盛んなりし頃の話である。
『ざまくるう』羽島あゆ子著も、長い間同人雑誌で、小説を書いている人らしい。プロと素人作家のちがいが、読みとれる作品である。
(主人公=私)の作品であるが、作品世界が現実の(私)=作者の介入で、惜しいかな、小説が濁ってしまっている。分裂している。文章は、ある域に達しているのだが・・・。
黒田夏子と羽島あゆ子の作品を、比較してみると、同じ同人誌を舞台にしてきた作家だが、<作品>に、全人生をかけている人と、そうでない人の、美学の差が見えてしまう。(人生を棒に振る覚悟)

キリスト教なら、田川建三、イスラム教なら井筒俊彦、仏教は?空海は?村上保壽の空海の考察に出合って、はじめて、「空海の研究者」のコトバに出合ったと感嘆した。
結局、研究+実践がなければ、空海の思想は、読み解けない。評論→存在論→宗教実践論へと「空海のことば」を探求した者に、はじめて、邂逅した。感謝。

ジル・ドゥルーズの諸作は、いつも、新しい概念の時空へと導いてくれる、21世紀の、最高の書である。

ポール・ド・マンの諸作を読む。
翻訳者が、そのまま、解説者になり、哲学者になる、土田知則は、ボール・ド・マンとともに歩いている人だ。
それにしても、日本人は、必ず、翻訳から身を起こして、(考える人)になる。日本人の、ひとつの、パターンであろう。

友人の書を読む。
井出彰は、書評新聞とともに、人生を歩んだ人である。同時に、小説家でもある。時代の証人としての、コトバが光っている。
遠藤若狭男(俳人)。
大学の同級生である。「あくた」同人である。教師をしながら、一生、俳句を詠んできた。胃ガン、肺ガンと、転移したガンとともに、生き、俳句を人生の友とした男である。母へ、父へ、故郷・若狭への思いが、絶唱となっている。

それにしても、異常な夏は、9月も半ばだというのに、まだ、30度超えが続いている。
晩夏と初秋が入り混じって、区別がつかぬ、妙な年である。
秋の虫は、恋人を求めて、鳴き続けている。人間は、植物同様、枯れて、青息吐息である。3・11以降原発は、片が付くということがない。コントロールできぬ!!

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• 土曜日, 9月 14th, 2013

超球宇宙にとって、小さな、小さな、地球という惑星に、人間が生きているという現象には、いったい、どんな意味があるのだろうか?

21世紀に生きる人間の、死生観、世界観、宇宙観は、どうなっているのだろうか?

宗教・科学という、文化・文明を、数千年かけて築きあげてきた人間は、今、大きなターニングポイントに立っている。

特に、日本では、3・11の、大津波、大地震、原発事故で、人間の科学の(知)がまったく役に立たず、政治家のコトバ、学者のコトバ、知識人のコトバも、信ずるに足らぬ、愚かなものばかりであった。意識が、ゼロ・ポイントに落ちて、判断中止、頭が空っぽになるおそろしい事態が続いた。人間が終ってしまう、メルトダウンの恐怖であった。

宗教者たちは、どんな役割りを果たしたであろうか?一番必要とされたのは、宗教者のコトバであり、宗教者の行動ではなかったか。

何人の「空海」が、災難に会った人々のところへ、死者たちの残された現場へと、飛んでいったのか。

空海には、ふたつの貌がある。「六大・四曼・三密」を思想の核とする、真言宗の宗祖の貌であり、、貧しい人、困っている人々を救ける、お大師さん(弘法)という貌である。

五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵に悉く文字あり 法身は是れ実相なり『声字実相義』

六大 無礙にして常に瑜伽なり(体)
四種曼荼 各離れず(相)
三密 加持して速疾に顕わる(用)
『即身成仏義』

空海は、「自心の源底」を覚知して、コトバを、言語論から、存在論へ、存在論から、信仰論へと歩を進めている。『十住心論』。『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』は、真言宗の根本経典である。

世界の三十カ国語を、自由に読み書きした言語哲学者、井筒俊彦は、(イスラム教『コーラン』の訳者)空海の真言を、東西古今の経典、名著を引用した上で、日本人が達した最高の、世界的コトバ・思想であると、分析している。共時的、言語の分節化は、他に類を見ない、異文化、異宗教間の、コミュニケーションの華である。『意識と本質』

「存在はコトバである」という井筒の認識は、存在論、言語論、記号論、宗教論が、コズミックな領域まで達した時、はじめて、異文化、異宗教、異言語の壁を越えて、成立する証しであろう。

原典、原語を読むことが、学問の始まりである—原理・原則を語っている。異文化、差異があってこそ、それを承認してからこそ、対話がはじまる。空海の思想も、多言語の中から起ちあがっている。

大日如来。法身が語る—という困難を、思想化した時、コトバを、体、相、用と、自心の源底で覚知した時、空海の世界・宇宙が確立された。

『古事記』(万葉仮名)『日本書紀』(漢文)『源氏物語』(漢字ひらがな文)は、神道、歴史、仏教の思想の源である。天(神)に捧げた神聖文字・漢字が、中国から伝来し、漢字ひらがな混り文という、独自の、日本文を創り出した。(空海が、いろは歌を作ったという俗説もある)

良くも悪しくも、私たち日本人の思想も、その、日本文の中にある。

日本人は、曖昧である。カミも仏もいる。あはれ、無常、わび、さび、粋、日本文とともに、美の感覚は、実に、繊略である。寛容である。

一神教の、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教との対話が、可能かどうか、空海や井筒のテキストに学ぶしかない。

戦後、日本人は、経済と科学と常識に重点を移して、神道や仏教は、学校の授業から消えてしまった。宗教、修身、道徳がなくなって、倫理となった。(決して、スピノザのエチカ(倫理)ではない。)

村の共同体が壊れ、家が壊れ、個人が壊れ”便利”と”快適”と”効率”だけを重視して、経済的人間(エコノミックアニマル)として、生きてきた。

戦後六十余年、宗教に縁がなくて、文学のドストエフスキーのコトバに心酔してきた私も、3・11があって、やっと、日本の宝、空海のコトバ、原典に、立ち戻ってみようとしている、今日、この頃である。

(8月7日 高野山大学大学院レポート)